考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

正しいことは単純だけど説明が難しい

2010年12月30日 | 教育
 物理の公式でも、数学の定理などでも、人間の行いであっても、正しいことや普遍と言われるものはきわめて単純である。でも、説明をするとなると、けっこう難しい。
 この難しさは、いかんともしがたい。理由は、真理や普遍は、常に本質的に具体的な現実の事象として出現する際には、真理や普遍とは直接関係のない他の要因を必ず伴うゆえ、こうした要因を取り除くという作業が必要になるが、これがやっかいだからである。私は今、「他の要因」と気軽に書いたが、「他の要因」は、本質を見極める目には「他の要因」に映るが、そうでなければ、本質に他の要因が加わったものをそれ以上細かく、つまり、「本質+他の要因」と見ることが決してないからだ。「質量にかかわらず、ものは同じ速さで落ちる」という法則は、おそらく、非常に多くの昔の人は、実際に高いところから羽と石を落として、「ほら、同時に落ちないでしょ? あなたは間違っている。」と空気の抵抗を勘定できなかったようなものだ。彼らは、「重力加速度(でよかったっけ?)」と「空気の抵抗」を分けて考えることが出来なかった。ゆえに、物理の法則を信じることが出来なかった。分けて考えることがどうしても出来ない人に、分けた考えは理解してもらえないのである。空気の存在を感じることが出来ない人に、空気の抵抗は説明できないのだ。
 しかし、世の中、よくしたもので、唯一、説明できる方法がある。「多数決」あるいは、「信頼できる人がそう言った」という言説を利用するのである。人間が社会的動物であるという性質を利用するということだ。よほどの意固地でない限り、これはかなりの説得力を持つ。この意味で、「学校」とは、多くの人に、上の例で言えば、日常では感じ取ることが出来ない「空気の存在」を知らしめる場となる。

 にしても、本質を見いだすのは、かなり困難な仕事のようだ。わかる人には、わかるけれど、わからない人にはわからない。内田先生の「辺境は中原を目指す」にしても、ただこの言ってみれば単純なSVOの文の説明のために1冊の立派な本になった。人にわかるように説明をするにはこれくらいのことが必要なのだ。説明する方だって、受ける方だって、そう容易なはずがない。なのに、多くの人は簡単に「わかるように説明をしろ」と要求する。単純な真理ほど説明にも理解にも手間取るものはない。「本質+他の要因」の他の要因がかなりたくさんあるからだ。でも、それらすべてをそぎ落とすのである。徹底的に、そぎ落とす。そうすれば、普遍的な真理が見えてくる。しかし、そぎ落とすことほど、難しいことはない。(学校の勉強が難しいのはだからだ。)これを知る人は、「わかるように説明しろ」などの要求はそうそうしないと思う。「わかる」と言うことがどういうことかも、「多数決」程度にしか知らない人が世の中、圧倒的に多いのではないかと思う。考えてみれば当然だ。勉強が出来る生徒は少ない。
 こうして考えると、「わかる」とは、非常に情的な人間関係の上に付加される意味合いが強い営みであると捉えるのが社会的通念だとわかるな。「情理を尽くせ。そうすれば、わかってやる」みたいな感じかもしれない。そうなんだって、ときどき、「勉強が出来る奴は人間がだめだ」と思っている人がいるが、「勉強」における「わかる」の論理は、社会通念上、つまり「多数決」や「あの人の言うことだから」の「わかる」と全く異なるからである。まあ、ときとして、半ば「やっかみ」みたいなのもあったりするようにも思うけれど。(だって、勉強も出来る、人間性も豊かな人は、勉強できずに、人間性だけで勝負しようとする「自分」に不利益な存在だから。)

自ら問う力

2010年12月29日 | 教育
 勉強をするとは、畢竟、自らが問うことである。「って、どういうこと?」と自問することである。答えに到達するかしないかは、当面の問題ではない。瞬間的に答えがわかることもあれば、数百年たってもわからないこともある。学問とは、問いに対して、わかったりわからなかったりすることだ。
 ところが、今の子供たちは(で、「今の」という書き方をすると、必ず、じゃあ、昔はそうじゃなかったの?と問う人が出てくるが、元禄時代が平穏な時代だったからと言って、一揆が起こっていないわけではない。エジソンと西部劇のなんちゃら言う有名な保安官が同時代人だという事実と同じである。)、かなりの確率で、問うことと問いに答えることのどちらが勉強かと聞かれたら、そうとうに出来る子であっても、おそらく問いに答えることこそが勉強だと言うだろう。今の子は、非常に多くが、深い理解なくして、つまり、理解しなくても問いに答えることが出来るようになれると思っている。いわゆる「試験対策」の考え方である。ぶっちゃけて言うと、次の試験の答えは「あいうえお」だ、と言われれば、「あいうえお」と覚えることが最も効率よい勉強で、なぜ答えが「あいうえお」なのかを気にしないのも同然である。
 しかし、数学であれ、国語であれ、問題に取り組む際になすべきことは、問いに答えるよりむしろ、問題を解いたり文章を読んだりする際に次から次へと小さな疑問を持つことである。その上で初めて「あいうえお」という答えに到達する。数学なら、仮説を立てて論証することが多いだろうし、文章読解や作文などは、「と書いているからには、筆者の主張はこういうことか?」などの仮説を立てることが肝要である。その後、論拠に則って、検証を企て、自分の回答に至る。試験であってもなくても、習得を目的とする学習であっても、こうした思考過程を抜きになされることはない。
 で、この過程をすっ飛ばす生徒は、勉強が苦手である。習得は、単なる張りぼてにしかならず、それゆえ、応用が全く利かない、あっという間に消え去る知識にしかならない。

 ならば、こうした問う力を身につけさせるには、どうしたらよいか?
 これが、実に難しい。
 なぜなら、「ということはどういうことか?」という問いは、必ず、次元を異にした問いになるからだ。「猫とはどういうものか?」ならば、上位概念の動物や人間との社会的関係からペットとなったり、あるいは、犬などと対比される性格的な描写がある。あらゆるとらえ方の中で、今回のとらえ方として何が最もふさわしい「問い方」になるかが重要である。私はここであえて、「問い方」とした。動物とかペット、あるいは、猫の性格など欲しいのは「答え」のはずだが、自ら問う場合の要諦はあくまでも「問い方」であって「答え方」ではないと私は思う。なぜなら、「ということはどういうことか?」と自問する際に思い浮かべなければならないのは、ありとあらゆる問いだからだ。「猫は植物か、動物か? しかし、そもそも、ここでは、植物・動物という範疇で検討を施すのがふさわしい問いなのか? 単に、犬と猫の対比で捉えるべきことなのか? それとも、蛇と比べるべきものか? ひょっとして「招き猫」と対比すべきものか?」など、ありとあらゆる問いを想定しないことに、そのときに必要とされるかもしれない答えに達することは決してない。「とはそういうことか?」と言う問いを発する際にアタマの中で行われるのは、ありとあらゆる「検索」なのである。これなくして、「ひょっしたら、これかも」という仮説は決して立てられない。
 しかもこの「検索」は、単純に昔の知識から必要事項を抜き出すのではない。新たに、何らかの結びつきを見つけ出す試みに他ならないのである。だから、生徒に教えるのが難しい。既知の知識であったとしても、「結びつける」ことが難しい。それは、当の本人にとっては、新しい道の開拓に他ならないことを意味するからだ。それは、「答える」という受け身的なプロセスと言うより、「こちらに進むか、向こうを向くか」と言った能動的な営みなである。こうした積極性は、当人の強い意志に基づいて初めて発揮される。ただ授業を聞いているだけでよくわかるようになりたい、などの受け身的な動機では、決してなしえない。
 「ということはどういうことか?」と言う問いをたてる難しさは、そうした積極性に関わる思考にあるからだと思う。
 この点で、わかりやすく教えてほしい、わかりやすい授業が良い授業だ、などという、一見積極的なようでいて実は他人任せの消極性は、学力にほど遠いものにつながりかねないのである。

試験は最小限にとどめましょう

2010年12月26日 | 教育
 ストレートに固有名詞を挙げると検索に引っかかるから止めるが、生徒の学力の状況や学習環境などを調査する試験がある。もちろん、業者のものだからそれなりにお金がかかる。元々は、学校の先生の負担を減らそうという名目で作られてるが、実質、仕事を増やしているのではないかと思う。
 授業時間にするとしたら、授業時間数が減る。これはこれで困る。休日に行うと、休日出勤が増える。生徒へは結果のシートが返却されて、あなたは、数学ではこの分野が弱いから復習しなさいとか何とか親切なアドバイスが書かれている。クラスや学年全体の様子もわかる。業者がきて、わざわざ説明をしてくれたりする。至れり尽くせりである。業者はこれで収入を得、日本の社会の失業率が下がり、学校は生徒の動向がよくわかり、生徒も自分について知ることができる。何の悪いはずもないように思われるが、でも、変だと思う。

 変なのは、そもそも、こーゆーことは、ほとんど生徒の顔を見ればわかることじゃないか。なぜ、わざわざ業者を使わなけばならないのか?

 苦手分野がなんだかんだと言って、じゃあ、仮定法が苦手だから仮定法の特訓をすれば英語の成績が上がるかというと、そうではない。理科や社会と違って、英語や数学は、もっと根本的なことの理解不足で生徒はできないことが多い。しかし、「テスト」は、はかられる項目が明確であればあるほど、はかられなかった弱点は闇に埋もれ、なまじっか「明確な結果」が出てればいるほど、真の要因はその存在すら抹殺される。だから、生徒も先生も、目が見えなくなる。

 大事なのは、生徒や先生という、最も自ら問わなければならない当人の理解する力や問う能力が損なわれることだ。

 まだ理由がある。
 返却された結果から、生徒の動向や変化などもよくわかると言えばわかる。しかし、私は生徒がかわいそうだと思う。なぜなら、彼らは、常に、点数でも偏差値でも数値で、あるいは、あなたかこれこれが苦手だだとか何とか、言葉であっても、常に評価されることになれてしまうからだ。
 「評価されることになれる」が、私は、最大の問題点だと思う。
 その結果、子供たちは、自分で自分の欠点でも長所でも、自分自らの力で問うことを忘れる。自分についても何もかも知るのは、コンピューターで打ち出されるシートを通してになる。正確には、そのように思い込まされることだ。

 多くの人は、それが今の時代だ、と言われるだろう。大人はそれでよい。しかし、未だ「生」の実感を伴っていない若者が自分自身の有り様や存在を知るのは、あくまでも、自分の足で立ってわかる実体的な感覚を通してであろう。いくら他人に評価されようと、自分の足で立つ感覚を伴わなければ、いくら小手先の自分の生活や学習内容の欠点を指摘されたとして、実体験として理解できるだろうか? 生徒を見ていると、やっていることとアタマの中の理屈が遊離している感じがある。(なんとなく。)これは、けっこう危険なことではないかと思う。
 今の子供たちは、おそろしく評価されることに慣らされている。勉強だけでなく、生活態度やボランティア活動のような「良いこと」などでも、人の目を意識して行うものになっている。「ほめて育てよ」のせいで、当たり前のことをしても人に見てもらってほめられたがる。評価されることが、自分自身であることのようだ。これを承認欲求と思う人もおられようが、毎日、四六時中、彼らはその感覚を持っているような気がする。ちょっと孤独になったら、生きている気がしなくなるだろう。身体的な実感もないのだから存在が危うくなっても仕方がなかろう。肉体的な存在としての実体感というか、そんなのが乏しいから弱いのではないか。
 かわいそうに、子供たちは、さまざまな「評価」によって、がんじがらめにされている。
 
 もう、ほおっておいたら、どうかと思う。

 そのために、学校では何が良いかというと、高校の先生は、仕事をしないことである。「宿題」を集めない、催促しない。試験は、何が出るかわからない試験とする。何が出るかわからない不安に陥れればよい。試験の出来が悪かったら、落とす。
 「そんな、子供たちがかわいそうだ」と多くの心優しい人は思うだろう。
 ところが逆だ。
 「先の見えない不安」と言うが、そもそも先なんて、見えないものである。それを見えるかのごとく我々は未来を先取りしてきた。そうした環境で育ってきた子供たちや若者は、未来はそもそもわからないものだということを知らない。知らなさすぎる。だから、不安になる。就職活動をどんどん前倒しにするのも、未来を確定されたものとして安心したい気持ちがあるのだろう。だって、今の大学生で、「試験対策問題」なしに試験を受ける生徒がだれもいまい。彼らは、想定外の問題を出されると、話が違う、と戸惑い、怒ったかもしれない。

 う~ん、そうだね。
 試験対策問題がなくなるだけでも、子供の生きる力はたくましくなるかもしれないな。でも、困るのは、周りの大人、先生も業者も、親も、何もしてくれなかった、と責められるから。本人だけでなく、なんとなく存在する、周りの「善良な」人々から。


「評価」なんてどうでもいいじゃん

2010年12月25日 | 教育
要旨・近年はとみに「評価」が重視されている気がする。しかも、公平性が重視される。でもさ、評価なんて、何が公平なのかわかるものでない。数値が客観性を伴うものでない。なんだかんだで、評価そのものが目的化している。でも、評価が目的化している事実に気がつかない。あー、うんざり。

思考の基盤

2010年12月24日 | 教育
 かなり年を取っても、思考の基盤は変わらないのではないかと思う。勉強をして変わるのは、知識の有無である。また、獲得した知識の利用法も勉強をすると、より複雑に、より活性化させるように使えるようになるだろう。でも、根源的な思考の方法は、まあ、いわば、中学生か高校生かせいぜいで大学生の頃と大して変わらないのではないかと思う。
 言い方を変えると、アタマの良いやつにはかなわないと言うことである。バカに付ける薬はない、とも言える。
 
 全く持って、身も蓋もない。これでは話が暗い。
 少し明るくしよう。(笑)

 さらに、言い方を変えると、十代までが勝負ではないか、と言う気がするということである。(少し明るくなったであろう。)
 おそらく、思考の根源的な基盤を作るのは、希望的観測かもしれないが、その頃まではないか。この時期までに、何とかしないと、人間、変わらない気がする。

 アタマの善し悪しの尺度は、実のところ、人によって異なる。私は私が勝手に考える尺度で話す。
 私は、思考の柔軟性、前提をどこにとるか、日常感覚(まあ、これも、実際にところ、人によって違うが。)で絶対性と相対性のどっちに基盤をおいて思考するかを問題にする。まあ、誰でもそうだが、何であれ、思考をする際、どこかで、思考は、絶対性から相対性に移行する。思うに、多くの人は、私から見る分に(←「私と比べて」と同意である)、絶対性から相対性移行するのが早い。(そのあたりが、generalがなぜ将軍であるかの理由になるのと関わるだろう。)
 生徒を見ていて、どーしてもできの悪い生徒というか、まあ、勉強をしても伸びない生徒は、思考が固い。「AはBだ」と教えられると、それだけになる。数学以外は、常に「例外」に出くわした際、どのように対処するかが問題になるが、彼らはこれができない。少し横から見る、などの思考基盤の変更ができない。だから、勉強もできない。
 勉強というのは、円錐(でも何でも良いけど)を切ることに似ている。切り取り方によって、点だったり、真円になったり、楕円か何かそんなのになったり、あるいは、放物線か双極線?か何かと直線の組み合わせかそんなのになったりする。この違いに気がついて、つまり、さまざまな切り取り方を自分自身の内部に持って元の円錐を想像できるかどうかが、もっと大事なものなのだ。「勉強をするとアタマが硬くなる」と思っている人は多いだろうが、それは、自由な切り取り方が勉強だと思わない勉強をした、つまり勉強の仕方を間違えてきたのだ。
 こうした「切り口」のようなもので形成される「思考の形」と言うものを想定すると、成績の悪い生徒は、私が言う意味での「思考の形」が非常に荒っぽい。まあ、大人でもそうだが、管理職でも、これが荒い人がいる。(困ったことである。)こうした「荒っぽさ」の正体が何であるか。(単純に言えば、アタマが悪いと言うことだが、それでは話が進まない。)この荒っぽさをいかにしてきめ細やかなものにできるかが、目下の課題だが、なかなか難しい。


文科省も困っているらしい

2010年12月22日 | 教育
 経産省に突っつかれて、文科省は困っているらしい。
 だったら、現場を味方に付けろ、って。私もそう思うから。
 でも、現場の多くは、文科省が困ったことだと思っていることを、同じように困ったことだと思っているわけでないから、文科省も余計に困るのだろうな。
 と、勝手な推測。

質の高さって。

2010年12月22日 | 教育
内田先生twitter

>ネットの世界は「質の高い情報」(その人以外には発信できない種類の情報)を持っているか「質の低い情報」(誰でも言いそうなこと)しか持たないかによって、現実の社会以上に急激に階層が構築されつつあります。この情報階層社会は現実の格差社会よりさらに排他的に階層化する傾向がありそうです。

でも、実際のところ、「>(誰でも言いそうなこと)」を「質の高い情報」だと思っちゃう人の方が多いのだろうな。
少なくとも今のマスコミは、そう思っているんじゃなのかな。その方が、大多数の賛同を得て、お金が運ばれてくると思っているのかなぁ。

電子辞書の活用法

2010年12月21日 | 教育
 電子辞書には、電子辞書でなければならない機能がある。正直言って、私は、作文、和文英訳でも何でも、授業中でもしょっちゅう電子辞書を引く。「例文検索」やコロケーションの確認は、紙の辞書ではなしえないことも多い。しかし、その機能は十分といえない。それなのに、今どきというか、学校で売ろうとして開発している辞書の機能は、ノートの後追いであることがほとんどだ。紙でこういうことができるから、電子辞書でも、同じようにできると良い、と言う発想で、売り込みの仕方も実にそうである。宣伝文句は「紙でできることが辞書でもできる」だから、もー、ばか、としか言いようがない。話を聞くのはまったくもって無駄だ。(向こうは参考になったみたいだけれど。)電子辞書には、電子辞書にしかない機能があるはずだ。もっとそれを考えたらどうだ。
 作っている人は、いったい何を考えているのか、本当にいぶかしく思う、というか、正直言って、紙の辞書を引いてちゃんと勉強をしたことがないから紙の辞書の後追い機能しか思いつかないのではないか。それで、「確率」から言って、学生時代にちゃんと勉強しなかった人たちが、今現在、電子辞書の開発を行っている可能性は(私のこれまでの経験から推定して)きわめて高い。だから、「紙の辞書ならこういうことができるが電子辞書はできない」と言う電子辞書に対する批判を聞いて、「電子辞書でもできるさ」というノートの後追い機能しか思いつかないのだと思う。「辞書を引く」とい言う行為の本質を理解していないのである。
 こっちは、毎日、電子辞書を使っている。紙の辞書で育ってきた。電子辞書が、もっと、こうだといいのになぁと思うことは多い。紙の辞書と電子辞書両者の特性、双方の利点欠点を知らない人が、人の話だけで作っても、良いものはできないだろう。そういえば、「理系に行く」と言う進路選択は、「=英語が嫌い」であることも多いんだよね。
 子供が英語を体系的に捉えられずして電子辞書を使っても、英語はわかるようにならないし、脳味噌だって良くならない。良い製品を作りたいなら、自分で紙の辞書も使ってみることだ。そうすれば、何が電子辞書に必要な機能かがよくわかるだろう。何ごとも、上っ面で判断すべきものではない。
 電子辞書って、車の運転をしない人が車を作っているようなものか。その昔、女性下着を男性だけ?で作っていたようなものか。なんだかそんな気がしてきた。それは確かに大変だ。

考えてみたら丸6年

2010年12月21日 | 教育
 このブログを始めて丸6年たったことに気がついた。忘れていた。
 5年たったとき、そろそろ終わりかなと思ったが、また1年たった。
 早いものである。年も取るものである。
 でも、まだ書いてないことも多いんだよ、実は。