考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

教科の誇り?

2009年03月31日 | 教育
 ある先生が、管理職から自分の教科を軽く見られた、と言って立腹していた。
 私は「進学校における英語」だから軽く見られることはない。それでも、たとえ「英語なんてどうでもよい教科だ」と言われたとしても、私だったら何とも思わない。英語が好きではないから、というより、自分自身、英語そのものを教えるために教員をやっているつもりがないからだ。

 今教えている生徒の英語のレベルから言えば、さすがに、私の方が遙かに上を行っている(だろう)。それでも、私は彼らに英語を教えている、という気がそんなにあるわけでない。点を取らせることそのものに関心がないせいでもあろう。もちろん、より良い読み方と書き方は、出来る限り教えたいと思っている。経験的に言って、それなりに学んでくれることはあると確信している。それなら、英語の読み方や書き方を教えているのではないかと言われそうだが、そうだと言明する気はない。
 「英語は明日から、もう、教える必要がなくなりました。」と言われて仕事がなくなったとしたら、仕事がなくなるのは困るが(喰うために教員になったのだから。)、英語そのものに対する誇りのようなものはないから、立腹することも悲しむこともないと思う。

 私が教えているのは、英語というより、授業を通した上での「何か」ではないかと思っている。英語は手段に過ぎない。
 その「何か」は、ふわっとした知的好奇心や探求心かもしれない。いや、畏れ多すぎる。知的好奇心の「タネ」みたいなものだろう。ただ、自分で残念に思うのは、これが具体的な方法で全くないということだ。具体性は、子供に重要である。恥ずかしい話だが、私は文献の調べ方や考察の仕方を知らない。だから、生徒に「そういうときにはこうすると良い」など彼らが実践できるように教えることが出来ない。(これは、実は胸が痛む。)

 英語という教科を教えているのは、私は理系でないし、国語は苦手だし、社会はもっと苦手だし、という理由で、消去法で残ったのが英語だっただけの話である。(英語で得意なのは、文構造の見分け方だけだから、てんで話にならない。)他の英語の先生に申し訳ないが、英語そのものに未練はない。(くどいけど、仕事としての未練はある。)

私は教員?

2009年03月31日 | 教育
 「本当は何になりたかった?」と聞かれた。子供の頃は漫画家だったが、作品が描けるわけでなかった。ある種の「口実」だったとも思わないでないが、美術史をやりたかったと答えた。でも、「親に喰っていけるか」と言われて、それで、「そういうのをする人は、家にそういった財産がゴマンとある人だ」と言われて、また才能もなさそうだったから、やめた。教員になったのは、親もやっていたからだ。親がやってるなら自分だって出来るのではないか、と思った。それで、教員になった。「でもしか」である。大量採用時代だったからなれた。
 問うた人自身「自分は『でもしか』だ」と言っていたが、かなり話のわかる人であり、かつ、実行力もある人だと思う。

 話は、途中で終わった。
 たぶん、私のことを教員っぽくないと思ったのだろう。
 学生時代は、これでも(?)「教員に向いている」としきりに言われた。「教員以外にはなれそうもない」という意味だったのかもしれない。きっと、そうだ。
 最近タマタマ話をした人からは、「学者だ」と言われた。たぶん、話が理屈っぽく抽象的なことが多く、ヒラのくせに、へーきで「これこれは、こういう理由で間違っている」などなんやかんやイマドキの教育についてあれこれ言ったからだろう。それで、その人も、私の言うことをもっともだ、と思ったのだろう。

 教員に向いているというか、「傾向」があるとしたら、「語りたがる」ことだろう。(笑)普通の人は、語らないものである。この職業についていると気が付きにくいが、「知っていること」を語るのは、知識をひけらかして偉そうに振る舞う、或いは、それによって、周りの人を侮蔑する行為だと取る人はけっこういるようだ。

 若い人に語るのが好きである。個人的に知っていようと、そうでない者であろうと、耳を傾けてくれる人に語るのが好きである。
 正しいことを言っているかどうかは知らない。聞いた者が、時間を掛けて判断すればいいと思っている。振り返っても、正しいことをいつも語っていたというわけでない。物理的にというか理論的に不可能だ、というレベルの問題ではない。(笑)
「こう思うんだけど。」
「ホントですかぁ?」
「いや、わからん。私が思ってるだけ。どう思う?」
と言う類の話の流れが好きである。大抵、ニタニタされて終わるだけだが。

 トシを取ったなぁと思うのは、高校生のときの私は、今の私をどう見るだろうかが気に掛かることだ。(そういえば、似たようなことを記事に1行書いたかも。)
 「彼女」は、どう思うだろう? 尊敬されたいわけではないが、友達になりたいと思われたら嬉しい。
 私に似た生徒は、今、私の回りにいるのかもしれないが、あまりいないような気もする。「雑談が好きだ」と言ってくれる生徒の存在は、けっこう嬉しかったりする。「彼女」も、私の雑談を気に入ってくれるだろうか。

情緒と論理は比較できる関係ではない

2009年03月30日 | 教育
 東浩紀氏だったと思うが、ある雑誌で、「情緒よりも論理の方が大事だ」みたいなことを言っていた。情緒は、藤原正彦氏の言う情緒である。国語教育のあり方としての言だが、東氏は情緒はシステマチックに教えられるものではないし、論理こそが、国語教育に必要なものだと言っていた。この考え方そのものが間違っているわけではない。正しいのである。しかし、正しいからこそ、東氏が、藤原氏の言う情緒と論理の関係を、誤解しているのがわかる。

 藤原氏が情緒を重視するのは、如何なる論理も情緒抜きに考えられないからだと思っているからだ(と思う)。天才数学者のラマヌジャンを生んだ南インドは、美しい寺院があるところだった。美の感性抜きに論理は育たないと藤原氏考えている。「情緒があって初めて論理が生まれる」という考え方である。
 ところが、(記事はインタビューだったような気もするから質問者の理解が関わるかもしれないが、)東氏は、情緒と論理を対立する(或いは、並列する)ものと考えているのがわかる。「情緒よりも論理」という比較は、情緒と論理が対立、或いは並列することであると捉えているから出来るのだ。猫とネズミを比べることは出来ても、猫と動物は比べられない。

 「論理」という観点で言うと、論は常にcontrastかsequenceかどちらかの流れを取る。(この2つの用語は、ある受験参考書の受け売りね。でも、高校時代、私は、ほぼ同様な考え方を自分で見出して英文を読み、文章の意味が取れなくても論の流れだけで点はそこそこ取っていた。)
 この観点で言うと、藤原氏は論理と情緒をsequenceと捉えている。しかるに東氏はcontrastと捉えている点が大きく違う。この違いは、言わば、順接と逆接の違いだから、実は、もの凄く、とてつもなく、大きい。試験だったら、絶対に点にならないほどの間違いである。

 しかし、こういった「誤解」や「誤読」は、実は日常的にしょっちゅう生じている。
 東氏はとってもアタマのいい人だろうが、それにあっても間違えたという好例?であろう。

 ついでに言うと、「論理」は常に前提を必要とする。ゆえに、如何なる前提で語るかが重要になる。人として人間として前提として良い前提を育むのが、おそらく情緒なのだろう。藤原氏が情緒を重視するのは、だからである。安っぽい感傷のような情緒を指していっているのではない。

気の毒なサイエンスライター

2009年03月30日 | 教育
 ある総合雑誌に、あるサイエンスライターが、教科書会社から国語の文章を書くように依頼された話を書いていた。しかし、結局、没になったらしい。原稿を送って現場の先生の要求を聞くと、とてもじゃないが依頼されたように書き換えられる事項でなかったとか何とか書いていた。で、これもコトバは多少違うと思うが、今の小学校の先生の脳の構造を疑った、というようなことを書いておられた。
 うん。小学校教員養成学部に生徒を送り込む者として、誠に申し訳ないが、気の毒だとしか言いようがない。
 と書くと、無責任だと言われそうだが、小学校教員を目指して進学する者が、そのサイエンスライターの書いた論理を理解できる力をそれ以降も発達させることができなかったレベルの能力(努力も含めて)の持ち主たちが多かったのだ。よくわかる。

 「文章読解」は、本当に難しい。私は現代国語が苦手だった。韻文・小説がよろしくない。評論はまあまあだったが、読み落としがある。それで、どんなに頑張っても、定期試験ですら最高が88点である。(よく覚えているなぁ。。。他の教科は覚えていないのに。)どんなに頑張っても、必ず、一つは決定的に間違えていた。悔しくて仕方がなかった。要は、読みきれていないのである。そのうえ、ケアレスミスがあるからどうしても90点に至らない。問題が余程の悪問でない限り、国語だからと言って、100点取れないことはないはずである。それでも、100点取る生徒は、まずいない。普通はこの事実を「当たり前」と取るが、事実は、読みと表現力を十分に体得して卒業をする人間はほとんどいない、と言うことだ。

 現役で入った大学で、本を読んでレポートを書かされたとき、果たして自分の書いていることで良いのだろうかと常に疑問に思っていた。何せ私の読解力は大したことがないことがわかっている。読み落としや曲解があるに違いない。そう思って中途半端なレポートを書いたのを覚えている。それでも良い成績が付いてきたから、他の人の読みが私より悪かったのだろう、成績なんていい加減なものだと思った。仮面浪人をして入った大学では、悪い成績しかつかなかった。みんな私よりよく出来たのである。(笑)

 何が言いたいのかというと、学生時代は、とにかく読解力は他者によって評価される。それで、自分の読解や表現が不十分であるということが自分でもわかる。ところが、いったん社会に出てしまうと、学生時代からの不十分な読解力のままに、「自分の読みが正しい」と思って人は振る舞う。上記のサイエンスライターを呆れさせた小学校の先生もそうだったのだと思う。

 どうしたらいいのか?
 どうしようもない。読解力は、基本的に学校でしか磨くことができない能力だと思うから。社会に出ると、「皆がそう読むから自分もそう読む」だろうし、読解力にしても、おそらく正規分布する能力であろうから、「正解」が多数決で決まることが多い一般社会では「誤った読み方」が是とされることになりかねない。
 だから、どうしようもないのである。

生徒は「生徒力」をつけよ

2009年03月29日 | 教育
 教員に教師としての力量が必要だとしたら、生徒にだって生徒としての力が必要であろう。親に対する子としての力量もあろう。言葉で表そうとすると、なかなか伝わらない気もするが、いわば、「生徒力」とでも呼べば最もわかりやすいだろうか。

 「生徒力」とは、例えば、叱られるときには、叱られ方がある、とよく言う(と思うけど)。ようなものだろう。ただただ神妙に、怒って叱っている人の気をいかに素早く収めかではない。自分の非を自分自身で戒める力を養うのが「上手な叱られ方」であろう。自分を向上させるための叱られ方ということである。「自分で自分を成長させる力量」である。

 で、このようなことを言うと、必ずや「大人が叱り上手になる方が先だ」とおっしゃる方がおられよう。イマドキの考え方として実にもっともで正しい。しかし、上手な叱り手からでないとうまく叱られることができない子供や生徒と、いかなる叱り手からであろうとうまく叱られる能力を持ち合わせた生徒と比べると、どちらがより成長できるか。

 学校の先生でも親でも良いが、自分のことを棚に上げて叱る。子供は「お父さんだって、やっているじゃないか」「先生のクセに、あんなことしていて。」---どれも、もっともな言と捉えられよう。

 親の場合、自分のことを棚に上げて叱ると非難されることが多い。既に子供を産み育てている、という「再生産」が出来ているからには、それ以上を望む必要がさほどないと考えられるからだ。←ちょっとややこしいから詳しく言うと、「教育」が必要なのは、人間が生き物として、つまりは、親の方が先に死んでも子孫が生き残るという「再生産」のためだから、「既に子供がいる」と言う時点で、親は既に生物として最も重要な仕事を果たし終えているのである。(生物の意義は、存在すること、存在し続けること、そのために子孫を残すことである。だから、サナダムシだっけ?の身体は、ほとんど生殖器官だけらしい。回りに消化する必要がない栄養があるから、生きるためのエネルギーを取り込む消化器官ですら必要がない。要るのは再生産のための生殖器だけだと言うことだ。)既に子がいる親の場合、「子を持つ」という生物としての最大の任務を果たした能力の持ち主として、自分の子供に自分が持つ能力以上の能力を望む必要がないのである。これは、実に自然の摂理に適った論理である。
 (ここでちょっと一部の読者のために補足して言うと、いくら人間といえど、他の動物と同様の感覚や感性は、いまだに残っていると私は考える。割に最近、NHKスペシャルで「男と女」とか言うのをやっていたが、恋が3年で冷めるのは、子供がそこそこ大きくなるまでは男の協力が必要だが、それ以降は、次の子供の遺伝的多様性を高めるために違う男の子供を望むからだとか言う話だった。(まあ、男の方だって同様に遺伝的多様性を求めるのであろう。)で、自説(もちろん仮説)だが、現代人にあっても、わざわざ詰め襟を開いてラクに着るようにした背広にあって首が苦しくなるネクタイを締めたり、アクセサリーで飾ったり、また、襟元がはだけているのをだらしなく感じるのは、太古、肉食動物に襲われたサバンナの記憶ゆえに首を守ろうとする本能が未だに残っていると私は思っている。先日、ある生徒に言ったらウケた。)

 ところが、学校の先生でも赤の他人でもの場合にこの論理は当てはまらない。だって、目の前にいる子供は、自分の血を分けた子ではないからである。ただ、同じ社会環境に生きる存在として、つまり、社会システム(人為、自然のいずれであっても)の維持は、重要である。そのお陰で自分が生きてこれた環境システムを持続させるなりなんなりできる「子孫」を育て上げる必要があるからだ。それで、そのためにはさまざまな能力が要求されるだろう。「学校」などは、社会環境などのシステム維持(発展もあるかな?)を目的とするものの典型だから、先生は自分のことを棚に上げて生徒を叱る、と言うことはあり得るのだ。自分と同じ能力者の集団で、そのシステムの構築、維持は多くの場合、不可能だからだ。
 具体的に言うと、もしも自分より能力の高い生徒が多々存在しているのであるなら、生徒のなす事が自分と同程度の出来であってはいけないのである。生徒の仕業は先生である自分の上をいかなければならないのは当たり前の話だ。それで、そんなときに、生徒は「けっ。この先生はオレより能力が低いバカだ」という反応をしてはいけないのである。先生が生徒よりバカであるのは当然の事実だからである。先生の方も「おお、この生徒たちは素晴らしい」と讃辞を送ってはいけないのである。生徒が自分より素晴らしいのは当たり前だからである。先生は、生徒に、「より高い要求」をしなければならない。生徒は、先生が出来ないことも出来なければならないのである。で、この論理を理解しない人は、良い学校の先生になりたがらない。生徒より教師である自分の方が上である、という立場でないと教えられないと考える人は、自分より能力の高い生徒を教えることはできない。(この点、私なんて、凄いぞ。自分より、アタマの良い生徒だって、教えちゃうのだから。ときどき、ごめんね、とは思うけど。まあ、平均レベルは自分より下かもしれないと思うから出来るのかもしれないが。)

 一般社会において「非の打ち所のない人」はいない。他人の能力と自分の能力はレベルも内容も異なる。だから、人間は社会を作って生きている。これは、「オトナ」は、「コドモ」に、「たとえ自分にできないことであっても、子供には要求しなければならないことがある」に繋がる。
 これがわかる大人と子供の社会集団と、わからない社会集団とで、将来に大きな違いが出てこようというものだ。

 言いたいのは、「大人(教師)はどうすべきか」ばかり論じられている今の状況は片手落ちだということだ。「教師がどうすべきか」は、もう十二分の言があるのだから、次に必要なのは、「生徒はどうあるべきか」しかないだろう。

 この観点でいうと、教育問題のすべては、大人が子供や生徒を育てていく際に、「子供はどうあるべきか」「生徒はどうあるべきか」という言わば「子供力」や「生徒力」を育成してこなかったことに起因しよう。

 と、言っても、それでもやはり、「子供の方が弱い立場にいるなだから、それはやはり大人の問題であって、子供の問題ではない。」とおっしゃるだろう。この考えは、一部正しいものの、それでもやはり、「悪い環境で育ったのだから、悪く育ってもしかたがない。(子供の僕は悪くない。)」「授業がわからないのは、先生の授業が悪いからだ。(生徒の僕は悪くない。)」を許すことになり、子供がより良い方向に、より大きな方向に成長するのを阻むのである。
 言い換えると、子供も前で「それを言っちゃぁお終めぇよ。」ということである。

 大人には大人の領分があり、それは子供に与りしれないものなのである。だから、子供は学ぶのである。しかるに、子供のことを十分に考え、とても親切で優しく見えたとしても、子供が学ぶことそのものが意外にないがしろにされているのが今の状況なのだ。子供の要求に応え、懇切丁寧にするばかりが子供を大事にすることではない。「子供が喜ぶから」と言って欲しがるものを買って与えたり、あらゆる要求に応えてやること(←いずれ無理が出る。)が子供を成長させるわけではないといえばわかりやすいだろう。

 欠乏状態のないあまりに十分な環境では子供は成長ができないのである。ヒトが、人間として成長をしなくても生きていける時代になったのだ。「子供」であっても再生産ができる時代になったということになろうが(内田先生も書いてたっけ。)、それでも、「子供」の作る子供社会と、「大人」が作る社会とで、どちらが過ごしやすいか。
 考え方によっては、すでに我々は、言わば「教育」が不要な時代にいるということかもしれない。もちろん、ここで言う「教育」とは、象徴的な意味でのことだ。世の中にものが溢れている時代、それこそ養老先生が浮浪者が糖尿病になるほどだとか何とか言って、真意を取り損ねた人たちの顰蹙(と怒り?)を買ったような意味合いである。自分とほとんど関わり合いのない他人が捨てたゴミの山を漁っても「とりあえずは喰っていける」時代と言うことだ。(それで、十数年生き残れば「再生産」だって可能になる時代なのだ。)これを可能にした豊かなエネルギーがいつまで存在するのかわからない。次世代が今の時代を当たり前のものとして育ち、今後どんな社会をつくるのは、全くの未知数で、わかったものでないが、「先のことはわからない」は、人間のもののの見方考え方ではないだろう。(農業ですら、先のことをわかって(=予測して)するものである。)

 社会を豊かにするのは、私は、どんな状況であっても「子供力」と「生徒力」を持って子供たちが自らを成長させるつもりで、具体的には「私たちには足りないものがある。それを身に付けなければならない」と思って育つことだと思う。それで、人間であるからには、過去から連綿と受け継がれてきた叡智を子供たちもまた受け継ぎ、更に次の世代へと受け渡せるようになることが、「それを身に付ける」ことなのである。

挨拶をしなくなるワケ

2009年03月28日 | 教育
 ある学校では、廊下で生徒が先生と行き交うとき、知っている先生にも知らない先生にも、口々「おはようございます」「こんにちは」と挨拶をしていたという。ところが、だんだん挨拶をしなくなってきたと言う。
 
 ↑この話を聞いて、生徒が挨拶をしなくなった理由がすぐにわかった。たぶん、合っていると思う。
 先生が生徒からの挨拶を返さないのである。間違いがないと思う。

 かつて、私は(あ、過去記事にあるな。)ある学校に転任したばかりの頃、朝の通勤時、職員玄関に行く途中で生徒に「おはよう」と声を掛けたら、一緒に歩いていた私よりずっと年上の同僚に「部活で知っている子?」と尋ねられ、言葉につまったことがあった。ある生徒が言っていた。「この学校の先生、挨拶をしても返事しない先生が多いから変だ。」
 その状況に陥りつつあるのだろう。

みんなどうしてあんなに素直なのだろう

2009年03月27日 | 教育
と思う。
 ここでの「みんな」とは、教員である。

 私は両親ともに教員でした。(もう、さすがに退職してますので。)それで、二人とも、地方公共団体では文部省の「手下」の仕事をしたことがあるので、それがいかなるものであるは、かなりわかる方だと思っています。
 学習指導要領はころころと変わりますが、基本的に、多くの皆さん(教員その他)と同様に、極めて従順な反応を示していました。「今度からこれこれは、このように教えるんだ」とか。まあ、教える「基準」が変わることに、何の疑問も感じてなかったように思います。私は小学生~中高生(タイムラグがあったので。)でしたがとても不思議に感じていました。(だから、以来ずっと覚えているのだと思いますが。)
 まあ、↑とは関係ないですが、両親以外でも、「研究指定校」ともなると、大変だ、それなりにちゃんとした発表をしないといけない、と頑張る先生を知っていました。それで、そう言う先生は多かった(多い?)です。「発表するからには、それなりの内容にしなければならない」と。私が子供心に不思議に思ったのは、3年とかそういった期間の研究指定が終わるとどうなるの?と親に尋ねると、(もちろん、それによって変化するものが全くないわけではないでしょうが、)つまり、何かを研究することで、以後の学校の教育体系がどのように変化するのか、進歩するのかという意味を問うたわけですが(小学生だったので、こんな言葉は使えませんが。)、「発表が終わればそれで良いんだ」みたいな返事が返ってきたことがあって、とても変だと訝しく思いました。だって、当時でも今でもの私の常識では、何かをやったからには、「それ」が「それ」としての纏めを持って完了しただけだけではいけないからです。見える成果であったとしても見えない成果であったとしても、「何か」が継続することに物事を行う意味があると考えていたからです。自分が教員になって、私自身がそういった「研究指定校」に勤務したことはないのですが、(制度上か、タマタマなのかわからないけれど。)教育って、指定されてするものなのかなぁという思いは大きいです。

 私は英語を教えているわけですが、じゃあ、英語とはどういうものなのか、生徒が英語を学ぶことにどんな意味が見いだせるのか、英語ができるとはどういうことなのかを絶えず問うている(って、ほどでもないけど。)気もしています。だって、英語を教えるために考えるべきことはそれしかないと思うから。
 それをいちいち4技能とか、スピーキングがどうのとか、もう、なぜそんなに分けて考えるのかが不思議でしようがない。論理的思考がないことに、スピーチも出来ないだろう、とすぐに思ってしまう。論理的思考を得るには、きちんとしたreadingが重要です。リスニングだけで論理の勉強は不可能でしょう。readingなしのスピーチはあり得ないのです。アメリカの大統領にしても「スピーチライター」がいます。スピーチなのに、スピーカーが最初から存在するわけでなく、「ライター」の方が前に存在しているわけです。その後で、スピーチ指導の役者さんなどがあって、それでようやく「スピーチ」ができるのです。英語を母語とするネイティブですらそうなのです。
 脚本家は「聞く」「話す」の内容なのに、「書く」で仕事をしています。同時通訳の西山千さんは、「話すのは、瞬間的に英文和訳(和文英訳?)をする」とかおっしゃっていたと聞いたことがあります。(もちろん、後年。)私がしゃべれないのは、表現を知らないからです。作文が出来ないからです。聞けないのは、ほとんどが語彙不足です。
 この状況は生徒も同じだと思います。まれに、「読めばわかるけど、聞くとわからない」と言う生徒もいますが、まあ、これは、練習不足でしょう。(こういう生徒は、発せられる語句の全てを聞き取るつもりで聞いていたりすることが多いようです。)いったんコツを身に付けると、語彙力のない生徒より、はるかにずっと聞き取れるでしょう。記憶違いの可能性大ですが、大昔、ロンドンで、留学しようとしていた日本人が下宿屋のおばさんに「あんたも3日で英語が話せるようになるよ。前に来た日本人はそうだった」とか言われたそうな。前に来た日本人は、夏目漱石だったとか何とか。
 「聞く」指導がコツを身に付けさせることだったとしても、実態としては、語彙不足で聞くことが出来ないことが多い。初見で読んでわからない状態だから、聞いてもわからない。質問によっては、強く読まれた語彙だけ聞き取れば出来る問題もあります。そういうのは、簡単だと、意外に日頃英語が苦手な生徒も良くできます。でも、ちょっと込みいった話になると、ダメみたい。

 私は、学習指導要領を読むより、教室にいて生徒をしっかりと見て、自分で感じて考える方が、自分が何を教えたらよいのかが、ずいぶんいろいろわかると思っています。

「望ましい教師の資質」について

2009年03月26日 | 教育
 「学校教育を考える」にある「望ましい教師の資質」について自分に当てはめてみました。

>1 明るい人
   その人の笑顔で周囲が明るくなるような人がよい。
   ユーモアを解するというのも大切な資質。

う~ん。。今は少なくとも生徒からは、「元気」「パワフル」と思われています。
ユーモアはわかる方だろうなぁ。

>2 まじめな人
   まじめであることは大切。不器用でもまじめな人がよい。

基本的には真面目で、不器用です。でも、ときどき不真面目です。プリントを作ることが仕事だと思わなかったりとか、いろんなことで、そんなことどうでも良いじゃないかと思ったり、とか。
でも、ノート点検もしないからなぁ。。どうだろう? 高校生にもなって、という思いが強くて、せいぜいで、机間巡視のときに注意するくらい。

>3 誠実な人
   とにかく素朴でまっすぐでうそをつかない人がよい。

素朴さはあると思いますが、ときどき嘘をつきます。

>4 人の弱さと悲しみの分かる人
   強きをくじき,弱きを助ける人がよい。
   他人の悲しみを共に泣ける人がよい。

どちらかというと「強きをくじく」性格です。(笑)
弱きや悲しみはね、生徒には、内容によってはしばしば逆に叱咤激励してしまうからなぁ。。まあ、「共に泣く」のは、共通基盤がどこかによって異なってしまうのと同一の弱点ですね。

>5 お金や権力に魅力を感じない人
   お金や権力に拒否感を持っている人がよい。

給料は、ください。(喰っていくために先生になりました。)
権力は、持つ器量がないから要らない。
しかし、回りを見渡すと、権力を欲しがる人と資質はなかなか相容れないようですねぇ。何人いたかなぁ。。

>6 妙なプライドをもたない人
   あの人はプライドが高いと言われないような人がよい。

経験的に言って、この手の評価は、人(或いは状況)によってもの凄く、ホントに、もの凄く異なるようです。
「プライドが高い」と言う人と、私に対する褒め言葉の後で「それなのに気さく」と、たぶん、真っ二つ。(まあ、理由は、ものすごーくよくわかるのだけど。。。)

>7 他人の欠点を非難しない人
   他人の欠点は自分の欠点でもあることが分かる人がよい。

議論の際の前提がコロコロ変わるような人と迎合的な人については非難してしまいます。
でも、近頃、他人の欠点を、多少は自分の欠点としてみることが出来るようになりました。ちょっと成長。

>8 筋の通っている人
   状況によって態度が変らない人がよい。

通っていたいと思うけど、ときどきくじけるときがあります。後で後悔します。

>9 勉強の好きな人
   勉強が好きでなければ教える資格はない。

基本的に好きだと思います。検証のは好きじゃないけど、仮説を立てるのは大好きです。(笑)
ホントは、英語はあまり好きではありませんが、けっこう楽しそうに教えてるようで、生徒から「先生って、英語が好きなんだね」と誤解されることがあるから「資格」は一応あると思います。

>10 陰徳を積むことの出来る人
   人知れず,善行を行うことの出来る人がよい。

これ、「はい」と言うと、陰徳になりませんね。(笑)
「いいえ」と言うと、どうなるのかなぁ?・・というほど行っていません。
日の当たるところでの徳も積んでないですねぇ。

>11 敏感さと鈍感さが同居している人
   変化を敏感に察知でき,かつ鈍感になれる人がよい。

これ、大事ですよね。「鈍感になれる」というのが難しい。
私の場合、(内容によるのですが)こっちが察知したことを気が付かれて、それ故に付け込まれて窮地に陥ったことがよくありました。

まあ、でも、「資質」は、やっていくうちに作られるものだとも思ったりします。
私は小学校の先生には向いていません。自分でわかっていたから、高校の先生になりました。ただ、イマドキは高校生でも小学生みたいな感覚だったりするようですね。