考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

発見!

2011年09月27日 | 教育
 ほりは大発見をした。通勤途上だったが、ふと思いついた。
「なぜ、英語の疑問文では、倒置が起こるか。」
 うん。
 教室で生徒に話した。そしたら、また、話すごとにつながってくる。他の倒置の用法とも結びついたし、挨拶のときの呼びかけも、文構造も、読解の要諦(とそれなりの先生たちが思っていること)とも、結びついた。
 で、外国人講師の人に聞いてみても、同意されたから、間違いないだろう。
 うふ。

追記
 ググったら、「感情の高まり」を表すという理由が見つかった。
 私は、unusualな表現方法として、「これから私が言うことをしっかり聞いてね」という合図だと考えた。文頭に来るしね。
 「なぜ、倒置が感情の高まり(あるいは、unusualな状況)を表すのか?」に対する答えは載ってなかったが、私は、そりゃそうだ、と答えも思いついちゃった。

私の努力

2011年09月26日 | 教育
 授業は、なるべくつまらない、退屈なものにしている。無意識的に、そんな努力をする。
 生徒が嫌がるような、理屈っぽい、徹底的な論理的な読み方ばかり教え込んでいる。もちろん、全部、日本語。だって、そんなややこしい論理、英語で説明できない。
 訳読と、試験には絶対に出ないことをだらだら話す。
 パワーポイントがあると便利だなと思うことがあるが、準備がめんどーだから使わない。昔のOHPで懲りている。提示する時間は短縮できるが、生徒が頭にたたき込むには時間が足りないだろう、というものだ。黒板に書く時間くらいでちょうど良い。
 近頃、「面白い授業」なんてくそ食らえと思っている。
 授業は面白くなくても、英語が面白い、英語そのものに興味を持ってもらえればそれで良いだけだ。だから、なるべく英語についての話はしようと思っている。でも、ほりは、そもそも「知識」がないから、シェークスピアがどうのこうの、などの高尚な話は出来ない。テキストの文章の言葉での英語という言語特有の語と語の繋がりや関係をひたすら話す。マニュアルには何も書いてないから、ほとんど自分の思いつき。合っていることもあるだろうけれど、間違ったことも話していると思う。授業とは、「ライブ」だから、そんなものじゃないかと勝手に思っている。
 それに、最も大事なのが、生徒が、自分自身が勉強をしない限り、何の勉強も身に付かないと言うことを知ってもらうことだと思う。はっきり言って、英語はどうだって良い。私が英語を教えるのは、手段に過ぎない。教えているのは勉強の仕方だと思っている。

ずれてる

2011年09月19日 | 教育
 「保護者の思考法、感覚」を推察するに、「小学校の先生」は、危ない気がしている。
 ほりの場合、対応時に、どうしても、「同業者」のつもりになってしまうが、ちょっと自分とは違うな、やっぱりどうなのだろうと思うことが多い。
 経験値であるし、統計的にどうのこうのというわけではない(そんな統計なんて、ない。)が、先入観だの何だの、ぬぐい去っても、どーしても、いぶかしく思わないと言わない。

 まあ、理由はわからんでない。
 今の小学校は、多くの場合、ものすごく、ねじれたことをさせられている(と思う)。集団教育の場で「不可能」なこと、あるいは、非常に効率の悪いことを、さも、それが新しい、素晴らしい、夢のような理想の教育であるかのように、実践させられているのではないかと、勝手に想像する。
 すべて、イマドキの高校生の日常を見ての判断である。
 なぜに、彼らは、あのような思考法で、あのような行動を取るのかを私が考え、類推すると、上記のような結論に達する。
 「ねじれ」の実践者である、先生の感覚が変になっても、ちっとも「変」じゃない。大変な物言いになろうが、でないと、もの凄い矛盾の中で、やっていけなくなるのではないか。
 と、ついつい、思い始めて、もう、何年にもなるほりである。

俯瞰と抽象化とメタ認知能力

2011年09月17日 | 教育
 内田先生ブログ、情報リテラシーに書かれている。
 今は、情報の階層化というより「原子化」が進んでいる。これは、自分が知っている情報と知らない情報の価値についての中立的なメタ認知能力、つまり、情報リテラシーを欠いているということである。「おのれの知についての知」を構成するには「集合知」が必要であるから、リテラシーの有無とは、情報についての公共的な吟味の場を持つかどうかの違いになる。情報リテラシーはこうした集合知に関わるから、極めて政治的な問題である。

 で、ほりが思うのは、1つは、内田先生は、極めて政治的な思考法を取る人だと言うこと。(わかっているけど。)
 もう一つは、メタ認知能力の育成が今の学校教育で失われてきていると言うことだ。で、このことについて述べたい。
 
 内田先生は、ロビンソン・クルーソー的単独者は、無人島では決して科学的真理に到達できないのは、命題の当否を吟味する場を持たないからだと書いている。情報リテラシーは、この吟味の場を持つことを意味するのだが、私が思うのは、「吟味の場」を持てない理由は、吟味の場どころか、一人一人が、そもそも厳密な手続きで精密な実験を行えないから、吟味の場の必要性に至らないのではないか、ということだ。
 内田先生はフッサールの「他我」で、自分が家の前面にいることがわかるのは、側面や背面があることを「知っている」からだと書く。で、これも、言うまでもなく極めて正しい。しかし、今の生徒は、家の前面であろうと、側面、背面であろうと、それが家の「面」であるということを観察して判断し、広く言明する能力を持たず、その価値を認識しない。あるいは、「他我」が見る側面を自分が見ている前面と関連づけない、「私は私、人が人」なのだ。
 
 ですから、私は、情報リテラシー欠如の根本にあるのは、政治的な問題以前ではないかと思うのですよ。
 
 内田先生の言葉の「原子化」はキーワードだと思う。
 イマドキの生徒に、世間一般から見てまあまあ出来る方だろうが決して「とても良く出来る」と言えない生徒に、(質問内容はけっこう何だって良いのだが)「片付いた机と、乱雑な机を比べると、どっちの方でする方が勉強がよく出来ると思う?」など、常識で言ったらそりゃ、問うまでもないだろう、という質問をすると、必ずと言っていいほど、「それは人による。」という「個別姓重視」とでも表現できるかのような返答を返す。(ちなみに、私は、アタマがくらくらして絶望的な感情に襲われる。)
 これは、「厳密な手続き」や「精密な実験」という、「誰でもがそうであると認める厳密さ、精密さ」すら認めない思考法である。「それが厳密かどうか、精密かどうかは、人による。だから、厳密さや精密さを私は断定できない」あるいは、「何であれ判断の基準が人と同じだと判断できないは断定してはいけない」のである。「家の前面」という判断にせよ、「それを家と認めるかどうかは人による。だから、決めつけて言明してはいけない」という思考法である。
 たとえが続いてくどいかもしれないが、「厳密さ」「精密さ」「家」という「言説」も、基盤にあるのはすべてが個人による「判断の結果」である。この際、彼らの思考の性癖は、常に「それは一人一人違う」という「個別」の意識で、「原子化」の根源が私には見える。

 何であれ、「個別」の認識にしか持たない思考に、「吟味」という「共通点」を見いだす概念は存在しない。抽象化能力も欠如してくる。
 そもそも、言葉にしろ何にしろ、学問や思考は「共有事項を持つ」のが目的である。それが「教育」の目的である。だから、私に言わせれば、「ゆとり教育」の「個性重視」は、まったくアンビバレントな命題を課した。それが情報リテラシー欠如という結果になって影響を及ぼした(←現在完了形)のである。
 誰が予想したことだろうか。
 根源にあるのが、私は、こうした事情だと思う。

 さらに、それに追い打ちをかけているのが、今の学校の勉強法である。
 端的に言うと、「俯瞰」という視点を持たない。
 (ちなみに、「俯瞰」は「共通点」に関わる。俯瞰の目的は、「抽象化」に関わり、「ものとものの関連付け」だから、「関連付け」「関係性」を問わない俯瞰はない。)
 
 試験内容、方法、勉強法の非常に多くが、羅列的な「知識の集積」「解法の集積」である。「頻出事項・頻出問題」が重視される。「試験に出ないことはする必要がない。無駄である」という発想で、しかも、「入試」は、5割か6割出来れば合格出来るものだから、いかにして、5割、6割を取るかを問題にする。全部する必要はない、と言うより、全部するのは合格を目指す勉強としての「効率」の観点では全くの無駄なのである。しかも、よほど出来の良い生徒でない限り(たとえ、出来が良かったとしても)この無駄を省く効率志向思考法が毎日の勉強法に入ってきて、「何をやるか」が「何はしなくて良い方が効率的か」の発想につながり、「俯瞰して全体を結びつける」という「メタ認知」を欠くのである。
 こうした俯瞰の能力は、特定集団内で個別に見れば、「あの子よりこの子の方が俯瞰の能力が高い」などの相対的な高低としてわかる。そのせいで勘違いしがちになるが、「集団全体の平均レベルといった水準」の観点で明らかに言えるのは、前の段落で述べた方策では決してメタ認知能力が高まらないという事実である。
 大事なのは、「高まらない」点である。
 つまり、今の勉強は、「マス」の視点で、生徒一人一人が持って生まれた俯瞰などのメタ認知能力を高める方向でされていないのである。

 (なぜ、これがなされないかというと、まだまだ理由を述べることは出来るが、面倒になった。これ、下手にすると「いたちごっこ」が生じるんだよね。)

 と言うわけで、今後も引き続き、「メタ認知能力」は、危ぶまれます。だって、そんなもん、だれも大事だと思ってないもんね。それどころか、「あってはならない」んです。「自分と人は違う」と、多くの人が小さい頃から教え込まれているのだから。

 もう1つ言うと、「必要だからやる」「必要性を感じさせる」という教育指針?から、「自分が必要としないことは無駄」という発想に繋がり、「自分が知らないこと」にエネルギーを使うのは、効率が悪い、やってはいけないことと思うんです。(この意味では、極めて整合性のある思考法です。)
 今は、「効率」「無駄をなくす」「必要性」がキーワードの時代です。「見える化」と言う言葉もあったっけ? 「見えないもの」はダメ、認められないんですよ。

 ちなみに、こうした社会現象を教育の観点で述べると、必ず、「学校教育がそこまで影響することはない」とおっしゃる方がいますが、それは、個別の次元の話です。(ま、学校が社会の影響を受けてそうなったのですが。)
 「マス」として見た場合は、必ず、影響を及ぼします。しかも、目に見えない形で。それを私は、上記に言語化して目に見えるように表現しました。

 でも、ここに書いたことを理解してくれるのは、「メタ」「俯瞰」「抽象」を理解している人だけです。

簡単なことは難しい

2011年09月17日 | 教育
 問題の話ではない。
 難し問題や文章は、中に「簡単な原理」が隠れているのだが、「簡単な原理」は実に巧妙に姿を隠している。だから、難解なものを解き明かそうと思ったら、「簡単な原理」を縦横無尽に使いこなせる力が必要で、よほど「簡単な原理」に精通していないと困難な話である。
 これこそが、「基本が大事」ということだと思っているが、すんなり同意してくれる人がなかなかいないんだよねぇ。

教師の気を引くんじゃない

2011年09月16日 | 教育
 成績に自信がない。でも、先生から良い子だと思われたい。だからといって、先生が好みそうなまじめな態度を続けることは、まあ、無理。
 というわけで、教員にこびるように、愛想を振りまく。

 処世術の一種ではあろうし、そうしたおべんちゃらで世の中、それなりに、渡っていけるではあろう。(だって、そこそこアタマだって良いわけだから。作業的な仕事をさせれば下手ではないし、量もそれなりにこなすだろう。)
 でもね、それで学校生活を全うしようというのは、間違ってるんじゃないのか。
 学校は、自分の能力を高める場所でしょう。おべんちゃらの能力だけじゃなくってね。

 成績に自信がない。でも、赤点は避けたい。
 というわけで、「平常点」は」絶対に落としてはなるまいと、ノートや宿題の提出は極めて熱心である。しかし、しっかりやっている割に、試験をすると、出来ない。

 平常点を取って、赤点を避けようという下心は止めたらどうだ?
 わからないままに穴埋めだけをして宿題を提出したとして、何になるんだ? 
 目的が「赤点を避けること」で、「学力を付けること」では、なくなっているのではないか。
 自分の力に自信がないから、他で点を稼ごうとする。「作戦」としてはやぶさかではないが、本末転倒である。点数は、本来、きちんと理解した上で取るものである。わからないのに、点だけ取ろうとしても、無駄であろう。
 平常点は、ないものと思いなさい。その分、しっかりとした理解と習得をめざして頑張ることだ。理解と習得があれば、赤点は避けることが出来よう。それが本来の勉強であろう。

どこまで外せるか

2011年09月10日 | 教育
 「VERY」や「STORY」あたりになるだろうが(このブログ読者の皆さんは「何、それ?」と思うだろう。お母さん世代のファッション誌である。)、時々見かけるのが、「学校参観、どこまで外せるか」「ここまでなら外して大丈夫、女子校の場合、男子校の場合」といった特集があった。それまでの「常識」のスーツやそれに変わる服をできるだけ、崩す方向で特集が組まれる。パンツの丈はクロットでOKか?ジーンズはどうか、といった具合である。これが何年も昔なら、「入学式の装い」などの特集でいかにもそれらしい服をモデルさんたちが着ていた。「時代の流れ」で言うと「正統からの逸脱が、ステキ、かっこいい、今らしい、私らしさを求めて」と言うところだろう。
 「砕ける」方向性は、20年も前からあった。婦人服の「スーツ」の上下が別布で出来ていながら「スーツ」とされて得売れ始めていた頃だろう。当初、「えっ?これでスーツ?」と思ったものだ。

 上記、もちろん、前置きである。

 言いたいのは、「どこまで外しても良いか」の思考が、学校の勉強に入り込んでいることである。
 子供の学力が落ちて当然である。

 問題集の解答などでも、昔だったら「模範解答」が載っていただけだった。ところが近頃は、誤答例があり、「ここまでなら減点にならない」という解答が載っていたりする。(とんでもない話である。)目的は、生徒が自分の書いた答案がどの程度の評価を受けるかわかりやすくするためだろう。生徒は、「点」を知りたがっているから、教えてやろう、という親切心かお客様さまの商売っ気である。
 たとえ受験生であろうと、こんな解答解説を読んでいたのでは、出来る生徒も出来なくなってしまうだろう。美しくない誤答や汚い解答は生徒が根幹的に持つ感性を育てないから、実力を養成しない。大事なのは、今の自分が何点かという相対的な評価ではなく、実力を養成することそのものだ。よって必要となるのは、「どこまで外して良いか」ではない、「直球勝負」だ。邪心なく直球を投げないことに、球速も伸びないだろうしコントロールも定まらないではないか。的を射ることが大事なのであって、どれだけ外しても良いかが大事なのではない。
 生徒は、的からななるべく外れるように的に当たることが、最も効率よく合理的に点を取ったと考える。だから、的が小さくなればなるほど、つまり、真の実力が必要になればなるほど、もともとが「上手に外す」を目的にやってきた者は当たらなくなる。最初から的のど真ん中を狙う勝負なら、どんなに的が小さくなっても、行うことは同じである。ところが、「的から少し外す方が得だ」みたいな思考法だと、的の大きさが変わるごとに作戦を変えなければならないだろう。何という無駄か。もともとは、的を射ることが目的だったはずであろうに。
 それに、「評価」の問題である。一回一回を試験本番のように勉強をするのは、一見、効率の良い合理的な学習に思われようが、実は、違う。走り込みなしで試合をしても体力不足で負けるのが落ちである。勉強だって、何だって、同じなのである。一回一回の評価を気にしていたら、他人の目ばかり気にしていたら、自分で自分の感覚を養えなくなる。視線の先が全く異なるのだ。今年は不調なようだが、イチローは200本安打を目指すのは、単なる「数字」だけを見ての戦いではない。あくまでも、「自分」の感覚をいかように高めて「ボールという絶対的存在」に挑むかであろう。相対的な他人の評価は介在しない。

 とまあ、こうした「時代の流れ」とそれに伴う「勘違い」が、子供たちの潜在的な学力とその伸長を奪っているのである。