考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

「聞こえませんでした。」

2012年05月14日 | 教育
 校内外を歩いていて、気になる生徒を見かけて声を掛けると、直ぐに止まる生徒とそのまま行きすぎる生徒がいる。名前を呼べばたいていは振り返って止まるが(それでも止まらない生徒がいないと言わない。)、そうでなければ知らん顔をしてそのまま行き過ぎる生徒がいる。それでも(追いかけるときもあるが)呼び止め、止まらなかった理由を聞くと、非常に多くの場合、「聞こえませんでした。」と答える。(「自分のことだとは思いませんでした。」と言う生徒は希。)

 この「聞き終えませんでした。」の理由には、2通りがある。本当に聞こえなかった場合と、聞こえなかったことを理由に逃げようとする場合である。
 しかし、こちらはかなり大きな声を出しているので、聞こえないはずがない。周りの生徒が振り返ることもある。もし聞こえていないとしたら、医療の対象になるだろうし、そのような生徒なら私は把握している。
 該当する生徒に逃げようとしたのだろう、と聞くと、そうだ、と言う生徒もいれば、それでも、逃げようとしたのではない、聞こえなかった、と言い張る生徒がいる。徹底的に指導から逃げようとするのである。
 イヤミに、今のが聞こえなかったら医者に行くべきだと言ったこともある。
 が、通常の聴力で「聞こえませんでした。」が事実としたら、聞こえない方が悪い。

 そう、聞こえない方が、聞こえて逃げるよりも実のところ遥かに悪い。

 球技の試合中、飛んでくるボールに気がつかずアタマにでも当たったとしたら、ボールが悪いのか、それとも、飛んでくるボールに気がつかなかった自分が悪いのか、どちらだろうか?
 言うまでもなく、気がつかなかった自分が悪いのである。そんなメンバーばかりのチームは必ず負けるだろう。
 「聞こえなかったのだから、仕方がないだろう。」と言い訳をする生徒は、負けるチームのメンバーである。

 私が聞こえて逃げるよりも聞こえない方が悪い、と言う理由がこれだ。
 球技の初心者は、自分の方向に飛んでくるボールに気がつかないことがあるだろうが、練習を通して自分を感覚を磨くことで、飛んでくるボールに気がつくようになる。「聞こえませんでした。」と言いきる生徒は、鈍感な初心者のまま居続けようとしているわけだから、それで良いはずがない。
 
 スポーツも勉強も、日常生活も同じである。似た概念の違いに気がつかなかったら、落ちているゴミに気がつかなかったら、学力も付かないだろうし、商店を管理する立場なら顧客を失うことになるだろう。
 内田先生に言わせると、「かくれんぼ」や「ハンカチ落とし」の「気配」を感じるどころではない。呼ばれていることにすら気がつかないようではどんな直感も身に付くまい。生き抜く力になるまい。

 自分で「聞こえなかった」ふりをする生徒は、自分の感覚を鈍磨させることにして逃げて逃げて逃げまくろうとしているのだろう。また、先生を前にした場合、自分が指導を受ける立場であるという自覚が全くないわけでもある。これで勉強だって、スポーツだって、できるようになるわけがない。

 というわけで、生徒にしてみれば、実に、イヤな叱られ方だと思う。

日本の教育「レミング」論

2012年05月08日 | 教育
 今の教育は、生徒が集合的な意味合いで今後の社会の担い手であることを考えていないように思う。考えているのは、一人一人がどうであるかだけだ。教育は受けた個人の利に処することが当たり前の世の中になっているということだろう。だから、受験をする小学生にも難しそうな試験問題にはチャレンジせずに、点を落とさないための訓練をさせてしまう。その方が、その子供が「受かる」確率が高くなるからだ。「一人の個人が、同年齢集団においていかに有利になるか」と言う計算ばかり働いていて、その年齢集団のポテンシャルをいかに高めるかを全く考えていない。集団全体のポテンシャルを高めたかったら、どんどんチャレンジする生徒が大勢いる方が断然伸びる。しかし、教育が「個人の利益」のためとしか考えない人が圧倒的多数を占める集団は、全体のポテンシャルを落とし、いずれ滅びるだろう。
 みんな、決して頑張っていないのではない。みんな、子供も大人も、皆が皆、一生懸命に頑張っている。しかし、その結果が滅びへの道まっしぐらと気がつく人はいないような気がしている。

 「見回せば誰だって一生懸命にやっているんだよ。そのどこがどうしていけないと言うの?」

本質を教える

2012年05月05日 | 教育
 この頃(でもないけど)思うのは、英語は英語圏の人なら、どんなにアタマの悪い人も英語をしゃべり、そこそこの教育を受ければ書くこともする。人間は母語を獲得する能力は持つらしいが、それぞれの「言語」が独自に持つ「原理」は、けっこう、単純ではないのだろうか、と思うのだ。当てずっぽうである。正しいかどうかわからないが、英語の習得が難しいのは、我々が英語という言語が持つ「原理的な本質」をつかんでいないからではないか、と疑うのだ。

 あの分厚い文法書は何とかならないものか。
 英語の文法はもっともっと単純ではないだろうか。
 文法書には、「語彙・語法」と言った、必ずしも「文法」ではないものが紛れ込んでいる。語彙・語法は文法そのものではないだろう。もっと文法に特化すれば、コトは単純になるのではないか。

 難解な文や文章が「わからない」のは、たいてい、中学英語で学ぶ本質的な文法事項で躓いているからである。意外だろうが語彙の問題ではない。非常の多くの人は、「語彙が難しいからわからない」と考えるようである。「英語が出来ないのは単語を知らないからだ、単語さえ覚えれば英語はわかるようになる」という考えは陥穽である。辞書を引いて、単語の意味調べをしてもわからない人はわからない。自分の英語の間違いに全く気が付かないのも同根である。

 私は偏差値30の生徒であっても80の生徒であっても、同じ教え方で良いと考えているが、その理由が上記である。
 覚えるべき事項はそれなりにあるから、記憶力の優れない生徒はなかなか出来るようにならない。多少抽象的だから、英語の勉強で「りんご=apple」という覚え方に固執する生徒は決してできるようにならない。しかし、最初の「壁」を乗り越えて「思考法」としていったん身に付ければ、必ず読めるようになる。書けるようにもなる(というか、あまりに変な英語を書かずに済む、というか、自分である程度の間違いが間違いだとわかるようになる)のである。逆に、中学英語を「けっ、そんな易しい英語、わかるさ」とバカにする生徒、単語の日本語訳だけ知っていれば良いと考える生徒は、絶対に出来るようにならない。しかし、非常に残念なことに、私の言うことを聞かずに自分の思いこみに固執する生徒が多いのが、如何ともしがたい現状である。

「勉強」とアルキメデスが死んだワケ

2012年05月03日 | 教育
 授業をしていて感じていたのは、私が生徒に教えていることは、ヒトが生きていくのにホントに役に立たないことだということだ。英語であっても、数学でも国語でも、みんな同じだと思う。
 「勉強は将来の役に立つから、必要だから、やる。あるいは、やらせる」「やっぱり学歴」など、学校の勉強に「意義」を見いだす考え方は多々ある。しかし、これらはすべて二義的なものであろう。一義的には決してそうではないとずっと感じていたその理由がわかった。

 「日本の文脈」で中沢新一が子供時代を思い出してアルキメデスが殺された理由を言っていたことだ。アルキメデスは、地面に向かって幾何学の証明に没頭していたとき、シラクサに攻め込んできた兵士に気づかず、兵士に向かって「もう少しで証明ができる。影が邪魔だからどいてくれ」と言ったものだから、そのままブスッと殺された。アルキメデスの場合、知性が現実世界での合理性や効率性を考えてなかったからやられてしまったのである。
 多くの生徒は、数学の証明で「兵士」の存在に気がつかない、と言うことはない。数学でそこまで徹底して内観しないものだ。しかし、夢中になって本を読んでいたらいつの間にか数時間経っていた、などの経験を持つ方は多いだろうし、道路でメールに夢中になって事故に遭うなんてことが起こるのも同じ理由である。人間は、けっこう、内観したがる性質を持ち、かつ、自分の内観に没頭すると外界に対し非常に鈍感になるもののようだ。
 上記の本にもあったが、内観は危ない行為である。修行僧が危険な場所で精神探求する修行に励むのは、私の目には明らかに二律背反に映る。上記のメールと交通事故も、多少高級に「本を読みたいが、読むとなると睡眠不足になる」も同じである。「内観する人間」としての勉強と、「ヒト」として生きる実生活との折り合いは時に難しいものである。

 勉強を教えていると、私は、生徒に斯くも危険きわまりない「内観に没頭せよ」と指令を絶えず出しているような気がするのである。
 勉強は、基本的に、中沢氏が言っているように「自分の脳の中に独自の世界を広げ」るものである。ゆえに、自分の脳の中の世界を作り上げることができない生徒は決して勉強ができるようにならない。夢中になって本の世界に没頭するのも、本に描かれた世界を自分の脳に再現しているのである。数学にしろ国語にしろ、要は、自分の中にその世界を作り上げることが出来るかどうかが出来るか否かの岐路になる。勉強は丸暗記だけでできるようにならない理由がこれである。「こうした世界を作り上げろ」という課題は、同時に「殺されたアルキメデスのようになれ」と言っているに等しい。
 もちろん、「今は勉強だから内観、2時間経ったら外界に対して感覚を研ぎ澄ます」で良い。しかし、内観するという経験をいかにして持たせるかが、教師の課題だろう。この世界を作り上げる生徒は、だんぜん「出来」がよくなる。ゲームであってもクイズ選手権であっても、強いのは超進学校の生徒だったりすることはよくある話だ。

 この点、今の教育は、二義的な観点ばかりが強調される。放っておくと対象は何であれ内観したがる人間に対して、二義的な観点とは、「内観とは関係がない、『ヒト』として生きるために勉強しよう」である。
 本来的には本末転倒である。人間は誰しも内観したがるものなのである。ちょっと一ひねりすれば、アタマの善し悪しに関わらず「知的好奇心」という名の内観する心を持ち合わせている。(くどいけど)所詮は絵空事でしかない「ゲーム」を楽しむのも同じ能力ゆえである。そうした人間本来が持つ能力を無視するがごとく、二義的な「ああすればこうなる」的な「アルキメデスのように殺されなくて済ます方法」(←これは「たとえ」。)ばかり強調されても、子供は人間として本来持つ内観の能力---知的好奇心も含めて---を発達させることは出来なくなるだろう。この意味で、今の日本の教育は、内観したがる知的存在としての人間が本来持つ能力をひたすら抑制するかのごとく行っているのである。子供の学力はどんどん下がって当然である。と言っても、わかってくれる教育関係者はどれだけいるだろうか?(くどいけど、私がここに書いたことって、偏差値55ではわからない理路だろうと思うよ。)
 唯一、二義的な要素が重視される利点は、「ヒト」として生きるとき、矛盾した悩みを持たずに済むと言うことである。しかし、アルキメデスのような知的存在としての「人間」であり限り、兵士に殺されずに(←たとえです)イキモノとしてヒトとして生きるというのは、「生まれながら知的能力を持つ人間」として、かつ、本来的に二律背反的な存在である人間として、私なんぞは、「そりゃ、ちょっと違うだろ」と、ついつい思えてしまうのである。
 ほりがブログにせっせと駄文を連ねるのも、授業で参考書に書いてないことを話すのも(この頃は、「今はまだ書かれていないけれど、おそらく10年後には、どの参考書にも書かれているはずだ」と豪語して話している。)、この「内観」が関わっている。ほりが「人間に生まれて良かった、今の日本に生まれ、教育を受けさせてもらえて良かった」と思う理由も、ここにある。

 というわけで、ほりは、勉強をする際に「内観する」という知性の働かせ方をほとんど知らずに高校生になった生徒に、せっせとその必要性と具体的な方法を説くのである。
 しかしねぇ、消耗するよ。