考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

まるちゃんがうらやましい

2010年04月30日 | 教育
 昨日のまるちゃんは、養老先生のそばで遊んで?いたようで、いいなぁと思った。だって、養老先生だったら、口にするちょっとした言葉だって、何かしら面白いに違いないだろうからだ。
 まるちゃんがうらやましい。まる君はその幸せを知っているのだろうか、知っているわけないよな。
 

小テストをしました

2010年04月30日 | 教育
 久しぶりに、小テストをしました。単語の小テストです。もちろん、予告しています。
 でもさ、私、長い教員人生で、教科書の単語の小テストをやったのって、ほとんどこれが初めてではないかしら? 単語集のテストはしたことがあるけれど、それで、各課毎のまとめの小テストをしたこともあるけれど、純粋な単語類の小テストは初めてのような気がするなぁ。どのクラスも単語のテストをすると決まったからしたのだが、小テストの内容は各担当者によるので、好き勝手にした。
 答案用紙は、何も書いてない、まっさらな紙。氏名欄も、当然、問題もない。昔、小学生の時、漢字の小テストを授業でやったが、何も書いてない紙が配布され、自分たちでそれぞれ氏名を書き、先生がそのときどきに口頭で問題を出して、生徒は答えを書いた。しかし、イマドキは、印刷も問題作りも容易にできるから、こんなことをしない。みんな、プリントでやる。でも、今回は昔に戻ってみた。
 最初に、氏名の書き方から指導した。用紙の下に書く。すると、紙のぎりぎりのところに書く生徒がいる。あらら。。。でも、この子たち、きっと、まっさらな紙に答えを書いたことなんて、ないだろう。しかたがない、教えてやらなければならない。見やすいように、と付け加えた。問題番号も振ること、配置に気をつけて書くこと、文字の大きさに気をつけて書くこと。私は老眼で小さい字は見えないからね、書き方も点数に入れるぞ。
 なんて親切な先生なのでしょう。
 問題は口頭だから、そのときに書かないと、書けない。これ、ちゃんと勉強をしてないと、けっこう惨めさを味わうのである。次回はそんな思いをしなくて良いように、もっとやってこい、である。
 ○付けは私がしました。出来は、良くないです。予想通り。believeの綴りは間違えているし、欄外にない本文中のやや難しい語はできていない。やっぱりね。

 あのね、勉強ができる子というのは、何も難しいことをたくさん知っているのではなく、今までに習ったことをしっかり習得している子なんだよ。

「達成感」より大事なこと

2010年04月29日 | 教育
 近頃の教育談義では「達成感」を持たせることが重要視されている。この間、テレビで子供が「達成感を得られるから良い」ということを言っていたが、猛烈な違和感を覚えた。子供の語彙に「達成感」なんてあるのか?周りの大人が口々に「達成感」と述べ立てるものだから、子供も達成感を得ることが大事だと考えるようになったのだろう。しかし、最も肝心なことは、教育において重要なのは達成感そのものではないということだ。
 達成感はあくまでも手段にすぎない。大事なのは、達成感を得ることでなく達成感を得ることによって、やるべきことややりたいことを更に充実させて遂行していくことだろう。それなのに、近頃は何かというと「達成感」という言葉をもってして、まるで達成感を得ることそのものが大事であるかのように認識されているようだ。少なくとも教育における達成感は、もともと手段でしかないことを多くの人は忘れているのだ。教育を施す側が教育を受ける者に、手段としての達成感を得させることに異議を唱えるつもりはない。しかし、受ける側、つまり子供が、達成感を得ることそのものが大事であるかのような風潮には、本質とずれた教育が既に行われていることが現れ出ていよう。
 「達成感」は、何でも良いから成し遂げたことに満足する安易さを生む。5分の作業でも達成感を感じることができることがあるだろう。カルチャーセンターの1時間程度の作品作りの「売り」になる言葉が「達成感」だったりすることがある。しかし、そのような達成感は単なる遊びにすぎず、「子供」に必要なものでない。
 子供に必要なのは、達成感を得ることそのものではなく、とにもかくにも何かを試み続けることである。絶えざる挑戦こそが子供の成長に繋がるからだ。跳び箱にたとえれば、跳び箱を跳ぶことが大事だと言うことだ。達成感は、跳び箱の踏み台にすぎないだろう。それなのに、跳ぶことはそっちのけで踏み台の重要性ばかりが強調されるのはどうしたものか。
 子供は自ら跳ぶことによって成長をする。いくら立派な踏み台があったとして、跳び箱を跳ばなかったらどうしようもないということだ。手段と目的を混同し、子供相手であっても、何かというと「達成感」という言葉で対処し、それで思考が停止する捉え方に、私は近頃うんざりしている。

まるのブログの感想

2010年04月24日 | 教育
 養老先生のまるのブログを初めて覗きました。

 う~む。
 私は、まるになりたい。

 きっと、うまいもんを食べさせて貰っているのだろうし、昼寝はし放題のようだし、良い人生を送れそうだ。(養老先生とも遊べる♪)
 こんな自分のブログにあーだ、こーだ、書き連ねなくて良い人生になりそうである。まあ、ブログは自分で勝手に始めたものだから、嫌なら止めればよいのだが、ときどき脳味噌の掃除をする必要から持っているのだからしようがない。しかし、まるのような人生なら、脳味噌の掃除の必要もないだろう。養老先生が、猫と人間とどっちが賢いかと言うのも、よくわかる。

 私はまるに憧れる。

成績の良いクラス

2010年04月22日 | 教育
 成績の良いクラスは、一見、バカみたいなことでも、ちゃんと面白がってのってくれるけど、成績が良くないクラスは、何でも知っているかのような顔をして、つまらなさそうに聞いている。でも、これって、彼らの生きる戦略だから仕方がないのかなと思う。

勉強ができる子とできない子の違い

2010年04月17日 | 教育
 たとえば、( )埋めの問題がある。
「これはリンゴです。This ( ) an ( ).」
 勉強ができない子は、なるべく素早くやろうとする。覚えている単文を思い出して、is と apple を入れる。もし、覚えていた文がThat is a pen.である場合、appleという語を知っていたとしても答えがわからない。自分の覚えている文と問題文が同じでないからである。それで、彼らが勉強で頑張るときには、試験に出そうなことを徹底的に覚えることが大事だという判断をする。
 勉強ができる子がまず行うのは、日本語と英語の文を見比べて、日本語にあって英語にない表現が何であるかを特定することである。「りんごです」がそれだとわかると、次に、英文が「主語+動詞」の語順であることを思い出し、最初の( )には動詞が入ると想定しーーーちなみに、この段階でisを入れるわけではない---、apple を2つめの( )に入れる。この際、appleが母音で始まることでanとの整合性を確認する。その上で、動詞を具体的に考え、is を入れる。最後に、This is an apple. が英文として矛盾がないかの検討をした上で答えとする。この方法の利点は、多少わからない表現に出くわしても、何とかなる場合があると言うことだ。つまり、応用が利くのである。ついでに言うと、彼らはこの段階的な思考を行ったり来たりしながら短時間で行う。
 両者が得る答えは、たとえ同じであっても思考過程が全然違うのである。この見えない事実に気がつかない限り、勉強はできるようにならない。
 しっかし、勉強ができない子にこうした過程重視の考える勉強を教えようとしても、なかなか受け容れない。なぜなら、彼らの勉強の目的は答えを得ることだから、答えを得るための過程はどうだっていいのである。よって、一生懸命になれないから、考える方法を習得できず、記憶に頼る勉強でそれなりに点は取れても突き抜けることはできないことになる。

 ついでに言うと、大抵の子は前者である。これは、人間にとって、それなりの言語能力という抽象化能力を除けば、記憶力がいかに大事であるかの証左になろう。社会生活は、何であれ覚えていれば何とかなることが多い。そこそこで構わない、結果オーライの世界であるということでもある。この意味で、「覚える」という彼らの勉強方法は、決して否定すべきものではなく、極めて正しいのである。
 
 もう一つ、ついでを言わせてもらえれば、上記問題は「例」としてたとえに出したにすぎない。( )に入れることだけが何も「考える」ことでない。

学ぶ心得

2010年04月13日 | 教育
 英語を教えるより、学習の心得を教えた方が、どれほど効率良い学習になることだろうと思っている。というわけで、ほりの今年の授業は、ひたすら生徒心得である。どうしたら、勉強ができるようになるか。勉強ができる子と苦手な子の違いがどこにあるか。数学の計算の書き方まで板書している英語の先生って、どれくらいいるのかなぁ。(笑)
 まあ、同じなんだよね。だから、できる子は何でもできる。できない子は、できない。

生徒は叱られたいと思っている

2010年04月10日 | 教育
 子供たちはバカじゃないから、自分が今のままで良いと思っている子は本当はいない。彼らは今よりももっと自分が大きくなれたら良いと内心では思っている。でも、周りの大人が「ありのままが良いんだよ」などと愚にも付かないことを言うものだから、それも、そんなことばかり言われ続けるものだから、それでまた、頑張ることが結構辛いこともわかってくるから、ついつい甘い方に付いてしまって、愚にも付かない大人の言うことが正しいと思ってしまう。それで、成長を止める。
 賢い親は、こういうことをちゃんと理解していて、子供にさまざまな挑戦をさせたり我慢をさせたりしてマトモに育つようにしている。もちろん、自分自身も我慢をする。でも、そういった判断力を持つ親は少ない。多くの人は、「みんなが言っていることが正しい」と思っていて、自分も快適な方が良いから、更にまた、自分がなぜそこそこマトモに育ったかを理解するほど自分で考えることがないから、「みんなの言うこと」を信じる。
 そんなこんなで、子供たちも大人もだんだんマトモでなくなっていく。
 子供たちは、本当は叱られたいと思っている。それで、辛いときには、自分をなだめてくれる大人ではなく、自分を励ましてくれる大人を求めている。だって、そうでなかったら、自分はちゃんと大きくなれないとわかるから。

 ただ、子供たちは、こんなことを口にしない。でも、このように考えているのはわかる。でないと、彼らの反応は説明が付かないことが多い。