考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

教育実習生の数と学歴

2009年04月29日 | 教育
 高校教諭の免許は、2週間の実習で取れるが中学は3週間必要になる。高校で受け入れる側が2週間の場合、中学の免許も取りたい学生は中学に行くか、諦める。そのせいか、2週間の実習期間しか設けていない高校に来る実習生が少なくなってきた。
 これって、意外にゆゆしき問題であろう。生徒を送り出した側としては、やや無責任でもあるか。それなりの良い生徒が教員を目指さなくなっているということだから、じゃあ、次世代の教員は、一体誰が勤めるのだろうか。
 質の良い教員を取ろうとして、或いは、育てようとしてハードルを高くすると、逆に、質の良い学生は逃げるおそれがある。まあ、いまどきは、3年で内定を取る時代だから、内定を取れる学生が教育実習に来て、それから試験を受けて、10月まで結果がわからない状態に耐えてくれるとは思えない。また、3週間の時間、就職活動が全くできないのだから内定が取れなかったらますます教員免許を取らなくなるだろう。底辺が厚いか薄いかで、「質」が変わるのはどこの世界でもそうだろうから、これは深刻な事態ではないのだろうか。高校教員の場合、地域性もあろうが、教員養成課程出身者でないことも多いような気がするから、ふつーの大学の学生が免許を取りにくいとなると、教員志望の学生の質は、結果的に落ちると言わざるを得なくなるだろう。

 以下、もの凄く反感を招きそうな内容だが、このトシになってきたら、若いときより、「学歴」に敏感になってきてしまった。
 誠に失礼ながら、俗に言う「良い大学」を出た人は、そうでない方と話の質が違う。もちろん、そうでない方もいる。ちゃんといる。が、しかし、何らかの相関があるような気がしてならないのである。同じく教員という仕事をン十年しても、管理職であっても、である。いや、管理職こそ覿面である。誠に失礼ながら、私の中ではしっかりと序列化されている。(もちろん、管理職で「良い大学」を出ている方であっても、理解力が大したことがない方はいますよ。とにかく、部下の言うことくらい、理解しろ。或いは、感心して聞く一方でいるんじゃない、コトバを返せ。)学歴の効果があるのは卒業して5年程度だと聞いたりするけど、高校での偏差値が75とか80とかになると、やっぱり、何かあるのかなぁと思ったりする。まあ、授業はそんな生徒の方が、反応が面白いから確かに楽しいよな♪(かつて自分の授業は、偏差値60くらいを対象にしていたと思っていたが、近頃は70up対象なのかな、と言う気もしている。(授業中の質問にちゃんと答えてくれるのがそのレベルの生徒だから。)もちろん、40くらいの生徒を教えるのも下手だと思わないけど。ただ、「作業」をさせるのはどんな生徒対象でも苦手です。それから、「上手いやり方を教えてくれ」という生徒は私は教えられません。それは学校で学ぶ勉強じゃないから。)
 それこそ、過日あるサイエンスライターさんが、小学校の先生の脳の構造を疑ったようなことを書かれていたのを読んだが、この傾向が今後あちこちで助長されることになるんじゃないのかな。
 

既得権益ってさ。。

2009年04月28日 | 教育
 イマドキの塾は、「自習室」というのを設けているようだ。それで、夜遅くまで生徒に開放している。聞いた話、本当に遅い時間なのである。深夜徘徊を推奨しているかのようだ。警察は何とも思わないのだろうか。塾だから許されるのだろうか。塾帰りに補導されなければいいけれど。(苦笑)勉強だったら、遅くまでで歩いていいという話ではない。見方を変えると、親がneglectしているかのようにも見えるよなぁ。
 
 「既得権益」という語が教育に関して用いられるとき、通常は、公務員の教員に向けられる。しかし、今では既得権益に非常に似たものを振りかざしているのは、塾などの教育産業界ではないかしらね。それで、しかも、実に「さり気なく」振りかざしているから、わからない。中途半端な学力の多くの親が騙される。(統計的に多数を占める層である。)
 子供の学習に、塾などの補助がなくてはならないものであるかのように「じんわりと」世に言説を送り、それでもって、公の団体もが、それに乗じている。既成事実を作り上げ続けることによって、「権益」レベルにまでのし上がってきたかのように見える。
 まあ、そりゃ、そうだよなぁ、と思う。教育産業が潰れたら、日本には失業者が溢れるだろう。しかも、かなり高学歴の失業者が。学校や学校の先生がダメであればあるほど、日本の産業は、虚業みたいな産業が繁栄するのだろう。

 ↑反感買うだろうなぁ。

丁寧な授業の欠点

2009年04月25日 | 教育
 授業は丁寧でわかりやすい方が良いという考えは、学習が授業でのみ行われるものだ、という考えから来ていると思う。そりゃ、噛んで含めるように教えて貰った方が生徒はよくわかるに決まっている。

 ところが、高校の学習内容は、授業中だけで習得できるものでない。家庭学習は必須である。この家庭学習の量如何で、成績の大部分が決まる。これはたぶん進学校の常識。
 よって、学習進度もある程度、速い方がよい。予習すべき量が増えれば、それだけ学習時間が増えて、脳味噌のトレーニング量が増えるから生徒は自ずから自分を鍛えることになる。

 英語の授業だと、新出単語の一つ一つを授業で確認しているようではいけない。辞書で調べてあるのが前提である。下手に意味の確認をすると、予習してない生徒の思うツボである。だって、その時間に辞書引きをしたり、人の言った内容を写して終わりになるから。更に、辞書引きが正しかったか不適切なもの(間違い)だったは、さほど重要でない。間違いは、授業中に発見できるものである。それで、自分の間違いを自分で気が付く力を養うのが本物の勉強なのである。これは、注意力を喚起していれば授業を通してひとりでに出来るようになる。(私はこれが出来るようになるためのアドバイスもするけど。なんて親切なのだろう。親切すぎるかもなぁ。反省・笑)それでも、たとえ勘違いや間違いが一つ二つ残ったとしても、構わない。多量に勉強をすれば、同じことが何度も出てくる。何度も出てくれば、ひとりでに間違いは是正され、当初の間違いが余剰の知識として、応用力に繋がったりして、間違いどころか「肥やし」にすらなる。決して忘れない、強く印象に残る事項となることもある。
 授業には、消化不良がそれなりにある方が伸び代が大きくなるのである。

 ところが、授業はわかるものだ、わかりやすい方が良いのだ、という前提に立つと、生徒は水が高いところから低いところに流れるかのように「間違いってはいけない」と考える。教える側は、消化不良になるからよくない、という考えに縛られる。生徒が学ぶべきことは、全て教授者である自分が教えなければならないと思い込む。これが最も悪い。生徒は間違いに怯え、学習内容も意欲も剥ぎ取られ、マイナスの方向にしか導かない。これは、意外に気付かれていない(と思う)隠れた事実である。
 
 ↑こういうことがわかるかどうかで、教える側にしても学ぶ側にしても、成績は伸びたり伸ばしたり、今一つになったりするものだ。わかっていれば、学力は意外に伸びる。

 上にしるしたことは、私は、一種の「符牒」めいたものだと思っている。通じる人には通じる。通じない人には通じない。(リアルワールドで検証済みである。経験的に間違いないと思っている。)その人がどの程度の勉強をしたかどうかも、こういった言に対する反応ではっきりとわかる。

 高校の勉強なんて、そもそも、「全部わかる」なんてことはあり得ないのである。「わかる授業」という考え方がそのものが、先生も生徒も傲慢にしていると言える。傲慢さほど学力を低下させるものはない。全国的に学力が落ちて当然である。

 で、これ、高校の話ね。私の話は、全て基本的に、高校の話。

出来た生徒たち

2009年04月25日 | 教育
 試験監督中に居眠りをしたらしい。すると、一番前の生徒が鉛筆で突っついて起こしてくれた。「先生、いびきをかいてましたよ。」「あ、すまん。」ところが、またうとうとした。また生徒が突っついた。「先生、試験時間が終わっています。」「おっ、そうか。解答用紙を集めろ」「先生、もう集めてそこに置いてあります。」「おっ、そうか。」「このことはクラス全員、内緒にしておきます。」

 ↑これ、ホントなら、すごい生徒たちである。
 日本は、未来永劫安泰であろう。

 でも、生徒たちも、意外に楽しかっただろうな。私が生徒なら、やっぱり、こっそり面白がると思う。解答用紙を集めてから起こす、というのが実に良い。
 でも、いびきをかいている先生って、ときどきいたなぁ、と思い出す。はっと気が付かれて状況を悟られたときのバツの悪そうな表情が何とも言えませんでした。まあ、平和な学校でした。

黒板を消す話

2009年04月25日 | 教育
 授業で毎年のようにする雑談である。当番が黒板を消し忘れているときにすることになる。

 私が大学生のときである。語学の授業で先生を待っていた。黒板にはなにやら前の先生が消し忘れた板書が残っていた。大学は、多くの場合、先生が消していくから消し忘れていたということだろう。
 すると、クラスメートの女の子が一人、前に出てきて消し始めた。後方に座っていた男子が何人が、ひゅーひゅーと指笛を吹いたりして「ぶりっ子~」と囃し立て始めた。(トシがばれるな。)私は、凄く嫌な気持ちでどうなることかと思っていた。彼女は一人で黙々と消し続ける。全く大した量でもないから、割に早く終わった。男子は相変わらず、囃し立て続けていた中、彼女は、真っ直ぐに学生席の方を向いた。そしてにっこりと微笑み、深く一礼をして自分の席に戻った。
 男子は、もう、参ってしまっていた。「お見それしました」と立ち上がって、深く頭を垂れた者もいたような気がする。

 私は、彼女をなんて凄い人だろうと思った。私の感覚の「ふつー」だったら、囃し立てられた段階で凄く嫌な気持ちになって止めれば良かった、とか、後ろ向きの気持ちになったことだろう。イマドキなら男子の行為は「いじめ」に相応するかもしれない。しかし、彼女は、それを物ともせず、逆に、自分の強みにした。キリスト教系の学校出身の子だった。関係があるのかなぁとも思った。

 この思い出話をすると、大抵の生徒は感心して聞いてくれるから嬉しい。

 と、ここまで書いて、この内容って、過去記事で書いたかも、という気にもなった。だって、毎年、1回はどこかのクラスでしているから。

先生に対して

2009年04月25日 | 教育
 生徒が「先生ももっと勉強をしろ」などということを思ったり言ったりしているようでは、まだまだ「生徒修行」ができてない。生徒は、先生を乗り越えていくものである。さっさと乗り越えろ。

 ↑こんなことを言うと、理想主義者?(=?原理主義者)の人の反感を買うだろうな。
 じゃあ、なんのために先生はいるんだ、とか。仕事してねぇじゃないか、とか。
 そう思う人は、「先生はえらい」を読まれると良かろう。先生は、「教卓の向こう」にいればよいのである。それで仕事は十分に出来ている。

 先生がどうのこうの、と要求するのは中学生レベルである。中学生は、自分も先生も親も同等で対等な存在だと思っているから、自分に出来ないことを人に要求する人を嫌う。自分が向上するのなら、その相手である教員も向上すべきだと考える。「てめぇだって出来ないくせに、なんでオレに要求するんだ。」と同じ論理である。
 だから、中学校の先生は大変なのである。で、なおかつ、「そうだ、君の言うことは正しい。先生も改めよう」などという先生が良い先生だという一般論があるから、--つまりは、多くの人が大人ではないから、--中学生はいつまでも中学生的思考から抜け出すことが出来ず、逆に大人になりにくくなる。で、大人になれないまま大人だと思い込む。更に、中学校の先生は、常に「理想モデル」であることを期待されるのだから大変である。理由は何であれ「モデル」たりえないと判断されると、重箱の隅を突っついてでも誹謗中傷されることすらあるだろう。

 物わかりの良い大人は、子供を育てない。

 それでこういうことを言うと、必ず(←たぶん?)「先生だって、向上心を持て」という話にする人が出てくるであろう。これは、先生と生徒との間には厳然とした両者を画する線があって分かたれているという概念を持たないからである。
 先生が向上心を持つというのは、生徒が向上心を持つことと全く関係がない。先生が向上心を持とうが持つまいが、生徒が向上心を持つのか持たないのかということと全く関係がないのである。ところがこれがわからない。一線を画する、と言う考え方ができないからごっちゃになる。生徒と先生を同一平面でのみ考えるから、上記のような中学生ばかりが増えるのである。「そうだ、君に要求をするのだから、先生も改めよう」は、中学生と同じ思考法で、かつ、基本的には取引であろう。「あなたがこうなら、オレはもこうだ」という取引である。取引は教育でない。
 先生は、自分と異なる次元に存するのである。この認識でいる方が、生徒は大きく成長する。教育とは、そもそもが「異次元の存在」を知ることなのだから。「先生の向上心」を問題にするのは、一種のタブーであろう。この方が、社会はきっと上手く回る。

 昔は、「先生」というと表立っては敬意を表していたが、内実、世間一般で世の中を回している方々においては「世間知らずのしようがない人たち」「教員風情にムスメを嫁にやれるか」レベルだったはずである。で、それでいいのである。

視点の取り方

2009年04月23日 | 教育
 いろいろ人言っていることや書いたものを聞いたり読んだりすると、その人の認識の仕方がわかる気がする。
 それぞれの言いたいことがとってもよくわかると感じることがある。
 どっちが正しくてどっちが間違いというのではなく、考え方というかものの見方の根幹がずれているのである。このズレはどうしようもないだろう。わかる人にはわかるし、わからない人にはわからない。あるものを電子顕微鏡みるのと、天体望遠鏡で見るのと、肉眼で見るのとの違いみたいなものかもしれない。どれも、正しい。それも、真実であろう。だから、話が合うわけがない。
 しかし、本人が、自分が或いは、相手が、どのような見方で見ているかを知ることが最も重要なことで、それこそが、私は、勉強をする大きな目的になると思っている。


痕跡としての若いときの読書と勉強の重要性

2009年04月23日 | 教育
 若いときに本を読むと、古典でも何でも難しい本でも、よく知らない本でも、とにかくわからない。わかりたいと思って手にした本なのに、わからない。それに、自分の読み方に自信が持てなかったりする。あまり気分はよろしくないだろう。
 でも、それで良いんじゃないのかと思う。
 読んだ本の解釈が、これしかない、これが正しい読み方だ、というのは、どうだっていいことじゃないかと思う。自分の理解できるところだけ読めばいいし、ひょっとして間違った解釈をしてもそれで良いんじゃないかと思う。大事なのは、若いときに、難しい本を手の取ったという生身の体験そのものだと思う。
 この体験が、大人になってからの読書の基盤になる。若い頃はわからなかったことが、トシを取って少しわかった、でも、解釈が違っていた、であったとしても良いと思う。大事なのは、若い頃とトシを取ってからの自分が変化している、ということに気が付くことだと思う。だから、若い頃の解釈が会って要が間違ってようがどうだっていいことになる。
 自己の変容を認識できるのは人間の特権じゃないのか。それで、これを許してくれるのが、古典だったり、名作だったりするのではないか。読み方、もっと限定的に言うと、本の解釈に読んだ人が表れでてくるのが、良い本なのだろうと思う。
 自分が年取ったから、言えることなのかもしれないけれどね。

 ↑ろくに読書なんてしてないくせに、よくもまあ、ここまでよく言うよなぁ。(笑)でもね、いろいろなことを論理的に(?))考えると、このように考えるのが、最も道理に合うんだよね。
  
 それで、勉強だって、そうだと思う。とにかく、わかってもわからなくても、やってみる。しなければ始まらない。トシをとると、若いときに学んだことが、熟成してくるのだと思う。この点が、本当に理解しようとして勉強をした人か、単に道具として、あるいは、試験のために勉強をした人かの違いになると思う。
 ちゃんと勉強をした人は、必ずいろいろと間違えている。右往左往しながら勉強をしているようなものだ。絶対に効率良くは勉強をしていない。興味関心だけでも勉強をしていないと思う。でも、やった分は、どこかにため込まれて、熟成してくる。記憶となって残っていると言うより、痕跡となって残り、その痕跡が、その後に出会う何物かを変成させるのではないのかと思う。

 私が、人と話をして、その人が、本当に勉強をした人であるかどうかは、痕跡の有無を感じるからだろう。

学校の先生の話

2009年04月21日 | 教育
は、大抵、つまらない。
 なんで、あんなに枝葉末節のことばかり、話して(書いて)いるのだろう。目に見えるのは、それらだけど、もっと基本になる部分があって論議すべきはそこだろうに抜け落ちている。(政治家こそ、そうなのだろうけど。)
 ちょっと話は違うけど、事務処理能力が高いと「仕事が早い、仕事が出来る」と判断する根拠に似ている。そりゃ、事務処理能力も、重要な能力ではあるけれど。コンピューターの時代だから尚更だと思うが。
 でも、何か、ちょっと違うよな、と思ったりする。それだけではないだろう、って。
 私が面白いと感じるのが、「視点の移動」に関することで、で、たぶん、ふつーの人(具体的にはよくわからないけど。)の「視点の移動」では、移動したことになってないように思う。平面移動のような気がして、そんなのは、移動じゃないとおもってしまうのが原因にあると思う。
 まあ、これは、性分だから、しようがないだろう。養老先生が面白いのは、移動が俯瞰的で空間的だと感じるからだ。

 養老先生の本が2冊出た。JALの雑誌に連載していたものと、もう一つ、対談。JALの方は「聞き書き」だから、文体が、やたら甘ったるくてちょっと鼻につく。でも、本はないよりマシだ。けっさくなのが、アンケートの葉書が入っていて、購入の理由に「養老孟司氏の本だから」というのがあった。笑ってしまった。

英作文の授業あれこれ

2009年04月20日 | 教育
 英作文の授業がけっこう好きである。英語ができないにもかかわらず。(笑)これが正しい表現だから覚えなさい、と教える気がないからだろう。(苦笑)
 from now on というよくある表現が出てきた。このon意味は?と聞くと、みんな知らないようだった。辞書を引かせて探させた。ノートに用例を書かせる。書いたら、向こう三軒両隣で、どんな例文を書いたかのおしゃべりタイム。しばらくしたら、違う人とのおしゃべりタイム。でも、これって、人と同じ辞書だと、あまりおもしろくない。このおしゃべりタイムは、けっこう昔からやっている。低学年でやっても楽しい。ただ、辞書を引きなれていないと、ものすごく時間がかかる。ときに、言われた単語だけこれをすればいいと解釈する生徒がいるのは困る。
 で、今回は、次にkeep -ing とkeep on -ingの違いを考えさせる。(板書にkeepがあったし。)辞書によっては、たぶん、違いが書いてあるんじゃないのかと思う。でも、たった今学習したonの用法から、自分で考えさせる。仮説を立てるのである。違っていてもかまわない。気がついたときに、後で修正すればいいだけの話である。指名したら、それなりのことを言ってくれた。でも、大事なのは、とにかく自分で考える、仮説を立てることなんだ、と強調した。勉強は、どんな勉強も仮説を立てることから始まる。でないと、本物の勉強に通じない。
 「自分の書いた作文を何でもかんでも先生に添削してもらうようでは本当の力はつかないよ」と言っておく。いちいち持ってこられるのは、第一面倒だし、好きでない。(と、書くと、私の単なる「好み」の問題としか捉えない方がおられるだろうが。)生徒には、「この授業は、自分で自分の作文の添削ができるようになる方法を教えるつもりでいるからね」と言っている。「だって、大人になったとき、先生がいないとき、頼れるのが自分の力だけの時、これができなかったら困るでしょ?」というと頷いてくれる生徒がいるのは大変嬉しいことである。
 それで、自分で添削する能力を高めると、自動的に、英語の力そのものに応用力がついてくるものである。英語の感性が豊かになってくるんだろうな、と思う。
 今までもこのようなことは言っていたが、断言できるのは、昨年の添削地獄のお陰だろう。