考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

「抽象」がもたらしてくれる想像力

2008年05月31日 | 教育
 考えてみると、含蓄のある内容というのは、意外に抽象的な言葉の寄せ集めだったりする。
 なぜか。
 その方が、読み手の想像力に訴えかける力が強いからではないか。

 抽象とは脳の中の世界である。しかし、「具体」と思っていることも、実は、脳が現実の一部を切り取って判断していることに過ぎない。だから、同じ「具体」であっても、人によって解釈が異なり、誤解の元になる危険性がある。もちろん、抽象も同様の危険を伴う。ただ、これは、「書き手」側からの感想である。

 「読み手」としてはどうかを考えると、抽象の方が、想像力を羽ばたかせてくれよう。「具体」は何であれ、読む人聞いた人に「わかったつもり」を与えてくれる。しかし、抽象は違う。そこには何らかの想像力を働かせる余地を残す。筆者は、これで何を言わんとするのか。言葉を手がかりに、あーでもない、こーでもないと考える。これって、脳味噌をほじくり返すような難しさと面白さがある。
 さらに、時間という要因を考慮すると、「具体」は時と共に変化する。しかし、抽象は普遍である。だから、時を越えて語り継がれる真のテクストには、具体例がないまま抽象が述べられていることが多いのだろう。

 今の子は、具体的なことしか知ろうとしない。「わかりやすさ」の弊害であろう。抽象化の能力は、まず、「言葉」そのものの使用に既に宿っていることを考えると、なんだか恐ろしい気がしてくる。--当然の「知的能力の低下」である。


作文の添削効果

2008年05月31日 | 教育
 数回書かせただけで、格段に上手くなってきた生徒が出てきた。よって、添削に時間がかかる。文法上の露骨な間違いは減ったが、より良い表現、より良い構成を考えると、なかなかアドバイスが難しい。まあ、それでも、不思議と書くことは出てくるから、「じょうずにまとめましたね」と書きながら、たくさん注意している。All or nothing に繋がる、要は、点数や段階的な「評価」でないから、彼らの価値観の転換に繋がらないか、そうなって欲しいと思う。

 先日は、「1回休み」をした。和文英訳をその場で書かせる。黒板に出てこさせ、ばんばん書かせる。そのクラスは特に人数が少ないから、何回となく中る。生徒には充実感があったと思う。そん顔つきだった。でも、「次」に続くかどうかが、問題。「1時間やって満足」では困る。


「一つも褒めてない。悪いところばかり書いてある」

2008年05月26日 | 教育
と、ある生徒が作文の添削を見てぶーぶー言っていた。
 「でもねぇ、この文、確かに、For example, S + V.になってるけど、これでちゃんと書けましたね、と褒めるわけにも行かないからねぇ。」(このあたりからみんなに聞こえるように)「まあ、私はあまり褒めないけど、ほり分際に褒められたところで一体、どんな意味があるんだ。私に褒められたところで意味なんかないよ。だって、君たちは、もっと高きをめざすのだから。」

 そりゃ、褒められたら嬉しいに決まっている。知っている。で、今の生徒は「褒めて育てよ」のもと、「褒められないと自己承認を得てないと思い込む症候群」(←私の命名)に罹っていることが多い。
 みんなが褒めるから、私は褒めない。(←いぢわる)

 机間巡視をしていたら、その生徒が「これってこれでいい?」と聞いてきた。英語の単語がわからないからローマ字で書いている。「わからないなら、別の言葉で説明するんだよ。それって、動物園? 食べ物?」と言っていたら、「あ、そうか、そういうことか」と言って、何やら書き出した。
 終わる頃に回ったら、随分とたくさん書いている。「あー、すごいね。たくさん書けたね。」十分に嬉しそうな顔をしていた。
 まあ、この生徒の作文は、これ以上、褒める必要は全くない。精々で「この説明の仕方を今後も使いなさい。」と書いておけばおつりが来るほどだろうと勝手に思っている。


[ゴミ]採点できてない

2008年05月25日 | 教育
 この間、採点には限りがあるけど、添削には限りがないと書いた。深読みしてくださった方もいらっしゃただろう。自分でも後から気が付いた。
 書いたときは、添削は明日も明後日もまた入ってくる、と言うだけのつもりだったが、採点は「評価」だから、限りがある。私の添削には「評価」がない。だから、添削は氷山で、限りない、と言うことになる。UPしてから気が付いた。

 と言って、限りあるはずの採点がまだできてないのは、ブログのしすぎ。(反省)

 終わり。

行為の「目的」と「付随的に生じる結果」(多少追記有り)

2008年05月25日 | 教育
 To不定詞というのがある。I went to the library to study.のto--は副詞的用法の「目的」と解され「私は勉強をするために図書館に行った。」と訳すのが普通である。一方、She grew up to be a great musician.のto--は同じ副詞的用法でも「結果」と取られ、「彼女は大人になって偉大な音楽家になった。」と訳す。
 それで、同じto--でも、やったら長ったらしい文で、to以下も長くなってくる場合には、訳し方としては、はっきり言って「どっちでも良い」ことがしばしば生じる。なぜなら、目的の意味で取ると、日本語と英語で訳す順序が入れ替わるから、文脈上からも正直、読みにくくなる。英語は、文末の語句を受けて、次の文が始まることが多いからである。それくらいなら、「結果」として、「何何してこれこれした」と訳した方が、文脈を捉える上でもずっとわかりやすくなるのだ。だから、筆者が真の意味で「目的」であることを意図する場合には、in order to--、so as to--といった目的の意味でしか使わない表現が存在するのである。(と、私は勝手に教えている。)逆に言えば、ネイティブがin order などを用いずに使うto--は、目的か結果か本当のところは判然としていないということも意味する。

 以上、前置き。
 言いたいのは、「目的」と「結果」を、人間は分けて考えることができないのではないか、ということである。
 「目的」と「結果」は、余程注意しないと、ある行為の結果生じたことがちょっと「良いこと」だったりすると、肝心の目的を見失って、「付随する結果」こそが重要なものであると勘違いするのではないか。その誤謬が散見されるのではないか。
 
 「育児は育自だ」と言われる。近年になって出てきた考え方であろう。大昔は、子供を育てるので精一杯で、それによって自分がどうなるか、どうなったなどと言う考え方すらなかったのだとは思うが、これも、「目的」と「結果」と視点で考えると、どうだろうか。
 端的に言って、「育児の目的」はあくまでも「育児」であって、「育自」ではない。なぜなら、いくら親の方が人間的に成長し「子供から教えられることが多かった」ということがあったとしても、もしも子供がちゃんと育たなかったら決して育児の目的を果たしたことにならないからである。「育自」とは、「育児」の末に「付随的に生じた結果」に過ぎないのである。育児の「目的」はあくまでも「育児」であって、決して「育自ではない」、育自とはただの「付随的に生じた結果」、本来ならば、あってもなくても良い結果にすぎないということである。
 これには、同意頂けるのではないだろうか。

 それで、学校教育について考えたい。
 近頃の教員は、やれ研修だのなんだのとほとんどが形式的なことをさせられることが多い。(全く無駄とは言わないけれど。)教員の仕事は何かを考えると、教員が教員として研鑽を積むことそのものが、また、教員として成長をすることそのものが教員の目的ではなかろう、ということだ。「教員の資質の向上」などが問題にされることが多い昨今だが、これは、本当のところは、教育の「目的」と「付随的に生じる結果」を取り違えているからではないのか、と言う疑問である。

 教員の資質向上や研修制度などが問題にされるが、ことの本質は教員の資質を上げることではなく、「生徒の資質を向上させること」が教育本来の目的である。この確認は、果たしてなされているのだろうか。
 それで具体的な政策が立つことになると、「生徒の資質を上げる」という本質が消え去り、教員だけに焦点があてられているという気がしてならないが、いかがでしょう?

 敢えて言う。(って、以前から言ってることなんだけど。笑)
  学校とは、「生徒を向上させるのが目的の場」であって、教員が向上するのが真の目的の場ではないのである。教員が人間的に、技能的に向上することがあったとしても、それは単なる「付随的に生じた結果」でしかない。ところがこの勘違いが、あらゆる場に顔を見せ、ことの本質から目を逸らさせていることはないだろうか、といのが私の疑問である。

 反論は多かろうが、極端な話、学校の先生が授業で何をしようと、生徒がちゃんと成長する力を蓄えているなら、なんの問題もないのである。そのような生徒をいかにして育てるかという視点が、果たして今の教育関連の諸問題に含まれているのだろうか?と言う視点である。

 これは、「教員を通して生徒を育てる」という観点での話ではない。生徒本人、子供に、現在、直に何が語られているか、どう言った具体的な指導がなされているか、なされてきたかという視点での問題意識である。
 世間は「教員を通して」子供に「間接的に」子供を指導しようとはしているが、子供そのものにいったいどんな教育を施そうとしているかは考えていないだろう。だから、具体的には、「夢を持とう」「得意分野を伸ばそう」「自分の好きなことを見付けましょう」「自分にしかできないものを捜しましょう」「良いところを認めましょう」と教える。しかし、これらの言葉の一体どこに子供の根源的な成長の過程が見出されるのであろうか。(←反語)
 小学生でも、高校生でも良い、彼らが今の自分のまま30才、40才になったと仮定すると、果たして今の自分の得意分野の能力で食べていけるだろうか。今の好きなことで生きていけるか。夢はどんな夢をどのように、いつまで持ち続けるのか。自分にしかできないものなんて本当にあるのか。社会に出てから「自分の良いところだけ」で赤の他人が果たして自分を一人前の人間として認めてくれるのだろうか。---ほとんどの答えは「否」であろう。
 夢を持つのは悪くないし、得意分野を伸ばすのも悪くない。しかし、自分に足りないものが何であるか、それをこれから自分は補い、高めていかなければならないのだと言うことを、子供自身にいかに自覚させているのであろうか。学校教育はこういった観点で、いかように子供に教えているのか、という疑問である。(これは、社会全体の底上げをする策にも通じる。)
 これら彼らが「社会人」として生きていく際に真に必要とされることを育ませようとすること抜きに、いかに教員の資質を高めようと、いかに教員や学校間の「競争」によって教育の質を高めようと、子供の成長は決して望め得まい。

 教員の資質を高めることそのものが、子供の資質を高めるための第一の政策ではないのである。教員の資質は高まったが、いっこうに、子供は成長をしないということは現実にある。
 先生が一生懸命にプリントを作って、宿題をチェックし、重要事項を確認させ、それでも生徒の学力は伸びない。学校を出るのは、夜の7時である。自分の子供の世話処ではない方も多いはずである。今の学校現場で起こっている現実は、先生方のもの凄い努力にもかかわらず、生徒の識字能力や読解力や計算力は思うように上がっていないはずだ。私の経験から言っても、同じ大学に合格するにも年々学力そのものは落ちているように思われてならない。

 これは、今の教育の場の「目的」が、「生徒」から「教員」に移ってきているから生じてきた問題だと私は思っている。(今までも書いてるんだけど。学校が生徒が成長する場から、先生が仕事をする場に替わったと。)

 最初に話を戻すと、ことの根源には、かくも「目的」と「結果」、それも、「目的」と「付随的に生じる結果」はなんとも区別がしがたいものであるか、ということだ。英語のto不定詞の感覚である。
 だから、気をつけなければならないのであるが、この「入れ替わり」の「事実」に気が付く人の数や割合は、非常に少ないのではないのだろうか。(「郵政民営化」だって、結局は、巨大銀行を作っただけになった。本来の目的は違ったはずであろう。)

 まあ、話を教育に戻すと、この風潮に敏感に反応して(子供は実に敏感である。)、生徒は授業がわからないと「先生がもっとわかりやすく教えてくれないから自分はわからないのだ」と言う。それで、教員が一生懸命に努力する。努力するのが生徒ではなく、教員になってきているのである。 
 生活指導でもしかりであろう。それで、そういう世代がすでに「親」になって、この傾向を増幅させている。 

 今の教育は、言わば、「育児」を「育自」の手段とするのが最善であるかのような錯覚を起こし、「目的」を「付随的に生じる結果」との捉え違いをしているのではないだろうか。要は、根本からずれているのではないかということだ。だから、どんなに教員や学校の資質を上げようとしても、努力は空回りするだけで子供たちの成長に至らることはないだろう。

 教員の研修をするなら、「子供に成長をさせる方法」を伝授すればいい。
 病気でない限り、授業中にはトイレに行かせない。お菓子を学校で食べさせない。鉛筆は正しく持つ。椅子に深く座る。プリントをやめて、ノートに自分で書かせる。覚えることは、繰り返し何度でもカラダを使って徹底的に行う。自分の欠点から目をそらせない。どうしたら、今の自分より強い自分、良い自分になれるかを考えさせる。
 他にも多々考えられるだろう。具体的にこういった知見をこそ研究し、広めるべきであろう。

 生徒の中には時々こう言う子がいる。「大人になりたくない。だって、大変そうだから。子供の方が自由で良い。」依存する自由が真の自由ではないことを知らないのである。
 今の教育の成果はこのような考え方をする子供、将来のオトナを育てている。

ピカソの「輪郭」(ほとんどゴミ)

2008年05月25日 | 教育
 教材に、ピカソの話が出ていて、ピカソは、それまでの写実的な絵から目で見るだけでなく「心で見る絵」を描いたということだった。それで、黒い太い輪郭線で描いた、などの話が出ている。で、余談としてだが、輪郭って、ホントは「存在しないもの」だよ、という話をした。

 黒板に自分の似顔絵を描いて、「これ、私。ん、上手だね。似てるね」と言ったら、(今教えているのは)良い子たちだから、ちゃんと笑ってくれた。(どうもありがとう。)
 「でもね、黒板の絵は輪郭線で描いたけど、よく見ると輪郭ってある? 黒板の前に立つ私と黒板の間に「線」がある? ないでしょ? でも、不思議なことに、私たちは輪郭があるって感じるよね。これはね、「脳」が「輪郭」を作り出してるからなの。
 写実的な絵には輪郭線がなくて、色で区切りがついてるだけでしょ。目に見えた通りの絵は、だから輪郭がないの。「輪郭」を作り出してるのは「脳」だから、ピカソが天才なのは、ふつーの人が無意識にあると思っているものを意識的に外に取り出して輪郭線として強く表現をしたからなんだよ。顔が二つの方向を向いているというのも、脳の中にはそのような捉え方をする部分があるらしいし。
 天才ってのは、ふつーの人が、感じない、無意識の部分、脳の奥底にある感覚を意識化できる人のことなの。全てに当てはまるようなことを発見できる人なの。
 ニュートンが天才なのも、ものを投げても、落下距離は1/2gt自乗だと数式で表したからなの。それまでだって、同じ1/2gt自乗だったんだよ。でも、だれも気が付かなかった。モーツアルトが天才なのも、アタマの中にある素晴らしい音楽を外に出して音譜で表したからなの。

 とまあ、授業ではこんな話をするのも楽しい。
 「見る脳・描く脳―絵画のニューロサイエンス」岩田 誠 (著)を随分と前でしたが読んだことがあったのでできたことでした。

 しっかし、試験の出来が悪い。悪すぎる。


「わかる」と「困惑」

2008年05月24日 | 教育
 昨日の内田ブログ「井上雅彦さん会う」(5月22日)に、「居着き」の問題が取り上げられていた。それで、2人の師匠を持つ重要性が述べられていた。これは、難しいけど、

>人は単一のロールモデルが示す「すっきりした」プログラムに従って訓育されている限り、必ず技術的な限界にぶつかる。
必ずぶつかる。
それは「私」がプログラムの「意味」を理解したことによる限界である。

>けれども、それは「檻の中でぶくぶく太ってゆく」ような膨満感しかもたらさない。
教育されることは本来教わるものに「のびやかな開放感」をもたらすはずである。
そのためには「私は私を教育するプログラムの意味や構造について完全に理解した」ということがあってはならないのである。
プログラムは私の「外部」に/でなければならない。
しかし、プログラムそのものは異論の余地なく「正しい」のである。

ことあたりのことは、非常に面白い。私の「ベクトル」の考え方に通じる。
勉強もそんなものだと思うからだ。

>そこで、要請されるのが「同じ一つの正しいことを別の言葉で言う二人の師」である。
彼らは「同じ一つの正しいこと」を教えるのだが、使う言葉が違う。言い方が違う。
だから、教えられる方は「だから、何が言いたいんですか?」と困惑する。
けれども、この「不決断」は「正しい教え」の中での「揺らぎ」なのである。

私には、2人の師がいない。2人どころか、ひとりもいないのかもしれない。(笑)
しかるに、「困惑」がとてもいいと思った。
「困惑」しなければ、確かに居着いてしまうだろうからだ。
それは、私の「氷山」に似ているからだ。

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 今の時代は、「わかること」が最重視されている。「わかりやすさ」を重視する考え方もそうである。「自分はわかって当たり前」と思っている。そこには、「困惑」がない。
 私は「わからない状態」を「困惑」と述べているのではない。「わかるはずだという思い込み」「自分がわからないのは相手の説明の仕方がわからないからだ(オレが授業がわからないのは、先生が悪いからだ)」などの考えの根底にある「私は私が知りたいと思うことはわかるはずだ」という思い込みに「困惑」はないということである。(内々に、「わからないものは無視する、無視すればよい、ないこととにする」という考え方もある。)今は、ひたすら「困惑」を拒否する時代なのだろう。予定調和というの? 「ああすればこうなる」の世界に決して「困惑」はない。

 しかし、「困惑」がなければ「次」に進めない。「次」とは何かなんて、わからなくて良いのだが、このことすら理解されなかったとしたら、「困惑していない証拠」である。

 関係ないけど今日、私は「発見」をした。(他人様から見れば大したことはないだろうけどね。笑)

 今の私は、数年前から、読解指導や作文の添削を通してアングロサクソン的な考え方をせっせと生徒に教えている。しかるに、日本人には日本人の考え方があるのではないかと思っている。現にそうである。中国人なら対句的な思考をとるだろうが、日本人は起承転結、英語は極めてlinearである。
 なんだかんだ言っても純粋なJapaneseである彼らに、linearな考え方を教えてホントに良いのだろうかと思っている。だって、どう見ても、「向いてない」としか思いようがないからだ。
 国際化社会において、論理的にものを理解し表現する能力は是非とも必要とされるだろう。しかるに、それだけであっては日本人の良さがなくなる。で、ずいぶんと(というほどでもないが)悩んでいた。

 でも、今日、良いじゃないかと思った。両方やれば良いだけの話である。生徒のキャパシティの問題はあうが、まあ、それでも、「やってみようじゃないか」と思った。
 ただそれだけのことだけれど、私にとっては大きな「発見」だったのだ。

 う~ん。。
 今までも、「こういうときは、英語ではこのように表現するんだよ」とはしょっちゅう言ってるけど。


「象徴」と「モノ」の反比例

2008年05月20日 | 教育
 「象徴」は、記号の一種である。モノは、物質である。
 記号は、脳が作り出し、別の脳が解釈して初めてこの世に存在することになる。しかるに、モノは自然界に単に存在をし、我々自身もその一部である。(←養老先生である。)

 何が言いたいかというと、例えば我々は「服」を着る。その意味である。
 「服」はモノ=物質として我々の身体というモノ=物質を纏い、寒暖の調節に役に立たせている。しかるに、現代社会において「服」には、既に「服=モノ=物質」という式が成り立たなくなってきていると言うことである。

 内田先生のブログに、エビちゃんスタイルの女子学生は、「私はエビちゃんのようなファッションをすることで、お友達を作りたいというコミュニケーションの方法を知っている程度には社会性があるのよ」というメッセージを発しているというそのことが意味することである。

 この時点にいおいて「服」は既に「モノ」としての役割よりコミュニケーションの道具としての「記号的意味」の方が遙かに大きくなってきていると言うことである。(言いたかったことの「前提」が、まず、これ。)
 だから、エビちゃんファッションで友達を作ると、彼女たちはエビちゃん服を着なくなると内田先生は書いていた。(で、たぶん、エビちゃん服は役割を終えて「ゴミ」になる運命なのである。これは後述することと重なる。)

 今、日本は、日本発のファッションを世界に売り出そうとしている。要は、上品に言うと「経済効果」、露骨に言うと「お金を儲けるため」である。今のファッションは、カタチだけでなく、生地の開発までに及んでいる。新しい生地が新しいお金を生む。「高価な服」は、生地の開発そのものから時代の先端を行っている。身体を保護する衣類が持つ物理的意味よりもむしろその記号的側面を研究するのが仕事になった大学学部、繊維、工学関係もある。これも本来の「モノ」としての工学や繊維ではなく、象徴性を持つ「記号」の世界に入り込んできているといった方が良いだろう。(それでまた、これは服の世界だけでない。建築物も何もかもである。)
 だから、どんどん「新しい製品の開発」が期待され、開発が産業界を活性化させる、つまりはお金稼ぎに与する、ということに繋がる。

 で、私が、ヘンだな?と思うのは、ゴミ問題だのという資源の無駄などの問題との関連である。記号的役割を果たしたエビちゃんファッションの「ゴミ化」である。

 衣料品が「ファッション」としての位置付けがあるとき、つまり、人々がそこになんらかの「象徴としての記号性」を見出すとき、それは賞賛され、お金に繋がる。皆がこぞって「欲しい♪」と願うからである。しかるに、いったんその使命を終えて記号性を失い、「流行遅れ」だの「売れ残り」「箪笥の肥やし」となると、衣料品は本来の特性としての「モノ」に戻る。すると、さすがに(苦笑)モノはちゃんとモノらしく、「不要になったモノ」=「ゴミ」として人々に認識され、人々から場所ふさぎの厄介者扱いをされ、ついには焼却場行きになったり、夢の島行きになったりするという事実が生じる。

 この意味で、現代社会は、あまりに記号に溢れた脳化社会だなぁということである。だって、人々が求めるのは「モノとしての服」ではなく、「記号としての服」--「私っておしゃれでしょ。」「ステキでしょ。」「みんな認めてね♪」なのだから。
 
 「服」だけではない。食べ物だって同じである。
 ちょっとした手みやげで持っていった菓子や佃煮でも、十分に活用されないまま「ゴミ箱行き」になることがある。(別にウチがそうだというわけではないよ。)デパートで「贈答品」、つまりは「コミュニケーションの道具」として売られている商品のどれだけが本来のモノとして十分に活用されているかも同様である。もちろん、役立っていることは多いだろうが、そうでない場合もかなりあるはずだ。「ご家庭の押し入れに眠っている不用な品(新品のタオルや食器など)をこの際バザーに出品してください」などのチラシはもう何十年も前から目に付くのは証左になろう。
 ヨソのお家を訪ねるのに手ぶらで行くわけには行かないし、手みやげが歓迎されることは多い。しかるに、結構式の記念品が「困りもの」になることがあるのと同様、「結局腐っちゃったわ」とか、「あら、うっかりしているうちに賞味期限が切れちゃった」という場合も多いのがそれなりの現実ではないのかな。(内田先生のところはそうだけど(記事にあった。)、内田先生が例外でないことを知っている。)

 「手みやげ」や「贈答品」も、「私はあなたに好意を持っている。あなたに喜んで欲しい気持ちでいっぱいだ」という気持ちを表すコミュニケーションの一種の「証拠」として「象徴としての記号」の役割を保証する。それで、この記号が増えれば増えるほど、同時に証拠としての「モノ」の行き来も総量が増え、豊かな社会においては、モノを必要とする「身体としてのモノ」が必要とする以上の「モノ」が、それぞれの「身体というモノ」の所に行き着くと、証拠の品は「象徴としての記号」の役割だけを果たして--「まあ、○○さんから、こんなにいただきものをして。。ウチ、これ、あまり好きじゃないんだけど。でも、お礼に、こちらもお返しをしないとお付き合いができないわ」--、「モノ」はその使命を終え、たちまち「ゴミ」と化す。(まあ、この典型は「のし紙」だったり「包装紙」だったりするが、これらも「モノ」である。)

 「物質としてのモノ」が乏しいとき、モノはモノとして生きるが、モノが豊かな社会になると、モノは「モノとしての使命性(食べられたり、使われたりという使命)」より「記号としての使命性(「お付き合いの証拠など」)」を強く帯びるようになり、役割を終えたモノはゴミ化する危険性が高くなる。で、この「ゴミ化」を防ぐために、「セレクション」なる贈答品が出てきたのだろう。「欲しいものを選んでください」というものだが、これとて、「包装」と「輸送」にモノやエネルギーは余分に使われているのである。てなわけで、ますます「モノのゴミ化」が進む。しかるに、たとえそれがわかっていても、「モノとして存在する身体」は、モノを証拠の品として求める性なのだ。(でなければ、こんなに贈答品が行き来するわけがない。そう言えば、内田先生は、「交換」の重要性を語っていたっけ。)

 昨今の資源やゴミの問題の根本は、この反比例状態に起因するだろう。
 
 話をもとの「服」に戻すと、「服」の移動(流通)は多大なエネルギーも消費する。それで、記号としての命がますます縮まることで、つまり、流行がどんどん早く変化することで「記号としての命の期間」をどんどん縮まり、有限な資源はそれに伴いますます使い減らされていき、エネルギー資源枯渇の問題に直面する。しかし、「ファッション」という「モノとそれに付随するエネルギー消費を伴う記号」を世界に売り込むという政策?は、エネルギーに乏しい日本が奨励していることなのである。

 脳化が進んだ記号社会、要は、結局は「お金という最終的な記号」が強大な力を持つ社会において、この矛盾はどしようもない避けられない問題なのだろうと思う。