考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

かけ算は、何より「単位」の認識が大事なのだ

2013年01月26日 | 教育
 茂木健一郎さんのツイッターで、かけ算の順序が議論されているけど、論点がずれている。
 あれは、「順序」が問題ではなく「単位」が問題なのだ。
 しかも、「単位」を認識することが非常に重要なのだ。

 6人に8本ずつ鉛筆を与える式、8本×6人=48本は、6人×8本=48本でもかまわない。6人が8本の列車(列車じゃなくていいのだけど、本の単位で表せるもっと良い例を思いつけない。)に乗ると、6人×8本=48人、8本×6人=48人で、どっちでもかまわない。
 ここで、上記の6×8=48、8×6=48を比べてみよう。答えの「数値」はどちらも同じ48である。
 しかし、「答え」はちがう。前者は、「48本」、ところが、後者が「48人」と同じ48の数字が持つ意味が異なる。
 単位が重要なのだ。
 
 たぶん、子供は、8と6の順序をどっちでもいいとなると、「答えの単位の付け方」を「ついつい」間違えるのである。
 「なんとなく」「うっかり」間違えるのである。

 うん。

 だって、私、覚えがあるもの。

 たぶん、初めて九九を習ってかけ算を習った小学2年生の時、計算をしていて単位を間違えそうになったときがあったような気がするのだ。そのとき、「最初の数字に単位をつける」と習ったのは、とても役にたった。最初の頃は、必ず数字の後には単位をつけて式をたてたのを覚えている。先生も、単位の付け方はしつこく言っていたのを覚えている(というか、思い出した)。中には単位がいい加減で間違えていた子がそれなりにいたと思う。
 
 朝日新聞の記事の疑問は「ずつ」という言葉を使うから生じたのだ。親御さんが合点がいかないのもだからだと思う。
 「単位」の重要性で考えれば納得いくはずだ。

 でも、真の納得には、まだ説明が必要だろう。
 1つだけのかけ算の式なら、実は、単位をどっちにつけるかは、議論されているとおり、どっちでもいいからだ。
 しかし、勉強が進むと、問題が発生する。

 いくつも式を並べて書いていくときである。たくさんの式が並ぶと、どの式のどの数字が単位を表すかがわからなくなって、出てきた答えの単位を勘違いして、次の計算を間違える。
 多い間違いは、単位の違うもの同士を足してしまったり、かけ算したりする間違いだろう。(ああ、この間違い、遠い記憶の彼方で、思い当たる気がするなあ。)
 この点、「最初の方の数字に単位をつける」と決めておけば、そんな間違いをしにくくなる。常に、「単位」に意識が行くからである。

 「ずつ」の方を先に書く、つまり、「単位」をつける方を常に意識して先に書くのは、かような「間違いを防ぐ」効果があるのだ。
 また、「単位」の認識をはっきり持てば、割り算でどっちで割るかがわからなくなる心配も減るはずだ。

 茂木さんは、頭がいいから、ふつーの能力の人間がどんなところで間違えそうになるかがわからないんだと思う。

 私は、ツイッターをしてない。だから、どなたかが、茂木さんに伝えてください。
 『本来は順序を決める必然性はない。しかし、かけ算の初心者には「便宜的に最初の数字に単位をつけることを習慣化させる」方が、たくさんの式が並んだときや式が複雑になった時に、特に単位に関わる計算の不注意間違いをしないで済むようになる』と。

 ついでに言うと、今の学習指導の多くは本質を突いて行われていないのではないかと私は疑っている。
 「わかりやすく」教えるために、本質に関わる抽象的な表現が避けられだり曖昧に表現されていたりするのだ。(今回の「ずつ」もその一つだろう。「単位」は「ずつ」に比べるとずいぶん抽象的な概念であり語である。)だから、真の意図が学習者やそれを取り巻く人たちに伝わらない。
 別の言い方をすると、今の教え方は「最初はちょっと手間がかかったり多少難しいかもしれないけれど、ヘンな勘違いやとんでもない間違いをしない勉強の仕方」が軽んじられていると私は思っている。(語学学習における文法軽視もこれだ。)
 だから、子供たちがかわいそうだ。
 彼らは、一見わかりやすそうだけれど実は「本質を突いていないわかりにくい」、しかも、「次のステップに入ったら仕切り直しをしなければならない」、「要領の悪い」勉強の方法を強いられている。(この意味では、「ずつ」を先に書く式を立てさせる教え方は間違っていない。)
 四半世紀以上にわたって高校生に英語を教えてきて、私はそのように感じている。

(追記)
 積分定数さんからコメントをいただき、単位に関わる数を先にする「順序」という計算の手段が、授業の場において目的化している陥穽を教えていただいた。教える側が、大事なのが「単位」であることを知らないのが原因である。詳しくはコメントに書いた。


「知」の伝授の難しさ

2013年01月21日 | 教育
 ある大学の勉強の方法についてのガイダンス用書籍を見た。レポートの書き方から、まあ、いろいろ参考になることが書いてある。役に立つ本だと思うが、矛盾をはらんでいる。
 「知」というものは、決して、こんなハウ・ツーで表されるものではない。しかし、あまりの学生の質の低下か何か、初歩的な指導を目的にこうした参考書が作られたわけだ。しかし、この本を手にした学生は、この本にあるようにやりさえすればそれでいい、と思うだろう。で、こうした思考法そのものが、「知」を決定的に損なうものなのだ。「知」はそういうものだろうと思う。「明確な形」にすると壊れてしまう。正確に言うと、外形化すると、その「外見」の奥に「何か」が存在しないといけない、という「二重以上の構造」がなければならないのである。しかし、その二重以上の構造を言語化であっても何であってもしたその途端、更なる二重構造を要求する。「知」とはそういうものであると思う。
 もし、このような知に関するハウ・ツー本が書かれるとしたら、書く方も読む方も、その「からくり」を互いに了解していなければならない。ソクラテス?が本でものを教えることを否定したらしいが、その実質的な理由はこういったことではないかと思う。書籍はかように誤解を与えるものである。従って、教師と弟子が実際に面と向かって教え学ばなければならないと彼は思ったのではないか。目の前にいる生徒に対してならば、少しの誤解もその場で訂正することが出来る。こうした実に手間暇のかかる手順を通してしか、人の「知」を伝えることはできないのではないか。さらに、こうした「人から人へ」の伝授の際、たぶん、人は少しずつ、自分の解釈のようなものを加えていったのだろう。それが、文化の進歩につながったのだろうと思う。
 (というわけで、受験参考書を通して勉強をしただけでは、本物の勉強とはいえないと言うことにもつながる。)

見せかけの得点力と真の学力

2013年01月16日 | 教育
平尾剛氏のスポーツ指導者についてのtwitterから勉強について言えること。

原文
平尾剛‏@rao_rug
体罰や罵倒によるスポーツ指導には一定の効果がある。短期間のうちに効率よく競技力は向上する。これは間違いない。だが、競技力の向上と引き換えに失うものは限りなく大きい。自制心や胆力を育むもとになる「身体感受性」は、限りなく鈍ることだけは忘れてはならない。続

平尾剛‏@rao_rug
「競技力の向上」と「人間的資質の涵養」は別ものだ。これらを目的とした指導方法や教育は決定的に異なる。選手の自主性は、きっかけを与えつつじっと待つことでしか開花しないと僕は思う。「見せしめる」ことで恐怖を植え付けるなんてことは、まるで未熟な指導方法と言わざるを得ない。続

平尾剛‏@rao_rug
僕たちスポーツ指導者は、選手を兵士に仕立て上げてはならない。追い込み型指導でそこそこ戦えるチームに導けるほど、私たちの国のスポーツ水準は低いのだ。この現実から出発しないといけない。ホンモノの競技力は、然るべき人間的資質を涵養しておかないと決して身につかないものだと思う。終

ほりの解釈

徹底的なトレーニングによる試験対策や点取り競争による学習指導には一定の効果がある。短期間のうちに効率よく点数は上昇する。これは間違いない。だが、特定の試験の点数の上昇と引き換えに失うものは限りなく大きい。自分自身で学び取る能力や長時間に渡る思考の胆力を育むもとになる「思考のための身体的感受性」は、限りなく鈍ることだけは忘れてはならない。続

「受験の学力の向上」と「人間的資質の涵養」は別ものだ。これらを目的とした指導方法や教育は決定的に異なる。生徒の学力は、ちゃんと考える方法を体得するためのヒントを与えつつじっと待つことでしか開花しないと私は思う。「評価する」ことで競争心を煽り立てるなんてことは、まるで未熟な指導方法と言わざるを得ない。続

私たち教員は、生徒を受験の「コマ」に仕立て上げてはならない。追い込み型指導でそこそ生徒を合格に導けるほど、私たちの国の学力水準は低いのだ。この現実から出発しないといけない。ホンモノの学力は、然るべき人間的資質を涵養しておかないと決して身につかないものだと思う。終

謹賀新年

2013年01月07日 | 教育
あけましておめでとうございます
本年もどうぞよろしくお願いします

 近頃、書くことがあまりない。
 まあ、ないわけではないが、書くのがメンドーだったりする。(笑)それに、何かを思いついても、以前も書いたな、という内容が多い。また、私って、ホント、時流に合ってないと思うことが増えたから(要は、年をとったということだろう。)、書いてもしようがないなと思ったり。

 関係がないけど、内田先生の娘さんは、自分の父親のことを「父」と表現しているイマドキ珍しい若者だ。近頃、テレビでも自分の親のことを「お父さん」「お母さん」と表現するのが普通になっているようだ。
 まあ、そんなこんなが気になってしようがないということそのものが、時代に合ってない証左であろう。

 本を読んだ。
 「生徒たちには言えないこと」諏訪哲二著(中公ラクレ)
 「イギリスの大学・ニッポンの大学」苅谷剛彦著(中公ラクレ)
 両方とも、良い内容の良い本だと思う。特に諏訪さんの本は、同じ教員として教えられることが多いし、共感できることも多い。しかし、諏訪さんも、同時に、私も問題視することは、そもそも「前提」の取り方が違うのが原因ではないかと思い至った。これまで学校は、本に書かれているように、近代社会のメンバー養成を目的にずっとやってきた。しかし、イマドキの現実の学校は、決して近代市民社会のメンバー育成を目的としない。文科省そのものがメンバー養成を否定しているのである。社会の要請からそうなってしまった。(あ、でも、これもどこかで書いたかも。)諏訪さんが、「前提」としていることは、それで、私自身も著者同様に「前提」と考えてきたことは、全く現実にそぐわないものと化しているのだ。
 「グローバル企業」のように、「おのれのためだけに学ぶ」ものになったのが今の学校である。だから、先生は生徒に「進路指導」で言う、「あなたは何になりたいの?」「将来何がしたいの?」と常に追い立てる。あるいは、機械的な高校1年の夏に、すでに、「文理分け」--大学を理系に行くか文系にするかの選択を迫られる。昔だったら「モラトリアム」として、それなりに問題視されなかったわけではないが、それで済んだ。しかし、今は経済事情のあるなしにかかわらず「わからない」のは徹底的に否定されかねない世知辛さがある。「本人の希望を叶える」のが学校の仕事のようになっているから、たぶん、本人の希望がないということがあってはならないのである。「本人の希望」という言葉は、きわめて耳に心地よく響くが、徹頭徹尾の自己責任である。まだ16,7の年の子供たちは海のものとも山のものとも知れない存在である。
 彼らは生き急がされているのだと思う。しかも、言葉を先走らせられる。「何のため」とかいろいろ。(推薦入試の面接指導は、徹底的にこうした内容になる。推薦入試でなくても、校内の面接でも似たようなものになる。)だから、「キャリア教育」なのだろう。その方が指導しやすいのである。「勉強」の本質を離れ、勉強を「手段」として扱うことができるから、その点で、ラクなのである。(具体的な指導がラクとは言わないが、本質的なことを考えずに済むという点で、ラクなのだ。)
 つくづく人間は、イヤなことはしたくないんだなと思う。