考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

演習の前にまず「読解」をしろ

2008年09月29日 | 教育
 問題を解く前に、まず、読解できるようにしろ。でないと、問題も解けない。ちゃんと解けない。事前に読解の練習を十分にしておけば、試験でたとえ真に読解できなくても、そこそこ問題は解けるようになるものである。最初から解くための読みをするな。読めなくなるぞ。
 ハラが立ってしょうようがない。
 もー、目先ばっかり。

音読とs

2008年09月29日 | 教育
 自由英作文の添削をしていると、やったら多いのが呼応の間違い。それも例えば、受験英語のnot only A but also B などではBに呼応する、なんていう高級な(?)パターンではなく、Every+複数名詞で動詞にsが付いていたりいなかったり、All +可算の単数名詞だったり、People is とか、民族などという意味でもないのにPeoples are とか、まあ、いろいろ。He have とか当たり前。で、散見される程度ではないのが問題。間違える生徒は、ほとんど間違えている。複数扱いの名詞であろうとなかろうと、名詞にsがついてないときは動詞にsをつける、名詞にsがあれば動詞にsは付けない、という誤解をしているのではないかと思われる生徒もいる。正直言って、毎回毎回その生徒がどんな間違いをしているかまでは覚えてないから、その度ごとに添削しているが、なかなかである。2学期に入って、さすがに少しだけ減ってきたような気がしないではない、と言う程度。

 読解の授業では音読をさせているが、三単現のsや複数形のsを見事に飛ばす。最初は読み間違いだと思っていたが、私の間違いだった。構造的な問題である。彼らは、sを全く無視しているのである。というより、全くの「意識の外」だものだから、なかなか直らない。こういうsは殊更大きな声で読み上げる必要はない。が、ちょっとつまる(というか何というか)感じになるなりなんなり、聞こえなくとも読んでいるかいないか、意識しているかいないかの違いはちょっとした「間」で分かる。ああ、これではリスニングだってできないだろうなぁと思える。
 じゃあ、今まで1学期の間、何やってたんだ、と言われそうだけど。。。まあ、それなりに注意していたつもりではあったけど。。。テキストが変わって如実にはっきりしてきたような気もする。

 そうそう、だからか何なのか、近年、「いい加減な発音」の生徒が増えた気がする。母音の発音が、[ei]なのか[ai]か[i:]なのか、[ae(←出し方知らない)]か[書いたときのブロック体のaの発音]とか[逆さのv]とか曖昧母音の違いなんてのも、とんでもない。その辺りの発音がいい加減。曖昧なままに発音して済ませてしまっている。元々は中学のアクティビティ中心の英語の弊害じゃないかと思ってしまう。「その時」「その場」さえ良ければいいというような。。。

 根底にあるのは、「注意力不足」であろう。試験でも設問をよく読まずに答える答案も多い。
 全部、共通するものがあると思う。注意すべきところで注意しない。違いに鈍感。つまり、「感覚」が鈍い。ふむ。これも脳化社会と言うことなのか。しかし、その割に抽象化能力が高いとも思えない。

 これでは、将来、小さな事故から大きな事故まで、あちこちでいろいろなことが起こるんじゃないのか、心配になる。

効率重視という魔のスパイラル

2008年09月28日 | 教育
 私は真面目な生徒だったから、英数古漢は必ず予習をしていた。ちゃんと予習をしていれば、大体わかった、と思う。で、たいてい、授業中に復習をしていた。でも、それでやっと本当にわかると思えた。何の教科か忘れたかが、一度ろくに予習をせずに授業を受けたことがあった。わかることはわかった。でも、身に付かないと思った。だから、ちゃんと予習をしていく必要性を感じた。

 生徒を見ていると、だから、この子たちは勉強が出来ないんだなぁとしみじみ思う。
 私みたいに、ちゃんと予習をして、それで更にちゃんと授業を受ければ必ずよく分かる、習得に至る本物の理解に繋がるのに彼らはそうしない。ああ、もったいない。
 予習をしてきてもそれだけで満足げで、授業中にそれ以上の学習をしようとしない。ノートに書いてあればOKとでもいった風情である。そうじゃないんだ、と言っても、なかなか通じない。で、予習無しでも結構わかれば、まるで、予習は無駄と考えるているかのようだ。まあ、予習ができてるとそれなりにわかるから、それで満足し、学習停止状態に入るようである。彼らの目的は「わかる」ことであって決して「習得する」ことでないのだ。だから当然といえば当然の所業である。

 もう一つ言えば、試験前にきちんと復習をする。それも、最低2回は同じことをする。そうすれば、記憶にも長く残り、模試であってもそれなりにできるようになるというものだ。「お、これは、問題集のあの問題と似ている」「この単語は構文集で覚えたものだ」--じゃんじゃん出てきているのに気が付くことが出来る。でも、気の毒に、多くの生徒は「気が付かない」のである。模試を真っ新の状態で受ける。模試は模試、定期試験は定期試験で「対策が異なる」、だから、受験の仕方も違うと思っているかのようだ。

 彼らの勉強の目的は、その時々によって異なるのである。「今回は試験対策」、「今回は授業の予習」、「今回は提出」になったから、目的が少しでも異なればやることの全てが異なると考える。興味深いのは、目的が「習得」という学習における根幹から悉く外れているのである。
 だから、たとえ習得した内容であっても「共通項」として捉え扱う術も力をそもそもから欠く。よって、皮肉なことに、頑張ろうとすればするほど、目的と学習方法が尚更に細分化し、「やっぱり大事なのは試験対策」という、一見効率的に見えながら実は最も効率の悪い「魔のスパイラル」に陥る。で、これにはまればはまるほど、彼らは保護者共々教育産業に貢献し、日本の失業率を下げ、経済の活性化と熱帯雨林の破壊を促すのである。

 ふむ。
 このように考えると、スーパーの洗剤売り場でも、調味料売り場でも、種類がどんどん増えてきているのと何ら変わらないんだなぁ。
 なるほど。

「昔」と「今」がいつか、って言われても

2008年09月27日 | 教育
 ある文章(ちなみにブログじゃない。)に「昔の子供は」「今の子供は」など、昔と今の傾向の違いを対比的に述べた。すると、「昔とは、いつ頃のことなのか」という疑問を呈した人がいた。

 えっとね、この語法は、「いつ頃か」という時代を問題視しているのではないのです。子供の様子が変化していることを述べているのです。

 変化しているという事実は見いだせる。おそらく誰でも見いだせるという確信がある。なぜなら、「傾向」が誰でも見いだせるからである。もちろん、10年前であろうと20年前であろうと、30年前であろうと、たぶんもっと前だろうと、今の子供のような子供はいたし、今だって、30年前のような子供はいる。しかし、大勢を占めているのはどっちだという問題意識である。

 日本史で(あ、書いたことがあるかな?)、授業や教科書で、元禄時代は元禄文化が花開いた安定した時代であると習った。しかるに、私は年表を見たら、まさに天下太平のその時代にあっても、一揆が起こっているのを発見した。しかし、天下太平は、江戸時代を概観した場合、元禄時代は、「比較的安定していた」ということであろうし、一揆にしても、江戸初期?の一揆と以降の一揆には異なる性格が見いだせるそうだ。私が見付けたその一揆は、後世の一揆の兆しだったようだ。

 まあ、世の中の変化のたいていは「正規分布状態」で起こっているのである。新しい何かが起こる。普通、これは、「予兆」とか「兆し」と捉えられるが、本当のところ、予兆とか兆しは、何かが起こったその時になされる判断ではない。それに類した事象がその後も続くとなって始めて、「これこれは何々の予兆であった」と言うことができるだけである。それまでと違った物事が起こりはじめたまっただ中でできるのは「そういう場合もある」という例外扱いすることだけで、それ以上の判断は実のところ何も出来ないのである。しかし、「例外」があちこちで、或いはその後も続くとなれば、例外は例外でなくなり「よくある事象」としてカウントされる。それで初めて、最初の例外が「兆し」だったことがわかる。で、徐々に頻度が高まり事例が増え始める。しかし、それも、上がったり下がったりしながら高まったり増えたりするだけである。よって、ピークがいつだったのかも、何だか徐々に下がり始めてきたかな、と感じ始めて、あとで、ああ、あの時がピークだったのかとわかる。数十年にわたる時代の変化、人の変化なんてそんな程度のものである。
 何が言いたかったかというと、上記、要は、正規分布のグラフを2つべる。横に並べた2つの山の左の方の下がる途中当たりに、右側の山の上がる途上の線が重なるように置いて書けば良いだけの話である。(まあ、記憶力の悪い私が歴史で学んだことの一つはこういうことである。)それで、左が「昔の子供」、右が「今の子供」と言うことになる。今でもいる「昔の子供」は、裾野が長く右(今)に伸びているということである。

 同じようなことは教育内容そのものにも当てはまる。

 「知識の詰め込みや先人の考え方の受け入れ」「自分でものを考える」は、順序で言えば、この通りである。じゃあ、「いつまでが知識の詰め込み」で「いつから自分でものを考える」のかも正規分布状態になる。否、正確に言えば、「知識の詰め込み」は右上がり状態のままである。だから、高校生になっても授業における「知識の詰め込みや先人の考え方の受け入れ」は一向になくならない。無くならないどころかどんどん増えていく。それでも、少しずつ「自分でものを考える」も増え始める。

 たぶん、小学生が嫌がる「読書感想文」が第一のそれだろう。小学生が感想文を嫌がるのはもっともな話である。なぜなら、彼らにはまだ「自分でものを考える」習慣も訓練も何も行われていないわけだから、何を基準に考えて良いのかもわからない。書く方法も身に付けて無いのだから、まあ、とにかく、慣れていないのだから、もともとその才能のある子でもない限り嫌がるのが常である。私だって、大嫌いだった。作文、感想文、みんな苦手、キライ。だから、小学生の時「○○大学の何々学部には卒論がない」と聞いて、ただそれだけの理由で、是非ともその大学のその学部に入りたいと思った。(大学に行くつもりはあった。)もちろん現実は違った。
 ちょっと前だけど、「クローズアップ現代」で「ネットのコピペ問題」を取り上げていた。大学生のレポートと小学生用の感想文サイト(写せば良いだけのサイト)の話だった。小学生の感想文サイトの主催者が「小学生が感想文を嫌がる。今しかできないことをやると良い。感謝のメールが来ている」と言う。私は、なんてヤツだと思った。「今しかできないこと」が感想文を書くことであろう。まあ、感想文には是非があるのも知っているが、それでも、うんうん苦労して、「はて、自分はこの本を読んだとき、何を思ったのだろうか」とふりかえることそのものも重要な過程ではないのか。これがないことに、書くという作業もない。遠足だってなんだって、「面白かった」「いやだった」が小学生のふつーの思考であろう。というか、私はそうだったのだけど。「面白かった」としか感じてない子供に「どこがどのように面白かったのか思い出せ」というのは、過酷だが、それでも言われれば何かは答えるものである。その過程が大事である。(ところで話は変わるけど、このサイトのコピペは止めてね。著作権は管理人の「ほり」にあります。「引用」の場合は、ちゃんとアドレスを明記するなり出所がどこか、見た人、読む人にわかるようにしてください。私は内田先生と違うから・笑)

 中高生になると、文章を書いたり発表したりする機会も増える。(あ、今は、小学校の方が多いかも。)まあ、大学入試に「小論文」なんてものもあるが、それで、自由英作文なんてものもあるが、私は受験に課題とする効能を信用していない。思考力がまだ十分に整ってない生徒に通り一遍の安直な「作文でっち上げ方法」を教え込み、植え付ける無理を感じる。
 ただ大事なのは、「文章を正しく書く訓練」であるとは思う。だから、題材はなんだって良いのだが、恒常的にやらせるのならば、精々で文章の要約や歴史でも理科でも良い、学んだことを特定の視点で纏める論述問題であろう。それで中高生の考える訓練は十分ではないのだろうか。薄っぺらな知識や方法で、独創的な思考が出てくるわけがない。
 思考が複雑になってくると、それだけ「考えられなくなる、表現できなくなる」事態も生じる。自分が学んだことについて特定の視点で纏める場合であっても、どのように表現して良いのかわからない、などの苦痛が伴うことが多い。(だから、生徒は記述問題を嫌がる。)「わからなーーい」という苦痛に対する耐性の問題でである。こういった訓練は必ず必要である。また、いわゆる学習したことでなくとも、自分の経験に照らし合わせて物事を捉える訓練をするのもいいことだ。なにかをもとに「これって、どういうことなのだろう。私ならどうだろう。」と考える体験も人を成長させる。よって、私は1年に1回程度の「読書感想文」の宿題はあった方がよいと考える。まあ、生徒の感想文を読むと、彼らの考えがいかに浅薄であるかがよく分かる。
 で、「自分でものを考える」なんて、大学に入って、大人になってからで十分である。自分を見てそう思う。大学で自分で物事を考える真似事をし(ただし、コピペは「真似事」でない。)、本当に自分でものを考えることが出来るのは、まあ、凡人には30も過ぎてからであろう。それまでは、どこでどのようにあがこうと、口から出る言は所詮借り物でしかない。言うなと言うほどのことでもないが、その認識を持った方が、自分の物差しを持って本当に考える力が付くのではないのかと思う。人生は長い。


単純なことの理解は難しい

2008年09月27日 | 教育
 生徒が勉強で躓くのは、大方が「基本に戻れない」ことである。理由が2つある。

 一つは、「基本そのもの」を知らない、或いは、基本だと思って学習していることが実は本物の基本でなかった、ということである。だから、基本に戻れない、と言う事態が生じる。
 「英語の基本はS+V」--私に言わせればそれで十分なのである。その上での動詞を学習する、それが基本である。しかるに、5文型だのなんだの、時制だと準動詞だの、いろいろ分類して学習をする。それぞれに並列的に基本があると教える、学習する。
 だから、本当の基本を身に付けてないから、右往左往することになる。もちろん、それぞれの文法分野などの知識は必要であるが、それらは、体系化した場合における「わからないときに戻る基本」でないことが多い。だから、生徒は困惑する。

 もう一つは、ものごとを丸ごと捉えるクセが抜けきれないことである。大体私が物理が出来なかったのがこれである。分解できない、丸ごとで捉えようとする、だから、できない。言わば、「落下スピードを考えるときには摩擦を考えない」という思考方法が採れない。どうしても、摩擦が気になる。「だって、実際にハネと石を落とすと、たとえ同じ重さでも、落ちるスピードが違うじゃないか。ならば、同時に考えるべきではないのか」と言い張ることになる。
 出来ない生徒のパターンがこれである。英語なら、英語の文全部をいきなり理解しようとする。そんなの、無理に決まっている。いかに分解をするか、その方法を身に付けていない。お鯛さんのような尾頭付きのおおきな魚を食べるのにも、アタマっから食らいつこうとする。これでは骨ばっかりがひっかかって食えるわけがない。やっぱり、お箸で丁寧にほぐしてやらなければならない。それも、身の繊維にそって上手にほぐしていくのが正統で、しかも、「美しい」食べ方である。食えればいいというものでは決してない。「ほぐす」は「解す」である。出来ない子は、解すのが下手なのである。出来る子は、解すのが上手い。それも、誰が見てもわかるように美しく解す。一体に思われるものをパーツに分ける。勉強はここから始まる。
 パーツの分け方は、まあ、それぞれあるのだろうが、なるべく大きなパーツに分けて、それからだんだん小分けしていく。その際必要なのは、まずは単純なパーツに分けることである。このパーツが「基本」なのである。
 如何なる応用的な問題であろうと、必ず単純なパーツ、つまり基本の合成でしかない。だから、如何なる問題であろうと、基本というパーツに分けて考えることが必須なのである。最初に□に分けて、それから△に分ける、と言う方法があるかもしれないし、最初は△で、それから□を探し出して、と言う方法でいく方が良い場合もあるだろう。いずれにせよ、パーツに分けて考えることが有効なのである。
 この方法に慣れると、如何なる問題も、大局的に見た場合であってもパーツの組み合わせに見えてくるのである。そうなれば、しめたものである。というか、それでやっとはじめて「モノ」が見えるようになるのだ。

 しかるに、このように単純化してものを見るというのが、もっとも難しいのである。視座を得ることに繋がるからであろう。基本を知り、基本に戻るのが難しいのは、視座を得ることだからである。(このあたり追記有り。)
 
 勉強が出来る子は、このような思考方法を取る。複雑に見える構造に単純な基本を見出す。
 養老先生が面白いのも、単純な基本に立ち戻っているからである。


養老本新書の宣伝その2

2008年09月26日 | 教育
『本質を見抜く力 ― 環境・食料・エネルギ-』PHP新書(竹村公太郎との共著)は、これもまた、途中だけど、めちゃ、面白いです♪
素直に読めて、お薦めです♪

こんなの読むと、学校って、何を教えてるんだろうと思う。
もっとちゃんとしたことを教えると良いのに。

↑あまり関係がないけど、テクストに、やたら数字が出てきている。アンケートの結果が文章で表現されていた。で、その結果が細かい数字になって結構出てくる。で、ややこしい。生徒に、「表を作った人?」と聞いたら、誰もいない。
私だったら、表を自分で作って、それで内容理解の補助にする。で、「ノートに自分で作ってごらん」と言ったら、なかなか筆が進まない子がそれなりにいる。
項目をどのように設定したら良いかがわからないのである。
あー、末期的。。。
プリント学習の弊害である。たぶん、今まで、「表」は、数値などを書き込めば済むように出来上がっていたのであろう。だから、自分で「枠組み」を作ることが出来ない。
そのうちに「大きさは?」と声が上がった。「いやぁ、それぞれの枠のスペースをどれだけにするかは、非常に難しいんだよ。書き込む量によるからね。自分で考えるんだよ」
エクセルでも、何でもそうだよなぁ。。。

えー、何度も書いてますが、ウチは、ほとんどの生徒が大学に行く学校です。

教養って、人の思考を根底から理解することではないか

2008年09月25日 | 教育
 養老先生は、教養とは人の気持ちだっけ?心を知ることであるとか、かつてどこかで書いていたか言っておられた。
 自称弟子が師匠に対して疑義を申し立てるのは御法度であろうが、実は、ちょいとばかり世間に迎合した言ではないのかなと思っていた。

 教養とは何かと言う定義は難しいと思う。そのようなタイトルの本もある(と思う)が全く読んでいない。教養が何かなんて改めて考えたことがなかった。でも、ふと、思った。「教養がある」とは、「人の思考を根底から理解できること」ではないだろうか、と。もちろん、これだけが教養の定義になると思わない。しかし、人と人の対話--「聞く話す」であっても「読み書き」であっても--における教養を考える上でかなり有効ではないかという気がした。

 時空を越えた対話である「読解」を通して、このことについて考えたい。(自分の教員としての経験を踏まえて、まあ、具体例として出すけど、便宜的なものね。本質的にはなくてもいい。大体、要旨は上記に書いてしまった。)

 授業で読解をしていると、生徒はなかなか文章が読めない。理由はいくつかある。まずは言葉そもののの問題。母語であろうと外国語であろうと同じである。理解できない語句が溢れる文章は理解できないか、非常に理解しにくい。次に、文と文の繋がりが読み取れないせいで、書き手の思考を追うことが出来ない。同様に、段落と段落の繋がりが読み取れず、まあ、要は、書き手の思考を追うことが出来ないせいで、主張を読み取ることが出来ないのである。
 端的に言って、「書き手の思考を追うことが出来るか」に収束するのではないかと思うのだ。

 書かれた言葉については、読み手の語彙力、通常の言葉に関する知識の有無による。更に、その語や語句が何らかの前提を基に使われた語や語句だったりする場合がある。もっともわかりやすい例で言うと「専門用語」の類である。パソコンであっても哲学であってもなんの学問であっても、その用語を理解する前提たる更なる知識が必要であるということだ。また、「本歌取り」で使用される語句もこの類になるだろう。本歌を知らないことに、その歌の真の理解が得られない、味わいが乏しくなる。そのテクストを通してのみ理解できる知識だけでは、そのテクストが真に意図するものの理解に到達し得ないということである。
 生徒がつまるのは、この辺りもある。科学系の話でアインシュタインが出てきたとしても、アインシュタインが如何なる人であるかと言う知識が全くない状態でそのテクストを真に理解するに至らないことなどである。これは「書き手は知っているのに読み手が知らない」というミスマッチゆえに生じる読解不能の状態である。
 従って、書かれた内容を理解するためには、使用語彙を理解することが大切になる。それには、通常の語彙レベルの問題とその語彙が持っている背景的知識を知ることが必要で、これが「教養」の一部と考えられる。
 ただ、言葉は常に文脈依存性や状況依存性(これは日本語特有なのかな?)を持つゆえ、文脈を追った上で、その語が指し示す内容を読み手が判断しなければならないという仕事を伴う場合がある。読解が難しい文章は、これがおおかったりもする。極端に卑近な例では、「キライキライもスキのうち」であろうよなぁ。(笑)まあ、こういうのは人生経験で学び取れる?ものだろうが、国語の問題で、少なくとも2カ所に出ている同じ語に下線が引いてあって、「下線Aと下線Bの違いを述べよ」なんていうのは、ものにもよるが高度である。文脈に即して筆者の主張を鑑み、答えなければならないのだから。それで、そのような読み方をしなければそのテクストを真に十分に理解したことにならないのである。

 次に、文や文章(段落など)を追えないという事態がある。論理的で明晰な文章の場合も読み手の能力によって困難だが、テクストそのものの論理性やその他書き方に不備がある場合、より困難になるとも言える。
 前者は授業、後者は生徒の自由英作文を見ていると、しばしば遭遇する事態である。
 後者を例に挙げると、「書き手は何を言いたいのか」は、私を実に悩ませる。しようがないから、書き手の生徒の思考に入り込むという作業をする。だいたい英語そのものもそんなにちゃんと書けているわけでないから、なかなか困難である。それでも、「間違い方」には、英文法上の間違いから日本語による思考法に起因する間違いと思われるものが散見される。(この点、ネイティブが理解不可能なことであっても私ならわかる、ということがよくある。)また、高校生としてありがちな思考法を考慮し、日頃の態度を鑑み、マスコミなどの受け売りは入ってないかと考える。こちらが持つ「ありとあらゆる思考法」にありったけの探りを入れて、それで、「君が言いたかったのは、こういうことじゃないのか」という断りをつけ、それを代わりに英語で表現してやる。もー、これ、大変なんですよ。(ついでに言うと、内容が深いものはそれでいいが、どう見ても浅すぎるのは、「ここまで考えたら?」と私が思う内容を示す。英語だったり日本語だったりするけど。だからさぁ、大変なんだってば。)
 余計な具体例が長すぎたが、論理的な文章であろうと、そうでない下手くそな文章であろうと、「書き手が何か言いたがっている」限り、読み手はその主張を汲み取ることが読解そのものの本質である。(当たり前だけど。)

 ここにおいて、あくまでも「書き手が何かを主張したがっている」かぎりではあるが、「このテクストはワケが分からないから無意味だ」という解釈はあってはならない。「ワケが分からない」のは何故かを突き止める重要性を思う。

 英語の入試問題だと、例えば京大の問題は「教養の英語」と呼ぶべきものだろう。
 最近では随分と易しくなったようだが、語法などはもちろんだが、書き手の考え方、思考の順序、背景的知識がないことに十分な読解は不可能である。(この点、東大の英語は事務処理的である。)代名詞itが何を指すかも、文脈を理解した上でないと正確な読解に至らない。評論でも説明文でも、それがどのようなものであるかの事前の知識の有無などで、十分な読みができない。物語のような内容であっても、人物が置かれている状況をしっかりとつかみ取らないと読めない。これらはそれだけテキストに含蓄があることを意味するだろう。ために、深い読みを要求するわけだから、こちらも相応の背景的知識や論理展開の理解がないと読めない。逆に、それらを持ち合わせていれば、真の意味で深い内容を味わい、読みこなすことができるわけで、「楽しんで読める」のは京大ということになる。問題形式も相変わらずの和文英訳だから、変な空欄もないので思考を何も煩わせ滞らせる必要がない。
 繰り返しにもなるが、マトモナ意味での難しいテクストも、そうでない(生徒の書くような滅茶苦茶な英語の文意不明の)難しいテクストも、それだけ読み手に要求するものがあるということでは共通する。それで、いずれも、書き手の思考にこちらがひたすら沿うことが必要なのだ。
 それで、マトモナ意味での難しいテクストには、それなりの難しい?知識や論理的思考が必要になり、取りも直さず筆者の思考の前提や根底がこれに中るだろう。マトモでないテクストであっても、何故に筆者はこのようなテクストを書いたのかという根源に遡った上で読み解くことが必要になる。

 この動的な過程こそが「教養」、少なくとも「教養の大きな部分」を占めるのではないのかなと私は思う。

 ↑書き殴りだから、上手に書けてない。


養老本新書のご案内

2008年09月23日 | 教育
角田光代さんとの往復書簡のようなものが出た。「脳あるヒト心ある人」扶桑社新書
大体読んだが、ふむふむ、養老先生のおっしゃることには同感する。角田さんの話は、養老先生の言葉の前菜のようだ。2ページ見開きでそれぞれ書いてみえる。養老先生の文章は、最後の段落にまとめのような言いたいことが書いてある。読みやすい。以下、最後の段落。

>言葉でないものが大きな意味を持つ。そういう世界を私はむしろ豊かだと思っている。そこから言葉が「生まれてくる」のであって、言葉が世界を規定しているのではない。でもどれだけの人が今ではそう思うのだろうか。(41ページ)

>現代は言葉が優越する世界である。だから言葉は大切だが、それにあまり頼ると危ない。それだけは言っておきたい気がする。言葉には定義があると信じる学生に教えたかったのは、そのことだったのだが。(45ページ)

>若いうちは自分で考えればいいと思っている。人間はたぶんそれほど利口ではない。わからない。そう思いながら、答えがやってくるのを待つ。そうすると思いがけない方向から、答えが降ってくる。それでは遅いという意見もあろうが。(61ページ)

>考えてみれば「わかる」のは理屈ではない。なせかわかってしまうのである。どうしてわかったと聞かれてたって、それがわからない。説明をしたところで、相手が納得するとも思えない。私は理屈を言うのは得意だが、他人を納得させるのは苦手なのである。(77ページ)

>今の自分に見えている世界なんて、世界のほんの一部分にしか過ぎない。同じものを見ていても、見ようによって世界は違う。大きく目を見開いてみたらどうだろうか。(81ページ)

>・・・でも方程式を考えてみればわかる。あの短い形の中に、無限の具体的な例が入ってしまう。それは驚くべきことなのだが、今の人はもうそれに驚く感性がないであろう。・・・算数で苦労をしていれば、代数のありがたみはイヤでもわかる。今では代数を前に教えてしまう。それなら代数のありがたみは永久にわかるまい。(105ページ)

>買い物が当然であるお母さんが、子どもを育てる。子どもはまず消費者として人間世界に登場する。その子どもは学校で消費者として行動をする。これは実につじつまが合っている。念のためだが、私は子どもの時にほとんど買い物をしたことがない。(121ページ)

養老先生は、「ものの見方」について述べておられることが多い。だから、共感できる。おお。そうだよなぁと思います。
まだ全部読んでないけど、詳しくお知りになりたい方は、本屋さんへ行きませう♪


脳味噌の棚卸し

2008年09月21日 | 教育
 私は「店」を持っている。棚がたくさんあって、かなり複雑に入り組んでいる。全く整理も買い物もしにくい構造で、店主の私ですら、全てを理解しているわけでない。だから、お客さんによっては何がどこに置いてあるのかわからないことがあるようだ。店主として、何がどこに置いてあるのかはそれなりにわかっている。しかし、無責任だと言われそうだがそれを説明してくれと言われても、必ずしもできるとは言いきれないから、わからないお客さんがいても、まあ、しようがないよなぁ、と思っている。
 でも、店だから商売をする。この商品が売れそうだな、とか、この商品を今度は売りたいなと思うと、私はそれらが置いてありそうな棚をごそごそとまさぐる。それで、めざす商品を捜し出してカウンターや陳列棚に載せる。
 しかるに、これまで、かなりの頻度で奇妙なことが起こってきた。棚を捜していると、一つの棚が奥の方で全然違う壁面の棚とくっついていることに気が付くときがよくあった、よくあるのだ。店主のくせに、棚の奥の構造を知らないのはいい加減だろうが、致し方ない。そもそもこの種の店は「そーゆーもの」であるのだから。で、主として驚きはするものの私は何だかひどく儲けものをした気分になる。うまい見付け物をしたと嬉しくなって、私は新たな商品を抱き合わせをして陳列棚に置く。
 でも、もう、棚の奥の構造もはっきりしてきた気がする。細部はまだ入り組んで明解でない部分もあるだろう。それでも、だいたいこんなところかなと思うと、その通りの構造になっていたりする。
 昔は、商品を探し出す喜び、見付ける喜び、陳列する喜びがあった。しかし、最近は、ちょっと傾向が変わってきた。大体の商品の位置、棚の構造はわかっているから、探し出そうとするエネルギーなどの労力はさほど関わらないのである。エネルギーが掛からないのは良いことのようにも思われるが、それはそれで、喜びも減じて来ているのも事実なのだ。で、ふつーではつまんないから、同じ商品をわざわざ違う棚から取り出そうとしているときがあるような気もする。で、奇妙なことであるが、この2つの行為は、本人としてはかつての方が動的で、最近の後者は意外に静的な気がしている。なぜなら後者は「在処」がわかってるから、かかるエネルギーが少ない。使うエネルギーが「時間的な手間」だけに変じてしまってきたのだ。
 面白みそのものは減っている。が、逆に、店主としては、まあ、ようやくそれらしくなってということかもしれない。しかし、時間が掛かるのは、昔も今も変わりない。これが実はなかなか困ったことなのである。

君たちが学校に来ることが出来るのは

2008年09月21日 | 教育
人間は、喰うことを他の行為から独立させることが出来たからなんだよ。だから、今晩のご飯がなかったらどうしようと悩まないでしょ。食べ物を貯えることが出来るようになって、余裕ができたから、学校に来て勉強ができるんだよ。ただ単にお父さんお母さんのお陰じゃないんだ。もともと学校のschoolは、ギリシャ語のヒマから来てるらしいからね。なぜ「ヒマ」が生じたかってことだよ。
(近年はここから、最終的に「いつでもどこでも飲み食いしながら歩いたりするんじゃない」に続いていくことが多い。)

↑あ、でも、これ、ずいぶん前にも書いてるな。しゃべり始めてから20年くらいだろう。