考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

年表を作った

2011年02月26日 | 教育
 世界史の教科書を借りて、自分で年表を作ってみた。
 8ページ分?ほどの分量である。重商主義のあたりで、縦線でスペイン」、イギリス、フランス、ロシア、ポーランド、インドと、教科書に出てきた順に、区切っていった。最初、横線で、最初100年のつもりで区切った線は、書いていくうちに、50年分しか書けなくなった。
 教科書に書いてあることは、すべて書き込んだ。すると、当時の王様と商工業者などの対立?構造が見えた。イギリスではいろいろあったのに、フランスはルイ14世が頑張って?ヴェルサイユ宮殿を作ったり、王の権威を誇示して、まあ、それはそれとして秩序が保たれていたように見えた。イギリスは、革命の時期だからぐちゃぐちゃになったが、フランスはスカスカである。
 特別に何を考えてしたわけではない。年号を適宜書き込み、誰が何をしたかをくちゃくちゃ書き込んだだけである。そしたら、17世紀初頭にジェントリが台頭してきた、と言う記述があって、後の方で、クロムウェルがジェントリ出身なんてことが書いてあったから、ふむふむ、つながったから面白いなと思った。イギリスがなぜ二大政党なのかも、この頃による。

 40分ほどかかったが、いろいろわかった気がした。
 でも、記憶力が悪いから、すぐに忘れた。(笑)
 生徒は、なぜ、自分で年表を作らないのだろう? 問題集はやっても、年表は作らない。
 勉強の仕方として、反対だろうと思う。資料集に年表はあるが、自分で作るのと、ただ見るのとでは理解の度合いが異なる。
 なぜ、正しい勉強の方法を採らないのか、不可思議でしようがない。

思考の自由は体系化にある

2011年02月24日 | 教育
 今の子供たちを見ていてかわいそうだと思うのは、勉強をするときに、ものごとを体系化して見ることを全くと言って良いほど、教えられていないことだ。
 体系は、既設のものとしてしか与えられない。たとえ既存のものであっても、自らの中に再構築しないと、自分のものとして使うことができない。この経験が、おそらく小学校、中学高校と、ないがしろにされている。だから、知識も身につかない。
 世界地図の白地図を書くことも、社会の年表を作ることも、あるいは、英語の文法であっても、数学であっても、単なる、「問題を解く」という形態でしか学ばれていない悲しい現実である。問題を解く前になすべきことはたくさんあるが、そんなことをやっていると、時間がかかるから、無駄だと思われて教えられていない。これがどれだけ子供たちの心をむしばんでいるか、わかる人はほとんどいないのではないかと思う。
 「そんなことができるのは、少数の生徒だけだ」「レベルが高い」「受験に間に合わない」など、否定する言説は多いと思う。それで、そのような局面でしか見なかったら、それは、事実、そのとおり、直にできるのは、少数だろうし、レベルが高いということではあろう。受験に役に立たないだろう。しかし、そんな小手先の方策は、あまりにも人間の自然な思考、知的能力を軽んじていると思う。
 今の子供たちがかわいそうなのは、小さいときから、人間は、ほんらい、体系的にものごとをとらえる、抽象化してものごとをとらえる、ということを全く教えられずにいることなのだ。これが、どれだけ、彼らの自由を奪い、知的能力を損ない、あまりにももろすぎる卵にしているかと言う事実に気がつく人は、ほとんどいないと思っている。
 もろい卵を押しつぶそうとしているのは、卵はもろいから手厚く保護し、いたわってやらなければならない、難しいことをさせてはいけない、わかりやすくなければならない、やる気にさせてやらなければならない、面白い方がいい、わからないのはかわいそうだ、つまりは、「決して孵化させてはならない」とでもしている世の中の心ある人たちだと私は思っている。

知識は投入すれば身につくわけでない

2011年02月22日 | 教育
 知識は、教え込めば、子供の身につくと思っている人が多いけれど、もし、ちょっとだけの直感を持つ現場の人間なら、今の子供たちの知識の習得が、自分たちのものと全く異質になっていることに気がつくだろう。
 はっきり言って、気がつかない人は、鈍い。
 今までのやり方で勉強をさせても、ほとんど身につかない。
 不幸なのは、比較的、身につけやすい生徒と、決して身につかない生徒と二極化が進んでいると見るべきことだ。能力の高低ではない。身につけやすい生徒は、能力が多少劣っていても、就職できるだろうけれど、そうでない者は就職できないと思う。
 ま、端的に言って、非常に多くの場合、教育産業に従事する人間の言うことを鵜呑みにすると、馬鹿を見る。

単語・表現は全部覚えろ

2011年02月22日 | 教育
 英語ができるようになりたかったら、教科書に出てきた表現を全部覚えることである。
 「18世紀に云々」と言う作文で、「in eighteen centuries」はないだろ。1年生の教科書に出ている。「18世紀に」とは、「18番目の世紀に」である。よって、in the eighteenth century である。丸暗記ではない。すべてを理解して覚えるのである。無作為の18の世紀とは、いかなる意味か。
 recentlyは、過去形、現在完了形で用いる。現在形では用いない。これも、1年生で出てくる表現である。
 1年生は、徹底的に精読をして、徹底的に語法を覚えて、英語の感覚を作る。2年生は多読速読。どんどん読んで英語になれる。語彙を増やす。3年は、3年。精読なくして速読多読をしても、正しい英語は身に付くまい。最後にものを言うのは、「間違わない」という意味での理解に至るのは、精読の力である。

年表を作ろう

2011年02月21日 | 教育
 私にとって、歴史の勉強は年表作りから始まった。教科書を読んで、巻物のような年表を作る。時代がどんどん下がってくると、年表がどんどん長くなる。使い差しのノートの残ったページを切り離して、試験範囲が進むごとに糊で貼って伸ばしていった。長くなっていくと、結構嬉しかった。中学生の頃か。
 世界史になると、もっと、ややこしくなった。でも、必ず作った。政治、経済、文化のすべてを1枚に納める。教科書では、ずいぶんページが離れたところに載っていることが同時代だとわかる。すると、経済と文化がうまくリンクしているのが、実感的にわかったりした。インドとヨーロッパがつながったり、ヨーロッパ諸国がいろいろつながったり離れたり。ふむふむ。
 社会の先生に、生徒のときに年表を作って勉強をしたのかどうかと聞いたら、作ったことがない、とおっしゃった。
 勉強に対する考え方が、根本的に違ってもしようがないかなと思った。穴埋めはどうだかわからないが(私はとにかく記憶力が悪い。)、記述だったら、私の方がきっとよくできていたんじゃないかと思う。

 受験間近の生徒が質問に来た。かなりわかりにくい文で、その文だけ読んだのでは訳しようがない気がした。文脈で読むと、わかる。「文」としての解読の仕方には、その基本的事項がある。文脈、というか、「文章」を読むには、文章の読み方の「基本」がある。同じ「基本」と言っても、画一的に行くわけではない。だけど、やはり「基本が大事」なのである。良問、良い文章は「必ずそうならなければならない必然性」に依っている。その基準に則った考え方が「基本」である。試験頻出が「基本」ではない。

学校に「個性」が入り込んできた理由と人口増加の関係

2011年02月19日 | 教育
 昨年に「システムと個人」というのを書いている。学校がいかに狡猾なシステムか、という内容だ。(そういえば、この内容は、内田先生が、教育とは、共同体を形成する大人のためののものだ、と、根幹で重複している。)もともと、学校というところには、「個性」が入り込みやすいところだったということも書いた。
 今回は、もう少し、広く、学校に個性が入り込んできた理由を書く。(単純な内容です。)

 システムは、完成度が高いほど、その中に存在する「個」の特性を抹殺する。どんな分子が入り込もうと、システムは何事もないかのように回り続ける。村上春樹がイスラエルで行ったスピーチで、強固な壁、壊れやすい卵と表現した理由も同じだと思う。我々は、すべてが「こわれやすい卵」である。だから、卵に寄り添ってくれるものは善であるととみなされる。だって、私たちの「味方」なんだもの。対する、「システム」は悪者である。だって、私たちの存在を認めてくれないのだから。誰も彼をも、十把一絡げの扱いをするのだから。
 しかし、こうした事実、システムは我々を大事にしない事実を個が知ると、個は、システムに反発する。もっと、自分たちの個性それぞれを生かしたいと思うようになる。だって、そのシステム内では、自分はいてもいなくても同じだなんて、アイデンティティに関わる甚大な問題だから。そういうわけで、「個」は、「もっと、自由を」と叫ぶ。
 今の学校で、総合学習などの教科で、教員が、独自の取り組みで授業を展開するシステムは、この現れではないかと思う。教科書の検定制度に対する疑義も同じだと思う。教科書が自由であれば、好きなように教えることができる。
 少々断りたいが、私が語ろうとしているのは、政治的な個別の問題ではない。検定制度について書くと、何らかのご意見をいただきそうだが、私は、我々人間が行ったり考えたりする、根幹に位置するものについて述べようとしているのである。ま、「なんで、ウチは父ちゃんの言うことばっかりが通るんだよぉ。おれだって、おれのしたいことがあるのにさ。かあちゃんだって、そうだろ。」という家庭内の父ちゃんの横暴さに通じる、と言っているだけの話である。ついでに言うと、イマドキ、こんな家庭は存在し得ない。「家族」という制度的に強靱なシステムなくなってきたのである。独裁国家や専制君主より、民主政治の方が良しとされるのも同様である。そうした根源的なレベルでの話である。
 学校制度が確立し、安定してきたから、中にいる先生たちは、自分たちの能力や個性を生かしたくなった。どんな学校にも、「もっと自由に自分の教えたいように子供たちを教えたい」と思っている先生が何人かいるはずだ。必ず、いる。「なんで、訳のわからないことばかり言う父ちゃんのいうことばっかり通るんだよ。おれだってさぁ。」と同じである。この考え方において、「父ちゃん」の有能、無能は関係がない。「おれ」の実質的な有能、無能も関係がない。ただ、「おれ」は、自分自身で、「自分が意義ある存在であるということ」と「決して父ちゃんに負けない能力等を有している」と思っているのは事実であろう。もっと自分がよいと思う内容と教え方で教えたい、というのも同じである。繰り返し言うが、「父ちゃん」の有能、無能とは関係がない。おそらく、人間とは、そんな風に思考する存在である、ということだ。だから、歴史を振り返ると、大きな流れとしてとらえられるのは、個としての存在は、時代が下がるにつれて存在の意義を主張し始めたことである。ところが、先史時代、古代においては、逆に強大なシステムの構築が求められた。「動物」として、きわめて弱い存在である人間が、この地球上で繁栄する、人口を増やすための方策だったのだろう。四大文明や日本でも、縄文弥生の頃には、「王様」たちが頑張って、国家というシステム作りに精を出していた。
 しかし、おそらく、人間は、繁茂しすぎたのかもしれない。そろそろ、「システムは、もう、要らない。」と思い始めた。この意味で、内部崩壊である。総合学習などにしても、まあ、システムを存続させる側の人間ですら、システムは要らない、と内心思ったのだろう。アポトーシス?みたなんじゃないのかな。
 
 でも、最大の問題は、人間は、共同体抜きに生きていけない存在である、ということだ。
 今は、そんな模索の時代なのだろう。
 しかし、日本の場合、人口が減るとこうした問題はなくなる。日本の国土が物理的に養える人間の限度がどれくらいかにかかっているだろう。
 人間は、生き物としての物理的な存在であることが基本なのだ。みんなそういうことを忘れている。

テンプレートが映らない

2011年02月17日 | 教育
 どういうわけだか、先日から、テンプレートやそこまるのまるちゃんのお顔が画面に映らない。
 さみしい。

 関係ないけれど、内田先生のバリでの話、「おねいさま」たちの「ガールズトーク」であるが、私がイメージする女の人たちの話とえらく違う。私が知るのは、多くは、共通の知人の噂話である。誰それはこの間、これしてあれして、こうなった、などである。これが延々と続く。本人だけでなく、息子さんがどうのとか、まあ、そんな話。「情報交換」である。テラスから眺めるお金持ちの奥さんたちの不機嫌そうな顔、など「有名人でもなく、直接自分が知らない人」のことは話題に上らない。
 私は、どっちかというと、というか、決定的になぜ奥さんたちは不機嫌なのかの方が、断然、興味深く思う。


国語も数学も英語も理科も社会も皆同じ

2011年02月11日 | 教育
 何を勉強したら数学が出来るようになるかとか、英語が出来るようになるかとか、社会はどうだとか、教科別の学習法に関心を持つ人は多い。これとこれを覚えると良い、この例題は必須だ、この表現を覚える、解法を覚える、身につける、と言った具体的な勉強こそが勉強だと思われている。学校の授業も基本的にはこうした事項を教えることになっている。
 でも、本当のところは違う。
 ひらがなを覚えるにしても、ひらがなそのものを覚えるのではなく、線の長さの割合や、くっついているか離れているか、クロスしているかいないかなどの個別の認知があって初めて、ひらがなだってなんだって理解できる。でないと、どんなに叱られようが、練習を繰り返そうと、習得は出来ない。
 今の子供たちの勉強を見ていると、それこそ、勉強をしてもセンター試験で平均点が取れないような生徒は、何かしら、そうした認知のレベルからやり直した方が良い者がかなりいると思っている。中学までの勉強では元々のアタマは良いから、「知識」として何であってもかなりのことを習得してそれなりの良い高校に入学してくる。しかし、根本的な理解という側面では、かなり、根底的なレベルでの誤解というか認識のずれがあるように思われてならない。
 勉強が出来る生徒は、数学も出来れば国語も英語も何でもできる。なぜ出来るかを問えば、根本的な理解が深いからだとしか言いようがない。もちろん、言語的な理解と数学的な理解は異なる性質を持つ。国語は出来ても数学はからきしダメ、と言う生徒がいるのも事実である。しかし、よく物理の先生が言っていたりするが、国語が出来ない生徒は、結局物理も出来ない。なぜなら、日本語の文章で書かれた問題文が理解できないからである。現代文が出来る生徒は伸びる、とも言う。言語能力が思考力の根幹を作る。国語は出来ても数学がダメだという生徒は、同じ国語であっても、論理的思考を要求されれば国語だってできない。数学の偏差値が30で、国語だけ80あるとか、逆は通常あり得ない。国語が55で数学が70程度の差はある。だったら、55と70の差を知ろうとするより、30と80の差が何であるかをつかむ方が、理解の本質が何であるかよくわかるということだ。
 アルファベットやひらがなカタカナの字形のとらえ方、モノを正しく数える簡単な計算の仕方、平面や空間の把握といった、幼稚園や小学生レベルのことであっても、すでに理解のほどは異なる。だったら、そこから鍛え直すのが最善の方法なのである。内容は、今学習しているかなり高等な事項を通してて構わない。しかし、そうした根本から徹底することが、思考の根源から揺さぶることになり、子供の(大人でも)学習の基本をたたき上げることになるのだ。

 学校の勉強ができるという、知的レベルの根幹を何が作り上げているかに特別なことは何もない。私が本当に理解しがたいのは、こうした基本を抜きにして、最初から、知識を習得させようとしたり、方法だけを教え込もうとしたりする教授法である。教えている人たちは、全くわかってないのだと思う。知識や方法は目に見える。だから、とらわれる。わかったような顔をして、全くわかっていないのである。

 本当に子供たちがかわいそうである。そんなんじゃ、できるようにならないよ、と思われる勉強法が世に中にあふれている。「そんなこと、見ればわかるじゃないか。」「パソコンでまとめた方がきれいだ。」「筆順なんてどうだって、いい。文字は区別が出来ればいいのだ。」「ネイティブだって、いい加減だよ」「試験はマークだから綴りは覚えなくてもいい」「計算は結果が大事だから、電卓で良い。」「手計算だと時間がかかって、肝心なことが出来なくなる」「本文を写すのは無駄だ。コピーの方がきれいだし能率的だ」「試験に出ることが出来ればいいのだから」
 誤った勉強方法を押しつけられている子供たちが、本当にかわいそうである。それで、そんな過ちに毒された子供たちは、正しい勉強の方法を指摘されても、少数派の勉強であるゆえ、それが正しい方法だとわからないのである。だから、食いついてこない。

 誤った勉強方法は、ちょうど、誤った勉強方法で高校までの勉強が何とかなった生徒がいるように、それぞれの知的レベル応じて、あるレベルまでは非常に効率的に行くから麻薬になる。大学受験だって、もともとの知的レベルが高ければ、どこの大学へでも行けるだろう。だから、人は止めない。誰がどの程度のレベルかは、最初からわからない。隣の友人が、うまいことやっているのを見たら、自分もまねしたくなるものだろう。しかし、いずれ、必ず、天井にぶつかって、いったんぶつかったら、同じ方法では決して乗り越えられない。応用が利かないのである。そんなときの言が「学校の勉強は役に立たない」である。しかし、もともとから、きちんと勉強をしておけば、天井にぶつかっても、ぶつかり方が違う。ごちゃごちゃやっていると、何かしら、抜け出る方法が見つかるようなぶつかり方になるのである。これができなければ、あやまった勉強方法で来た人は、どこかで、必ず、最初からやりなさなければならない。それでまた、「学校の勉強は役に立たない。」と言う。そんなのは、自分の勉強方法が間違っていたせいなのである。
 でも、こうしたことは、最初からきちんと勉強をした人でないと、決して気がつかない。私が見るに、最初からきちんと勉強をする重要性を知る人は少ない。子供たちが本当にかわいそうである。

問題を解くスピード

2011年02月10日 | 教育
 試験のときは、時間内に問題を解かなければならない。時間をかければ出来る、ではいけないわけで、なかなか悩ましい。
 私は、高校生の頃でも、問題を解くのはそうとう速かった。まあ、昔だからだろうけれど、定期試験は20分くらいで大方できて、あとはひたすら見直しをしていた。テストで時間内に解けなかったのは、高2の時の数学の模試で、数列の問題が出来なかった時くらいではないかと思う。今でも覚えているがあのときは焦った。本当にわからなかった。でも、それ以外は、よほど難しい試験の場合は時間ぎりぎりになったりしたが、たいていは時間が余って、ただひたすら見直しをしていた。(かといって、全部出来たわけではないけどね・笑)だから、生徒が試験で、試験時間が余って、あるいは、白紙の問題があるにもかかわらず伏せっていたりすると、何してるんだぁと態度の悪さにむっとする。もちろん、起こす。(季節によっては風邪を引くぞ。)
 しかし、である。その私にあって、今のセンター試験の英語の分量は、多すぎると思う。速読だかなんだか知らないが、あのスピードを生徒に要求するのは、尋常ではない。高校生といえど、「学問」という観点で言えば、初心者である。いたいけない初心者に粗忽な読み方を強いるのは、仁義にもとるではないか。学問をなんと心得ているのか。単なる便法、手段にしているだけでないか。
 学問の片鱗であってもスピードでしかとらえない傲慢で軽薄な思考は、この国を滅ぼすだろう。

勉強ができるようになりたかったら

2011年02月09日 | 教育
英語が出来るようになりたかったら、まず、アルファベットを正しく書けるようにする。教科書に出てきた表現を全部覚える努力をする。どうせ全部覚えられるわけはないのだけれど、努力をする。(その他、ちょっとだけ技術的な思考法はあるけど、書かない。)
数学が出来るようになりたかったら、数式を書くときに、イコールをそろえて、移項がはっきりわかるように書く。平面図やその他、なるべく正確に描くようにする。うまくかけなかったら、ノート何ページを使っても、描く。計算式は、どんなに細かい物であっても、きちんと書いて残しておく。ちょっとした計算でも、きちんと書く。きちんと書くことそのものが思考を整理し、空間感覚を磨いてくれる。わからなかったら、基本的な思考に戻る。戻れるかどうかが、出来るようになるかならないかの違いを生む。同じ問題を繰り返しやることで、思考の根幹を作る。どうしたら、間違えないかを工夫する。どんな問題でも、問題の全前提条件を常に吟味する。全部条件を使って考える。全部を絶対に間違えないように使うことが一番大事。
歴史が出来るようになりたかったら、自分で年表を作る。できあがりの年表を覚えてもダメ。世界史は特に、大きな年表を作って、100年刻みなら、その刻みを最初に区切っておいて、教科書に書いてあることなどをすべて書き込んでいく。国家間にまたがることもなるべく書きこんで、関係をつかむ。日本史でも、ただ単に、順番に書くのは良くない。年表を写すことが目的ではない。教科書を読み取って書くことを通して、時代の流れをつかむことが目的だからだ。現代に近くなってくると、年表が込み入ってくるのがよくわかる。様々なできごとの関係がわかってないと、論述に対処できない。時代を思い描きながら、年表を作る。歴史は苦手だったけれど、易しめの論述問題なら、「まかせてくれ」レベルまでは行く。
地理が出来るようになりたかったら、自分で白地図から書く。地図帳を見て、なるべく正確に世界地図を描くことから始める。市販?の白地図を使ってはいけない。地図にわかったことを全部書き込んでいく。地勢と他の関連もわかる。(受験には使ってないから、これ以上はよくわからない。)
古典はよくわからん。苦手だった。古典文法や、古文の単語の意味をしっかりとつかむ。情景描写などを感じ取って考える。人物関係をつかむ。これで、一応、読んだ文章が何を言いたいのかはわかる程度にはなる。
漢文は、句法を覚える。英語よりもラク。対句的な思考を追って対比的に読む。あらすじ書きのような(?)テンポに着いていく。漢文で点を取らないのは損。
現代文はよくわからん。苦手だった。筆者の思考を追う。つながりで追う。(これは、たぶん、英語の法がラク。)試験の時は、本文中にある単語を使って答える。書くのをいやがらないことが大事。
理科は、文系だったから、理系のことはよくわからない。今では、記憶も定かではないが、化学は、化学変化は表にまとめたりいろいろする。覚えるべきことと、計算の仕方など、方法として、2つある。たぶん、アタマをちょっと切り替えてやると良いのかもしれない。モル計算などは、数学。生物は、覚えるべきことを図表にまとめる。変化がわかるようにまとめる。実験や観察でやったことを記憶にとどめる。(ってか、自分で体験すると、よくわかる。)遺伝は、比例問題のようなもの。(文系で理科も出来るとお得感あり。)
物理は根本的にできなかったから、何も書けない。(笑)

ふーむ。こうして書くと、いかに自分が、歴史と数学で苦労をしたかがわかる。政経倫社もやったけれど、ま、歴史がすべての社会科の勉強を含有するからね。
生徒を見ていると、彼ら、ホント、苦労をしていない。できなくて、当たり前だよ。問題練習をしたからと言って、出来るようになるわけではない。