考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

「面白い」って(初めて)言われた(ゴミ)

2007年11月30日 | Weblog
 ちょっとした宴会?があった。で、以前からここに書いている「ベクトル」の話などなどをしたら、「その話、超面白い」と言われた。
 「リアル世界」でこれだけ面白がられたのって、ほとんど初めてじゃないのかなぁ。

あー、書いたぁ。。

2007年11月27日 | 教育
(続き)
結局、3400語くらい書いてしまった。最初から英語で書いたから書けたのだと思う。

終わり。

ところで、「学校の先生と塾の先生」はけっこう好評のようで、アクセス数が増えてました。もし、お時間があるのでしたら、今日もおいでくださったのでしたら、ついでに、「学習することで得られるもの」
http://blog.goo.ne.jp/kkhrpen/e/179cb3a52e9f314dcbe13e810ff56ea2
「勉強の目的は「わかる」ことでは決してない」
http://blog.goo.ne.jp/kkhrpen/e/f11fa5e550fc6394e93c5cdb68c4d395
も、読んでくださると嬉しいです。(ずいぶん前の記事ですが。)

いただいたコメントとも関係しますが、「小さな不快を取り除くな」という記事もありました。(書いた本人も忘れていた。)
http://blog.goo.ne.jp/kkhrpen/e/a14869f44a78206f3926ee558ec93437

アタマの中が英語英語

2007年11月24日 | 教育
 今日(正確には、昨日)、数時間以上、英語で作文を書いていたら、脳味噌がだいぶ「英語」になったようで、テレビが流す絶え間ない日本語を聞いていたら気持ち悪くなった。言葉を探しながら1300語以上書いたから、私の脳味噌にはかなりの負荷が掛かったのだろう。

 休憩していたら、口から、易しい表現だと英語の方が先に出てきた。難しくなると・・・・・やっぱり日本語が先。(これがタマに「何も出てこなくなる」ときがあるんだよねぇ。ふりーずするんだろう。)ま、コトバ、出てきたから良かったよ。(笑)


学校の先生と塾の先生

2007年11月23日 | 教育
 塾は選べる。気に入らない先生だったら、やめてヨソにいくことが出来る。これをメリットだと捉える人は多いだろう。
 学校の先生は選べない。どんなに性が合わなくても、付き合っていかなければならない。これをコドモの不幸だ、学校のデメリットだと捉える人は非常多い。
 だから、塾の方が優れている、と。

 長年「学校の先生」をやっていると、「奇妙」なコトが起こる。
 「受け持ちの時は先生キライだったけど、後で大好きになった」とか。
 「最初は、授業で先生が言っていることがさっぱりわからなかったけれど、それでも言われてやっていくうちに、わかるようになって出来るようになった」とか。

 気に入る先生を求めて「先生ショッピング?」をする人には考えられないことだろう。こういった先生の求め方は、消費者としての行動である。

 しかし、学校で気に入らない先生と付き合わざるをえないとき、それでも、生徒は、何かを学ぶ力を秘めるようである。「成長する」には、このような「自身の変化」があるのだ。

 まあ、イマドキのご時世でこういうことを言うと、「ウチの子は病気になった」とか、まあ、いろいろでてくることではあろう。私は、私の常識の範囲内で申し上げている。そのように思われる方と前提条件は異なるかもしれない。

 「先生を選べない」メリットは「消費行動をとらせない」と言う点で、意外にあるものだと思う。これは、ギブアンドテイクではない関係である。

 コドモは、(実際にはあり得ない)最善の環境でなくても、十分に学ぶ力を持っているのではないか。大人はもっとコドモの成長する力を信じてやっていいのではないか。
 「好きな先生」「良い先生」「都合の好い先生」ばかりが「良い先生」ではない。


何でプリントなんだよぉ

2007年11月20日 | 教育
 何かの発表で、「ウチの学校は、こうやって生徒の成績を上げました」という成果のレジメを見ると、まず、「予習プリント」なるものが目に付く。単語欄まであって、生徒に調べて書かせる方式をとる。まあ、大方はレベルの低い学校に多いのだが、それでも、意外に大学進学を目指す学校で、「予習プリント」が多い。
 まあ、私も人のことは言えない。過去において、予習プリントなるものは、数多く作ってきた。作る人の気持ちもわかる。「生徒が、これまで受けてきた教育が、プリントに頼った勉強だったから、ノートを作れと言っても、作れないのだから、仕方がないではないか、やるべきことは多いのに、埋め合わせをするのにプリントが都合がよい。」というものだろう。

 でも、止めた。生徒が勉強の「仕方を学ばなくなる」からだ。予習プリントをやれば、予習をしたと思い込む。この負の連鎖を断ち切るのは、一体いつ、どこでなのだ? まさか「大学」が、その場所なのか? 

 ノートが一番である。ノートを作る。罫線だけのノートに工夫を凝らさせて、自分のために作らせる。人間はバカではない。同じことを続けていると、なんやかんや「工夫」をし始めるものである。「この方がわかりやるいだろう」「これは失敗だったな。」「次はこうしようか」ただし、長期的な、ホンモノの勉強を目指し、自覚させた上でのことになるが。

 ノートは、「提出」を義務づけると「提出用ノート」になって来る。評価されるために、或いは提出だけのためにノートを作る生徒が出てくる。これも、本末転倒である。

 私はノートの作り方を最初に言うけど、で、たまに、机間巡視をしながら、「こら!もっとちゃんと考えて書け」とか言うけど、提出させるのは前に書いたようにイヤだと思っている。だから、「無責任」とそしられる虞もある。そんなのに比べると、プリントを作っている先生の方がよほど「仕事熱心」である。

 そんなこんなで、先生の仕事が増える。しかし、こういう類の仕事は、私においては増えていない。(笑)


「教養を教える学校」と「社会で生きる技術を教える学校」?

2007年11月17日 | 教育
 古代ギリシャの頃には、「市民」と「奴隷」がいた。アテネの奴隷は個人の持ち物だったらしいが、スパルタでは公有のものだったらしい。市民間の格差を防ぐためであるらしい。市民は、交易をしたりなんやかんや、今の時代で言うと「会社経営者」のようなものだろうか。それで、奴隷は言わば、労働者のようなものだったと見なしてよいようだ。(この辺りのことは世界史の先生から教えて頂いた。)奴隷が個人の所有物であるというのは、(私の勝手な解釈では)、言わば、労働者側に転職の権利がなかったということにでもなるのだろうか。と言うことは、奴隷の売買とは、経営者の都合で労働者を転職させたということだろうか。(←推論)

 スパルタでは、市民の十倍ほどの奴隷がいたらしい。アテネはそんなに多くない。2,3倍らしいが正確な数はわからないらしい。「奴隷」は「人」の数に入っていなかったから記録がないようなのだ。

 えーっと、何が言いたいか。

 Schoolの語源は、どうやら古代ギリシャ語で「『ヒマ』だから、人と話して『議論』をし、中には偉い人もいただろうから『講義』が行われた場所」にあるようだ。だから、この対象者は、「市民」で「奴隷」ではなかったと考えられる。奴隷たちは、たぶん家事やオリーブの栽培、壺作りなどの諸労働に従事しなければならなかっただろうから、schoolとは縁がなかったと思う。(←推論)
 もっとも、「市民」の子弟の教育は家庭教師によるものだっただろう。ソクラテスのアカデミアなどは、学校や私塾と言うよりもむしろ、「教団」のようなものだったらしい。(これも世界史の先生に教えて頂いた。)
 しかし、schoolという語が成立し、今の学校に使われるようになったのには、やはり関係があるだろう。でなければ、「学校」は、schoolと呼ばれてないはずだ。(←あ、いい加減。)

 で、今の時代だが、少なくとも今の日本では、当時の「奴隷」に当たるであろう「労働者」もschoolに来る「ヒマ」ができたということになる。

 まあ、このように書くと、近代の国民国家制度における学校とギリシャの教団のような「学校」を一緒にするな、と言う声が聞こえそうである。しかし、まあ、ちょっと待ってね。だって、人間が暮らしているという事実そのものは、古代ギリシャ時代も現代も変わらない。それで、「ヒマ」(まあ、要は、余裕)が出来て、「学校や食うことを心配しないであれこれ学ぶ場所がある」という観点において、同列に論じることは可能で、同列だからこそ、「違い」が何なのかを明確にすることが重要になってくるのではないか。

 古代ギリシャの学校、つまりは、教団のようなものは、それこそ現在でも名を残す偉人を慕って集まってきた人たちからなっていて、ソクラテスのアカデメイアもアルキメデスのリュケイオンも言わば、余裕のあるヒマ人の集まりだったのだろう。(ごめんなさい。古代の偉人さん方よ。)
 ヒマだったから、生活そのものとはさして関係のない、いわゆる「教養」に関する文化的なことを、あーだこーだと好きなように議論していたのだろう。それが世界史の教科書に残っている名前だったり著作だったりに繋がり、後世に残り、学問として発展してきたのであろう。(もちろん、モノによっては、「技術」として実用化され、文明を発展させてきたはずだ。それで「現代の生活」がある。)

 以前アエラに連載していた養老先生と池田先生たちの鼎談が本になった。その中に、プラトンとアルキメデスは、かなり違ったと言っている。プラトンは観念的で、アリストテレスは博物学的らしい。同じ学問でも、プラトンの方が、私のコトバにすれば、「より役に立たないこと」をしていたということだ。アルキメデスは自然科学に目を向け、今で言えば実学的な方向性につながるものであったかもしれない。しかし、いずれにせよ、「今すぐ」役に立つモノではない。つまり、ここで問題にしたいのは、これら昔の「学校」は、「教養主義」によって学問に励む場所であったに違いないということだ。「市民」のヒマ人の「学校」がそれだったと言うわけ。

 しかるに、現代社会では、国民国家の形成に伴い、「役に立つ人材育成」のための学校が出現した(んじゃないの?)。「社会を円滑に回す」ための人材である。だから、国家によって、教育目標は異なる(んじゃないのかな)。

 で、日本の場合は、実学優先である。西洋に追いつけ追い越せ、が元々の役割だった。東大だって、前身の開成学校は、法学・理学・工業学・諸芸学・鉱山学の五学科らしい。理学はちょいと別にしても実学に結びつきやすいものだし、(諸芸学科とは、統治者のためのもろもろの知識技術の勉強をするところらしい。文学などもこれにあたる。)要は、実学(法学も実学の一種であろう。)である。今の外大に当たる「外国語学校」も各地にすぐに出来たようだ。実質を求めてのことであろう。

 もう、何だか書くのがめんどーになってきた。(笑)

 要は、日本の場合「社会で生きる技術を教える学校」の重要度が高く、皆がそれに同意しているのである。食って行ければそれでよい、という実に生き物として、効率よい考え方である。私見では、豊穣な自然ゆえの生き方にも繋がる。ところが、現代社会においては、「生きるために必要なもの」が、「自然といかに折り合って手入れをして生きていくか」という諸技術、並びにこれに関与する、せざるを得ない、農耕社会につきものの「共同体の重要性の認識」が薄れ、代わって出てきたのが、今の拝金主義であろう。なぜなら、「お金」こそが人が社会で生きる手段になったからだ。かつての日本は、「お金」を露骨に話題にしないことを美意識としていた。たぶん、「自然の豊かさ」ゆえであろう。自然の扱い、共同体の重要性の方が、生きる術として重要だっからではないか。しかし、日本は意外に(?)拝金主義にすぐに陥った。これは、かつての「生きる術」が「自然との折り合い」にしろ「共同体優先」にしろ、つまりは、「相手や状況に合わせること」であったから、いったん「相手や状況」が変化すると、つまり、社会構造が変わって「お金」を潤滑油にして回り始めたとなると、「状況に合わせる」ことが倣いゆえ、価値観の移行も実にスムーズにいったということが言えよう。具体的に言えば、周りを見渡せばだれしもが「お金が大事だ」とどうやらお金が大事だと考え始めているようだ、確かにお金は生活を豊かにする。ならば、お金の価値を信じよう、だて、みんながお金が大事だと思っているから大事なのだ、現に自分の欲望が成就される、ということである。
 同時に、経済界が教育界にクチを出すことにも何ら抵抗がない、そもそも、明治の頃から、日本の教育はその手の算段で行われてきたわけだから、何ら不思議はないということである。

 だから、高校であっても、今や大学でもどこでも、非常に多くの人が、「知の系譜」なんてどうでも良くて、目先の実利、方法、できることを重視する。
 「学校」の価値基盤が「社会で生きる技術を教える学校」なのである。教養なんてものは不要なのである。あっても、誰が見てもわかるブランド品として、「人から価値を認められる」ものとしての重要性(要は人間関係という相対性)が重視される。いつだったか、内田先生が書いていた「西施の顰みに倣う」ことだが、教養が「西施の顰み」にならなくなったという世情だけである。

 「現実を見よ」と言う考え方になる。「現実」とは、目の前にいるやる気のない生徒だったり、「新しい道具」だったり、「時代の流れ」を指す。しかし、ここからが肝心なことだが、「それら全てを作り上げているのが、まさにそう思っている本人、あなた自身だ」と言うことに各人が気が付いていないのである。
 「だって、みんなそう思ってるでしょ? そんなこと(「ほり」の言うようなこと)言ってるのは、あなただけよ。」と非常に多くの人が考えている。

 かつ、人口の割合で言うと、古代ギリシャ時代の奴隷、言わば「労働者」に教養を強要させるのは、そもそもにムリがあるという言い方も出来てしまう。(苦笑)教える方だって、これだけ高校の数が増えてくれば、人口の割合で言えば、教員も同じ「奴隷」「労働者」の所属するわけであろう。(苦笑)だから、「知の系譜、なに?それ?」というような「教養主義」は、学校の先生であろうと無かろうと、廃れて当然なのである。

 しかし、いくら「実学」であろうと、知的関心や好奇心がなければ実行し得ない。(案外これ、忘れられてるのではないかと思う。)これは、教養主義に相通じるものである。ところが、今の学校は、これを根底から否定する方向で、簡単に言えば、勉強が「試験対策」に陥ってきたと言う方向に進んできているものだから、ますます、「教養主義?何?それ?」なのである。点数に繋がらなければ意味がない、カネに繋がらなければ意味がない、と同義である。
 だから、今の学校でも、ホンモノの学習をしようとしている学校は、「根源」に戻っているはずである。進学率云々にしても、教養主義に通じる学習方法を取り始めて、初めて子どもは知的好奇心を自己の中に見出す。それが、応用力に通じ、いかなる試験問題、傾向であろうと、トレーニングにさほど終始する必要もなく、「実力」をつける。数学を数学、試験ための数学ではない数学、英語も英語、試験対策ではない英語そのものの学習につながっているはずだ。(でないと、難関校の二次は取れない。まあ、以前に比べて随分と易しいと思うけど。)

 えっ? ところで、あんたは「市民」と「奴隷」のどっちだって? 回答--女は「人」の中に入ってないはずよ。(笑)
 まあ、強いて言えば、やがては社会問題としてアテネで禁止された「債務奴隷」であれば御の字というところか。(笑)