考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

明日の予習が。。。

2012年09月27日 | 教育
まだ十分に出来ていない。
ふつーの読解授業なら、トシの功で昔ほどの予習に時間がかからないが、それでもそれなりにしっかりと予習をしないと、授業できない。
自由英作文の授業の添削も抱えているし、小テストの採点(平常点をつけるため。まあ、このクラスの生徒はわりによく勉強をしてくるから、小テストの意義もあるのだけれど。)もあるし、あ-、どうしよう。。。

現在の日本で広く行われている「試験対策」学習の成果について

2012年09月27日 | 教育
 繰り返しになるが、日本の高校生が、いや、たぶん、小学生の時からやっている「勉強」は、勉強というより「試験対策」である。
 試験に出そうなこと「だけ」が書いてある暗記用の参考書や問題集を紐解き、暗記やパターン練習に勤しむ。試験に出そうにない「難しいこと」は点数に結びつかないから「やっても無駄」と判断される。あるいは、「やるのは馬鹿だ」と見なされる。中学受験であっても、つまり、小学生のときから、「7割とれれば良いから、難しそうな問題には手を出さないように」とでも言うような、要は、自分の力を精一杯出し切らないのが勉強である、と教わって育っている人間である。こうしたことに対して、だれも疑問に思わない、当然と思う世界観で育てられてきているわけだ。これが性根にしみこんでいる。高校生にもなれば、「できそうにないこと、今現在必要でないことをやる時間とエネルギーがあったら、もっと他に覚えるべきことがたくさんあるし、解くべき問題もある。その方が効率が良い。」が当たり前になる。

 しかし、これは決して勉強ではない。机に向かって、鉛筆を走らせていても、それは勉強ではない。
 もちろん、ここで私が言う「勉強」とは勉強の作業的な側面や現象的なものを指してのものではない。「本質」についてである。新しい概念や言葉の習得には、繰り返しの訓練が必要である。しかし、決してそれだけに終わらないのが本物の勉強である。

 まあ、たぶん、日本中に蔓延しているのが謝った勉強だろうな、と思う。

 これからの日本人は、学力も、思考力も判断力も、だれも気がつかないうちに、どんどん落ちていき、判断を仰がれたらきょろきょろ周りを見て、「多数」につくだろう。
 で、けっこう、みんな、諦めが良いから、「結果」が早く出ることが重要であると考え、出た結果そのものがどんなに悪いものであっても「仕方がない」で終わるのだろうな。
 学習のすべてが「試験対策」になった「成果」である。

一生懸命にやっても成果がでなかったら。。

2012年09月16日 | 教育
 「一生懸命にやっても出来なかったら惨めだから、一生懸命にやらない」という考え方があるようだ。能力が低かったり、がんばれない生徒に対する「慰め」のようだ。自分の能力のなさが露骨にわかるから、それを避ける目的があるのだ。
 が、私には理解できない。
 それなら、一生懸命にやって成果が出る、とはどういう状態なのか。
 また、野球部の生徒で、一生懸命に練習しても甲子園に行けなかったら惨めだから精一杯の練習をしないということがあるのだろうか。

 一生懸命の「成果」は、たぶん、「自分が願うだけの成果」である。受験なら、たとえば東大に合格するとかではない。近隣のちょっと名の知れた私立大学でも国公立大学でも良い。
 スポーツと勉強は違うというのだろうか。
 
 一生懸命にやって出来なかったら、それはそれで仕方がないのである。
 そう、仕方がない。
 ただ、それだけ。
 でも、自分が一生懸命にやったとき、どこまで出来るようになるかは、実際にやってみないとわからない。だから、たぶん、一生懸命にやるのである。でなかったら、オリンピックだって、世界新記録などは決して生まれないだろうな。
 なぜ今の子は、一生懸命にやろうとしないのだろうか、不思議である。(って、理由はわかるけど。)

やっぱり大事なのは学問の基盤

2012年09月13日 | 教育
 聞いた話。
 企業でバリバリやっていた人が大学に請われて教員になると、使いものになるのは最初の3年だけで、5年も経つとお荷物以外の何ものでもないらしい。「社会」は、絶えず流動しているから時流に乗ることが大事だったりする。しかし、「時流」はたちまち「時代遅れ」に成り下がる。となると、何の魅力もなく学生はついてこない。また、こうした人は、基礎基盤がないから応用を利かせることができないらしい。というわけで賞味期限が5年らしい。対して、一見つまんないことをやっているような学者さんのほうが、かわりばえしなくても基礎基本からやっているからそれなりにうまいことやれるらしい。
 学生も生徒も同じだが、彼らは、「そこを巣立つ」存在である。であるからには、その場限りの教授ではいけないだろう、ということだな。

「決まり」があるから守る?

2012年09月10日 | 教育
 ときどき疑問に思うのは、何かの指導をする際に「校則で規定があるから指導する、なければ指導しない」という発想である。
 校則で規定がなければどんな服でも着てよいのか、どんな持ち物であっても持ってきてよいのか。
 服装や持ち物には、TPOというものがあるだろう。それは「文化」という「不文律」に依っている。生徒に教えるべきは、「決まりを守れ」だけでなく、文化や不文律に関わる事項について思いをはせさせ、考えさせることではないか。でなければ、決まりがなければ何もできない人間。指示待ち人間とか、「マニュアル」でしか動けない人間になる。あるいは、「法律さえ守ればよい」という考え方になる。「校則で規定があるから指導する、なければ指導しない」という発想をする人は、マニュアル人間である。
 学校の教育は、マニュアルを守らせることではない。マニュアル人間は、マニュアルなしで考える人間を育てることはできないだろう。

 マニュアルに依存したがる人の言い分は、「個人的な考えで判断に偏りができるのはよくない」である。こうした「偏り」は、今の日本の学校が本能的に無意識的に忌み嫌うものであろうと感じるが、この思考法は、学校で教える勉強そのものを否定する考え方である。
 文化や不文律は普遍ではなく、必ず「偏り」があるものだ。だから、ある時代、ある時期に是とされることが他で否とされて当然である。そもそも、勉強はこうした「偏り」を踏まえて教えられることであり、「偏り」がなければ何も教えることはできないものである。合点がいかない人がいるかもしれないが、人間そのものが、そもそも何かに偏ってしか存在しえない。人間を人間たらしめている要因を作る「言葉」がそうである。言葉を通さない勉強はないから、一言でも発した段階で、その人は「偏り」を発現させている。

 「いや、私はそんな大げさな、極論するつもりでいうのではない。」と反論されるだろう。ならば、「どの程度」なのか。どの程度なら是認され、どれくらいを超えたら否認するのか。それこそが、「偏り」そのものである。
 「私の意図は、客観性が大事だということだ。」とおっしゃるだろう。ならば、「客観」とは何なのか。客観性が大事だという人で、きちんと客観について論じる人はおそらくいないだろう。数値化すれば何でも「客観」だとする程度である。「みんながそう考えているから」という子供じみた思考法である。

 学校なら、それまでの生徒が全く行わなかったことをしたとき、それが「望ましいとは考えられない」ものだったとき、何らかのほんのちょっとしたものでいい場合も多いが、指導が必要になる。新しいマニュアルの作成が必要な時がきた、ということだ。しかし、マニュアル人間は、マニュアルを作るのが自分自身であるという発想を決して持たないから、今がそのときだと気がつかない。
 (と、考えると、何年かかって収束するかもわからない事故だって、似たような状況があったのかなと、無責任に想像したりする。)

「知識」の「質」と「量」

2012年09月02日 | 教育
 非常に多くの勉強は、知識を得ることにある。通常、知識は「量」で捉えられるように思う。「あんなにたくさんのことを知っているなんて、すごい。」とか。一方、「なんだ、そんなことも知らないのか。」と、知識の「内容」で捉えられることもある。「これを知っていると役に立つよ。」とか。
 しかし、知識には、他に「質」という尺度で捉えられる属性があるのではないか。
 「質」は、前述の「内容」と混同されるかもしれない。が、「内容」とここで意図する「質」は異なる。
 「ラーメンとは如何なるものか」という「知識」と「哲学とは如何なるものか」という「知識」を比べると、前者は後者より、何となく(あるいは、明らかに)「質」の点で劣る気がする人がいるのではないかと想像するが、いかがだろうか。しかし、私はこの違いを「内容」と捉え、「質」の違いと思わない。
 では、「知識」の「質」とは何か? ーーー私は、他の知識との関連や関係付けの多寡や深さを「質」と考えたいと思う。同じ「ラーメン」であっても、「ラーメン」を「その昔、中華の麺料理に端を発し、日本で独自の発展を遂げ、今では多くの日本人に愛されている麺料理」というコトバだけの知識か、フーフー言いながら、胡椒を振りラー油を垂らして食べた経験のあるラーメンでは、その「質」が違おうというものだということだ。「哲学」という言葉を知っていたとしても、アリストテレスでもソクラテスでも、誰でも良いが、そうした人との関連付けがなかったりしたら、あるいは、自分自身で「哲学とはなんぞや?」と問う経験がなかったとしたら、その「哲学」という知識の「質」は劣るのではないか。

 このように考えると、今の生徒の持つ「知識」は、「量」は多くても(量の少ない生徒も多いが)「質」の点でかなり劣っているのではないか。
 新しいコトバや概念、語句を覚えたとしても、それ以上もそれ以下でもない、無機的な単語である。他のものと直ぐに代替される危険性が高いだろう。(ゆえにとんでもない間違いをする。)以前に学習した内容との関係づけが極めて薄く、また、自分自身の経験や感情に照らし合わせて得心するわけでもない、このような「知識」を我が物として使うことは無理であろう。学んだことを応用できない所以である。
 ゆえに、子供たちに「知識」を習得させる場合は、量や内容だけでなく、上記の観点での「質」を高める学習が必要であろう。
 相当に優秀な子供は、これを無意識のうちに行っているが、そうでない場合には適切な指導が必要であろうと思う。そうすれば、かなりの子供たちの知識の習得が極めて有意義になされるのではないだろうか。

 なぜこんなことを書くかというと、イマドキの教え方が、あまりにもお仕着せの暗記中心になっているからだ。「効率的な学習」の名目で、生徒をマシン扱いしているように私には見える。彼らは、ゆとりのない学習時間で小学生の時から、自分自身で何かを発見させる余裕を持たない学習方法にあまりにも慣れ親しんでいる。その悪影響は、昔の詰め込み主義どころではない。あまりに「結果」や「成果」を重視する思考法は、皆が問題視する「無駄」を排除している。しかし、「無駄」は見方を変えれば「余剰」「余裕」という豊かさである。今後伸びていかなければならない子供に必要なものである。
 ところが、今の子供の学習時の知識は、「質」があまりにも悪い低質なのである。
 これで日本の子供の学力が上がるはずがない。