考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

よくもまあ、これだけ参考書があるものだ

2012年12月19日 | 教育
 いわゆる「学参」というジャンルがある。教育関係の出版社が出している。それぞれ得意分野の教科があって、参考書や問題集、資料集などを作成している。そうした会社の営業の人が学校へは必ずやってくる。
 この時期は来年度に向けた参考書などの選定の時期になる。新年度に向けて3月に生徒に購入させるものをそろそろ決める始めるのだ。営業の人は、売り込みに大変である。

 で、まあ、英語の文法書も、いろいろあるのだ。
 ほんと。
 しかも、よく改訂をされる。
 初版本は何かと誤植や間違いがあったりするが、次の版では直されていることも多い。
 「本」って、物理的には、けっこう安直に(失礼!)作れるものだなと思う。(まあ、学校でもさまざまな冊子が作られるが、印刷屋に出せば、何も凝らなければあっという間である。)

 どの参考書も、言っちゃ悪いが、似たり寄ったり。ちょっと独創的なものがあっても、なかなか受け入れられず、結局色が薄まっていくようだ。
 どれでもいいと思ってしまう。どれも、少しずつ使い勝手が良かったり悪かったりする。

 英語に関して、参考書類は、かなり進歩している。
 しかし、そのおかげで生徒が賢くなったとは聞かない。

 参考書なんて、何だって、いいのである。要は、ちゃんと読んで勉強をするかどうか。

 とはいうものの、使いやすい参考書、(参考書はちょっと大変だから)問題集だったら、自分で書く方が早いかもしれないと思ったりする。
 導入教材なら、もう、原稿はある。ごく一部の同僚は「すばらしい。」と絶賛してくれたものの、多数の同僚からは「難しい」と言われ、プロフェッショナルからは「斬新すぎて売れない。」と言われた。(笑)
 最近「塾」に行き始めた生徒(「塾へ行くと成績は伸びないから行くな」と言ってるのに。)から、「塾の授業で、塾の先生がほり先生と同じことを言っていたから驚いた。」と言われた。その塾の先生は、常に正しくなるべく間違わないように英語を解釈するにはどういう読み方をしたら良いかがちゃんとわかっている先生である。しかし、「なんだ!塾の先生が同じことを言ってたから、ほり先生の言うことに価値があるとわかったのか!」けしからん。私は常に、「より正しく間違わないように読み書きするために自分はどうしたよいのか」を教えている。それがどんな英文にも対応できるからだ。

それって、究極の自己チューじゃないのか。

2012年12月17日 | 教育
 「人によって、考えはいろいろある。どの考えも対等である。」という考え方があるようだ。一見したところ、非常に温和で公正公平であるように思われる。しかし、これほど自己中心的な考え方はない。言い換えると、「私は私、人は人」で、「私」と「人」の間隙を見ないわけである。それぞれがそれぞれに自己チューであることを意味するだろう。

 「人」は、それぞれ対等で平等であれかしと考えて良かろう。しかし、「考え」は違う。ある考えと、それと主張を異にする別の考えは、それぞれ何に依拠しているのか、何をどのように目的としているかなどを問うことが可能である。「考え」を多面的に相対的にとらえるわけだ。これにより、2つの考えの位置づけがわかる。双方を超えた「目」をどこかに持つということだ。超越的、俯瞰的な目に映る「相対的な位置づけ」は、2つのそれぞれの場から互いを見合うだけではわからない構造を間に持つ。両者をより深く理解することに役に立つわけだ。
 しかし、こうした俯瞰的な見方はあまり好まれないようである。「上から目線」というわけである。あくまでも、それぞれの位置のみから互いを見合わすことが求められるようだ。これこそが「個の尊重」だと思われているようだ。この場合の「個」は、それぞれが個別に存在し、相対性を問わない見方は、互いを一切干渉し合わないことと同義である。それこそが「私は私、人は人」という、互いを尊重しているように見えながら、互いに「知ったことじゃない」という究極の自己チューであろう。
 
と、ふと思った。
 反論があるとしたら、「そういうのは、自己チューと呼ばない」だろうか。(笑)
 ならば、「自己チューとは、超越的な相対性を問わないことである」と定義し直そう。

わからないから意味がある・未知に向かう姿勢の重要性

2012年12月15日 | 教育
内田先生のリツイートから引用

>渡邊芳之‏@ynabe39
>そのことにはまじめに問題を感じています。そして私はまじめに学生に「何の意味があるのか分からないことを学ぶのに意味がある」と言っています。 RT @Ichy_Numa: ところが、今は、あらゆる授業で「やる意味の事前説明」が求められる。本当は、説明できないこともあるのに。

 上記はいずれも大学の先生の言葉だが、イマドキは、学校の中にあって「自分が納得できないこと、意味のないことはやる気にならなくて当然だ」が蔓延している。
 「必要を感じさせることが大事だ」も同様である。で、この考え方が圧倒的多数を占めるから、「わからないままでいいからやる」とか「意味がわからないことをやる」ことに対して猛烈な圧力がかかる。この圧力は「生徒のやる気をなくさせるから教育効果がない」とか「それって、つらくないですか」などの「耳に心地よく響く言葉」である。

 こういうのって、日本中の知性が低下することになるのではないかと思う。

 でも、現状、ほとんどすべての人が高校に進学する状況は、学んでいる内容がたとえ小学校中学校の総復習のような内容であろうと、また、マニュアル思考であろうとマークシート問題でしか勉強が出来なかろうと、今の時代ほど日本人の知の底辺が高い時代はないだろう。
 マニュアルを活用して自分が欲するものを手にしたり、今の生活より快適にするためにあれこれ知性を発動させる、アタマを使う、人を介してであってもアタマを使っていろんなことを試みるわけである。これはこれで、実にすばらしいことである。そのおかげで「町興し」などが試みられる。小さな町や村であっても、生き生き輝いているところがたくさん出てきた。どんどん新しいことを試みることが出来る知性は純粋にすごい。青年期に「高校」というところで、勉強だけでなく学校祭や部活動などで世界を広げることを体感しているから出来るのだろうと思う。(今の70代以上の人も、自分は高校に行ってなくても、自分の子供の高校生活の面倒を見ることを通して、自分の村や町だけでない、広い付き合いの世界を体感している。)

 しかし、裏を返してみると、このあたりが現代の日本人における現生人類の知性の限界なのかなと思う。(一部の人は、こうした言を「上から目線」というのだろうな。)

 上記の先生方の言葉や私が感じるのは、「それだけで終わっちゃいけないだろう」ということだ。本当の意味での知性の活性化は、合目的的なもの(町興しとか、試験の点を上げる、とか。)ではない、ということだ。「今はそれが何か意味がわからなくても、いずれ何か出てくるかもしれないこと」という時間軸を超えた、かつ、未知に向かう態度である。

 今の学校教育に決定的に欠けているのは、「未知に向かう姿勢」である。上記の「やる意味の事前説明」は未知に向かわない。結果を想定しているからである。
 学校は「教育目標」を掲げるが、昔からきわめて抽象的な事項である。しかし、実際の現場では、目標がどんどん具体的なものに成り代わりつつある。でないと、結果がわからないから人々の賛同や共感を得ない。「意味がない」と思われている。

 ただ、「未知に向かう姿勢」の重要性を意識している人は、実のところ、かなり多い。しかし、「どのように向かわせるか」になると、どうしても、現状に妥協するような思考法に陥って、「意味をわからせる」などの本来意図しない方向、自分の理想と全く逆のやり方を取ってしまう。
 これ、非常に多くの人が、どうしても、陥ってしまう落とし穴のようである。今の初等中等学校の先生は、ほとんど全員、この穴に落ち込んでいる。
 で、そこで育ちあがった人たちばかりの世の中は、ますます「結果」を求める思考法になる。
 この好例が「町興し」や「コンビニお菓子の新製品」などの開発で、これらが今の日本の知性の最高レベルではないかと思う。(悪い例が、様々な詐欺事件や頭脳的な犯罪である。)で、広くあまねく人々は、「未知に向かう」など、これまで人類が何万年にもわたって追求してきたこと、根源的な知性を押し上げる重要性や必要を感じない、求めない、全く思い至らないのである。
 学校がなかった大昔は、たぶん「とてもアタマが良い人たち」は勝手に人類の知性に与することをやっていた。ところが、今は、アタマが良い人も悪い人も、みなが同じように学校に行く。で、同じマニュアル的な教育を受ける。これが、アタマが良い人たちの知性を損ねる。だから、ワケが悪い。内田先生だっけ?今の若い人で元気いい人が帰国子女だと指摘してなかったっけ?(←あいまい。内田先生近辺の森田真生さんも光嶋裕介さんも帰国子女である。ついでに言うと、内田先生は高校教育を受けていない。)で、最近、アタマの良い子だけにはエリートとしての特別な教育与える、という考え方を持つ人もいるようだが、逆だ。アタマの良し悪しにかかわらず、未知に向かう教育を与えれば良いのである。偏差値30の生徒も80の生徒も、材料だけを変える、しかし、根源は同質の教育を与えれば良いのである。でも、そのように考える人はたぶん皆無。
 で、私は、こうした一連の傾向を「知性の限界」だと思うのです。

 「町興し」や「マニュアル」を整備することで世の中をそこそこ住みやすいところにするのが目的、と言う考え方を取れば、今の教育や「わからないことには意味がない」という思考法に全く疑問を持たずに済みます。
 しかし、「想定外」の事態に直面すると、どうしていいのかわからない。
 人間、生きていれば、必ず、想定外に直面する。
 これは日本の社会で現実に起こったことです。でも、その遠因がこうしたマニュアル的思考法にあることに、たぶん、だれも思い至らない。あくまでも、「目的」「マニュアル」の思考で片付けようとする。原因を作っている原因そのものに解決策をゆだねようとするところに無理が出る。たぶん、その「無理」が今の政治の状況に反映しているのだと思います。

なぜ子供たちは受験のために塾へ行くのか。

2012年12月11日 | 教育
 幼稚園以外はすべて公立で育ってきたが、もう何年も前から「高校受験の勉強を塾でする」とか「受験勉強をいつから始めるか」などの言に違和感を感じてしようがない。この思考法というか現状というかは、ますますひどくなっている。なんてことのないテレビの娯楽番組でも、「今年は受験だから塾へ行って勉強」など当たり前のように言う。まるで塾に行かなければ勉強が出来ないかのようである。日本中、えらい勘違いである。勉強は、塾へ行かなくても十分出来るのに。
 それでも子供たちは塾へ行く。

 センター試験まであと1ヶ月ほどの今、日本中の高校三年生は、「センター試験で合否が分かれる」生徒はもちろん「個別試験で合否は決まるからセンターなんてほとんど関係ない」生徒も、なんだかんだとセンター試験対策の勉強をしているだろう。
 でも、「入試対策」とあっても現実の勉強の内容は、「内容」に関しては多くが「1・2年の復習(英語なんて、全部がそう。)」である。(復習でないのは、理系の数学、理系の理科、日本史など)試験に出てくる単語や熟語、その他いろいろの表現、読解の方法、すべてと言っていいくらい、復習でしかない。
 「できない」「点が取れない」原因の多くは、既習事項を習得していないことである。何も「試験対策が不足」しているからでは全くない。多くの生徒が「受験対策」と思っている内容は、ほとんどすべてが単なる「復習」なのです。
 ホント、これ。
 大学受験ですらそうなのに、高校受験が「中学の学習事項の総復習」でないはずがない。それを、親も子も(←たぶん。)「特別な勉強」だと思いたがる。

 なぜなのか、と思うが、わからんでない。
 「塾へ行く方がやった気になる」からである。
 内実はともあれ、塾の方が、テンションが上がるからである。大金も投じている。時間も使っている。ホントのところ、目的の多くは学力でないのだ。(端的に言って、学力がなくても入れる高校、大学はいくらでもある。)
 じゃあ、目的は何なのか?
 答え:日常生活の中で、「祭り」などの「非日常」が入り込むのを人が好むのと同じだろう。彼らの多くは、「非日常」を求めているのである。「非日常」を体験することで、自分がそれまでの自分と異なる「別の自分」になれる気がするのである。これを求めて塾へ行き、進学する。

 重要なのが「気分」だということだ。
 「通過儀礼」で例えよう。「通過儀礼」は、「非日常」をくぐり抜けることで「心」を変容させることを目的とする。だから、体験することは、何だって良いのである。もちろん、高校受験が成人に至る「通過儀礼」だと言うつもりはない。しかし、この文明社会というか、ほとんどの人が「高校」という、いやしくも義務教育ではないより高度な教育を受けている高学歴の現状で、「受験」、特に「高校受験」には、いわば「自分が高学歴社会の一員となる」ための「通過儀礼」としての特別な意味が付随してきたのではないか。ぶっちゃけて言うと、「自分がちょっと賢くなる意識化」である。知識を得れば、現実、それなりに賢くなれる。高校受験でも大学受験でも、「受験」がなかったら決して行わなかった中学や高校の学習の総復習をすることになるからそれだけ賢くなる。これを意識的に行うのが塾での勉強と言うことで、「通過儀礼」になる、なりやすい、ということだ。

 と言うと、「昔も今も「受験」は同じだろう。何もここで『通過儀礼』など大げさな文言を出す必要はないだろう」と反論する人がいるかもしれない。

 しかし、昔、---塾へ行かずに勉強をしていた時代、受験は「社会へのメンバーシップ」ではなかった。進学率が低いから「高学歴社会」でなかった。よって、勉強は個人に任されるものだった。進学率が低いということは、学力や知的能力の観点で、何らかの制限が加わっていたことを意味するだろうし、その制限内においては「受験勉強も通常の学習と何ら変わりない」という学習の常識が通じた。ところが、現在は、その制限がない。能力の如何によらず、誰でもが高校に進学できるのである。これは、中学校、高校それぞれの低学年の時期に学習が十分に行われず、習得が不十分なまま上級学年に進級しているということを意味する。しかし、知的能力に関係なく、誰でもが高学歴社会へのメンバーシップを得ることが出来る今、これを試みない理由はないものの、「高学歴」であるからには知的能力に関してやはり何らかの条件が加わってくるだろう。それが純粋な学力向上とはちょっと意を異にする「受験」であり、それが目に見える形で暗黙の制度として定着し始めた「通塾」なのである。
 塾の興隆には教育制度の改革や大卒者の雇用確保など、外的な要因はあろう。しかし、人の心をとらえない制度は長続きしない。塾は心をとらえた。その理由である。

 と、書く前には思ってもみなかった結論に達した。
 我ながら、興味深い。(笑)

答案に最初に記すのは?

2012年12月04日 | 教育
 試験が始まって、最初にすることは?と問われたら、まあ、試験問題、冊子などの確認か。枚数や順序とか。でも、その後は、「記名」が受験生のふつーの行動様式である。
 ところが、である。
 なかなか、名前を書かない生徒がいる。(あ、この話、昔も書いたっけ?)
 「オレは、こんなに一生懸命に試験に取り組もうとしているんだ。名前なんか書いているヒマはない。」みたいな感じ。で、机間巡視で指摘すると、うるさそうにする生徒までいる。「そんなのわかっている。邪魔するな。」みたいな感じ。(実際には、書き忘れたりする。)

 という経験をあまた積んでいるほりは、試験開始と同時に全員が記名する光景を見ると、「なんてレベルの高い集団なのだろう」と感激する。試験終わり頃になってヒマそうにしている生徒が散見されると「しっかり見直しをしなさい」と声をかける。すると、早速見直しにかかる。「なんてレベルの高い集団なのだろう」とますます感激する。この子たちは、きっと、伸びる。

もっと自由な勉強を

2012年12月02日 | 教育
 勉強は、今も昔も内容は大して変わらない。英語に関しては、文法的なことでも何でも進化しているものの、たくさんの単語を覚えなければならないし、文章も読解しなければならないのは、昔も今も変わらない。どの教科も同じだろう。
 しかし、今の生徒の勉強をみていると気の毒に思う。彼らは、今の自分たちの勉強しか知らないから、「そんなものだ」と思っている。だから、自分たちがかわいそうだと思わない。思っていても、前の世代が同様に自分たちはかわいそうだと思ったのと同様にかわいそうなだけである。
 何がかわいそうだというと、「正答」が唯一無二であると思わされていることだ。もちろん、昔から答えは唯一無二である。「氷が溶けると何になるか?」と言う問いの答えが「春になる」も認めろ、などの浅薄な議論をするつもりはない。氷が溶ければ水になるに決まっている。答えは一つである。「春になる」は答えではない。
 この問いと答えを使って私の言いたいことを説明をするとするなら、「なぜ、春は答えにならないのか」をきちんと問い直す余裕があるかどうかである。これが、勉強をする際には、何よりも重要である。
 ところが今の学校の勉強に、その余裕がない。
 どんな文章読解であっても、暗記事項であっても、問題の解法であっても、常に唯一無二の方法で、正しい読解や暗記、答えに到達するわけではない。必ず、我々は間違える。そういうものである。とても賢い子が、他人から見れば、どんなに確実に答えに至ったとしても、その子の脳の中では、必ず試行錯誤が起こっている。その上で、正解に至っている。必ず、そうである。それが、正しい読解や暗記なのである。
 それなのに、イマドキの子供は、内的な試行錯誤ですら否定されている。なぜなら、「効率が悪い」と見なされているからだ。試行錯誤せずに答えなどに至るのは、「作業」である。そう、彼らは、ひたすら「作業」ばかりをさせられている。上述の「春になる」も試行錯誤の一つである。試行錯誤を「答え」として認める必要はない。それは間違いである。しかし、試行錯誤は、試行錯誤として認めれば良いのである。それを、今の教育は、させない。目に見えない強力な力で阻止をする。これは、広く一般に行われている学習方法や、教員がよかれと思ってやっている指導を含めて、そうなのである。
 こうした指導が始まって、もう、ずいぶんと時が経つ。しかし、変わらない。それどころか、ますます増長している。私の目には、誤っているように思われる方法で学習した人たちが教職に就いているからだ。それが、(失礼な言い方になるが、)教員以上の専門的、あるいは、知性を要する職に就こうとしている子供たちの知性をいかに削いでいるか。いや、持って生まれた知的能力がいかなるものであろうと、人間という知性を持つ動物の能力の伸長をいかに阻んでいるか、気がつかない。だって、自分は、それによって成功したのだから。

 私がこのブログに書いていることは、「大掴み」出来るようなことばかりだ。実証はできない。教育とは、そもそも実証不可能なものだし、実証しようとするには、そもそも計測すべき「尺度」をあらかじめ定めなければならない。尺度で数値化して表現できないものは、実証できない。

 ま、でも、それでも、多くの子供たちが高校に進学し、大学に進学し、それなりに勉強をしているのだから、全体としては、伸びているのだろう。のび損なっているのは、たぶん、1,5番手層(笑)である。それが国力の衰退にならなければ良いのだが。