考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

教育と効率と無駄

2006年01月29日 | 教育
 「効率」と「無駄」は切っても切れない関係にある。

 「無駄な仕事や作業」はあっても、「無駄な人生」はない。
 「効率的な仕事や作業」はあっても、「効率的な人生」はない。

 人生とは日々営みであり、目的や目標は畢竟付随的なものにすぎないからではないか。

 「教育」が、仕事や作業か、あるいは人生に関わることかを問えば、「人生に関わること」と答えられるだろう。

 よって、「教育」に「効率」を差し挟むことはできない。

小テストは嫌いだ

2006年01月28日 | 教育
 生徒じゃない。わ・た・し。(笑)

 高校生にもなって、自分でできる小テストを、なんでまた授業中にしなきゃいけないんだと思う。
 理由は、(前にも書いたことあるけど、)生徒が自分で勉強できないから。自分で勉強のペースをつかめないから。

 でも、それでも、もう一つ理由があるのに、自分でもやっと気が付いた。(笑)

 授業中に小テストをするとなると、始業のチャイムでテストを始めることになる。前の休憩時間、生徒は小テストの試験範囲の勉強をする。

 「教室に行くと、生徒がしっかり本を見て取り組んでいるから良いですよ。」と言う先生がいる。

 実は私はそれが嫌なのだ。落ち着いて机に座って待っているのはいい。そうあって欲しい。そうでなければならない。(まあ、それもできてなかったりする現実はあるのだけれど。)

 なんで、休み時間にまで勉強をするんだ。その前の時間、何をしていたんだっ!1時間、一生懸命に脳味噌使って授業を受けて勉強をしたら、その後の休み時間に勉強なんかできるもんかっ!
 
 休み時間も勉強ができるだけの脳体力?があったら、もっともっとできるようになっているはずだ。それだけの集中力も体力もないのに、休み時間にまで勉強ができるのはなぜか。

 考えられるのはただ一つ、その前の授業が充実してなかったから余力があるのだ。何も熱心なのではない。だらだら授業を受けたりしているから、だらだら休み時間も勉強ができるのである。

 教員だって、授業中に、一生懸命に考えさせ、覚えさせる授業をしていないことに気が付いてない。生徒も努力していない。
 自分たちの緊張感のなさをただはき違えているだけなのだ。

 ・・・でも、こんなこと思ってるの、たぶん、私だけです。はい。
 

天才と秀才

2006年01月28日 | 教育
 国語の問題を解くのに、自然に読んで「勘」で答えて高得点を挙げる。「そう書いてあるから、そうとしか答えられない。」と、当たり前すぎて、なぜそれが答えになるのかの説明が出来ない。
 苦手な人がうんうん言っている数学や物理の問題を「答えが書いてあるじゃない」と言って簡単に解く。解けない人がなぜ解けないのかがわからない。
 
 こういう人は、アタマの良い人だと思う。「天才」はその延長にいると思う。

 藤原先生が書いていたインドの数学者ラマヌジャンは、毎朝いくつもの定理を発見したらしい。でも、証明はしない。証明という概念がなかったらしいが、上記の説明が出来なかったりするのと同じじゃないかと思う。

 で、証明をしたり説明が出来たりするのは、天才に通じる頭の良さとはまたちょっと違う能力じゃないかと思う。

 もっとも、「証明」そのものに関しても過程を細分化することができる。
 証明は、まず「こうしたら出来るんじゃないか」というように、最初に何か証明の方法を思いつかなければならない。で、そのあとに、なぜそれで証明できるのかを順を追っていくという過程が存在する。となると、最初の「思いつき」は上記のアタマの良さに通じるものがあるかもしれない。

 「わかる」のは一瞬だけれど「理解する」のは時間を掛けて順を追って行うことだと思うから(以前も書いたかな?)、勉強をして出来るようになるのは「理解する」ことだけじゃないかと思う。
 でも、順を追ってやることを通して、そのうちに「わかる一瞬」が訪れることがあるのだろう。ちょうど証明の方法を思いつくときのように。(脳味噌に回路ができて電気が通じるってことか? 天才は元から回路があるかな?)

 勉強を続けていくと、ちょっとずつアタマが良くなる気になるのは、そういうことじゃないかと思う。
 だから、説明できるのは「秀才」ってことかな、と思った。

道の駅に見る高校進学率

2006年01月23日 | 教育
 道の駅に立ち寄ると、どこでも、ホントにどこの道の駅でも特産物が売られていて、町の婦人会の手芸品や加工食品が商品として売られている。「町興し」の一環としてなされているのだろう。
 
 こういった形で町興しができるのも日本では高等教育が普及したからではないかと思う。
 職業科高校であろうと普通科高校であろうと、現在の30代40代の成人の大方は、8割か9割が高卒の学歴を持っていることだろう。それでまた、そのうちの2割か3割は大学へ進学している。子どもを高校や大学へ進学させた60代70代の親たちは、その様子を見ていたはずでもある。大多数の人間の就学期間が義務教育の9年間だけだったら、組織的な活動はなかなかできるまい。大きくモノを見る目、発想にしろ、その大切さにしろ、義務教育だけでそこにまで至るのは困難ではないかと思う。

 「学校」は、社会に根ざした存在で、多くの人が寄り集まって何か一つのことを可能にする場所である。若い人たちに、みんなで何かをしようとするとき、組織を作って行うことを学ばせる場所が学校であろう。授業にしろクラブ活動や学校行事、全てがそうである。

 手先の器用な人がたくさんいたとしても、個人で出来ることは知れている。多くの人の器用さをつなぎ合わせて、より大きな目に見えるものしなければ、一介の主婦の手芸品を店頭に並ばせることなんてできない。
 が、本当の意味で大人になる10代後半という時期に、何らかの形で組織的に活動をすることを覚えさせられた人間が集まれば、これが可能になるのではないか。

 中等教育や高等教育は、何も専門的知識技能を習得するだけの場所ではないのだろう。自らが学び活動することを学ぶことで、人間はきっと活性化するのだろう。

 何かの本で読んだ。日本では、農業をしていた人であっても、近くに工場が出来れば工場へ働きに行くことが出来る。工場の仕事をすることが出来る。しかし、アフリカなどでは近くで放牧農業を営んでいる人たちを工場労働者として雇うことができないらしい。工場で、指示された仕事をする、と言うことが出来ないというのだ。その本の著者は、子ども時代に教育を受けていたかどうかによる違いであると述べていた。さもありなんと思う。

 高等教育と同一視するわけにはいかないかも知れない。が、教育を受ける期間が長くなれば、やはり何かそれだけのものがあるのではないか。

 大学で高校内容の補習を行うという話も聞くし、高校では中学の復習から始めなければならない現実もある。しかし、それでも、長く教育を受けることで、何らかの痕跡がその人に残るのではないか。

 昔だったら高卒で働いた生徒も今は大学へ進学する。学問に対する情熱がない者も大学へ進学する。しかし、それはそれで、後々の人生で「何か」を生む積極性を養うことになるのではないかと道の駅に寄るとそう思うのだ。 


醜い答えがあふれる試験

2006年01月22日 | 教育
 大学入試センター試験はいつまで続くのだろう。きっと、ずっと続くのだろう。どんどん国民の脳味噌が醜くなってくる。なぜなら。。。

 共通一次試験から始まったマークシート問題は、大体が四択である。すでに作成された選択肢による答から最も適切なものを選ぶ方式である。

 で、文で答えが表現される場合の指示は、「最も適切なものを選べ」である。これが実はまずい。だって、選んだ答えは、4つの与えられた答えの中での「最も適切なもの」にしかすぎないかもしれない。もっと良い表現による答えがあるかもしれないのだ。
 これって、不自然じゃない?

 問題を作る側から考えるとよくわかる。
 正答を作るときに、最も正しく、かつ、最もすばらしい表現はしない。そんなことをしたら、ほとんどの受験生にどれが正解かわかってしまうからだ。正しい答えは美しい。たとえ問題が解けなくても、何が最も美しいかがわかれば出来てしまうことになる。しかし、それでは困る。試験の目的は、正しい答えを生徒に教えることではない。能力の選別というもっと別のところにあるからだ。
 選択肢を作るのは、なかなか難しい。正解を、「一見正答ではないかのように見えるが実は正答」にするのがこなれた作問である。逆に、間違った答えは、「いかにも正しく見えそうなもの」だったり、「解答者が勘違いしそうなもの」だったりする。言ってみれば「心理戦」である。でないと、みんなが出来てしまう。作成者はこれを恐れる。よって、作成される「正解」の表現は、言っていることは同じであっても「醜い表現」になる可能性が高いのだ。下手な作問だと、他の選択肢と比較して「これが一番まし」だから答えになるだけのこともある。だから、もし、同じ設問の答えを、コトバで記述して答えるよう要求されたら、マーク問題の正解選択肢をそのまま書いたのでは満点にならないかも知れないのだ。生徒が一生懸命に考えて選ぶ答えが、本当のところ、「もっと良い表現」があるかも知れない醜い答えかも知れないということである。

 一方、記述式問題においては、解答は最も正しい表現で成されることが要求される。配点が5点とすると、最も正しく表現されれば満点の5点、何かがちょっと足りなければ、それに応じて採点基準が決められて減点されていく。よって、生徒は「最も正しく美しい答え」を求めて頑張ることになる。全くもって正攻法である。
 
 そう考えると、マーク問題の場合、問うていることがたとえ良質の質問であったとしても、悪問になりうることがわかるだろう。そこに書いてある正解は、記述式で答えたら満点が取れない解答だったとしても、他の選択肢が1点や0点の解答だったら、それが正解になってしまうのだ。だったら、問題作成者が5満点の答えと4点の答えを選択肢に用意しておくと良いのではないか、と思われるかも知れない。しかし、「減点」は、言語表現の場合、採点基準の問題になることも多い。見解の相違で減点になったり、ならなかったり、受験生のレベルで減点の程度が変化することもある。だから、5点と4点の答え両方を選択肢に入れておくと、正解が2つある、と非難されることになりかねない。ゆえに、そんな紛らわしい選択肢は作らない。

 記述式は公平性に欠けるなどの理由で嫌われるのもこれと関係する。マーク式が客観的に能力が判断できると好まれ、センター試験がマーク問題になっているのもだからだろう。
 つまり、マーク問題は、基本的に、純粋な評価のための問題としての意味しかなく、考えさせるためだったり、正統的学習能力を高めるための問題にはならないということなのだ。

 で、最大の問題は、選択肢の醜い正答を生徒は「最も正しい答え」と思ってしまうことである。脳味噌が腐るようなものである。だって、区別がつかないんだもの。1題5点だったら、醜かろうと美しかろうと同じ5点は5点なのだ。記述式のような点差が生じてこない。ここで彼らの感性は鈍くなり、思考は停止する。

 「美しさ」も「醜さ」も同質である。何も考えない。一旦正しいとされたことに疑問を挟まない。(テストの返却の際、記述式の場合は、「もっと点をくれ」と言いに来る生徒もいるが、記号問題の場合、こちらの出題に多少の不備があって正解がはっきりしないことがあとで判明するような時であったとしても、正解の記号を示すと「設問がおかしい」と言ってくる生徒はいない。(言ってくる生徒はかなり優秀な生徒である。また、突き抜けて優秀な生徒はこれまた言いに来ない。))
 全国的にマーク問題を奨励する試験が行われる限り、それこそ、2次試験の記述式がよほど大変な大学を受験するのでなければ、生徒は、より美しく正しい答えを求めるようなことをしないだろう。それで、そういう生徒が大多数を占めるのが今の日本である。時が経ち、(すでに現在そうだろう、)やがて国民の多くを占め、国家の要所要所の現場で働く者の多くは、若い頃、人間の知的遺産を継承する際に、美しさを求めず、思考を停止させることが大事なことだと思って育って来たという言うことである。

 共通一次が始まったのは、難問奇問を排除するという目的があったのだろう。しかし、奇問がともかく、難問はいずれ格闘すべき対象だったはずである。だったら、その方がはるかに「まし」だったのではないか。
 どうせ試験問題なんて、みんなが出来るようになるものではないのだ。それを「勉強すれば誰でも出来るようになるのが良い問題」であるかのように錯覚したのがいけないのだと思う。価値の一元化だ。(だから、センター試験が一般化してから「個性」「個性」と言い出したのかな?)

 社会に出たら、言語を読解し、言語で表現しなければならない。誰も正解を含んだ選択肢なんて作ってくれない。だったら最初から記述式で行け。採点基準に右往左往するな。できなくったって仕方がないことも多いのだ。他に価値を認めてくれ。勉強や、学校の評価だけが、評価の全てでない。

「わかりません」が出発点

2006年01月20日 | 教育
 一度記事に書いたことがあるが、授業で指名すると、よく生徒は「わかりません」と答える。「わかりません、なんて答えるな。」と言ったら、
 「やってません。」
 
 爆笑。

 それでもまだまだ続く、「わかりません。」「わかりません。」・・・
 (たいていは、「やってない」のである。)

 「私の前では見栄を張れ。」と言うことにしている。が、わかりません、と答えてそれで安住している様子に何だか無性に腹が立った。そしたら口をついて出てきた。
 「勉強ってのはねぇ、『わかりません』から始まるものだ。『わかりません』で、終わらせるんじゃないぃ。」

 (おっ、我ながら名言。)

 研究者になると言っていた卒業生が、年賀状に「大学の勉強は、何が正しいのかわからないところから始まる。面白い。」と書いていたのと無意識のうちに繋がったんだと思う。だから、その話もした。

 「勉強ってのは、学問ってのは、わからないところから始まって、わかって、また、わからないところに向かってどんどん進んでいくんだ。そうやって人間は文明を築いてきたんだぁ。」

 どの程度効果があるかわからないけど、何も言わないよりマシだろう。

授業中に寝てはいけないワケ

2006年01月19日 | 教育
 横着な生徒は、受験前だったりすると、授業によっては「この教科は受験に関係ない。」と内職をしようとしたり寝ようとしたりする。

 私は断じて許さない。定期試験が残っているときであろうとなかろうと許さない。鬼である。
 高校生の宿命である。授業でやっていることをやれ。たとえそれが自分の受験教科じゃない演習であろうとやれ。何の教科であろうと既習事項である。授業は授業だ、卒業の要件である。それに第一、もう二度と、君がおそらく一生勉強しない内容なのだ。
 
 自分のやっていることと関係のない説明の声が響いてくる中で内職をしてアタマに入るわけがない。また、そんな状況でアタマに入るような、良心の呵責を感じないような奴は困る。
 真っ昼間から、机に突っ伏して寝て、十分に休まるはずがない。
 いずれにしろ、そんな中途半端なことをするのは、アタマに多大な悪影響を及ぼすのである。なぜなら、脳味噌に中途半端な休養を取らせたら、活発に働くべき時でさえ中途半端な働きしかしなくなるのではないか、というのが持論だからだ。

 これには根拠がある(と思っている)。

 昼間運動をすると、夜の睡眠中の消費エネルギーは、昼間に身体を動かさなかった場合より高くなると言うではないか。(昔、テレビで見た。)夜間の睡眠が同じようなものだったとしても、昼間の運動量で夜の消費カロリーまでもが異なるというのだ。

 これはすごいことである。

 脳も身体である。だったら、昼間に集中して活発に使う習慣があれば、寝ているときだって脳味噌はしっかり勉強をしてくれるはずではないか。昼間さぼっていたら、寝ている間もさぼらないわけがない。

 だから、起きている昼間は何でも良いから賢明に勉強をしろ。アタマを使え。使って使って使いまくれ。そうすれば、夜中にだって、意識がとぎれている間にも脳味噌は独りでに勉強をしてくれるのである。アタマは飛躍的に良くなるであろう。

 で、経験的に私はそうである。今までそうとしか考えられないことがけっこうあった。

 ヒマなのか忙しいのかわからないが、ここんところ表計算ソフトで色々やっていた。扱うのが久しぶりだったから、試行錯誤も間違いも多かったが、いろいろ考えて結構アタマを使った。
 で、何だか、今、猛烈に勉強がしたいのである。もっと脳味噌を使いたいのである。(私って単純。笑)


養老先生を読んで疑問が解けたこと・その3

2006年01月17日 | 養老孟司
 小学生の時、炭水化物は唾液のアミラーゼによって麦芽糖に変わる、だから甘いんだ、消化に良いよう、よく噛んで食べよう、と習った。

 でも、唾液のアミラーゼだけで口の中のご飯の全部が麦芽糖に変わるわけでない。「でんぷん」のままだとどうなるんだと心配になった。(で、たぶん、小学校では膵液にもアミラーゼがあることをあまり習わなかったんじゃないかと思う。)そしたら、中学生になってからか、お腹に入ってからもアミラーゼが出て消化されると聞いて、何だか騙された気がした。でも、だったら、わざわざ口の中で唾液がアミラーゼを出さなくても良いんじゃないのかと思った。なぜそんなめんどーなことをするのだろうと、そのときからずーーーーーーっと疑問に思っていた。

 そしたら、養老先生の本に、炭水化物は高分子化合物だから、そのままではプラスチックのようなもので味がない。口に入ったとき、それが食物であることがわかるよう、味が出るように口の中で糖に変わるんだ、おいしくなければ食べないから、とかいうことが書いてあって、やっと長年の疑問が解けた。

 養老先生は、私が長年疑問に思っていたことに説得力のある答えを与えてくれる。
 だから、大好き。


「情緒」と「倫理」の共通点

2006年01月15日 | 教育
 藤原先生が「国家の品格」でも書いていることだが、人間としての賢さ、情緒は一代限りだと言う。
 養老先生は、倫理にマニュアルはない、そのときそのときで考えるべきことだ、みたいなことを書いてみえたと思う。(字句は違ってるかもしれない。)

 これって似てると思った。

(追記)
 人間としての本質的なもの、人間が人間であるための普遍を示唆するのではないか。

 私は人間のすることは、意味探索能力と作業能力の2つに大別できると考える。
 一般的な教育において教えられることの多くは「作業」である。読み書き算数から始まる知識と技能である。藤原先生が言っているように、知識や技能は蓄積する。(だから、藤原先生はたとえニュートンよりアタマが悪くてもニュートンが解けなかった問題が解けるのだ。)「作業」という語と「知識」と言う語のニュアンスがそぐわないかもしれないが、知識を集積する活動は作業と呼べるだろう。人間はたまたま多くの知識を獲得し所有しているが、「作業能力」そのものは、作業の内容そのものを問わなければ、いかなる動物も生きていく術として持っている能力である。
 他方の意味探索能力とは、おそらく人間だけが持ちうる能力であろう。で、私は、藤原先生の言う「情緒」も養老先生の言う「倫理」も、意味探索に関わる能力であり、人間が人間であるための一種の普遍であろうと思うのだ。「情緒」は文化的にさまざまあるかも知れない。同様に「倫理」もそのときそのときで判断が異なって来さえするだろう。しかし、「情緒」という捉え方、「倫理」という捉え方は間違いなく普遍であり、それこそ一代限りの、それこそ教育によってしか育まれることがないものだ。 
 
 今は家庭の教育力そのものが全般的に落ちているだろう。意味探索に関しても作業に関しても。(だから、親は学校に躾から塾代わりまでを要求する。)

 その上、学校で教えることは「作業」に収斂しつつある。勉強にしても入試に関わる細かい方法や知識を与えることが教育だと思われている。そこに至るまでの大切な「意味」は抜け落ちる。何のために勉強するかなんて、誰も問わないのだ。精々で「将来困るぞ」程度であろうが、これは全く「意味」になっていない。多くの人は「意味」を要求しない。「意味」を問わなくても、浅薄な意味しかなくても、生命体として生きていくことくらいはできるからである。

 教育が本質を離れる状況とはこういったところではないか。


養老先生を読んで疑問が解けたこと・その2

2006年01月15日 | 養老孟司
 さっきまで「超バカの壁」を読んでいた。
 そしたら、そこにも書いてあったから、思い出すことができた。(先日書いた「養老先生を読んで疑問が解けたこと」の内容は思い違いだったということがわかった。)

 子どもの頃、中学生になっていたかも知れないが、いろいろな労働や商品がそれぞれ金銭に換算されたり、生命保険でも賠償金でも命に値段が付いたりすることが不思議でしようがなかった。
 そのとき父親が、相場というものがあるんだ、などと教えてくれたのかも知れない。が、ふ~んとは思っただろうが、やはり腑に落ちなかった。大人になってもそういうものだ、とは理解した。しかし、給料を貰って、労働を商品に換算して買い物をしながら、やはりわからなかった。
 でも、養老先生を読んだら、お金はアタマの中の構造、神経細胞のシグナルを外に出したものだと書いてあった。それで、やっと、納得がいったのだ。たぶん、30年くらいかかっている。「わかる」道のりは長い。(笑)