考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

「当たり前」を語る難しさ

2011年10月31日 | 教育
 殊に勉強に関してであるが、「当たり前」を説得力を持って広く語るのはとても難しいとつくづく感じる。
 理由は考えられる。
 私が「当たり前」と思う事実と聞き手が「当たり前」だと思う事実が一致する場合、聞き手は私の話なんかは改めて聞く必要がないから聞かない。だって、当たり前のことだから自分もよくわかっているから人の話を聞いても退屈なだけである。得られる知見が何もない。よって、こういう人たちに話を聞いてもらうには、ただひたすら「語り口」が問題となる。料理で言えば材料で食わせるのではなく、味付けで食わせるようなものだろう。「腕」が必要なのである。
 もう一つは、私の「当たり前」が聞き手にとって全く意に反する場合である。その聞き手にはその聞き手が持つ「当たり前」があるから、「それはそれ、これはこれ」となって平行線を辿る。その上、ほとんどの場合、私から見ると、その聞き手にとっての「当たり前」は、本質を外れた非常に浅いところにあると思われるから、私が「それは違うだろ」と思っても通じようがない。
 「そこまでやる必要はない」「そんなことを考える人はあなた以外に誰もいない」
 「それは別の場でおこなうべきもので、今は違って良い。」
 もう少し具体的に言ってみよう。
 ①課題を出さないとやらないのだから、課題を出してやらせることが大事だ。
 ②何を勉強すればいいかわからないと言っているのだから、プリントや問題集など、具体的な指示を与えて何をして良いのかをはっきりさせる必要がある。
 ③まだまだ切羽詰まらないからやる気にならないのだろう。
 ④必要性を感じさせることが大事だ。結局、損をするのは自分だ。
 ⑤具体的な大学をそろそろ考える方がよい。目標をはっきりさせることが大事だ。
 ⑥高い目標を持たせるために旧帝大を目指させる。
 ・・・
 以上は、今様当たり前だろう。至極もっともなお話である。
 しかし、
 ①課題ばかりやらせると、自分で考えて自分に必要な勉強が出来ない生徒に育つよ。
 ②何を勉強をして良いのかわかるは、たいていの場合、ひたすら与えられたプリンとなり問題集の「穴埋め」をすることだけで、もし、これが「文章の要約をせよ」という課題であっても、「何をして良いのかわからない」と言うだろう。通常の「穴埋め」の場合は、自分がわからない問いには、答えを見て赤で写し直せばそれで「勉強をした」ことになるから自分が安心できる。ところが、要約なんぞになると、最初から最後まで、真っ赤に染まることになりかねないからやりたくないのである。やり方もわからない。(注・教えてやれば良いのだが。)また、彼らにとって非常に多くの場合、答えが明確に決まらないことに勉強をした気にならないのである。(この誤解を特報が私は重要だと思うが。)というわけで、勉強をした気分にならない分、やはり「何をして良いのかわからない」となる。
 ③勉強は切羽詰まったからやるモノではないだろう。
 ④勉強は、自分が必要だからやるのではなく、人から必要とされるためにやるものだから、そもそもの前提が異なる。「必要」は、自分が「要らない」と思えばなくなるものだから、勉強の原動力になりにくい。勉強から逃げる方便を与えることになる。
 ⑤具体的な大学名をあげ始めると、受験科目とそうでない科目で手を抜き始める。そのような浅薄な学習をし始めると、どんどんレベルが低下し、脳みそが育たない。
⑧高い目標が、たとえ、東大であったとしても、ちんけなものではないか。3年生の受験生であるまいし、ケチなことを言わせてはいけない。東大や京大を目指したからと言って、それそのものが学力を上げるわけでない。

 というわけで、私は浅薄な考えは認めない。

 と書くと、なぜそれが浅薄か、という反論が来るだろう。
 そう言う人は、勉強を何かを獲得するための「手段」ととらえている。名誉やお金など。かつ、歴史的に見て、これまでがそうだったから、という理由を添えて。
 しかし、歴史を振り返っても、時代が変われば、あるいは、国が変われば獲得できるものが変わる。それが世の常だ。ところが、変わらないものがある。私はそれを言っている。子どもが成長をするということだ。これは、普遍的な事実として変化あるまい。
意識できる人とそうでない人がいると思うが、やはり、学校に行って勉強をするという行為を体験するのしないのとでは、人間そのものが変わるのである。おそらく、学校という場に行くだけで、勉強というものに触れるだけで変わるものがある。この観点で言うと、今の日本の学校は、「こうした自ずから学び取れるもの」を故意に否定し、拒絶に、学ばせないようにしているかのごとく思われる。
 「私はそう思わない」と言う人は、おそらく感受性が低い。(野球をしても、甲子園やプロやイチローは目指せないだろう。
 結局、そういう反論になる。
 私が主張するのは、生徒には、子どもには、「それ以上」を目指させれば良いのである。どうせ時間をかけ、労力をかけるならば、徹底的に伸びる方向で頑張らせるのが良いと思うのである。そうすれば、確実に言えるのは、彼らが持つ能力そのものが増大することである。これほどの教育の意義が他にあるだろうか。手段はたかが手段である。金儲けや名誉が欲しいだけなら、もっと異なる才覚があれば良い。お金の名誉というのは、ある意味、「最も人間的なるもの」の1つだろう。(だって、他の動物は決して持たない感覚である。)
 私の推測に過ぎないが、おそらく、多くの大人が子供たちにそのような能力の伸長を望まないのは、自分を超えて欲しくないからだろうということだ。
 だって、気分悪いから。下に見られたくないから。自分の支配下に置きたいから。
 「這えば立て、立てば歩めの親心」であるが、どこか一面で、「俺の支配下にいろ」と言う思いもあるのだろうか。後進に道を譲らない人も多いものである。まあ、もっとも、そうしたねちっこさが文明や文化の進展を阻むと同時に、更なる進展をさせてきた側面もあるだろうと思ったりする。

 久しぶりに真面目に書こうと思ったのだが、話がずれた。
 人間の思考の枠組みを変えるのは実に難しい、とも書きたかった。

 う~ん、結局、最近の結論は、人間の大脳皮質は進化の途上にある、ということになる。
 終わり。

かなり複雑な教員という仕事

2011年10月18日 | 教育
 極々個人的に、「異業種」の仕事に関与したことがある。

Ⅰ 以下は、非常に多くの方々にとって「当たり前のことだ」と思われるだろうが、「学校の先生」の立場から言うと、「それじゃ、仕事にならないよ」と感じる場合があるものだ。

1.作業的側面
 仕事とはたいてい、体力勝負の肉体労働に近い。ただし、作業的にはかなり複雑なこともある。手際よく(近年はやりの言葉だと「効率よく」)対処することが「仕事が出来る」と見なされる。
 ただ、非常に多くの場合、仕事の種類が大きく変わることは少ない。(大企業ではまた別だろうが。)だから、いったん慣れてしまえば、なんてことのない単純作業になったりするから、人によっては天狗になる。

2.コミュニケーションと対人関係
 対人関係では、ひたすら(?)感じよくすることが肝要である。「怒らせない」は当然で、「気分良くさせる」ことが重視される

3.間違いに対する対応
 「間違えない」ことが重要である。事務的な事項は当然であるが、ただし、間違えた際にはなるべく事を荒立てずに対処する。「人間関係」に亀裂を入れないことがかなりのウエイトを占める。よって、ときに、他人の間違いに対して、実に寛容である場合も多い。人の間違いを許すことが、次のビジネスチャンスにつながることがあるからだ。

1.作業的側面
 私が最も異質な感じを受けるのが、これである。
 授業や教育は、決して「作業」ではない。プリントを何枚作ったか、印刷したか、あるいは、授業を何コマするか、成績処理などは、「作業」である。しかし、どんなプリントを作るか、どんな授業をするか、どういった観点で成績をつけるか等は、決して「作業」ではない。
 学校にパソコンなどが入り込み、「作業効率」が高まった。それによって、「仕事が出来る」が「作業が速い」と同じ評価を得やすくなった。果たして、その作業がするに値するかどうかの検討もちょっとした考慮もなく、「できるからやる」という観点でどんどん進んでいく。この悪弊が生徒に及んでいることもあると思っている。(面倒だから書かない。)
 非常に多くの仕事は、要は、「客商売」である。しかし、公教育は決して「客商売」ではない。「客」は、目の前にいる生徒や保護者ではないからだ。(この観点で、塾や予備校とは目的が全く異なる。)「顧客」は、将来の共同体の構成員である。ここから先は、書くと面倒だから、もう書かないが、今の教育で、最もないがしろにされているもが、この視点である。
2.コミュニケーション
 生徒とのコミュニケーションが大事だと言われるが、生徒の人間としての幅を広げるためには、あまりに、教師が「すぐに生徒の言いたいことがわかってしまう」のは実は、良くない。一般社会においては、客が例えば「あ」と言っただけで、あるいは、何も言わなくても、「察して」客の要望に迅速に応えることが良しとされるが、子供相手でそんなことをしてはいけない。言い方を変えると、教員のコミュニケーション能力が高く、それをそのまま発揮してしまうと、生徒は考える力も何も、持たなくなる。
 「察する能力」は、生徒側に要求されるものである。(念のために書くが、教師に察する能力が必要ない、と言っているのではない。)生徒が自分自身の察する能力や、自分の言いたいことを正しく伝えることが出来る能力を高めることこそが、重要なのである。見方を変えると、教師そのものの能力の「本質」は、「どうだって良い」のである。学校の「主役」は子供のあり方であって、決して教師のあり方ではない。
 また異なる見方をすると、学校という場所は、教師が子供を自分の思い通りにする場所ではないから、教師のコミュニケーション能力は「どうだって良い」とも言える。子供自身が、「何故に先生は、このように言うのか、処するのか」と考えることこそが実のところ、子供の能力の伸長、次元の飛躍につながる。
3.間違いに対する対応
 「間違い」といっても、様々な間違いがあるから一概に論じることが出来ないが、一般社会に置いて「間違い」を回避するのは、非常に多く、クレーム対応があるのではないかと思う。これらの対応や回避に、一体どれだけのコストと労力が費やされているか、計り知れないのではないだろうか。
 「客を怒らせてはいけない」を鉄則とするのである。(「客」でないにしても、内田先生も書いてたっけ。)
 だから、おそらく、私の推測ではあるが、「学校の先生」に対する批判や非難の中には、「我々一般企業では、こうした対応にどれだけ苦労していることか。だったら、学校の教師も、一般社会の我々と同様な努力をなすべきではないか。公職なら、なおのこと、そうした努力をなすべきだ」という心理がどこかに働いているのではないか。
 ところが、学校の本分は「多少のことでは怒らない人間作り」である。
 だって、未来の社会(いつだってそうだろうけど。)において、怒りっぽい人が増えてきたら、あなたも私も、困るでしょうに。

Ⅱ 学校の先生の仕事の方が、ずいぶんと多岐にわたっていると感じる。仕事の種類によるが、「客の要望に応える」という点で、おそらく、奥は深いもののきわめて単純だとも感じる。

1,学究的側面
 言うまでもなく、「勉強を教える」大変さである。
 高校時代の偏差値55や60では教えられない内容である。ただの「作業」としての知識の伝授は可能だろうが、それぞれの知識が内在させる意味まで教えることは難しかろう。
2.「コドモ」という動物に対する対応
 お父さん、お母さん的な仕事。身体的な側面、心理的な側面、衣食住に関わること全てが関わる。
3.クラス、会議その他の運営。
 管理職。
4.部活動
 時間と体力を食う。時に、自分のストレス発散。
5.事務仕事 
 成績処理ほか数字を扱う。事務職。 
6.保護者など、大人への対応、就職関係
 営業職。

 これを一人が全部やる。
 小学校の新任の先生は、ほんとうに大変である。

ドブネズミルック

2011年10月10日 | 教育
 ↑、というファッションがあった。批判の的になっていたが、今の、女子学生や新入社員の格好を見ると、女子も「ドブネズミ」である。そろいもそろって、チャコールグレーである。
 今の若い子の服は、リクルートスーツと喪服以外は、もう、今度は、すべてが全くのカジュアルな服装である。中途半端なフォーマル感のある服なんて、何も持ってないのが普通である。
 「だって、必要ないもの。」

イマドキの子供のアタマの悪さ

2011年10月10日 | 教育
 親からはかなり優秀な脳味噌をもらって生まれてきているはずなのに、なぜ、この子たちは、こんなに物わかりが悪く、勉強しないのだろうと、不思議である。
 でも、不思議でも何でもない。
 彼らは、幼い頃から、徹底的に、能力の伸長を阻む教育を受けているのだ、と思い至るようになった。
 そう、何もかも。
 
 で、仕方がないから、しつけ直しをしている。
 まあ、でも、「三つ子の魂百まで」なんだよ。

家族対抗歌合戦

2011年10月09日 | 教育
 昔、↑こんな番組があった。興味なかったから見てないが、歌手やタレント、プロフェッショナルそのものの歌を聴くならわかるが、なぜ、その人の家族の、しかも、年端もいかない子供の歌を聴かせるのか不思議だった。まあ、「ファン」には嬉しいモノなのか。
 突然、思った。あの番組は、芸能人を親に持つ子供の「キャリア教育」、「お父さんの職場訪問」だったのだ。で、「インターンシップ」でもあるわけだ。

 なるほど。
 
 何十年も前から、彼らは先見の明で時代の先を行っていたのだ。

OHPとパワーポイント

2011年10月09日 | 教育
 若い先生たちはパワーポイントを授業に使おうとする。研修でそうした道具を使うようだ。昔は、OHPというのがあった。当時は視聴覚教育という名目で研修もあった。私もよく使った。当時は暇だったのだ。こうした道具を使用するには、けっこうな時間がかかる。
 「見やすく、視覚に訴えるにはどんな配置がよいか、色はどうするか」などの「教育」とはおよそかけ離れた要素が多大な影響を及ぼす。イマドキだったら、文字のフォントは、どうか。色の対比、濃淡は、どうか。「画面」というものは、安定感があるのとないのとで影響力が変わる。一種の「デザイン」である。教員の全てに空間配置や色彩感覚の才能があるわけでないし、教師としての才覚はそのために用意されるべきものでもなかろう。
 しばしば言われるのは、「板書の時間の短縮になるから、効率よく教えられる」であるが、「わかる」とは時間がかかる過程である。多くは、文字は、瞬間的に出てくる。しかし、読む方は、一字一句である。もし、This is a pen.であるなら、最初は、Thのみ、次に、i のみ、続いて、s、しかし、a は、s のすぐ後で続けて出てこなければウソである。時間だって、ことなる。等間隔で出てきてもらっては困る。聞こえてこない複数形のsなども表現できる音声や字幕教材でないと、間違った感性を生徒に植え付けることになる、足を引っ張ることになるのだ。少しずつ文字が出てくる画面は、私は嫌いである。実に、「気持ち悪い」のだ。
 そんな複雑な習得過程をしらない生徒を「わかったつもり」にさせるにはちょうど良かろう。しかし、ウソっぽい教材は、無益どころか邪魔にしかならないと思う。

 と書くと、「使い方次第だ」と言われよう。私も授業で、パワポだったらいいな、と思うときもある。多読的な読み方で、語と語の連関や文章全体の流れをつかませたいとき、画面全体に文章を写しだして、そのときのキーワードをつないでいけたら、面白いだろうと思う。でも、そんな場面は、実にわずかであるし、それでも、よほど読み込んだ生徒でないと、低学年では、まあ、無理だわ、と思う。で、高学年になると、これは、もう、口頭で説明して、それで済んでしまうのである。ということは、まず、必要がない、ということになる。

直感

2011年10月08日 | 教育
 今の教育の最大の問題点は、intuitionを育まない、というよりもむしろ、損なう方向で教育が行われていることだろうと思っている。
 同じようにドリル学習をする、暗記をする、という過程においても、intuitionにつながるものとそうでないものがある。
 ちゃんと勉強をした人は、違いが直ぐにわかるだろうけど、そうでない人にとっては、永久に謎だろう。

数学もそこそこできた英語の先生と数学がどうしようもなかった英語の先生

2011年10月05日 | 教育
で、違いがあるような気がしてしようがない。 
 思考法が違うのである。
 吉田研作先生は、英語の大家だが、数学がダメだったらしい。(と本人が講演の中で語っていた。)講演内容を聞いて、さもありなんと思った。たぶん、数学的な思考は私の方が上である。「当たり前」のことを、なぜ、あんなにもったいぶって語らなければならないのか。(あ、この話、昔、書いてるな。)

 で、今の英語教育の「偉い人たち」は、たぶん、数学がからきしダメだった人たちが牛耳っているのではないかと思う。だから、あんなに変なことばかり思いつくんだろう。

「やり直し」勉強

2011年10月05日 | 教育
 今の英語教育は間違っている。(断言)

 中学の英語が、口語的、会話の英語だから、英語と日本語の文構造、つまりは、根本的な思考法の違いをほとんど理解せず、「丸暗記」で高校に入学してくる。たぶん、今の中学英語程度なら、記憶力だけでなんとかなった子たちなのだ。(アタマ、悪くないもの。)ところが、高校に入って、記憶力ではどうしようもない。それでも、「英語=単語力」と思い込んで、あとは、ひたすら、「何が試験に出やすいか」のパターンプラクティスと、多肢選択問題だけできるようにする。で、そのあたりの大学のセンター試験は何とか合格点に達する。(だって、みんなが「出来ない」のだから。つまりは今の高校生は、根本的に力がないのである。)でもって、真剣に英語を習得しなければならなくなったとき、基本の英文法からやり直す。高校時代のパターンプラクティスは、ほとんど役に立っていない。

 私は、全く無駄だと思うのですが、そんな話をしたら、「だったら、そのときにやり直せば良いだけの話ですよ。」
 でもさ、それって、「公教育」という観点で無駄と言ったら、(口には出さなかったけれど、税金の無駄遣いじゃないのかな、と思ったけど、)「地域や高校によって求められる教育は違うのだから、公教育は関係がない」と言われました。何だか、「女とか男は人間とは全く別の概念だ」というようなものだと思いました。

 こういう考え方は、市場経済主義に則った思考法でしょう。だって、高校、大学を卒業して、英会話学校で「英文法」を習うと言うことです。英語で喰っていきたい人が口の糊することができるわけです。

 公教育がダメになればなるほど喜ぶのが、ちょっと優秀な大卒者、院卒者でしょう。だって、お鉢が自分の方に回ってくるのだから。

教師とトレーナーとコーチ

2011年10月04日 | 教育
数年前、百ます計算が流行っていた頃、テレビでその様子が映し出されていた。小学校の先生が、ストップウオッチを持って児童が懸命に計算に挑む。両者とも、真剣そのものであったが、私は違和感を感じた。先生が訓練士のように見えたからだ。
 技術指導は重要であるし、読み書きそろばんといった基本的な学習も一朝一夕で身に付くわけでない。当然、訓練が必要である。「ドリル」がそうだ。しかし、学校の先生があまりにトレーナーのような様相を示すのは、一体、どうなのだろうかと思う。
 教師はトレーニングもさせるがトレーナーではないし、技術指導などをしても決してコーチではないと思う。トレーニングも技術指導も、本質的な職務ではないと思う。なんとなく、そんな気がする。もし、教師がトレーナーなら、トレーナーと名を改めれば良い。コーチならコーチと呼ぶようにすれば良い。(勉強とスポーツは違う、という話ではない。)しかし、教師と名が付く以上、教師は教師だろう。
 ピアノの先生や芸事の先生の仕事は教師の仕事に似ている。芸術性の高いスポーツの指導も似ている気がする。先生は、少しは自分がやって見せるが、口で、言葉で、あれこれ指導する。この際に使われる「言葉」は、「そうではない。君の行くべき道はあちらだ。」だろう。内田先生なら、「シリウスを目指せ」なのかな。「師匠と弟子」という間柄ではなくても、より高いところを目指させるのが教師ではないのかと思ったりする。トレーナーやコーチは、非常に具体的なところを目標とさせるような気がする。しかし、教師の本質は、もっと抽象的でわかりにくく、「学ぶ人たちがよくわからないところ」を目指すことを教えることだろう。
 この意味で、今は、何かというと「具体的でわかりやすい目標」を挙げる。これが、教師をして教師でなくならせてしまう元凶ではないかと思う。

 進路指導では、絶えず、「君は何がしたいのか」と問う。早く目標を決めることを求める。いわゆる「進路実現」というヤツであるが、本質的な部分抜きに、求められ続ける生徒は、かなり可哀想だと思ってしまう。より高いところの存在を強く知らされることがないからだ。