考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

文章の格

2012年10月28日 | 教育
 ちょっとだけ必要を感じて、ある現代作家の小説と志賀直哉の小説に目を通した。現代作家の方は初めて読む。(そもそも私はトシを取ってからほとんど小説を読まない。)描かれて世界の価値観がいかにも今風である。語る言葉が何かしらまだるっこしい。もちろん、悪い文章ではないのはよくわかる。良いから小説としても体をなし、人気作家として位置しているわけだし、私だってつつがなく読み進めることが出来るのだ。(私は何であれプロフェッショナルかどうかは、「引っかかりがない」ことにあると思っている。)一方の志賀直哉は、久しぶりに読む。「久しぶり」とは中高生の時以来という意味、たぶん。数行、いや、2,3行、いや、2行読むだけであまりの言葉の明晰さに息をのむ。きびきび語られる世界は古めかしいが安定感がある。言葉が的確に用いられているのが私もわかる。読み進めると、文章のリズムだけでどきどきしてきた。
 イマドキは、志賀直哉を読む中高生なんていないだろう。描かれる世界が異質だからだろうと思う。あまりにも当たり前というか、さりげない内容をなぜ書かなければならないのか、と言ったところなのかな。それより、もっと衝撃的なわかりやすい感動の方が人の心に届きやすいのだろう。
 物語を語るのは言葉だが、言葉は情報を伝えるだけでなく、それそのものが見事に構築された音楽であり映像でもあるのだろう。(よくわからんけど、たぶん、なんだかそんな気がする。)昔には昔の音楽があり、今には今の音楽がある。古今を問わず、それなりに上手に構築されていても、残る音楽と残らない音楽があるだろう。小説だって当たり前だろうけど、そうだろう。作家本人が死んで忘れられる作品と、それこそ青空文庫に入る小説である。志賀直哉はまだ著作権が切れていないからネットで読むことは出来ないが、必ず残ると思う。格が違う、というところか。日本語がすごい、すごすぎる。なるほど「小説の神様」である。

英語は左から右へ読むなよ~

2012年10月25日 | 教育
とまあ、マトモな英語教師が聞いたら目を丸くするようなことを書く。

 英語を読むときに、左から右へしか読めない、あるいは、読まない生徒は、あまり英語が出来ない。(断言。)近頃、こういう生徒が増えている。中学の時から、「左から右」「後ろから前へ訳して読むな」あるいは、「耳から入る英語」などで教え込まれたのだと思う。だって、そーゆー読み方や理解の仕方が「流行」だもの。

 しかし、この読み方が有益なのは、主語と動詞の関係を明解に理解している場合である。英語の階層構造を十分に理解している場合である。でなければ、この読み方は誤読にしかならない。自分の知っている単語で、順番に勝手に意味を取っているだけである。で、間違っている、と言われても、なかなか気がつかない。ホント、意外に、気にかけない。

 思考の次元が平面的なのである。英語は、関係詞や接続詞が多用されると、どうしても階層的な構造になる。しかし、この階層構造を理解しないかぎり英語は理解できない。この階層性は日本人にはとても難しいのである。中学生高校生の時、関係代名詞に困った方は多いだろう。ネイティブが左から右に読むものだから「左から右へ読む」はもっともな方法に思われるが、階層を理解しないかぎり、絶対に、無理。
 節が2つ3つと重なってくると、大方、あれれ、と思うだろう。その難しさである。難しいのがふつーなのだ。(何かで読んだが、節が7つ以上になると、ネイティブもこんがらがるらしい。人間の記憶の限界は7つらしい。だから電話番号も7つなのだ、と書いてあった。)だが、「左から右」はこの「迷い」を徹底的に否定する。そのせいで、「後戻り」が出来ないせいで自分の間違いに気がつかない生徒がなんと多いことか。
 この数十年、「文法」が否定されているが(だって、文法という科目がない。)、文法というのは、何も、「書き換え」や(  )埋めでないのである。文をしっかり正しく理解する、正しい文を書く、それが目的である。ところが、その文法をやってないから、力が伸び悩む。
 大昔、私が高校生だった頃は、やたら難解な文や文章が入試に出た。たぶん、それを是正する動きで、文法反対論みたいなのが出て、結局「文法」が英語の科目から消えた。(科目名は消えたが教えるなと言っているわけでない、と言われそうだが。)しかし、今だって、テキストは、そのあたりのネイティブのジャーナリストが書く文章も、けっこうこれが難解なのに変わりないのである。しかも、格調も何もなく、名文でもなく、難解なのである。これが、「左から右」で読めるわけがない。そもそもこうした階層性が徹底して苦手な日本人である。よって、当人もよほど努力しないと、なかなか悪い癖は抜けず、正しい読み方が身につかないという不幸が起こる。思考法を変えなければならないほどの学習は、初心者段階で行う方が自然で良い。

「なぜ私が怠け者を養わなければならないのか?」

2012年10月20日 | 教育
 内田先生は、接する若者を見て、日本は大丈夫、とおっしゃっているけど、ホントかな、と思う。内田先生の周りにいる人たちが大丈夫なだけであって、他はどうだろうか?

 私も、ある意味、大丈夫だとも、思う。ただ、「大丈夫」の定義の仕方がどんなのだ?というだけだ。
 その昔なら、たとえば、医療がまだまだ貧弱だった時代、今なら失われなくていい命だって数多くあったはずだ。それは「不幸」である。しかし、それが当たり前だった。皆が、「そういうものだ」と納得していて、それなりに対処していたはずだ。失われる命を惜しみながらも「悲しみをいかにして癒やすか」などが次の幸せを求める生き方につながっていたのではないか。人々の知恵の多くが費やされたのは「命をいかにして失わずに済ませるか」という事前の策でなく、「癒やし」という事後の策に費やされていたのではないか。「友は悲しみを半分にしてくれる」みたいなのと同様に。(想像だけね。)だから、その意味で、「大丈夫」だった。どんな不幸に見舞われても、生き抜いてきた。そんな人たちが必ずいた。我々は皆、そうした「生き残り」の子孫である。そのようにして、人類は今、こんなにも繁栄、つまりは、数を増やして存在する。
 悪意に受け取られるのは困るが、今、「在宅医療」が言われている。自宅で、現在の優れた医療を受け、自然な環境で最期を迎えることだってあるようだ。(私はテレビ番組で知る程度。)でもこの状況って、昭和30年代(数字の具体性は30でないかもしれないが、たぶん、高度成長に入る前の時代)と、そんなに変わらないのではないか。もちろん、医療の水準は格段に異なる。「身体的なつらさ」は、たぶん、現在の方が軽減されているだろう。その違いが非常に大きいとは思う。それが文明の発展の恩恵だろうと思う。だけど、考え方の基本は昭和30年代に「戻った」感じがする。

 「人間の幸せ」を決める最大の要因は、私は「納得する」ことなのではないかと思う。納得していたら、誰も文句は言わない。「憂さ晴らし」もしない。怒ることもない。

 内田先生が「大丈夫」というのは、その意味で、「納得して生活をする」という観点なのだろうかとも想像する。(わからないけど。)そこに、これまでの「経済成長」は関与しない。
 「服が好きだからデザイナーになりたい」と言っていた生徒がいた。「一流デザイナーを目指すのではなくて、インディーズブランドのデザイナー」と言っていた。安くても気に入ってくれた顧客に服を作りたいというのだろう。それで食べていけるかどうかは別だが、こうした流れがじわじわと根付いているのが現状だ。経済成長はなくても、それで納得して幸せなのだ。

 しかし、養老先生がおっしゃることだが、人間が生きていくうえで重要なのは、やはり、「エネルギー」である。「食う」ための問題だ。(もちろん、ここでは、「食う」に食料の需要供給の重大問題だけでなく、「食う寝る遊ぶ」のすべてに費やされるエネルギーを含む。)
 若者は、自分自身がエネルギーあふれる存在だから、ホントのところ、エネルギーはあまり必要としないものではないか。(と、今、ふと思った。)
 若者はたらふく食う、としても、働き手として有能だから、畑を耕しても漁をしても、自分の食う分以上を獲得するだろう。暑さや寒さにも強い。遠くに行きたかったら歩けば良いのだ。誰だって、若い頃は、電車の1駅2駅どころかそれ以上を歩いた経験があるはずだ。しかし、あれから数十年経てば、他の助けを借りる(つまり、交通機関を使う、)か、そこに行くのを諦めるかのどちらかになる。つまり、若者とは、実質的には、たいしたエネルギーの消費者になりえないのだ。だから、何が起ころうと、若者はたくましく「大丈夫」に見える。
 問題は、そんな彼らが、年をとったときに、自分に欠けてきたエネルギーをどこから補うかである。
 内田先生の周りの若者は、いわば、共同体形成力(←造語)における「強者連合」である。能力も高い。だったら当面大丈夫だろう。国家が瓦解したら、(反論されるだろうが、)能力から言って国外逃亡だってしようと思えばできる人たちである。
 しかし、その能力がない若者がかなりいる。これは疑う余地がないだろう。内田先生も少し前に書いていたと思うが、「個性重視」の名の下に、「連帯」など、人とつながる能力の育成を徹底的にぶちこわしてきたのが近年の教育であり環境だからだ。その人たちが水面下に大勢いるという事実は、共同体形成力を持つ人たちをしのぐだろう。社会全体を広く見た場合、こうした人たちの存在こそが重要ではないかと思う。内田先生の語調は、同時発生的な「共同体」の萌芽を言祝いでいるようだが、同時に、弱者を大切にしない共同体は滅びる、以外、それが出来ない人たちについての暖かい言葉がないか乏しいように私は感じてしまう。

 もちろん、私が言うまでもなく、上で述べた水面下の若者の存在を問題視している方は、大勢見えるだろう。しかし、自分とは関係がないと思っている人も多いはずだ。
 結論は、「養える人たちが養う」しか他に方法がないだけだが。弱者を大切にするのはそういうことだ。

 若い人とそんな話になったとき、一定の収入がある若者が、「なぜ、私がそんな怠け者の面倒を見なければならないのか」と反応した。しかし、これは同時に、何億も稼ぐ人が、「なぜ私が自分が汗水垂らして働いた中から多額の税金を納めなければならないのか」と言うのと同じである。その税金は、その金持ちに何の恩恵ももたらさない事項に費やされるに決まっている。自分よりも遙かに能力が低く、劣っている人たちの勝手気ままを許すために自分のお金が費やされるのである。上記の若い人も、そうした大金持ちから見たら、「自分よりも遙かに劣っている人間」で「怠け者」と同義である。しかし、その若い人は自分がそうだとは考えない。
 このような思考をする人がけっこう多いのではないか。
 だって、理不尽だもの。自分が働いているのは、自分より「怠け者」(念のために書くが、「怠け者」は精神構造ゆえだけを指してのことではない。)のためだなんて。気分が悪くなる。(私だって。)

 でも、「そーゆーものだ」と思うしかない。
 ーーーだれだって、きっと「怠け者」なんだよ。

 「高校」というところは、旧態依然の時代遅れの場所に見えて実は時代の先端を行くところである。数年後に社会に出る「次世代社会人」の巣窟だからだ。
 私は長年そこに身を置き、そこそこ能力が高く、共同体形成力を持ち、人間的にも決して劣ったところのない生徒集団を見ている。彼らは、言ってみれば、「怠け者」を養っていくべき存在であろう。彼らには、そのための十分な資質があると私は思っている。でも、このまま行くと、日本はやはり、まずいんじゃないのか、と思う。
 最大の理由は、彼らはしょっしゅう、納得させられているだからだ。
 しかし、納得のレベルが非常に浅い気がしてならない。浅い納得は、すぐに諦めに転じるように思う。それで事後の策であれなんであれ、諦めが次の納得を生めば「大丈夫」である。(あるいは、最悪の結果を招く。しかし、これはそれ以上の「事後」がないかそれ固有の案件としては問題にされない。)しかし、諦めに至らないとき、表面的な納得は、「納得」でなくなる危険性を併せ持つ。そのとき、「不満」がくすぶり出てくるような気がしてならない。それも、「特定の誰か」ではなく、ほとんどの若者に。
 「誰のために勉強をするのか?」と問うと、その昔、生徒は「人のため」と答えた。しかし今は、生まれた時から「自己責任」を耳にして育ち、絶えず「あなたは何がしたいのか?」と問われて「目的成就のための勉強」という動機付けで勉強に追い立てられた子供たちは、同じ問いには必ず「自分のため」と答える。そのようなメンバーからなる社会集団は、言ってみると、非常に恐ろしくないか。どのような形で出てくるかはわからないが、優れた者はきっと次のように言うだろう。
 「なぜ私が怠け者を養わなければならないのか」
 若者が自分の能力を高めれば高めるほど、また、価値観がほぼ均質な中で育った彼らは同じ度量衡で互いを測り、常に自分以下のものと比較してそのように言うだろう。こうした思考法で「助け合い」はできるまい。

 「社会」は、「個人」のレベルの付き合いと、個人のレベルでは目に入らない「大きな組織」の付き合いで成り立つ。
 上記の「在宅医療」は、医学部なり医療関係の会社なり工場なり流通なり何なりの「大きな社会的な組織」があってこそ成立する。内田先生のおっしゃることは、「組織」がそれなりに機能した上での「個人」レベルの社会的付き合いの「大丈夫」ではないか。しかし、社会のマジョリティを構成する、私が接する生徒、つまり、未来の社会を構成するメンバーの意識下に「大きな社会的な組織」はこれっぽっちもない。内田先生が若手政治家のビジョンのなさを嘆くが、今の若者には「自分の目に入らない人たち」に対する想像力の欠如しているのである。(これは、「勉強は自分のためにする」意識にも見ることができよう。)「なぜ私が怠け者を養わなければならないのか」も、「大きな組織」に思いを馳せることができない想像力の欠如に起因するのと同じである。

 これまでの日本の社会は、「大きな組織」の恩恵を受けてきた。しかし、「あるのが当たり前」の状況で、有り難さがわからなくなってしまった。「大きな組織」を作ったり維持したりする仕事は「雪かき仕事」なのだろう。誰かが必ずしなければならない仕事である。おそらく今の難しさは、「大きな組織」が「悪さ」をするようになっていることだろう。(村上春樹のスピーチの「システム」であろうか。)「悪さ」を最小限にとどめ、しかし、維持していくことの難しさは、「個人」の付き合いが活性化して生活を維持していくことと全く別次元の話ではあるまいか。この点で、「大きな組織」に関わる思考が、根底からどんどんやせ細っている現実を、私は、教員という仕事上「生活感覚」として感じる。
 「なぜ私が怠け者を養わなければならないのか」は、フラクタルのように「連鎖」し、やがて、社会の「大きな組織」の存在意義すらをも蝕むことにならないかと思う。

村上春樹がわからない理由

2012年10月14日 | 教育
 私は村上春樹の読者ではない。(あらら。)しかし、村上作品のいくつか、ごく少数には目を通している。「読んでいる」とは言わない。----だって、わかんないんだもの。
 「わかんない」から、村上春樹がどういうものかを考える。「なぜ、私はわからないのか?」から見つかるヒントや答えだって、ありそうではないか。
 読み直してから書こうかとも思ったが、記憶にあるもので書く方が「わからない」ことがわかる気がする(という無責任な論です。)

 たぶん、内田先生の何かで知った気がするけど、村上春樹批判は土俗性の乏しさに向けられるらしい。(たしか、そんな内容だったような気がする。)ならば、ことのほか普遍性を併せ持ち、世界的な文学としての地位を築いて当然で、事実そうだ。
 
 思うに、村上文学は、きわめて象徴性と抽象性が高いのだろう。(もし、その通りだったら、「当たり前のことを書くな」と言われそうだなぁ。)
 非常に抽象的に、母なるものを語り(たぶん)、個としての人間を語り、世界を語るのだろう。私が感じる抽象性は、一つは、登場人物が「鼠」とか、私にとっては得体の知れないものとして描かれていることだ。
 
 なんてことのない人には、なぜここで引っかかるのかわからないだろうけれど、私は十分な読み手ではないから、この段階ですぐに「パス」してしまいたくなる。「青豆」なんて耳にしただけで、ちょっとごめん、と言いたくなる。だから読んでない。
 ちょっと関係ないけれど、源氏物語を漫画化した作品に『まろ、ん?―大掴源氏物語』小泉吉宏著という作品があるが、これには光源氏の顔が「栗」になって描かれている。この段階で受け入れられないと、この本は読めないみたいなものか。(と、国語の先生が言っていた。)こうした「引っかかり」は、勉強が出来ない生徒と同じ「引っかかり」のレベルである。彼らはこちらがびっくりするようなところですでに受け入れられなかったり、躓いていたりすることが多いのと同じだ。

 村上文学の理解が出来ない理由の2つめは、ストーリーが「夢」の中の話に思われることだ。荒唐無稽なのである(私にとっては)。生じる「事件」の象徴性がわからない。

 と、ここまで読まれた方は、「ほりはバカじゃないか」とか「アホに違いない」と思っているはずだ。できの悪い生徒と私は同じである。「わからない」のは、本当に「わからない」のである。私は彼らの気持ちがよくわかる。どうしても超えられない見えない壁が眼前にあるのだ。私は、そんな風に村上春樹がわからない。

 小説はフィクションだろうが、村上春樹の小説は、群を抜いて、フィクションである。場面設定が、具体性に乏しい。具体性に乏しい、というと誤解を招くだろう。なぜなら、生活そのものは事細かに描かれているからだ。しかし、「いつ」「どこで」の具体性がない。いつでもないときの、どこでもない場所に、身体性を持つ生身の人間がそこにいて、料理を作って、ご飯を食べて掃除をする、という生活の現実感はそこにある。そこに、彼の文学の普遍性の幾ばくかが宿っていることでもあろう。ところが、私は「いつ」の「どこ」なのかが気にかかってしようがない。私が引っかかるところはたぶん、そこだ。しかし、いや、だからこそかもしれない、村上春樹を読める人にとっては、それこそが実体験的なリアルな「手触り」がありのまま語られているととらえられるのだと思う。が、そのリアリティが私には本当にわからない。「いつ」「どこ」の具体性がないと、自分自身の中でのイメージ作りが出来ず、すとんと、彼の作品に落ち込めないのだと思う。だから、読めない。読める人は、私がここに書いていることを理解しないと思う。(「わかる」「わからない」というのは、そもそもこうした違いだと思う。)

 抽象と具体の関係だろう。村上春樹が書くのは、彼の言いたいことのエッセンスが描かれている。「抽象」とは、エッセンスで、必ず、何らかの普遍性を持つ。その普遍性から何らかの具体的な手触りを感じてイメージを膨らませることが出来る人は、村上春樹をおもしろいと思うのだろうと思う。(勝手な想像。)でも、私にはそれは出来ない。

 もし、彼が描く普遍性の「(私にとっての)わからなさ」を抽象的な普遍と感じずに何らかの具体的なものとして理解できるものが私に出てきたら、「壁」をすーっと抜け出ることが出来るように、私も村上春樹を読めるようになるだろう。

追記
 彼の小説は、「いつ」「どこ」がしっかりと描かれているそうです。(内田先生と平川氏の対談にあった。)知らなかったからかもしれないけど、全然、わからなかった。
 そのうち、読んでみようかな。

授業のいろいろ良い授業

2012年10月12日 | 教育
 小学生のとき、そろばん教室に通っていた。やっていたのは、先生が読み上げる暗算と読み上げ算、それに、たぶん時間内での級ごとの練習、伝票算だったか。あるとき、教員をしていた親から言われた。何かの拍子に、私がそろばんを「習いに行っている」と表現したときだろうが、「そろばん教室へは練習に行っているのであって、習いに行っているのではない。」と。私はそれでも「習いに行っている」と言い張ったような気がするが、確か、否定された。私は「そろばんを習っている」と思い込んでいたからものすごく衝撃を受けた。あれから数十年、いまだに頭にある。この数十年間に3回はこの話を思い出していると思う。(笑)

 「良い授業」がどんなものかを考えるとき、このエピソードを敷衍することで、私は何かわかることが出てくるのではないかと思っている。しかも、どんな教科にも当てはまることをだ。
 近頃は、「良い授業」と聞くと、講義形式より、発表をさせるとか、対話型とか、また、英語ならコミュニケーション、英語の授業は英語で行う、などの「形式」を思い浮かべるだろう。その上での「流行」は、「一方的な講義形式よりもコミュニカティブな対話型が望ましい」だろう。
 しかし、私の考え方は根本から異なる。
 もし「形式」と言うなら、次のような意味での「形式」をとらえる方が、「良い授業」を知る上で遙かに有効だろうと思うのだ。この「形式」は、教室の風景の違いによる区別でも、授業者の言動、ねらいによる区別でもない。授業を受ける側、生徒が何をするかによる区別である。

 1つめは、そろばん教室のような「純粋なトレーニング方式」である。その場に居ることが重要で、人からものを習うというより、自らの力で、しばしば体験することによって得ることを目的とする。この形式で得られるものは、また、書物や映像・音声記録では決して代替できないという特徴を持つ。
 2つめは、新規の情報、知識の注入が目的の「純粋な入力」形式である。講義形式で行われることが多く、ビデオや音声記録、書物で代用できることがほとんどである。即物的とも言えよう。その昔私が受けた自動車教習所の筆記試験対策講義が好例か。(笑)「『これこれ』と書いてあったら、答えは『何々』である。」理屈も何もない、日本語の解釈としてヘンであっても、「この問いの答えはこれ!」と決まっている事項をせっせと脳みそに入力するのである。
 教授内容は、たとえ体系化されたものであっても、(自動車学校の講義のように)ただの事実の並列であっても、学ぶべき事柄は順序よく並べてある。従って、提示される側、つまりは生徒の側には、実のところ、並んでいる事項が羅列なのか体系化された事項を並列させたものなのかの判別が困難、というか、ホントのところは「わからない」と言った方が良い、という特徴を併せ持つ。もちろん、提示する側、教える側はわかっている。ただ、「受け売り」で教えているだけなら、わかってないことがあろう。羅列か体系化されたものかの違いの判断の難しさは、ひとえに、「体系化」がごくごく個人の脳みその中のプロセスに過ぎないからである。本当のところ、これは決して表に出ないものなのだ。Aという人の「体系」がBの人にとっては「羅列」であることはよくある。よって、Aの体系はBには「わからない」ことになる。伸びる子と伸びない子の違いであるし、「まとめ」を丸暗記すると体系化がわかるというものでもないということだ。(この事実、意外に理解されてないと思う。)
 生徒は、提示された順序で一方向に学ぶ。教科書をはじめとする書物は常にこの形式である。この形式は、新規の知識獲得が目的だから書物でも代用できると見なされる。よって、受験前ともなると、先生の授業より参考書や問題集で知識を獲得しようとする生徒が出てくることがある。近年は映像技術が発達しているから、「ビデオ授業」を謳い文句にしている受験対策もある。「知識の獲得」という観点で、生身の人間が教授者でなくて事足りるという寸法である。映像授業と上記の受験生に共通するのは、「純粋な入力に生身の人間はいらない」という発想である。
 長くなったが、3つめに移ろう。
 3つめは、たとえば、ピアノ教室の例である。練習の成果を示して指導者から良し悪しの評価や指導を受ける授業である。これは、「より高い段階に上るための入力」が目的の授業形式である。言い換えると、この授業を受けなければ更なる上は目指せないのだ。授業を受けることですぐに上位段階に至るわけではない。習ったことを元に自分で何かを積み重ねて上位段階に至るのである。伝統芸能の教授もこれだ。師匠が「よし」と言えば次に進む。でなければ、いつまで経っても、そのまんま稽古、稽古である。
 ピアノ教室や伝統芸能の場合は個別指導が主流だろうが、必ずしも個別指導とは限るまい。群舞的な踊りやダンスでも可能である。学究的なものなら、自由研究を進める際の指導もこれになるだろう。「自分が次に何をどうすべきかを知る」のが目的だから個別、集団は問わない。この授業形式も、書物やビデオ映像などが指導者に取って代わることは不可能である。次に何をすべきかを知るのは、生徒の現状を知る教授者だけだからだ。

 4つめは、何かの発表のような「純粋な出力」と言える形式の授業である。学習発表会のようなものか。朗読のようなものもあるだろう。また、発表後の「質疑応答」が含まれたとしても、重視されるのは、いかに応答するかという出力に関わるものだろう。出力が目的のこの授業は、入力手段である書物等では決して代替できない。

 ここまで読まれた方の中には、私が身体運動が関わる授業と座学でできる授業を一緒くたに論じることに違和感を覚えた方がみえるかもしれない。しかし、私は両者を区別する必要はないと考える。
 踊りでもダンスでも舞でも、新しい「振り」を習うことを例にとろう。「振り」は身体運動ではあるものの、「新規の情報・知識」に位置づけられる。授業形態としては3つめの「純粋な入力」に位置づけられる。「ここで左手をこのくらいの角度でこの方向に挙げて、右を向き、こんな風にステップを踏んでどうのこうの・・」は、動作であっても「教えてもらって初めて知る事項」に変わりないから両者を区別する必要はないのである。痩身のための体操ビデオが売れるわけだ。

 さて、これで、私が考えるさまざまな「授業形式」が整理された。
 ここからは「学校の授業」を考えてみようと思う。

 生徒は、先生から、それまで知らなかったことを教えてもらって学ぶ。ほとんどの人は、学校の授業、講義形式の授業をこれだとしているだろう。上述の「講義形式」に対する批判は、大方は、2つめ「純粋な入力」の授業方式に対する批判であろう。
 「学校の授業」は他に、1つめ「純粋なトレーニング方式」に関わる場合がある。一時期話題になった「百ます計算」のようなトレーニングである。この授業をテレビで少々目にしたことがあるが、指導者は教員と言うよりもトレーナーに見えた。あの授業は私が体験したそろばん塾のようなトレーニングである。他の「プリント学習」は、今ではもうお馴染みであろう。これを読んでいる一定年齢以下の読者の中には、高校の学習も、大量のドリル用プリントで学んできた人がかなりいるはずだ。こうしたプリント学習が通常の学校の授業で行われるようになったのは今から3,40年前からだ。(それ以前は、そもそも印刷技術があまり発達していなかったからプリント作成が不可能だった。)最初は小学校でとどまっていた。週5日制が始まった頃、高校にも入り込んできた。私が教員になってからか、親から聞いた話であるが、ある中学の数学の試験で、ある先生のクラスが他に比べてダントツで平均点が高かった。理由が、定期試験の前の授業がプリント学習によるトレーニングだったのである。理論的な理解はまあそこそこで、後はパターン化した問題の解き方をひたすら練習するのである。(話に聞く公文も、基本はこの方法なのかな?)そろばん教室と同じで、徹底した訓練で試験で点を取ったのだ。

 このような観点で見ると、「学校の授業」の大部分は、1つめの「純粋なトレーニング方式」と2つめ「純粋入力」の2つが主流を占めるように思われる。(先生による講義形式や書物で知識を得る「純粋の入力」方式は、学校の授業においては当然のものとして、あえて説明を加える必要はなかろう。)
 
 その上で、近年脚光を浴びているのが4つめの「純粋出力」で、コミュニケーション(口頭が多い)重視もこれに当てはまる。
 おそらく、2つめの「純粋な入力」の弊害を除去する方法として思いつかれたのだろうと思う。以心伝心、「口べた」な日本人の自己表現やコミュニケーション力を補強するためだ。しかし、誤算があった。「出力」は「入力」なくして不可能だということだ。入力の仕方が甘く、また、入力される情報量も少ない場合、真っ当な「出力」は不可能である。よって、「自分で考える」といっても、そもそも入力が少ないから出力できるものがなくなる。それでも出力しようとすると、独りよがりな出力にしかならない。あるいは、なんとなくあたりに漂っているストックフレーズをまるで自分の言葉であるかのように語ることになる。語りさえすれば「出力」したことになるので、授業としては成功したことになる。しかし、何であれ、自分が「出力」したことは、そのまま身につくから(人間の脳みそはそんなものだ)、内容が好ましいかどうかわからない出力がそのまま「入力」されることになる悪循環が生じる危険性がある。

 結論を言うと、私は、学校の授業は3つめのピアノ教室が望ましいと思っている。上記で、個別指導だけでない、と書いたが、学校の一斉授業でも可能だと思うからだ。

 と、ここまで数日かけて書きました。
 最近、記事を書いてないから、UPします。続きはまた今度。この記事にそのまま書き足していきます。(1記事に10000字まで書けたはず。ここまでで4000字ちょっと。)

好発年齢

2012年10月11日 | 生活
 いい加減なことを書いてはいけないだろうけど、保険屋のおばちゃん(私よりずっとおばちゃん)が言っていた。この頃、がんになる人が多いらしい。
 テレビで言っていた。1960年代の核実験のころの「濃度」は、高かった、と。
 その当時の人たち、うまい具合?に、好発年齢にさしかかっているしさ。。

 上記、ふと思いついた。シンクロして聞こえた。