考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

挑戦

2006年02月28日 | Weblog
 いつも当ブログにお越し下さいましてありがとうございます

    よそさまのブログで流行っている絵文字に挑戦しています

    さあ、どうなるのかな

    あー、なんだかむずかしい   また来てね 
     


どの程度社会化させるか

2006年02月26日 | 教育
 社会はアナーキーであるより、何だっていいから政府があった方がいいはずだ。どうせあるなら、政府はまともであった方がいいだろう。
 で、「公教育」の最大の目的は、要は、アナーキズムに陥らない人間を育てることだろう。優しく言えば「国家システムの維持」である。
 システム混乱を招くクーデターを防ぐべきだろう。テロも防げ。クーデターやテロを起こさない人間を育てろ、ということだ。そのためには、まず、「決まりを守れ」である。変革させるな、と言うことではない。変えたかったら、「変革するための方法」に則ってやれ、ということだ。

 いくらノンポリの私だってそれくらいのことはわかるさ。

 でも、今の生徒の感覚というか感性を見ると、この点において、意外に「アブナイ」気がする。「イヤだ」が即、行動に結びつくような感性か。「イヤなものはイヤなんだ、イヤだと言ってどこが悪い。」って。しかも大衆迎合的、且つ、原理主義に走りそうな予感。。。
 でも、ウチは、なんだかんだと言っても、そんなに悪い学校じゃないんだよ。

 人を社会化することと脳化することと都市化することはイコールか近似であるとする。ちょっと確信ないけど、まあ、そうしておこう。
 
 昔は、ヒトをシステムの一員たるべく社会化させる場所は学校だけだったのだろう。でも、今は、社会全体が極めてシステム化されている。だから、学校が果たすべき役割がはっきりしなくなってきた。
 学校の伝統的役割とは、社会をシステム化すべく人を社会化させる場所だったと言うことだ。だから、学校は通常の場所と異なり、通常の社会と異なるルールが用いられてた。それで、時には個人にとっての必要悪として、通過儀礼として、社会から合意を得ていた。

 ところが、社会全体から自然が失われ、都市化、脳化が進み、システム化しすぎてきたら、学校の「人社会化政策」が認められにくくなってきた。
 現在の学校の立場の悪さの根因はそういった所じゃないか。

 実は、以前からそうなのだが、多くの生徒にとっての「忍耐力養成」、少しだけ知的好奇心を満たす授業をしてると、自分は何をやっているのだろうかと、ひどく疑問に思うのだ。

 私のブログを継続的に読んで下さっている方々には意外に思われるかもしれない。けっこう、自信たっぷりに見えると思う。でも、ホントは、違う。
  
 「違う」と感じながら何故やっているかというと、かといって、他にすべき道筋が見いだせないからだ。たぶん、私自身が相当に脳化社会化された人間だからだろう。
 私にとっての「勉強」とは「論理」である。どこに何があるか、それらがどのように繋がりあっているかを知るものである。養老先生の言う「ああすればこうなる」である。

 しかし、どう見ても、ウチの子たちは「ああすればこうなる」論理に対して知的好奇心を抱く生徒でない。しかし、人情味溢れる、情緒豊かないい子たちである。
 
 大学入試で数学を選択した人の方が、そうでなかった人より年収が多かったという調査がある。数学は「ああすればこうなる」という脳のシステム的な特性を如実に示すモノで、都市化の象徴である「お金」と深く関わる(と勝手に思う)。
 しかし、「ああすればこうなる」には、情緒と相容れない部分がある。情緒は自然なのかもしれない。辺縁系であろう。ウチの生徒は、辺縁系は十分に、かなりうまく発達している。かれらはそれで幸せである。その上で、「ああすればこうなる」論理を教え込むことは、かれらに不幸を植え付けることにもなる。しかし、この不幸は数学的不幸で、「年収を増やす」という幸福に結びつく不幸である。

 しかし、テストの採点をして、こんなに読解力がなくて、何が論理だと思う。私の感覚では、模試の全国偏差値60くらいないと、論理が論理として通じない。ウチの学校は、大部分が論理の通じない生徒集団である。ただし、高卒者の就職がたくさんあった時代だったら、職人さんの仕事がたくさんあった時代だったら、実に有能な社員や職人を数多く排出できたことだろう。
 ところが、(困ったことに、)これはたぶん、日本全国での出来事だと思うのだ。

 今どきの高校の先生たちは、どういうつもりで教育を行っているのだろう?? 

自然の豊かさが生んだ実学重視と高付加価値仮説

2006年02月25日 | 物の見方
 立花隆の「天皇と東大」をさわりだけ読んだ。(気楽に読めそうな本だが、最後まで読み通す自信はない。)
 東大は実学重視の学校だったらしい。私は高校生の時、昌平黌が後の東大になった、と習った気がしたけど(←あいまいな記憶。歴史、苦手だった。記憶力、弱い。)、昌平黌は儒学と国学しかやってなかったから、ホントの所は「危急の時に役立たず!」とされ外され、つぶれたようだ。で、洋書調所と医学部の前身だった大学南校と東校が東大になったと言う。

 なんだよー、今と何にも変わらないじゃないか。日本の実学重視は筋金入りだ。

 要するに、「作業能力重視」ってことね。

 今、ふと思いついたのだけど、日本に、実学重視、作業能力重視の傾向があるとしたら、日本の自然が豊かだからってことと関係しないかしら??
 
 何もなかったら、考えることしかしようがない。
 でも、モノが豊富にあったら、どうか。

 「これをこうしようか」「いや、こうした方が良いよ。きれいだし、便利だよね」「でも、私はこうしたいなぁ。」「じゃ、みんなそれぞれでやってみようよ。」
 なんてことになりやすいはずである。これ、要は、作業能力品評会。
 で、モノが豊富にあればあるほど、微細な差異が問題になる。モノを使っている方の気分も変わる。そのうち人生数十年の時が流れる。何の不足もない。日本人の流行好きもよくわかる。

 近頃、「高付加価値」の商品開発がなされているようだ。日本人がそういうのを求めてるからだろう。京都の繊細な自然に対する感受性にも似てるんじゃないのか。(←これ、滅茶苦茶おおざっぱなものの見方です。)紅葉の美しさにしても、繊細な美とは「高付加価値」である。料理の盛りつけ一つとっても「高付加価値」である。

 授業は黒板とノートで十分のはずなのに、やれ、パワーポインタを使うとか、昔だったらOHPか。で、今どきの子どもは、参考書やプリントがきれいじゃないと見る気もなくなる傾向がある。これも授業や授業内容の「高付加価値化」である。

 う~ん、、。なるほど。。。

 私、この国に向いてなかったのかもと思う。(笑)

理不尽の行方

2006年02月24日 | 教育
 高校の学年をまたいだ同窓会でたまたま同じ中学出身者が3人いた。そしたら、当時の先生の悪口になったようだ。
 その先生は、クラス委員に多くの責任を取らせたらしい。クラスが騒々しいときは、クラス委員は騒いでなくてもクラス委員がど叱られたり、放課後教室で騒いでいる連中がいたら真面目に部活動をやっているクラス委員が呼び出されて、そのクラス委員が殴られて叱られたりとか、まあ、今どきだったら一体どうなるんだ???という先生だったようだ。それで、一人は責任感がもの凄く強い子で「自分が悪いんだ」と思いこみ、不登校寸前になったらしい。しかし、本人が言うには、友達でケロリとしている奴がいて、「あ、ああいう考え方もあるのか」と思い直し、不登校に陥らずにすんだ。
 みんな口々に「ひどい先生だった。理不尽な叱り方だった。」と言っていた。でも、不登校になりかかった人が言うには、「その先生は、放課後に実験をしたいというと好きなだけさせてくれて良いところもあったんだよ。」と言う話でもある。

 公の場でこんなことを書くのは自爆行為のような気がしないわけでもないが、ちょっと考えてしまった。

 それで、理不尽な叱り方をされた元クラス委員たちは、現在、しっかりとした職務につき家庭を治め社会的にも活躍している。
 この人たちは例外的な存在なのかしら? 同様に叱られた人たちはどうなったのかしら?

 ある知り合いだが、運動部に所属していた。女子校で滅茶苦茶いじめられたらしい。親にも言えない辛さだったという。でも、その部活動が好きだったから、耐えたらしい。学校を出た後、就職をした。そこにも意地悪な人がいて、なんだかんだとネチネチやられたらしい。
 見合い結婚をした。多少無理解な夫とうるさくて怖い姑がいる。子どもに恵まれて暮らしている。一応は専業主婦で経済的には不自由なさそうだが、結構大変な家業を営んだ上でのものだ。退職して十数年、会社の同窓会があった。すると、その意地悪な先輩も来ていた。で、彼女はその人に言ったらしい。
 「あなたに意地悪されたお陰で、私は今とても幸せに暮らしている。」

 これは一面の真理をついていると思う。しかし、こういった考え方は、善を善とし、悪を悪とする今どきの時代において、絶対に流行らない。それどころか忌避されたり、「それは間違っている」と非難する人さえ出てきそうである。

 私は、彼らは「生きる能力」が高いと思う。逞しく、しぶとく、したたかである。濃厚である。で、人生、一筋縄ではいかないものだと思う。

反省

2006年02月22日 | 教育
今回、自由英作文を出題するのを忘れました。まあ、私が言い出さない限り、誰も言いません。低学年で自由英作文をある程度書かせるかどうかで、国公立2次試験対策が変わります。というか、書いてくるレベルが全然違ってくるようなのです。もちろん、書かせるときは、論理的な構造をしたモノを目指させます。文法が正しかったとしても、着の身着のままのようなエッセイはダメです。作文を書くことによって、更に読解力も出来てきます。(読解力が作文を書かせることにもなりますよ、もちろん。)
あーしまったしまった。。。(こんなこと思うの私だけ。)

「わかる」とはどういうことか--18日の記事『本当に大切なのは「わからなさ」を受け入れる能力』の補足

2006年02月21日 | 教育
 18日の記事『本当に大切なのは「わからなさ」を受け入れる能力』を読み直していたら、始めの方に、常識的な感覚の人に突っ込まれそうなところがあるのに気が付いた。

以下、引用
>>勉強を教えるときでも習うときでも、重要視されるのは「わかること」である。「わかる」ために先生は一生懸命に教え、生徒は学ぶ。「わかること」は目標である。
 円周率を「約3」にしたのも、「わかる」ための処置だろう。もし私が「約3」で習っていたとしたら、これほど気分悪く感じなかったのではないかな。「すっきり」していたのではないかな。何の疑問もなく。それで、「わかる」という目標に到達したことだろう。

引用以上。

 この2段落の間には、「わかる」がどういうことに対する考察が欠けている。それに、「勉強はわかるためにするもの」というのが、やはり常識的な考え方である。それは必ず正しい。決して間違ってはいない。
 しかし、私の書き方は、この後を読んでいくと、端っから「わかること」を否定しているようにも読めてしまう。これはいけない。これでは理解を得られないと思う。

 「わかること」が目標ならば、まず、目標たる「わかること」が何を意味するのか、どういうことなのかを押さえるべきで、その上で「わからないでいること」の重要性を述べなければならない。
 だから、以下、補足します。

『「わかる」とはどういうことか』
 
 「わかること」が勉強の目標になるのは当然である。しかし、その前に「わかる」が一体どういう状態であるかを確認した方が良さそうだ。

 それで、「わかった」状態がどういうものであるかは、具体的にはおそらく、脳の構造が変わることだろうと推測できる。
 脳細胞同志の軸索が伸びてそれまでなかった回路が出来たり、回路に電気信号がスムーズに流れるようになる。そのうえで、意識が「わかった」と意識する。それが「わかった」という状態であろう。
 だから、先生が生徒に「わからせる」のは、この状態を作らせる、ということになる。で、この考え方に異議を唱える人はいないだろう。

 では、どうしたら、この状態が出来上がるか。

 「百マス計算」のような反復練習があるだろう。訓練によって、急激に速くできるようになることがあるらしい。(脳が変わるんだと蔭山先生もテレビで言っていた。)計算をする側の能力が高まるのである。子どもは、たぶん「最初は難しかったが、だんだん簡単になった」と表現するだろう。しかし、決して計算そのものが簡単になったわけではない。練習する前も後も「7+8=15」は「7+8=15」のまま全く変わりはない。(百マス計算では「5」と表記するだろうが。)変わったのは、あくまで子どもなのだ。
 確認のため言うが、大人には簡単に見える「7+8=15」でも、15まで数えられない子どもには「難しい」「わからない」問題のはずである。最初はどんな子どもも一生懸命に考えなければ答えが「わからない」難問のはずである。だから、解くのに時間がかかる。それを、覚えるほど訓練して自分のものにする。それが、脳を変えて「瞬間的にわかる」状態に達することだろう。

 この過程に、一桁の計算問題と難解な数学書(←何でも良いんだけれど)の読解の違いはない。難解な数学書が読解できないのは、ただ読む側の能力が低いだけなのだ。
 つまり、私が言いたいのは、「わかる」「わからない」の違いは、「理解の対象」と「理解しようとしている主体」との関係で見ればあくまでも相対的な関係でしかないと言うことである。

 また、違う観点で別の見方をしたい。
 「わかる」のは非常に快適な状態である。たぶん、脳の中では伝達物質がうまく放出されてスムーズに電流が流れているのだ。ヒトはきっとそういう状態を心地よく感じるのだ。
 ところが、「わからない」状態は、時には非常に苦痛で、不快感を与えるのである。「わからない」と言葉を発するとき、我々の多くは眉間に皺を寄せているのではないか。
 不快感は誰だって嫌である。避けたいと感じ、できることなら快感を得たいと思って当然である。「わかること」や「わかりやすいこと」から生じる「快感」を求めようということになるのは本能的生理的な欲求である。

 よって、「対象」と「主体」の相対性の論理、更に、「快・不快」の論理によって、より多くの生徒に「わかる」授業をしようと思ったら、「教える内容を簡易にする」と言う方策が第一義に考えられ得るのである。 
 「円周率は約3」も、その方策の一つではないかと私は疑った。

 それで、私が「わからない」状態を良しとするのは、「わからない」状態そのものを称賛するのではなく、「わからない」状態を「わかる」状態に持って行こうとする「過程」をこそ重視したいとの考えからである。「わかった」という結果そのものより、むしろ「わかる状態へ至る過程」こそが大切ではないかと思うのだ。

 理由は2つある。一つは、「わかる状態への至る過程」とは「変化」で、変化は成長を促すものであるという点である。これは、子どもにとって、非常に自然な内的な現象を表し、これこそ教育が目指すことだからである。もう一つは、外的なものとして、外界にある更なる疑問の解決に向かう態度、真の学問的な態度の育成という意味での教育である。もちろん、両者は互いに関連しあう。
 しかし、「円周率が約3」という方策は、負担が少ない分だけ明らかに前者、子どもの内的な成長には効果的が薄かろうと思ったのだ。

 UPした先日の記事の言葉を使えば、安易に「すっきり感」を求めてばかりいたのでは、脳細胞のしっかりとした成長が望めないのではないか、ということである。
 アタマの中に疑問を持って問い続けるという、一種の不快感を保持しているときこそが、脳は成長をしているのではないか。それが、考えると言うことではないか。自分で自分の脳を育てる、ことになるのではないか。(ちなみに、日曜日のNHKの番組で茂木健一郎さんが出ていて、「ど忘れをした時、一生懸命思い出そうとするのが脳にとっては良いことだ」とか言っていた。(これだけ聞いただけだけど。))

 人間の脳の大きな特徴は、一見関係ないことに繋がりを持たせる点だと聞く。言語や数を始めとする抽象化にも関わろう。将棋等のゲームでコンピューターに負けないのは、人間の脳は、適切に取捨選択をして全ての可能性(という言葉が相応しいかどうかわからないが)を試行して結果を出す方法を取らないことである。これらは、脳細胞同志が安定感を持っていたのでは出来ないことではないか。脳細胞が、何らかの新しい「道(あるいは回路)」を見つけようと軸索を伸ばして右往左往していなければ出来ないことではないか、と言うことである。

 そのためには、自らの力で脳細胞同士の繋がりを強める力が必要になるのではないか。それが、「わからない」という不安定な状態を保持する力と関係するのではないか。

 知識を羅列的な知識のまま保持するのは、「ただそこに物があるだけ」である。「わかる」と言う状況を好むのは「安定」を求めることに通じ、引き出しに物が突っ込んであるだけの状態に似ている。そのような知識はいくら多量にあったところで役に立たない。

 私が「わかりやすさ」や場合によって「効率的な学習」を危険だと感じるのは、引き出しに中身を詰め込むことを主たる目的としているように思われるからである。詰め込む中身をどんなに増やしたところで、その中身同志の関係性を、自分自身が、言わば引き出し同志が力を合わせて結束して関係し合って見いだそうとしなければ、中身は互いに利用できないまま放置される。
 それで、最近の生徒を見ていると、彼らの思考は、学ぶ知識を「これはこれ、あれはあれ」と分け、ただ羅列的にアタマに放り込むことが勉強であると捉えているように感じられてならないのである。クイズ番組用の知識に似ている。「人間の電子辞書化」である。人の成長を促し己を高める「勉強」と見なされるものでは決してないだろう。
 
 この考えを基に、私は、先ほど引用をした2段落に続く以下の段落の考えに至る。

>>しかし、勉強をする上で本当に大切なことは、むしろ、逆ではないか。端的に言って、「わかる」のを目指すと言うより、「わからない」というアタマの状況をいかに受け入れ保持するかの方が私は遙かに重要な課題ではないかと思う。
 

本当に大切なのは「わからなさ」を受け入れる能力(超長・約4800字)

2006年02月18日 | 教育
 円周率を習ったとき、3.141592・・・という数がとても奇妙に思われた。
 「3」だと、正6角形の周囲と同じである。だから、「0.14」分が周りのまるく弛んだ分になる。図を書いて長さを測って、算数の時間にそんな風に習った気がする。しかし、「弛んだ分」ってのが、何だかすっきりしない。数値に「終わりがない」状況が理解できない。省略しても3.14である。ちっとも「きれい」じゃない。
 何だかよくわからない。何か落ち着かなくて気分が悪い。
 
 しかし、もし、これが「約3」だったらどうだろうか。
 「3」と「約3」の差がどうやって教えられるのか私は知らないが、「0.14」という具体的な数字で突きつけられる「わからなさ」や気分の悪さはあるまい。

 小学生の時は、3.14でやってきたと思う。(違うかな?)で、中学に入って(だと思うけど)「π」を習った。3.141592・・では、具合が悪いから文字に置き換えた方がいいというのは理屈で理解できた。しかし、実のところは腑に落ちない。だから、私は、πが出てくると、慣れるまでいつもアタマの中に3.14の具体的な数字を思い浮かべた。文字式は難しい。数値が文字で表現される分だけ抽象化が高まるから難しいのだろう。

 勉強を教えるときでも習うときでも、重要視されるのは「わかること」である。「わかる」ために先生は一生懸命に教え、生徒は学ぶ。「わかること」は目標である。
 円周率を「約3」にしたのも、「わかる」ための処置だろう。もし私が「約3」で習っていたとしたら、これほど気分悪く感じなかったのではないかな。「すっきり」していたのではないかな。何の疑問もなく。それで、「わかる」という目標に到達したことだろう。

 しかし、勉強をする上で本当に大切なことは、むしろ、逆ではないか。端的に言って、「わかる」のを目指すと言うより、「わからない」というアタマの状況をいかに受け入れ保持するかの方が私は遙かに重要な課題ではないかと思う。

 もちろん、「わからないこと」が「わかる」ようになるのは勉強によってであり、勉強は「わからないこと」を「わかる」ようにするためのものであることに間違いはない。だからといって「わかること」を目標にするのは、私は一時の便宜にすぎないと思うのだ。

 「わかること」が目的であるなら、学習活動は「わかった」段階で完結する。しかし、勉強に「これで終わり」はない。学習活動は引き続き行われなければならない。終わらせないためには、「わからない」状態が続かなければならないではないか。

 世間でも「人生一生が勉強だ」という言葉を耳にする。学問の世界は尚更だ。宇宙船を飛ばして未知を探る一方、見えるわけがない量子の世界を垣間見る。(ボーズ・アインシュタイン凝縮なんてこの典型だろう。)時間軸にあっても過去を遡り未来に臨む。自分自身も対象だ。
 「学校の勉強なんて役に立たない。」と言われがちの世間にあっても、次から次へと「未知」が人に襲いかかってくる。「わからない」という言葉で意識することはまれかもしれないが、「じゃあ、どうしよう」という事態に我々はしばしば直面するではないか。(「じゃあ、どうしよう」は、「わからない」の実践形(?)だな。)
 学問の世界にあっては言うまでもない。「わからないこと」の連続である。なぜなら、一つめの「わからないこと」が解決されると、次の「わからないこと」がすぐそこに待っているからだ。それで、「わからないこと」はどんどん続いていく。この追求こそが、まさに学問である。

 たぶん、人間はそうやって様々な「わからないこと」に挑んできた。それで、推測だが、「わからないこと」に挑んで少し解決をし、それに飽きたらずに更なる「わからないこと」に挑み続けてきた人たちこそが文明を築き上げ、人間としての何らかの特質を発揮して生き残ってきたのではないだろうか。「わからないこと」は、日々の生活上のこともあり、生活と離れた学問上のこともあり、両者に明確な区別はなかっただろう。

 何にしろ確実に言えるのは、ここに「わかった」という「安心」がないことである。
 正確には、一瞬「わかった」と安心することはあっても、すぐ前に次なる疑問の「わからないこと」が厳然と存在することである。だから、うかうかしてはいられない。

 それでは、解決した途端に、なぜ、「次なる疑問」が待っているのだろうか。

 答えは決まっている。最初から「次なる疑問」があったからに他ならない。

 では、なぜ、「次なる疑問」が最初からあったのか。

 それは、最初の疑問が、途方もなく大きな疑問の一部であることが既にわかっていたからである。

 「わからないこと」と同義の「疑問」は、世間であれ学問の世界であれ、並列的に存在するのではなく、何かしら重層的な構造をなしているのではないかと思う。
 まるで海に浮かぶ氷山のようなものである。水中に巨体を秘め、小さな頭を出している。「わかる」とは、水面に出た部分を削り取るようなものかもしれない。ところが、元々がでっかい氷の塊だから、またすぐに水に浮かび上がってくる。「次なる疑問」がそれである。おそらく、この氷山は途方もない大きさなのだろう。人類の叡智では畏れ多くも解ききれないものに違いないのである。

 子どもに教育を施すとは、氷山の一角に触れさせることではないかと思う。大昔だったら、水汲みや火熾しなどの生活の知恵から呪術や儀式に関わることもあっただろう。現代においては、読み書き計算を始めとする、文化的社会的生活の基盤たる知識の数々であろう。子どもは大人から学び、中には長ずるにつれそれらを発展させてきた者がいた。(だから、現代の生活がある。)

 いずれにしろ大事なのは、かつて子どもは、ものを学ぶとき、それが氷山の一部に過ぎないことを、まだまだ未知なる大きなものがあることを知りつつ学んできたということではないか。

 それは、大人もそうだったから、出来たのだろう。
 つい近年まで、我々は皆自然に囲まれて暮らしてきた。自然現象であれ何であれ、不可解な「未知」が、誰の周りにも間近に存在していた。自分の手で制御できることは少なく、制御できないことの方が遙かに多かったはずだ。

 ところが、現代社会においては、(養老先生のおっしゃる)都市化が進み、人は辺りのもの全てが制御可能なものであるかのような錯覚に陥ったのだ。大人のこの感性が子どもの教育に投影されないはずがない。その具現化が、たとえば上述した「円周率は約3」を始めとする「わかりやすさ」重視の近年の方策ではないか。まるで何もかもが「すっきり」安定して意識の範囲内に収まるかのように。

 それは、私が円周率に感じた気分の悪さや落ち着かない気分とは縁遠い「安心」できる「すっきり感」である。予見可能性に満ちた「ああすればこうなる」という養老先生の言葉に通じるだろう。これが「わかりやすさ」を求めて当然とする「現代という時代」の正体ではないか。

 「明るい開放感のある真っ白なリビング」が宣伝文句になるマンションである。内田先生がブログで書いていた(と思う)、白々と明るい世界でなされた人殺しの「異邦人」である。つるりとしてきれいなプラスチック製品の感触である。それはくみ取り式トイレやひんやりとした土蔵の持つ暗闇やにおい、「学校の木の机」が持つ風合いがない世界である。

 このように考えると、子どもに四書五経を暗唱させる教育が理にかなっているのがよくわかる。

 子どもは、難解な詩句を暗唱させられてわかった試しはないだろう。それでも、調子の面白さは本能的な語感からわかっただろう。大人のちょっとした解説でわかるものがあったのかもしれないが、わからないことの方が遙かに多かったに違いない。しかし、どの子どもも、そこには、自分にはまだ幼すぎてわからないが、何かしら崇高なものがあると感じることが出来ただろう。繰り返し暗唱し、心に刻み込む。やがて、自分一人の力で少しずつわかってくるものが出てくる。それでも時を経て大人にならないとわからない文言が大半だっただろう。いつまで経ってもわからないものもたくさんあっただろう。

 大事なのは、この「わからない」という感覚が子どもの日常に大きく関与しただろうということだ。子どもの世界は、遊びと勉強、日常の生活のすべてが等しい価値を持っている(と思う)。遊びは勉強であり、勉強も遊びであり、生活が勉強であり遊びになる世界で暮らしている子どもにとって、全くワケのわからないモノの存在は、その子どもが関与する全世界に影響を及ぼすだろうということだ。だから、そういう教育を受けて育った子どもは、「未知」を自分の世界から排除するようなことはあるまい。「わからない」ことを「わからない」まま自らの中に留めておく余裕を持つに違いない。

 ここに、「わかりやすさ」を求める態度は、早急にわかろうとする態度は、ない。自分が卑小な存在であることを、「未知なるもの」に溢れた広大無辺の世界をありのまま、わからないまま受け入れていたはずだ。それで、子どもとは受け入れる能力にかなり長けた存在であろう。
 本当に自分のものにしていく勉学は、常に「未知」に対する畏敬の念を内在させる姿勢である。今どきの子どもが持つ、特に能力が高くない子どもが持つ全能感とは全く逆方向の、外界に大きく開かれた態度である。私は先ほど「ありのまま」という言葉を使った。これは、今どきの子どもが自分に対して使うのとは全く逆の意味での「ありのまま」である。

 子どもの持つ能力は柔軟性が高く、「能力がどの方向にどれだけ伸びていくかわからない」という点での力は、言うまでもなく大人を凌ぐ。こういった予見不能、制御不能な子どもの能力は、実は、都会化した大人をひどく懼れさせるのではないか。それが、「子どもという自然」を「ないもの」と見なし、現代という社会は表面上は子どもを大切に扱っているかのように振る舞いながら、実は子どもに強い制約を与えて子どもを蔑ろにしようとしていると言っても言い過ぎではなかろう。(現代社会が子どもを大事にしないのは養老先生もおっしゃることだ。)

 「わかりやすい授業」が賞賛されるのは、ひょっとしたら、こういった大人の懼れの異形としての欲望が奥底に潜んでいるという「カラクリ」があるのではないか。それが、「未知」に対する柔軟性に欠けた子ども、学ぼうとしない、つまり、「わからないこと」を排除することによって自分にわからないことはない、わからないことがあるとしたらそれは周りが悪いからだと考える全能感に満ちた子どもを産み出すことになったと考えられないだろうか。

 以上、推論めいたことも書いた。どの程度正しいかどうか私にはわからない。しかし、いずれにせよ、子どもが外界に自分を開き、いつの時代においても祖先がそうしたように我々が「未知」に向かっていくには、「わからない」ことを常に内に持っていることでしかなし得ないのではないか。

 だから、勉強は、あまり「わかりやすさ」を重視する目的で安易な方向に流さない方が良い。「わかる」のは、一時の方便に過ぎないからである。
 子どもの能力は高い。我々大人以上の吸収力で、大人も気が付かない「未知」を感じ取っていくはずだ。大人はもっと子どもの力を信頼して「わからなさ」に耐えさせるべきであろう。逆に言えば、大人は自分自身の「安心」のために「わかりやすさ」を子どもに与えてはいけないのである。

私は作文が嫌いだった

2006年02月17日 | 生活
 子どもの頃、作文の宿題が嫌で嫌でたまらなかったが、今から考えると仕方がなかったと思う。
 なぜなら、書く「タネ」がないのだ。家族は皆健康で、毎日毎日が何の変哲もなく営まれる。小さなもめ事やけんかはあったかもしれない。が、人さまにお話申し上げたいほどのものは何もない。花鳥風月を愛でる感性もない。(今もないけど。)平穏無事である。これでは書きようがない。

 中学生の時、あまりに書くタネがなく、2年前のことを遡って書いたことがある。しかし、とても奇妙な感じだった。思い出して書くものだから、自分も2年前の自分に、5年生に戻っている。だから、感性も5年生である。中学生の作文として、私の作文はなんと情けないのだろう、と思った。
 そのときの友人の作文は、確か学校の代表か何かでどこかのコンテストで賞を取った。小学生の時から、何度も作文で賞を取っていたようだが、内容は自分の交通事故である。不運ではあろうがドラマである。要するに、「タネ」である。その子は、幼い頃からなんだかんだと「タネ」に恵まれていたのだった。(もちろん、文章もうまかった。)

 今、私は作文が好きである。振り返れば、何という違いだろう。

 しかし、作文が嫌いだった当時でも、私は「編集」の仕事に憧れていた。読書は好きだった。仲の良い友達と一緒に校誌の編集委員に立候補したりした。今思うと、「書けるわけでないのに何が編集だ」と厚かましい気もするが(笑)、ホントは、文字を連ねるのが好きだったんじゃないのだろうか。ただ、私は、ひたすら、「タネ」がなかったに違いない。これじゃあ、書きようがない。

 今、書くタネに不自由がない。ブログを始めた当初、その頃アタマの中にあった2,3の題材を書いたら、一瞬、ネタがなくなったと思った。しかし、程なく材料が見つかった。それで、少なくとも1年以上は続いている。今の今だって、2つ3つの書きたいタネがアタマにある。ただ真剣に書こうと思うとちょっとばかり大変そうだから「やだな」と思って保留しているのである。(ちなみに、これはただだらだら書いている。)
 
 これは何を意味するか。

 子どもの頃、あれ程タネに困っていた私が、今では書きたいことが豊富にある。これは、私に「事件」が数多く降りかかっていると言うことと同義ではないか。
 
 つまり、私の生活は、おそらく子ども時代と比べて、平穏無事でなくなったのである。
 憂うべきことである。

証明問題を解くという文章修行

2006年02月15日 | 教育
 数学の証明問題で「難しい」のは、一回の証明で解けない問題である。幾何で三角形の合同を使うなら、まず、△Aと△Bの合同を言って、△Bと△Cの合同を言って、それでやっと△Aと△Cの合同を言って、やっとAB=EFとかがいえるような問題は、中学生は慣れないと解きにくいだろう。これに更に、また中途で多くの証明を入れないと最終的に証明できない問題は、必要な証明が多ければ多いほどややこしく難しい。場合によっては、一つめの証明結果を①として留保し、次のまた別の証明を②とし、①と②とを組み合わせて言えることを③としてこれを留保し、新たに④の証明をして③と組み合わせて云々、なんてこともしばしば起こってくるように思う。(で、これが結構面白かったりする。)

 私が文章を書くときも、似たような状況になっている気がしてならない。

 あーだ、こーだと思うが、それがそのまま「言いたいこと」そのものに繋がるわけでもないことがある。いったん留保し、別件を述べた後で最初の懸案に戻るなどということがある。だから、ちょっと長ったらしい文章を書くときに最も気を遣うのは、「何を」より、「何からどのように述べるか」である。

 以前、「作文が下手なわけ」で、文章を書くのはアタマにある立体を1本の線にする作業のようだと書いたことがある。それは自分のアタマにあるものの説明だが、読んだ人を納得させる形式にするには、「証明」のような書き方の手順が重要になる。

 そう、作文は、実は、数学の証明問題だったのである。

 私は文章を書くとき、作文という「国語」に取り組んでいたと言うよりむしろ、実のところは「数学」をしていたのではないかと気が付いた。

 では、なぜ、私が今頃になって「数学」なのか。

 間違いない、私は、中学高校と数学の問題をたくさん解いた(解かされた)からである。

 小学生の時から算数の文章題などは好きだった。しかし、格別得意と言うことはない。私より「良くできる子」がいつも前にいた。数学はときどき「苦手」だったかもしれない。だから、私は勉強をしなければならなかった。中高生の頃は、数学の勉強をしない日はほとんどなかったと思う。(まあ、真面目だったし、勉強はほとんど毎日していました。)

 私は、数学の問題を解くことによって、実は今に至る文章修行をしていたのであった。
 私は、若いときに数学をやったせいで、私の脳にそういう回路が組み込まれたのだ。それで、私はその回路を今、作文を書くときに使っているのである。

 う~ん。。知らなかった。。。。

読解力&えとせとら・・いかにもブログ風

2006年02月13日 | 教育
 文科省で役人をしている(?)人の中に読解力が極めて怪しい人がいることがわかった。私の教え子で、東大理科に行った19才の読解力の方がよほどまともである。・・・当たり前か。

 う~ん、憂える、日本の教育。
 (こんなで「言葉の力」と言ってくれてもなぁ。。←これは余分だけど。)

 上記と全く関係ないけど、fer-matさんのブログの「日本諦めた」スパルタ教育の話が内容が、文章そのものからして面白かったよ。

 それから、「雑記」で図が書いてある別の記事があった。それは数学についてだと思うが、線があちこちに伸びていて、「わくわくにつながる」というようなことが書いてあった。
 が、数学と関係なく、私は、人間には2通りあると思う。
 自分の知っていることを増やそうとすることで自己の存在の意義(意味)を感じるタイプと、逆に、自分の知っていることに囲まれることで安心する、あえて、外界(?)に伸びていこうとしないタイプがあるようだ。まあ、知的好奇心が強い人と、そうでない人、と言うことだが。最後まで自分で考えて答えを求めようとする生徒と答えを聞きたがる生徒の違いでもあろう。
 養老先生が、ずっと疑問を持ち続けることの大切さをどこかで言っていたと思う。それとも大いに関係する。
 人間の人生なんて、簡単に答えが出るものじゃないんだから、答えなんて出ないんだから、答えを得て安心したつもりになっては何か大切なものを失うことになると思う。というか、動物的だというか。。

 ああ、そうそう。高校のちょっとした同窓会があった。大学の先生をしている子がいて、まあ、私とは初対面だったが、教育の話で盛り上がった。
 授業の評価というのがあって、言っていた。「学生が『私見を授業で話さないでくれ。』と書いてきたのには、くらくらした。」と言う。
 ごもっとも。
 大学の先生から「私見」を取ったら、何が残るというのだろう。(ただの怠け者じゃないか。)大学のレベルとしては、低いところである。が、だからといってねぇ。。。
 う~ん。日本は暗い。
 だものだから、私なんて、今日は、思いっきり、『私見』をしゃべってきたぞ。(←単純。)大方は聞いてくれるもんね。「なんで勉強をするのか」とか、そういう話だけど。
 でも、英語の文法だって、本当は「自分の文法を作れ。」って言っちゃってる。だって、そうだもん。(笑)結局は、そうなるんだよ。私は外国語でも語学でも、才能がある方じゃない。言語感覚や感性そのものは鈍い。でも、自分で「規則」を発見した、発見しようとした。勉強をするときは、ずっとそうやってきた。(それで、今は、その一部を伝授?したりもしているぞ。)
 日本の教育がダメ、というのは、「私見」を取り除きすぎたせいだね。(教科書検定反対、ってのは、「私見を取り除くな」ってことなのかな? 考えたこともなかったけれど。ま、でも、それはまた別の話か????)

 終わり。