考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

「特殊な能力」の育成

2011年01月26日 | 教育
 「特殊な能力」にこだわるほりである。(笑)
 何が言いたいかというと、いかにして「特殊な能力」を維持するか、損なわないかということだ。
 私は生徒も「特殊な能力」を萌芽として持っていると思う。でも、かわいそうに、彼らの能力は、損なうように教育され続けていると思っている。
 生徒が受ける教育は、ごくごく初歩的な教育である。小中はもちろん、高校であっても中等教育で、学問という創造的な世界にあってはごくごく初等のレベルだろう。内田先生のおっしゃる「特殊な能力」は学問の世界における能力だろうが、だからといって、高校生の段階での教育をバカにしてはいけないだろう。いかなる特殊な能力も、高校段階にはすでに始まっている。それで、どんなに素質を持つ生徒であっても、これを損なう教育を初期段階で与えらては芽がむしばまれる。
 ところが、生徒が受けている教育を見ると、どう見ても、特殊な能力の芽を摘む教育でないかと思われてならない。実に疑問が、多い。
 「育成」とタイトルに書いたが、正確には、「損なわない」の方が、しっくりする感じだ。損なわないでいれば、芽は少しずつ大きく育つだろう。その後のことは、自分で育てる。それが、高名な科学者たちの趣味ではないふるまいではないのかなぁ。



ひょっとしたら

2011年01月26日 | 教育
私、高校生の時だったら、今現在においてふつー(←どういう意味でかはっきりしないが)に数学を教えている先生の高校時代より、数学が出来たかもしれない。どうしたら数学ができるようになるかも、よくわかっているのかもしれないと思う。


情報化と情報と「特殊な能力」

2011年01月24日 | 教育
 実は、「とりあえず『これ』をしてみよう」の記事は、書いているうちに自分が本当に書きたかったことを書き忘れた気分でいる。読み返すと書いてないわけではない。小テストなどが「特殊な能力」を奪っているのではないか、という仮説を書きたかった。で、情報化と情報の違いもちゃんと、書いてあるが、にもかかわらず本人としては「書き足りなさ」がついて回るから、書く。(笑)
 
 情報と情報化の違いについては、自分の感性で物事を捉えているかどうかが関わるだろうということだ。情報は、すでに文字化されたり映像化されたりであっても、何であってもよいのだが、要は、「他人の脳を経由しているもの」に過ぎないと言うことだ。対して、「情報化」は、外界に存在するものを自分の感性で捉え、捉えたものを他人に伝えうるものに変換するということだ。
 大事なのは、直に対象に対峙しているかどうかの違いである。
 しかし、生徒がやっている勉強が何であるかを問うと、非常に多くの人は、勉強とは教科書を読み、問題を解き、試験を受けて通るなど、つまりは、「情報」を学ぶことだと思っているにちがいなかろう。
 という書き方で推察できるだろうが、私は、生徒の勉強は、情報の習得であってはならないと思っている。情報の習得は、生徒の学習としてまったくもって邪道である。生徒の学習は、基本的に、「情報化」を学ぶことである。
 
 だったら、教科書で学ぶのは、どういうことか、昔の人が発見した定理や公理を学ぶのは、情報を学ぶことではないのかという反論がこよう。字句通りに答えれば、まさにその通り、情報の学習である。
 しかし、コトの本質は違う。教科書を通しての学習を「情報」としてしか受け取らない学習ばかりが学習でない。たとえ教科書を通してであっても「情報化」というプロセスを経る学習は必ず出来る。大事なのは、いかにすれば、同じ教科書を使う学習で、後者の「情報化」が可能になるかということだ。

 この問いの答えは容易である。すでに私は、上に書いている。生徒一人一人が、自分の感性を使って学習につとめることである。自分の感性を使って勉強をするというのは、教科書を読みながら、昔の人の発見を追体験することである。英語なら、英語そのものに対峙することである。試験に出るから勉強をするが、出ないことはどうでも良いと考えないことである。試験は、他人の脳が介在する。そんなものを当てしては情報を取り扱うことになるだけで、情報化から遠くなる。
 
 情報の習得はつまらない。そこに自分の発見は何もない。しかし、情報化すれば、そのプロセスに自分自身がある。勉強が自分自身の体験になる。それはとても愉快なことである。

 生徒は、子供たちは皆、この「情報化」の能力を持つ。内田先生の言う「特殊な能力」とは、この「情報化能力」(念のために書くが、情報「収集」能力ではない。)を鍛えに鍛えたものであろう。いかなる能力であろうと、適切に鍛えて伸びない能力はないし、逆に言うと、変に扱えば、いかなる能力も容易に損なわれる。

 私が今の子供たちを見てかわいそうに思うのは、彼らが根源的に持つ「特殊な能力」の萌芽が摘まれるような勉強をさせられていることだ。これは、何も、詰め込みがいけないとか子供の発想を大事にしろ,とか何とか、誰の耳にも心地よく響く故に無責任に世に流布する陳腐な言が表象する問題ではないことは、私のブログの読者諸氏であれば推察できるだろう。

 私は、子供たちの「特殊な能力」が損なわれないように勉強を教えたいと思っている。(で、ここで終われば、「おっ、ほりって、それなりにまともな奴かな」という好意的な感想をいただけるかもしれないが、余分なことを書いて顰蹙を買うことにする。)私は、自分が習いたかったように、教えたいと思っている。それで、私は、高校生だった自分が嫌だと思うような授業はしたくないと思っている。小テストもしたくないし、宿題も出したくない。私は私の知る限り、どうやって自分で自分の能力を高めることが出来るかを教えたい。これは、生徒とそれぞれ生徒一人一人が対峙する英語の間に、私自身は介在ないということである。それが、彼らの「特殊な能力」やその萌芽をかけがえのないものとして大切に扱ってやることだと思う。

賢いのは生徒

2011年01月23日 | 教育
ほりの文法・作文の授業を受けて自分が変わったことがあったら書きなさい、という指示の返答で、ほりの授業スタイルが露骨に書かれてないものの抜粋と( )にほりの感想。

何も変わらなかった。(すでにわかっている生徒は、特に変わらないと思う。ただ、自分が変わっていても自分で気がつかないということもある。)
文法の細かいところがわかった。(細かいと言うより、実は逆におおざっぱだったのよ。)
普段考えていないような英語の関連性や文法の考え方を知った。(良かったね。)
単語が頭に入りやすくなった。(そりゃ、そうだよ。)
今まで、何となく解いていたわからない問題にも違ったアプローチの仕方ができるようになった。文の組み立てにも以前より強くなった。(自由な発想こそが大事よね。)
問題を解くときの考え方が変わった。(今までどうしていたのか。)
英語がほかの国で話されていると言うことを意識するようになった。(言語は記号じゃないよね。)
文章の読み方(うれしい。ん?しかし、「文」を「文章」と表現してしまう生徒もいるからなぁ。。)
文法の授業だけで読解や作文など、すべてに共通するような学習法が身についた。(うれしい。)
一種のインスピレーションで問題が解けることを知った。(発想の転換よね。)
勉強の仕方や英語が嫌いなのは変わらなかったが、英語の成績は上がった。(不思議だ。)
特になし(正直でよろしい。)
ネイティブ的な思考がちょっと感じられた。発音が良くなった。(ほりの怪しいネイティブ感覚にだまされたようだ。)
英語への苦手意識が薄れた。(そりゃ、良かった。)
ものの見方が変わった。(どうもありがとう♪♪)
英語に対する態度が変わった。1年生の時に授業を受けていたら、もっと英語が得意になっていたかもしれない。(ときにそう言う子がいます。)
特になし(そういうことの方が多い。)
「基本が大事」ってことが染みこんできた。(そうです。1年生でも同じことを言ってます。)
凄くわかりやすいわけでもなく凄くためになるわけでもない。つまり普通。(感想を求めたわけではなかったのですが。。)
苦手な分野が少しわかるようになりました。(良かったです。)
英語の考え方が凄く変わりました。(ほり、たぶん、それで良いと思って話しているのだけれど、だまされたのかもしれないよ。)
感覚的に英語を考えられるようになった。(思考はいろいろです。)
文法の大切さが身にしみました。(大事です。)
特にないです(よろしい。)
ただ英語の文法や語彙を覚えるだけでは英語を習得することはできないと言うことがわかった。(そうなのよ。)
そんなに勉強にはならなかった。(テキストがやさしかったからねぇ。でも、感想を求めたわけじゃないよ。)
入試の英作文において、しっかり見直す癖が発揮できそう。(自分の力で限界まで見直せることが大事です。)

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今までフィーリングで解いていたことも理由付けて考えられるようになったので、そのことが大きく変わりました。(良かったです。)
自分の書いた英文を見直すようになりました。まだ見直しても間違いだらけだけど、文のどこを見ればよいのかがわかるようになりました。(その調子。)
前は英作文がテストや模試で出ても、書き方がわからなくて空欄が多かったけど、よくできるようになった。(授業でよく書けるようになったね。)
今までは英語を読むのも書くのも自分が機械化している感じだったが、いろんなことを考えながら英語に接するのはいいなと思うようになった。(機械だったとは、かわいそうに。。)
英語の文章を書く難しさを身にしみて感じました。ただ英作は面白かったです。(おお、同志。文章を書くのは難しい。)


こうして読むと、いかに生徒が賢かったかがよくわかる。

「とりあえず『これ』をしてみよう」

2011年01月22日 | 教育
 内田先生ブログで、理系の学者の話が面白いのは、生ものを扱っているからだと語っていた。理系は、「とりあえず『これ』をしてみよう」と何かしなければ、現場に止まることが出来ない。だもので、「わからないはずなのだが、なんか、わかる」という特殊な能力が必要で、最先端の人たちは、この能力を高いレベルに維持するために「やりたくないことはやらない」ということをしているということだ。

 で、思ったのだが、「とりあえず『これ』をしてみよう」って、試験の時、そうだよな、ということだ。わかんないから、どうしようもないのだが、「わからないはずなのだが、なんか、わかる」と思ったことを、とりあえず「これ」としてやってみないことに問題は解けない。ほりの場合、難しい問題は、そんな感じでやっていた気がする。もっとも、試験でなくても、普段の勉強の予習などでも、とにかく、とりあえず、こうしたら出来そうだとか、こうしたら覚えやすいだろうとか、こうしたらわかるんじゃないのかなど、とにかくやってみた。でないと、勉強なんて、やってられない。
 ところが、今の高校生の勉強を見ていると、非常に多くの子が「わかることしかやらない」風に見える。「わからないはずなのだが、なんか、わかる」という能力が全くなさそうで、とりあえずやることをしない。とりあえずやることをしないせいで、「わからないはずなのだが、なんか、わかる」という能力が育たないように思う。
 端で見ていると、おいおい、そんなのは、正しい勉強の仕方じゃないよ、と言いたくなる。で、よく言っているが、彼らは頭が固いから、なかなかわかってくれない。

 数学でも何でも、いわゆる解法のようなものを習得し、解法を教えられたとおりにやることが彼らは勉強だと思っているようすである。解法は解法であるのはわかるが、だからといって、己を無にするように教えられたとおりにしか思考しないのにはあきれる。英語でも、覚えろ、といわれると、覚えるのだろうが、ホント、何も考えずに単刀直入に覚える。問題をやれと言うと、ただ、問題をやる。わからないからといって、ふらふらしない。「わかりません」「できません」となれば、それまでである。

 こうした生徒の勉強は、養老先生の「情報」の扱い方であり、「情報化」のような生ものの扱いではないようだ。文章を読むにせよ、数学でも何でも問題を解くにせよ、自分自身は単なる通過点でしかないような勉強である。
 私は、もっと違う勉強をした。英語でも数学でも,何でも、生もののように扱ったと思う。扱いには苦慮した。でも、そうしているうちに、「わからないはずなのだが、なんだか、わかる」こともあったと思うし、「とりあえず『これ』をしよう」というやり方で扱った。試験の時でも、覚えるときでも、考えるときでもそうである。だからか何なのか、私は、自分のペースを崩されるのがいやだった。ペースを崩されると、「特殊な能力」がダメになる気がしたと思うし、現実、高校3年になって補習授業が増えてきたら、ペースが崩れる、疲れる、で調子が狂った。

 今どきは、どこの学校でも「問題集」の宿題があったり、小テストがあったりする。私は、自分で勉強をする子は、嫌だろうなと思っている。彼らの「特殊な能力」が損なわれるのではないかと思う。
 逆に言うと、問題集や小テストをすることで、多くの生徒は、無意識のうちに、私が持っていたようなまっとうな学習能力を損い続けているのではないかと思う。問題集の宿題を出さないと、あるいは、小テストをしないと勉強をしないから、というのは、与える側の言い訳ではないかと思う。10年ほど前だったら、小テストも効果があっただろう。しかし、今どきのゆとり世代には逆効果ではないかと思う。彼らにとっての勉強は、すべてが「情報」の扱いでしかなく、「情報化」することでないからだ。彼らは情報化することを知らない。彼らはイノベーションを起こせないだろうと思う。(で、念のために言っておくけど、ほりは「情報化」の仕方を教えているからね。もう一言付け加えると、こういうことまで書かないと、「この先生は、自分は何もせずに、批判だけしている」と読み取る人がたくさんいることを、経験的に知っているから、わざわざ、こんなバカなことまで書いておく。)


採点基準と学ぶ主体の関係

2011年01月16日 | 教育
 自由英作文でも何でもよいが、先生の中には、採点しにくい試験問題の出題を避ける傾向がないでない。
 採点基準に関して最も気楽なのは記号問題である。マーク試験が好まれる理由にこれも含まれると思う。記述式は面倒である。同じ記述でも、和訳や要約など、まだしも観点がはっきりするものは採点できる。しかし、自由英作文でも何でも、テーマが広くて受験者の自由度が高いものは点数を付けにくいというのが、一般的な見解だろう。
 ほりは、まあ、これまでの経験から言って、そうした困難をまったく意に介しない。(笑)
 点数は、自由英作文でも、たとえば、10点満点なら、申し分なく良くできていれば10点、まあ、こんなものだろう、という理解や表現なら5点。全く書いてないよりマシなら1点。多少は点をやって良いかな、と思われれば、2点。それよりちょっとましなら3点。そこそこだが5点には届かないだろう、というなら4点。玉に瑕なら9点、割と良くできていれば8点、そこまで行っていなければ7点。まあまあよりちょっと良くできていれば6点。採点に悩むことは余りない。綴りの間違いは1点減点とか、文法の間違いがどうのこうのと言い出すと、一見客観性に富むように見えて、他とのバランスが崩れてしまったりするから「評価」として、総体的に見たことになるかどうかがいぶかしくなることがある。それくらいなら、上記のような主観的な基準の方が、生徒間の点の違いという観点で相対性的にはよほど客観性に富む評価が出来る。
 しかし、こうした採点基準でOKなのには、生徒が採点基準に文句を言ってこない、という事情がある。生徒の文句というのは、出題の仕方にそれ相応の影響を及ぼす。答案を返却した後、なんだかんだ、ただ点数欲しさだけで言いに来る生徒が多ければ、正直言って、面倒である。点に対する欲望がなさ過ぎるのも何だが、日頃信頼している先生の評価を受け入れる土壌がないと、特に定期試験ではこうした出題は難しくなる。
 試験というと、記号問題ばかりさせられるのと、記述問題、しかも自由度の高い記述が評価されるのとで、生徒の学力や思考に大きな影響を与えるのではないかと思う。通常は、学力や思考力の育成に関わるのは教師のあり方だとされようが、実は、生徒のあり方がかなり影響する。鶏が先か卵が先かの議論になりそうだが、「学ぶ」主体はあくまでも学ぶ人自身であることを学ぶ人に意識させることも、もっと重要視されて良いのではないかと思う。

「ものの見方が変わった」

2011年01月14日 | 教育
 センター試験後、教える生徒集団が変わる。ふと思い立って、生徒にほりの授業(ライティング)を受けて自分の英語の勉強で何か変わったことがあったかどうかを聞くことにした。手のひらほどの紙を配って2,3分で自由に書くように言った。特になかったら「特になし」で良いよーと言った。氏名は書いても書かなくても良いと言ったら、ほとんど書いてなかったが。
 こんなことをするのは初めてだった。
 「特になし」等は1割ほど。まあ、こんなものだろう。みんな良い子だし、質問が「変わったことがあったら書け」だから、「特になし」「何も変わらない」が否定的な回答だろう。
 他は、だいたい、こっちが意図する内容だった。7,8割は、おそらく?良い方向に変わっている。英語に対する見方が変わったというものが多い。私が語ったことをこれまでの授業などで聞く機会がなかったのだろう。「1年生のときに聞いていたら、もっと英語が得意になっただろう。」は、これまでも生徒から言われたことがある。
 一つ、最高に嬉しい回答があった。タイトルにした「ものの見方が変わった」である。これは、教師冥利に尽きる。私にとって、英語はどうでも良いのだ、ホントは。(笑)

 また、生徒に授業の評価をさせるのは、やっぱり愚の骨頂だと思った。
 だって、思った通りの回答だもの。
 顔を見ていれば、生徒が自分の授業をどのように思っているか、わかるものだ。それで、授業は生徒がわからないところを教えるのではなく、あくまでも、正しい読み方、書き方を教えればよいのである。それが、最も応用の利く授業になるのではないか。


つまらない話

2011年01月13日 | 教育
 テレビでなにやら解説をやっていた。聞き古されたというか、いかにもマスメディアが言いそうなことを何かの専門家の人が言っていた。つまんないと思った。
 しかし、思うに、非常に多くの人は、「ものの見方・考え方」に関して「初めて聞く考え方」と「すでに自分が聞いて知っている考え方」では、後者の方がわかりやすいだけ、価値が高いと考えるのではないか。だから、マスメディアは、無難なところを取って、よく言われる話を繰り返し流す。

 「初めて聞く考え方」は、その価値も何もわからないことが多い。というか、自分自身の感覚や思考で判断しなければならなくなる。ところが、一般大衆は、自立的な思考をしない。自立的な思考をするには、時間がかかる。それだけ、自分自身で「わかった感じ」がしないだろう。「わかった感じがしない」というのは、まあ、つまり、「わからない」という感覚は、あまり愉快なものではない。世の中で「わかりやすさ」が好まれるのも、不快感をなるべく感じたくないからだ。「初めて聞く考え方」を聞くより、「聞いて知っている考え方」の方が、どれだけ気安いかわからない。
 テレビが衰退しているように思われるが、それでも多くの人はテレビを見る。新奇なものを知りたいと言うより、自分の知っていることを確認するためにテレビを見るのかな、と思った。

 生徒の授業も同じな気がする。今の生徒の勉強は、自分が知っていることの確認の場である。だから、知識も何もかも、大きく広がったり深くなったりすることがない。実にのろのろしている。ブレイクスルーなんて、とんでもない話である。勉強をしても世界観が変わることがないから、「やっても意味がない」と考える。

 もー、どうなってるんだよー。で、社会も、大勢の大人もそれに与する。日本の知的教養度はどんどん低下する。

ウーマノミクスってさ

2011年01月12日 | 教育
 クローズアップ現代で、ウーマノミクス、女性を活用する企業戦略をやっていた。女性の発想が大事だ、みたいな。
 これは、女性そのものの発想の豊かさが重要というより、端的に言って、現代社会において、女が経済力を持つようになったものだから、女性が欲しがっているものを同じ仲間である女性が作れば売れる、という発想からきている。アルコール0%のビールが売れたのは、すでに女性に外で飲酒できる経済力と習慣が根付いていたからだ。
 ある種の共同体的な発想といえる。女子高生が欲しがるものをモニターの女子高生に聞く、みたいなことをテレビでやっていたことがあった。それと似ている。男が欲しがるものは男が作ると同じだ。日本人が欲しがるものを日本人が作るのと同じだ。国内で食っていけるなら、わざわざ海外進出を企てる必要がない、(@内田先生)
みたいな。(←ちょっと違うか。)
 昭和40年代頃まで、温泉旅館の男風呂と女風呂は作りが全く違っていた。当時は、男が経済力も権力も握っていたから、温泉地の善し悪しの評価も男性にゆだねられていた。だから、男風呂の方がそれらしい高級な作りで雰囲気よく、顧客である男性の気を引いていた。その反面、女風呂はないがしろにされていた。女風呂に金をかけてもペイしなかいからだ。でも、だんだん、女性が力を持つようになって、決定権も女が握るようになったから、女風呂も男風呂と同等なしつらえになり、今では女性仕様が増えたほどだ。
 科学技術などの世界一、真の意味での創造性が求められる世界一と、経済の世界での世界一は方向性が全然違う。前者は、自然界などに対処する意味での絶対性に関わるが、「経済」は「数」がものを言う世界観だから相対的なものである。同じ女性進出といっても、意味合いは異なろう。若い女性で起業家が増えているのは、若い女性もお金を持って自由に使えるようになったということとほぼ同意であろう。
 こうした相対的な位置における女性の社会進出の状況や女性の力が必要という企業の発想は、女もやっと「人の数」の中に入れてもらえるようになったということで、根底にあるのは女性特有の能力そのものの重視という訳ではないと思う。

 まあ、しかし、もっとも、女性の方が協調性があって、しかも、子供を外敵から守ろうとする本能のように、絶対的な対象そのものに向かう姿勢は優れているかもしれない。男のように、狭いアリーナで俺が俺が、と仲間内だけで競うことは少ないだろうから、その意味で、仕事の効率が上がる可能性はある。
 
 女性が社会進出をして困るのは能力の低い男性である。この意味で、「マッチング」を考えると、女性の力が弱い社会の方が、マッチングが進み、人口が増える。(能力が低い男性もそれなりの配偶者を得やすくなるから。)女性が社会進出して力を持つと、能力が低い男性は配偶者を得にくくなる。(女性は自分より能力の高い男性を求めるだろう。)というわけで、日本が人口減少社会に入っているのもうなずける。まあ、狭い日本で今は人口が増えすぎたのを、「女性の社会進出」という形式で「自然の摂理」が働き、人口を減少させる傾向に向かわせているということかもしれない。

(1時間もかかった。)