菊生さんが亡くなったらしい。知らなかった。毎月取っている能楽情報誌で知った。
数年前から、多少の事情で能を見ることをほとんどしていない。かつて、私は菊生さんの能を謡を楽しみにしていた。胸がときめく能であり、謡であった。
粟谷菊生の能は、「情」に溢れた能だった。私が見ていたときでも既に70代で、細かいことが気になる人や見慣れない人には、少々鑑賞が難しかったかもしれない。彼の能は「見せる能」というより「感じさせてくれる能」だった。だから、こちらも心で見る。
能の詞章は決まり切ったもので、誰が謡っても文言は同じである。しかし、それが粟谷菊生という人物を通すと、登場人物の心情が滲み出てきていた。能の主人公の思いは深い。彼らは容易には表現しきれない感情を抱いて登場する。粟谷菊生は、人がみな過去を背負い、情を持った存在であることを知らしめてくれた。人情の機微を肉声を通して、身体の僅かな動きを通して醸し出すのに長けていたから、彼が演じる人物は、自分の気持ちの喜びも悲しみも、深くありのままに享受しているかのように思われた。人間が生きている、或いは生きていたとは、こういうことなのだと感じさせてくれた能だった。
能には、「地謡」という斉唱隊がいる。そのリーダーを地頭と言うが、粟谷菊生が地頭の地謡は、詞章が聞き取れなくても謡っている内容が伝わってきた。人間は普通、文言で理解をする。しかし、粟谷菊生が謡っていたのはただの文言でなかった。声の響きそのものが心情を表す「言葉」になっていた。ちょうど音楽が心情を表すかのように。
粟谷菊生は、人間が好きで好きで堪らない人だっただろう。人なつっこい笑顔で、ロビーを見所(能楽堂の観客席)を歩き回る姿をしばしば目にした。老いたお弟子さんを大切にし、若い学生さんを恐い顔で叱っているのを見たこともある。
そんな人柄が能に出ていた。
ミーハーな私は、能の感想を書いてファンレターを出したことがある。気さくな人柄に甘えて、能楽堂で声を掛けたこともある。はがきも出した。喜んでくださったようだった。感想文の手紙には一度お返事をくださった。(筆まめらしい。)「能狂い ちょっと変な人 大好きです」とあった。大切な宝である。
粟谷菊生の能と謡は、「心で感じる能」だった。
ご冥福をお祈りする。
数年前から、多少の事情で能を見ることをほとんどしていない。かつて、私は菊生さんの能を謡を楽しみにしていた。胸がときめく能であり、謡であった。
粟谷菊生の能は、「情」に溢れた能だった。私が見ていたときでも既に70代で、細かいことが気になる人や見慣れない人には、少々鑑賞が難しかったかもしれない。彼の能は「見せる能」というより「感じさせてくれる能」だった。だから、こちらも心で見る。
能の詞章は決まり切ったもので、誰が謡っても文言は同じである。しかし、それが粟谷菊生という人物を通すと、登場人物の心情が滲み出てきていた。能の主人公の思いは深い。彼らは容易には表現しきれない感情を抱いて登場する。粟谷菊生は、人がみな過去を背負い、情を持った存在であることを知らしめてくれた。人情の機微を肉声を通して、身体の僅かな動きを通して醸し出すのに長けていたから、彼が演じる人物は、自分の気持ちの喜びも悲しみも、深くありのままに享受しているかのように思われた。人間が生きている、或いは生きていたとは、こういうことなのだと感じさせてくれた能だった。
能には、「地謡」という斉唱隊がいる。そのリーダーを地頭と言うが、粟谷菊生が地頭の地謡は、詞章が聞き取れなくても謡っている内容が伝わってきた。人間は普通、文言で理解をする。しかし、粟谷菊生が謡っていたのはただの文言でなかった。声の響きそのものが心情を表す「言葉」になっていた。ちょうど音楽が心情を表すかのように。
粟谷菊生は、人間が好きで好きで堪らない人だっただろう。人なつっこい笑顔で、ロビーを見所(能楽堂の観客席)を歩き回る姿をしばしば目にした。老いたお弟子さんを大切にし、若い学生さんを恐い顔で叱っているのを見たこともある。
そんな人柄が能に出ていた。
ミーハーな私は、能の感想を書いてファンレターを出したことがある。気さくな人柄に甘えて、能楽堂で声を掛けたこともある。はがきも出した。喜んでくださったようだった。感想文の手紙には一度お返事をくださった。(筆まめらしい。)「能狂い ちょっと変な人 大好きです」とあった。大切な宝である。
粟谷菊生の能と謡は、「心で感じる能」だった。
ご冥福をお祈りする。
ただ、一回歌舞伎座には行きましたが、能楽堂には行ったことがありません。一回行きたいなあ。
そういえば、読んだお話ですが、喜劇作家と悲劇作家が会って、
悲劇作家:僕は、君の喜劇ではぜんぜん笑えなかったよ。
喜劇作家:そうかい。僕は君の悲劇でさんざん笑ったけど・・・・
うーーむ。いい勝負だ。
今でこそ狂言だけの会がありますが、大昔、狂言は幕間みたいなものだったようですね。能と能の間に演じられて、深刻な能の毒消しをするような。今でも、能が終わった途端に、狂言が始まります。で、多く、狂言を見ないでぞろぞろお茶を飲みに行ったり。
千駄ヶ谷の国立能楽堂が行きやすいと思います。
国立能楽堂の企画公演は比較的安価です。
貸しホールみたいに、個人主催の会が行われるときのチケット当日券は、ホールの入り口で売ってたりします。
能狂言は、歌舞伎と違って、それぞれの演者が「自営業者」ですから、公演情報を集めにくいです。能楽堂のチラシで情報を集めるといいかな。
能の観客席は、正面、脇正面、中正面に分かれています。中正面が安価。ただ、中正面だと柄杓のような形の舞台の柄に近い側の底のところに柱(演者には重要)があり、それが鑑賞に邪魔になったりするからです。正面よりの中正面がけっこうお得かな。脇正面よりの中正面は、大鼓の音ががんがん響いてくる。でも、これも好みです。
脇正面では「通」が見る。アラが見えやすいんです。
でも、騙されたい観客としては、正面席が一番。高いけど。正面の中正面よりが良いかな。
まあ、結局は好みですが。
それぞれの流儀で能楽堂があるし、10月、11月は演能が多いので、「はしご」することもありましたね。(笑)
渋谷・松涛の観世能楽堂、水道橋の宝生能楽堂、目黒の喜多六平太記念能楽堂、表参道の銕仙会能楽研修所舞台、辺りが行きやすいかな、というか、私はよく行きました。(粟谷さんは、喜多流です。)
「社団法人能楽協会」のHPで、「能楽堂サーチ」は良さそうです。公演案内は、たぶん、全部出てこないと思います。
演能情報は、「能楽タイムズ」という毎月発行の情報紙が便利。全国のが出てます。ただ、人気なのは、既にチケット売り切れてたりとかも。
解説書は今、いろいろ出ているようです。昔からのは、三省堂の「能楽ハンドブック」「狂言ハンドブック」辺りが使いやすかったです。
能に興味を持って頂けるのはとても嬉しいです。
是非見に行ってください。ただ、当たりはずれがあるので、一度見て大したことがないと思っても、2,3度足を運んでください。お願いします。(って、誰にも頼まれてないんだけど。笑)