考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

「考える」ことの思い出

2005年09月30日 | 物の見方
 中学生2年の頃から、寝床に入って、よしなし事を考えていた。私は自分が「不幸」だと思っていた。不幸は幸福より、人を考え深くさせるだろう。

 学校であったことや親が言ったことなど、中学生が考える内容である。そう大したことではなかったはずだが、たいていは「なぜ、こうこうだったのだろう?」という類の疑問が多かったと思う。理由を考えて、何らかの答えを得る。それで、眠りにつく。
 翌日の夜、前夜に考えた続きをまた考えることが多かった。すると、奇妙なことに、同じ問いに対する答えなのに、昨日の答えと今日の答えが違ってくるのだ。昨日思いつかなかったことに今日は気がついて、昨日の答えよりも今日の答えの方が優れていた。「どうして、昨日は気がつかなかったのだろう。」
 同じ問いに対する答えが、そうやって、毎日毎日少しづつ、しかし、どんどん深まっていった。それが、半年も1年も、ずっと続いていったように思う。そして最初の問いはどこかに行ってしまっていて、私の頭の中にはもっと深い問いがあった。
 「日記は書きたくない。」と思った。なぜなら、「もしも」のときに、私の親はその日記を読んで思うだろう、「我が子はこんなことを考えていたのか。」と。しかし、私は、次の日の自分は、すでに日記を書いていた前夜の自分の違うことを知っていた。私は、前夜の私がそのときの私だと間違われるのがひどく嫌だと思った。

 私は、当時、なぜあんなにも毎日毎日新しい答えを見つけ、同時に新しい問いを思いつくことが出来たのか、随分と長い間疑問に思っていた。以前、記事に書いたことだが、NHKスペシャル驚異の小宇宙人体でやっていた若いネズミと年老いたネズミの神経細胞の軸索の伸び方の違いが、寝る前の自分の自由な思考にも当てはまったのだ。中学生の私の脳細胞の軸索は、学校の勉強だけでなくても大いに伸び、絡まり合っていたのだ。大人になって何年もして、やっと理由がわかったのである。

 しかし、その頃は、本当にそんな夜が毎晩続いて、私は高校生になった。勉強が忙しくなった。私の脳味噌で、高校の勉強はかなり難しかった。だから、理解するのに本当にしっかりと勉強をしなければならず、考えるヒマがなくなっていった。「こんなに勉強していたら、バカになってしまう」と本気で思った。それで、私の脳味噌は、得た知識や勉強の方法で脳細胞が絡まり合って賢くなった部分もあろうが、高くない能力を補うために行った受験勉強特有の学習法のせいでバカになったところもあった。
 大学生になり、(勉強をせず、)考えることはそれでもずっと続けていた。しかし、だんだんと「自分の考え」というものが出来てきて、20代後半頃から、考えがあまり変わらなくなってきた。私の脳細胞も、このあたりで成長が滞り始めたのだろう。

 今も考えるのは好きだが、(だから、ブログを作っているのだろう。)こうやって振り返って、今の自分の考え、ここに書き連ねていることのルーツが中学生の自分にあったと思うと、生きてるってことは、こういうことでもあるのだなぁと思えてくる。(←これ、昨日今日の思いじゃないけどね。)
 それでまた、私は今後、ちまちまと、一体どこにいくのだろうと思うのだ。

学校は、頼りない方が良いと思っている人はいるに違いない

2005年09月28日 | 教育
 なぜなら、学校がしっかりすると、塾など教育産業の出番が減ってくるからだ。となると、ここ10数年間に教育産業に職を得た人たちの今後の行き場がなくなり、かつ、数多くの大卒者の就職先も減るだろう。(これはもちろん、テキスト作成者、教材屋さんを含めた話である。)ひょっとしたら、日本の失業率は上がるかもしれない。
 にょきにょき建つ塾や予備校を見ると、そう思わざるを得ない。
 以前も書いていると思うけれど、文科省と厚生労働省は結託しているに違いない。

書き辛さに関する所見

2005年09月27日 | 物の見方
 私のブログで使用される用語で教育とか学校以外で意外に多いのが、脳と能と宗教だと思う。

 学校と教育は、まあ、職業直結で、だから、書き辛い面がある。脳と能は書きやすい。ただ、脳は、間違った内容を書いてないかという心配があり、能は一応師匠についているから、師匠の迷惑になることは避けたいと思っている。

 で、実は、「宗教」、これが、最も気にかかる。
 公立学校教員が宗教について語るのは、タブーのような気がしているからだろう。別に、特定の宗教について語るわけではないのに、一人の人間として語るのにも、後ろめたさのようなものを感じる。

 個人的に、特定の宗教の熱心な信者ではない(法事やその他諸々、慣習的には世間一般の「信者」として振る舞っているが、それだけだ。)のに、「宗教」と書いた途端、なんだかいけないことを書いている気になる。

 単なる自分の思い過ごしなのだろうか。一体、なぜなのだろう。ひょっとして、文章を読んだ「誰か」に、変に誤解されるのが心配だからだろうか。

 宗教は、ふつーの人間が、まともに生きていくのに、なかなか重宝なものなのに、それでこれは「ふつー」の感覚だと思うのに、今の日本の社会では、そんなこと、思われていない。特に子供に「善悪」の感覚を身につけさせる「方便」として、宗教は役に立つだろうに。

 以前、観光で訪れた南の島で、アメリカ人の集団の(安っぽい)食事付きショーで、司会者が「食事がいただけることを感謝しましょう。」ってなことを言ったら、その途端に、それまでわーわー騒いでいた陽気な連中が、シーンとなった。正直言って、烏合の衆の集まりがこんなに静粛になるのに、驚いた。宗教の力だろう。
 いや、待てよ。
 でも、ひょっとしたら、私自身、実は子供の頃、「宗教教育」を強く??受けたのかも知れない。
 「閻魔様」が怖かった。「嘘をつくと、舌を引っこ抜かれるよ、死んだら、閻魔さんが、罪状を読み上げて、極楽に行くか、地獄に堕ちるか、決められるんだよ。」と言われて、そう信じていた。だから、今、かなり真面目に働いているのも、そのころ受けた「宗教教育」のせいかもしれないなぁ。。。。

 そう考えると、自分自身の中にそれなりに根強くある「宗教」がたいした働きをしていそうに見えない今の日本の社会(←ちょっと大げさ)は、私にとっては感覚的に違和感を感じるものになっているのかなぁ。。

 ところで、ブルーバックスの「高校数学で解くシュレーディンガー方程式」をまだ読んでいるが、それで、「計算」はさすがに手に負えず、割愛しているが、105ページあたりから、シュレーディンガーがインド哲学、特に「梵我一如」の思想に惹かれたことに触れていて、これに関する締めくくりで、筆者は次のようにまとめている。
 「ただし、シュレーディンガーがインド哲学の古代思想のすべてに埋没するほど傾倒していたかというと決してそうではなく、儀式や迷信を排除し、哲学の本質のみを合理的に受け入れていました。彼が極めて高い合理的精神の持ち主であったことを誤解しないようにする必要があります。」
 この筆者の見解こそ、まさに、日本の読者である「我々」が、いかに哲学や宗教をうさんくさいものとして見ているかを表しているに違いない。まるで、宗教の全てが儀式や迷信で埋め尽くされ、非合理的であるかかのように。

 だから、私が「宗教」と書きづらいのも当然なのだろう。

久しぶりの謡のお稽古でした

2005年09月26日 | 能楽
 (以下、長い割に中身はないです。)
 ずっと休んでいたものだから、お稽古日がいつなのか、わからない。
 奇異に聞こえるかも知れないが、能楽関係のお稽古は、カルチャーセンターでない限り、曜日も日にちも定まってないのが普通だ。なぜなら舞台人の先生の演能予定によって稽古の日が決まってくるからだ。能は、歌舞伎のようにぶっ続けで興行が行われることがない。突然のある日、1日だけという公演の仕方で、能楽師は恒常的にチームを組んでいるわけではなく、皆がてんでバラバラの「自営業」だから、どうしてもそうなる。

 というわけで、一番仲良しの人に電話で聞いて、やっとわかった。先月も休んだが、先月は先生が直々お電話下さった。それでも休んだものだから、さすがに今月は電話がなかった。

 さて、久しぶりのお稽古だが、思ったより、ちゃんと謡えました。小謡で、短いものですが、3ヶ月ほど、家でも全然練習してなかったので、どうなることやらと心配でしたが、「謡」も身体を使うもののようで、身体が覚えていてくれたようです。半年ほど前からある程度しみこんでいたのか、声の調子にも「実(←どう表現していいのかわからないけれど、私のコトバだとこうなる)」を込めることができるようで、自己満足です。

 通常の謡のお稽古は、「節」を習い覚えるのが中心のようです。だから、たいていの方は、節などを間違えずに謡えるようになれば仕上げてしまったことにする。でも、私は、ダラダラいつまでも、「まだここがちょっとわからない」と言って、実際に、私は音痴で、なかなか音程を覚えられないからですが、しつこくしつこく、お習いします。(この文もダラダラしてますねぇ。苦笑)

 私は、「謡」は発声、それも技術的なものも含めて、何というか、「中身」というか、そんなのがないと、聞いても面白くないと考えます。

 能楽の趣味がある人は、古典の味わいや文学の典雅な面白さを求めるようです。だから、謡曲の文言や物語性に感銘を受けるようで、そのための機会を得ることが能楽の鑑賞だったり、自分が舞い謡う喜びになったりするようです。

 しかし、私の場合は、多少特異でしょうが、声の面白さ、声の音楽性、舞の身体性に大きな関心があるのです。もちろん、能楽鑑賞の際には、謡曲集(古典文学の全集本に入っています。)でしっかり読み、テーマを探り、曲趣を想定します。その上で、演技者がテーマをどのように表現したかを見て取るわけです。それで能の面白いところは、演技が単なる仕草だけで表現されるものでないことです。それはもう、言語では表現できません。(だから、そのために舞台に載せるのでしょう。)
 他の舞台芸術でも同様なことが言えるでしょうが、能ほど極端なものはない。制限された、禁欲的とも言える動きを通して演者は表現をする。それで、演者によって発せられるものがこんなにもと言えるくらい大きく異なり、受け取るべきものが一変する。
 私が能に惹かれるのは、する側も見る側も、共に感性を研ぎ澄ませた上で対峙する点でしょう。ある意味で、観能は、私にとって真剣勝負でした。(最近は良い能を見に行ってないので、過去形です。)

 まあ、かっこいいことばかり書きましたが、もちろん、私の謡稽古は、全くそんなレベルでありません。(当たり前です。あら、恥ずかし。)それでも、自分としては、ただ節が謡えればそれで良いという考えになれません。
 で、先生には迷惑な話でしょうが、同じ謡を何度も何度も気が済むまでお温習いするわけです。声の続き方でも、ちょっとした息の出し方でも、いろいろ試みて挑戦するわけです。(ちなみに、こういう細かいことは、先生は教えてくださいません。先生の声から「聞き取る」ことができるだけです。また、もちろん、「試みる」だけで、できているわけではありませんよ。笑。)

 しかし、この日は、さすがに小謡を仕上げて、昨年秋に中途半端になっていた「紅葉狩」を再開しました。昨秋に始めた曲ですが、さぼりにさぼって、春になり、さすがに秋のものを謡う気になれなかったのです。(ただ、演能そのものは、余り季節を問わないものです。季節のものをその季節に演じる傾向が出てきたのは、ごく近年の傾向のようです。)それで、全く違う小謡に浮気して、秋になって戻ったわけです。

 で、1年ぶりだし、余り練習してなかった曲なので、それでも節は何とかできそうでしたが、「声」が浮つき、自分のものになっていない。ついさっきまで謡っていた小謡と、エライ違いです。自分で謡っていて、非常に気分が悪い。

 これではいけません。ちゃんと練習しなければ。でも、一体いつまでかかるでしょう。何年がかりでしょうね。ははは。。。

ロボット作りと教育

2005年09月25日 | 教育
 養老先生の対談集「マンガをもっと読みなさい-日本人の脳はすばらしい-」(晃洋書房)を読んでいる。以前も何かで読んだことではあるが、これって、教育と同じことじゃないかと思った。
「ロボットをつくっていくと、ある意味で人間が良く見えてきます。二足歩行を人間がどういうふうにやっているかということは、ロボットをつくる過程で細かくわかってきたんです。」(142ページ)

 教育や子育ての過程で、同じことが言えるんじゃないのかな。「子育ては自分育て」なんて言われたりするのも、自分がわかり、子供を通して、その子供の個体そのものだけでなく、子供と接することで学び得る素朴かつ激烈な感動から、何か人間一般がわかってくるという意味があると思う。

 人間が生きているというのは、究極は「人間とはなんぞや?」という問に、一人一人が自分の人生を懸けて、答えや答えらしきものを探し出すことじゃないかと思う。だから、人の生き方は様々あって良いわけだし、正解は一つだけでない。月並みだけれど。

 ただ、決して一面的ではないから「わかりやすい」ものではないので、絶対的でない不安定さを伴う。だから、どうしても幾ばくかの「悲しみ」が付きまとうと思う。「わからない」のもその一つだ。

 子供だって、人生に一歩を踏み出し始めた人間である。もちろん、生育に応じてのことだが、少しずつ「もの」を考えさせ、理解させていかないと、その子は人間らしい人間に育たないだろう。

 この間、生徒に言って、うけた。「生きてるだけなら、ゴキブリだって何億年も生きてるんだ~。君らはゴキブリじゃない。人間だ~。だったら、人間らしくしろ。」
 近頃、「勉強が役に立つ、立たない」が言われるが、この視点で言えば、どの程度ゴキブリから人間になれるか、の目標設定の違いにすぎないと私は思っている。

 ただ、こういうことを言うと、もの凄く嫌がる人がいる。どうしてだろう? そのわけを考えたこと、まだ、ないけど。

「わかりやすさ」で思考停止

2005年09月25日 | 教育
 生徒はよく「わからない~」「わかるように説明して」と言う。それで、「わかりやすい」ことをものすごく尊ぶ。「わかりやすさ」がなんらかの意味で大きな判断基準になるようだ。

 なんだかとっても危険な気がする。

 養老先生じゃないけど、彼らは、何でもコトバで説明されればわかると思っているようなのも気にかかる。
 それに、彼らの「わかる」は、「対象を自分のなかに取り込んで理解したい」など、自分の認識範囲を広げたいという欲望よりむしろ、自分が「わかった!」と感じることそのものが目的化しているようで、今の自分の枠組みで、今の自分のままに納得したいのではないか。一種の思考停止で、それが「わかりやすさ」を求める動機になっているんじゃないかなぁ。

 生徒が「なんで?」と聞くので、私は「なぜ学校でピアスをしてはいけないか」「なぜ学校でお菓子を食べるべきではないか」とか、よく説明する方だと思う。(笑)そりゃ、勉強の説明だってするけれど。

 ずいぶんと昔のことだが、ピアスをしている生徒の指導で、疑問に答えて話して聞かせて、2時間かかって説得してピアスを取らせたことがあった。でも、翌日その子はまたピアスをしてきて、それから私とはほとんんど口を利いてくれなかった。彼の理性は欲望に負けたのだろうなと思うし、私に対して屈辱を感じ、無視したかったのだと思う。(卒業して何年も経ったら、同窓会では猛烈におしゃべりしてくれたけど。)
 この生徒は私との会話でアタマを使ったと思う。理屈では納得したから一度はピアスを取ったのだ。でも、今だと、とにかく話を聞くのがめんどーだから「はいはい、わかった、わかった、とるよ、とるよ」つまり彼らの「わかった」は、「これ以上、私にかまわないで。あなたと関わりたくないから、ピアスは取る」という判断で終わる。私はラクだが、ものごとを認識するという点ではどうなのかなとも思わないでない。もっとも、「学校は先生の言うことを聞くところ」と言う認識があったうえでの行動だから、教師にたてついてあーだ、こーだ言ってくるより、まだ「まし」かなとも思う。(こっちの思いの方が強いかな?)ただ、面倒がることには一種の思考停止が見出せる。

 「なぜお菓子を食べてはいけないか」について話すのは、どういうわけか授業中が多く、(授業がつぶれるのが嬉しくてのことだろうが、)それなりに興味深そうに聞いてくれたりする。
 私の論理は、「お菓子は快楽である。学校はその手の快楽の場ではない。だから学校でお菓子を食べてはいけない。」という程度だが、彼らは決まって「お菓子はエネルギー補給だ」と言うので、食事と菓子の違いや朝ご飯の食べ方についても話さなければならないし、その他諸々、質問に答えているとそれなりに時間がかかる。
 と、中には、説明にかかる時間の長さや、言葉で説明すると膨大な量になる面倒くささに耐えられなくなってくる生徒がいる。彼らにとって、私の話は「わかりにくい」と思う。彼らの「わかる」は、もっと感覚的なもので、ただただ自分の欲望だけを満たしたい、認めてくれという思いだけで、つまりは思考を停止しているのである。

 
 いつからこんなに「わかる」ことや「わかりやすさ」が求められるようになったのだろう。
 「わかる」は、対象によってはかなり複雑で場合によっては不可能だと思うのに、誰でも何でも「わかる」と勘違いしている気がする。だから、ちょっとわかると全部わかった気になったり、逆に、自分がわからないものは「ない」ことにすれば、確かに自分がわからないものは周りに一つもなくなって、すべてが自分がわかるもので満たされることになったりさせている。「なんでー、なんでー、わからんー、ひどいー、無視、無視」である。(で、バカの壁を自ら作る。)

 授業でも、とにかく「わかりやすく」が求められる。研究授業でも、プリントの説明一つにしても、参考書の選び方でも、とにかく「わかりやすい」ことを重視する。
 当たり前だ。先生の仕事だろ。わかりやすければ、生徒の理解の「量」が増え、学力がつくのだから、これは疑う余地のない良いことである、と考えるのが普通だ。
 
 それでまた、世の中、「わかりやすさ」が学校以外でも増えてきた。コマーシャルでも、商品説明でも、わかりにくかったらイマドキ拒否され、売れなくなるだろう。売るために「わかりやすく」する。しかし、たぶん、この「わかりやすさ」は「理解させて相手の世界を広げさせる」より、「納得させる」要因が強いのではないかな。

 で、世の中で言われる「わかりやすい」が、どういうことか考えると、多くは、「考える数量が少ないこと」「単純にものごとを考えること」だろうか。でないと、「相手の世界をなるべく広げず」「納得させる」ことはできない。
 人にものを話すときは、3つ以上のことを話すな(ポイントは3つに絞れ)、とか言うのも「考える数量が少ないこと」であるし(でも、高校の授業1時間にポイント3つでは、大学受験なんて不可能だ。)、生徒が「これさえやっておけばいいの?」と聞いてくるのもそうだし、学習雑誌などでも「定期テスト対策、これだけはやっておこう」なんて書いてあるのもそうだろう。(勉強に関して、腹が立ってしようがない。「さえ」と「だけ」で本当の勉強はできない。せいぜいで「欠点を取らない」「平均点が取れる」試験勉強に過ぎない。本当の勉強は、そんな方便じゃない。)

 で、次に考えたいのは、「単純にものごとを考えること」を満たす方法は、2つあるのではないかということだ。
 望ましいのは、多くの物事の具体的事象を抽象化して何らかの規則性を見いだすという意味での単純さ(しかし、この場合に「単純」と言う表現は用いないかな。)だろう。で、学問が目指すのはこれであると思う。しかし、(何度か書いているが、)一般社会での抽象化作業は相当に難しく、できなかったりわからなかったりする人が多い。
 となると、もう1つ別の方法、数多くある具体的な事象の中から、特定の事象を少数取り上げて理解する、が考えられ得るだろう。しかし、この方法の問題点は、取り上げられた具体的事象は固有の特異的要素を含有しているが、何が特異的要素で、何が、取り上げなかった他の事象にも当てはまる一般的要因なのかの区別が付かないことである。これでは「ものごと(←全体に関わる)」を正しく捉えることはできない。
 しかし、多くの場合、「単純にものごとを考える」ためには後者の方法がとられる。なぜなら、前者の抽象化する方法は難しいが、こっち方は捉え方が具体的なままだから純粋にラクだし、よって、多数の賛同を得ることができるからである。(もちろん、学校の勉強でもこの方法は用いられる。特に英語はこの傾向が強い。で、その問題点を補完するのが文法だったりする。文法は、言葉そのものと比べると抽象的だから生徒にとっては「わかりにくく」、よって、文法が面白いという生徒はあまりいない。でも、だからこそ、文法は学校でしか習わないのである。実社会で用いられていることこそが大事だというわけでない理由はこれである。)

 しかし、私は、この「数多くある具体的な事象の中から、特定の事象を少数取り上げて理解する」方法は問題だと思う。
 個別的な具体的事象の若干を取り上げて、それが全てであるかのような錯覚に陥らせるからである。「わかりやすい」ゆえに、特異性も一般性も区別がつかないまま、全てが「わかった」気になってしまうのである。


 それで、最も怖いのは、このように、一旦「わかりやすいから、わかった」と思い込むと、多くの場合、思考がそこで打ち切られてしまうことである。

 それ以上、興味の範囲を広げなくなる可能性がある。なぜなら、そこには「枠組みを広げる」という抽象化の過程がないので、「あれ」と「これ」に連関がなく、従って、思考が他に広がっていかないからである。それで、物事がどんどん個別的な事象の羅列になっていき、思考の対象がそれまでの枠外に出ると、つまり、対象が異なれば、その度にそれまでの思考は停止し、新しい対象に関わる思考は、対象をまったく「別問題」として捉えて思考し始める。


 抽象化のない「わかりやすさ」はお粥のようなもので、たいした咀嚼もせずに既存の思考回路だけで消化できるもののように思う。だから、知識は知識として身体のどこかに収まる。が、それ以上のものにはならないので、思考の回路は広がらず、思考は停止することになる。
 口をあんぐり開けて待っているような最小限の「努力」しかそこにはなく、食いついていくような力を振り絞る努力は存在しない。生徒を見ていると、本当に口を開けているだけ、教員がそこにおいしいご馳走を投げ込んでくれるのを待っている、それで、旨かったら食べてあげても良いよ、そんな感じ。それでまた、おいしいご馳走をそっと口の中に放り込んでやるのが良い教員だと思われているように感じる。栄養が身体に入ればそれでいいのか、独力で食べる力を得させることそのものは大事でないのか。

 私は何でもかんでも「わかりやすく」は反対である。粥ばかりで体力はつかない、消化器官だってそのうち弱って、やがては重湯しか消化できなくなるよ。そんな人間を育て上げたいのか。

 実は、これを書き出したのは、郵政民営化選挙、自民党圧勝がきっかけ。だって、同じに思えたんだもん。

「わくわく願望」と「人生、意気に感ずる」論理

2005年09月24日 | 教育
 唯脳論を読むずっと前だが、ずっと若いときに、人間について考えるのに、内部から外界を眺める(つまりは、通常の人間の感覚)のではなく、人間の外から内部をのぞき込むと、「人が生きていること」とは、要は、どの程度どんな風に自分(脳細胞でも何でも)が興奮しているかで説明できるんじゃないかと思った。

 全く身も蓋もない。

 外部に何があろうと、刺激(入力)で「興奮」するという特徴を全ての人が持つのは間違いない。(生き物はみんなそうだろうけれど。)
 で、同じ外部刺激で皆が同じように興奮するのは、互いに「共感」できる外部刺激で、同じ民族、文化、社会環境などで共通点が見いだせるはずだ。異なる外部刺激で「興奮」するのが、その人の「好み」というか、個性ということになるだろう。

 で、「豊かな人生」「中身の濃い人生」とは、どれだけその人が「わくわく(ドキドキハラハラ)」興奮したかによるんじゃないかと思う。

 人がいろんなことに興味を持って行動するのは、だからだろうな。「何も刺激を受けない状態」を人間は忌避し、刺激(入力)を求める。(養老先生の本で、入力が何もない状態に人を置くと、--真っ暗で音のないぬるま湯のようなプールに人を置くと、幻覚が表れるらしい。幻覚は、脳が勝手に自分の中で入出力をしている状態だから。)だから、流行を追いかけるのも刺激を受けて興奮したいためだろうし、過激なところでは戦争を始めたりするのも、たぶん、そうだろう。

 ただし、「興奮」という言葉は人聞きが悪いだろうね、きっと。(苦笑)「感動」「思考」と言い換えると、ほら、皆さん、納得するでしょ? で、その「感動」や「思考」が、より多くの人と共有できるとき、特に「感動」は倍加する。喜びも悲しみも。人生、意気に感ずるわけである。(ただドキドキハラハラしていればいいってものじゃないのもこういうところに関わるが、ここらか先を考えるのは、実のところ、相当難しい。)

 だから、「教育」について考えるときも、こういった根本から見直して、一度徹底的に考えた方が、より豊かな人生の基盤作りをしやすいんじゃないか。

 「個性」重視をどう捉えるかも、感動の共有に関わるだろうしね。(と、続きを考えると、とりとめがなくなるから、もう止める。)
 

自転車小屋の整理はなんのため?

2005年09月22日 | 教育
 校門を入った近くの自転車小屋が乱雑である。整理しないといけない。というか、生徒がきちんと置くべき場所においてないからこうなってしまっている。

ある教員(ちょっと偉いはずの人)「自転車小屋の整理をするから。」
ほり「そうそう。自転車小屋の整理は大事ですよね。」
その人「あれじゃぁ、緊急車両が入れないからね。」
ほり「・・・・・」

 確かに緊急車両が入れないのは大問題だろう。でも、それだったら、パチンコ屋の駐輪場の整理と変わりあるまい。
 しかし、私の言いたいことは、この人に、通じない。

実は0限は難しい

2005年09月20日 | 教育
 学校によって、1限が始まる前に「0限」を行う場合がある。通常の始業、1限開始は8時30分頃であろうから、0限は7時30分頃になるだろうか。補講と呼ばれたり補習と称されたりするだろう。教員サイドから言うと、勤務時間外にPTAからの要請でなされるということで、講師(当然そこの学校の教員)には幾ばくかの報酬が支払われる。

 毎日行う学校があるかもしれないし、週2回とか3回かもしれない。学年によって異なることもあるだろう。学校によって全員半ば強制参加だったり、希望生徒だけの参加だったりする。
 生徒は、1時間早く登校して授業を受ける。その内容は、発展的な学習だったり復習的な内容だったりで、いわゆる「授業」ではない。

 余分の学習、補講と言うことで、保護者は安心することが多いようであるが、実態と効果は、学校ごとに、生徒ごとに異なると思われる。

 0限であっても、予習が必要で、きちんとやってくる生徒もいれば(そういう生徒がほとんどの学校もあれば)、予習は不要で、その場でドリル学習のような復習を行う学校もあるだろう。

 0限は、生徒の自己管理ができていて、0限があるからと言って生活リズムが変わらない生徒、つまり、普段も0限に合わせた生活時間帯で過ごしている生徒には良いトレーニングになっているかもしれない。

 しかし、0限のある日だけその時間に合わせる生活をしている生徒にとって、週1回であろうと2回であろうと、3回であろうと、その度に起床時間が異なり、生活時間に変化が生じ、学習時間や集中力が変動することになる。
 
 自己管理が十分にできていない生徒が多い場合、0限のある日に見られる大きな特徴は、1限め、2限目などの正規の授業中に居眠りをする生徒が出ることがある。真面目な生徒でもうとうとすることがある。(寝ていれば、私は起こす。)

 何故寝るか? 退屈な授業のせいというより、0限による生活時間の乱れ、体力の不足が原因と考えられることがある。特に低学年の場合、この可能性が高い。
 中学生から高校生になったばかりで、電車通学にしろ自転車通学にしろ、以前よりずっと通学に時間がかかっている。体力も十分に育っていない。進学校の場合、高校の授業は中学の時よりスピードも早くレベルが高くなることが多いので、慣れるまでは予習をして授業について行くだけで、実はもの凄く大変なのだ。

 もちろん起きてしっかりと授業を受ける生徒もいるわけだが、個人の問題に帰すだけしてよいものか。

 更に、この問題は週5日制、7時間授業とも関連する。皆さん、案外気がつかないのだが、第2第4土曜が休日になって、学校によっては土曜日の授業分を様々工夫を凝らして7限目に入れるようになった。更に、週5日制になって、7限授業が増える傾向が出てきた。それで、その上での0限である。場合によっては、「今日は0限+6時間授業、明日は7限授業、あさっては0限+6時間」というように、生活時間帯が1時間早くなったり遅くなったりしながら、毎日、毎週を送るという生活に変わってしまったのだ。

 また、これは実に意外な盲点なのだが、週あたりの授業時間数が6日であるのと5日であるのでは、毎日の密度が全く異なるのだ。
 かつては、月から金まで6時間、土曜に4時間、0限が2時間 36時間÷6=6時間
 今は、月から金まで6時間、そのうち2日は7時間 そうでない日は0限。計34時間÷5=6.8時間。
 総時間は減っている。が、生徒は毎日毎日が7時間の生活は、金曜日になると疲弊し、疲労回復可能の臨界点を超えて、どうしようもない土日を過ごすことになりかねないのだ。
 よって、疲れすぎることがないように「賢く」毎週をすごそうとなると、「授業中に寝る」「予習をしない」「0限に来るのは来ても、寝てしまう」ということになる。
 これでは何のための授業や0限なのかわからない。

 しかし、0限授業には、おそらく、滅多に気がつく人がいない、ある「メリット」がある。
 成績が下がったときのことを考えよう。
 何もせずに下がったら、どう思うか? 「もっとやるべきだったのだ。しなかったから、できなかったに違いない。」と思うに違いない。
 しかし、である。0限をやっておけば、この心配を持たずに済むのである。
 「あんなに朝早くから、毎日がんばっていたのに成績が上がらない、下がってしまった。でも、やるだけのことをやったのだから、仕方がないのだ。」

 子供を塾に行かせず、家庭教師も付けさせずに成績が下がったら、あるいは上がらなかったら、後悔する親御さんも多いだろう。
 同じことを学校が0限授業という形で、「学校はこれだけやっているのです。だから、成績が上がらないのは学校のせいではありません。」と言い訳しているかも知れないのだ。

 しかし、もちろん、頑張って、本当に頑張って、伸びていく生徒がいることは否定しない。しかし、そうでない場合もある。何でも多くやればやっただけ良いのでは決してない。

 「近隣の学校が0限を始めたから、ウチも負けずに、と追随した。やがて、成績が微妙に下がってきた。それで、0限を止めたら、成績がまた戻った。」こんな学校もある。
 それで、こういう学校は、きちんと授業が機能している良い学校である。

 「授業がうまく機能しない」という場合もあって、これは、もう、子守のように、0限でも何でもやった方がまだ良いというか、ましな場合もないではない。
 それでまた、0限が大好きな先生もいたりする。(だって、お小遣いになるのだから。。。)

 と言う具合に、実に0限の扱いは難しい。


平常点は邪道です

2005年09月18日 | 教育
 「絶対評価」なるものが学校に入り込んできた。
 困ったことだ。
 昔、学生時代に習った評価方法は「相対評価」と「絶対評価」であるが、この「絶対評価」は「到達度評価」で、「何がどれくらいできるか」を観点別に評価するものである。ちまたに流布する「絶対評価」は、実は「絶対評価」に名を借りた相対評価のなり損ないにすぎず(←説明は、めんどーだから省略させてください)、「生徒のやる気」も評価の対象とし、「授業中に何回手を挙げたか」まで詳細に点数化するようだ。中学校の先生はそれにかなり気を遣うと聞く。生徒や保護者の信頼を得るために、説明をするために、すべてを記録するので閻魔帳は細かいらしい。ご苦労なことである。(と、ここに、重大な問題が潜んでいることにあなたは気づかれましたか?)

 この傾向が高校にも入ってきて、「成績に平常点を入れろ」と言うことになってきた。進学校でも。

 日頃の努力の成果を点数化するのだから、良いことではないかというのが一般の向きである。「提出物を真面目にやって提出すれば点になるのは、努力を認める良いことではないか」という根拠である。

 しかし、ちょっと待て。勉強は何のためにやるんだ? 

 学力向上のためが目的ではないのか。提出が目的ではないだろうに。まして、良い評価を得ることが勉強の目的ではないだろうに。提出物を点数化する問題点がここにある。

 「評価」は、あくまでも学力向上に伴って成されるべきもので、高い評価を得ることが学習の最終目標ではないのだ。その大きな勘違いがここにある。

 努力することはすばらしい。だからといって努力だけを認めるのはいかがなものか。あまりにも幼稚ではないか。それに、努力すれば、成果は普通出るものだ。少なくとも、学校の勉強、授業の成果、定期試験の点数に、その生徒の努力は反映する。学校の定期試験は、その学校のどんな生徒であっても、教員の教えを受けて着実に努力すれば欠点が免れる程度の問題には作っているものである。そこに「日頃の努力」を特別視する要因は見出せない。

 努力してもなかなか点が上がらないのは、よほどやり方がまずいのかもしれないし、まだまだ継続的な努力が足りないのかも知れない。もちろん、時には生まれ持った才能の不足ということもあるだろう。しかし、だから何だって言うのだ。だれでも努力すれば100mを10秒台で走れるようになるわけでもなく、どんなに努力してもは走れないという現実を受け入れるしか仕方がないときだってあるのだ。
 私は小学生の話をしているのではない。高校生である。同じ年頃の者の中には、社会人として立派に働いている者だっているのだ。成果を出すためにどうしたらよいのか努力する、それが大人になるための訓練でもあるだろう。

 まともな教員だったら誰でもわかっていることである。だのに、平常点に賛成させられる。
 直接的には「そうしろ」という現実離れした「要請(強要)」があるからだが、内実は、努力したくない、だのに単位だけは欲しいという「わがまま」の存在を認めないとあまりにもめんどーだという状況があり(←これは学校に対する好意的表現です)、学校側が「要請」を基に甘んじているのにすぎないのだ。

 このような点でも学校は「教育」の本筋からどんどん外れていき、多くの生徒は提出が努力することだと勘違いして平常点を貰うことで、自分が更に大きく伸びる可能性が摘まれていることに、親も子も(愚かな教員も)全く気がつかないでいる。
 
 さて、「授業中に何回手を挙げたか」まで点数化する中学校の授業の問題点に気がつきましたか? 先生方は真面目です。きちんと記録を取っています。それがどうして問題なのか?
 先生方が詳細な記録を取るのは、生徒の学力向上のためでしょうか。そうではないですよね。評価、点数を付けるためにすぎません。
 こうした授業の最大の問題点は、授業の目的が生徒の学力向上ためではなく、後で文句が出ないように、あるいはそのときに説明責任が取れるようにすることに変わってしまったことなのです。

 あなたは(あなたのお子さんは)何のために授業を受けますか? 評価(点数化)されるためですか、それとも学力を付けるためですか?