考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

ある受験参考書

2006年10月31日 | 教育
 人から、「思考訓練の場としての英文解釈」(多田正行著)という本を教えて貰った。たまたま持っている人がいて、貸して貰った。

 まだ数ページだけれど、これ、めちゃ、面白いよ。序文?がまたふるっている。
 最初の方、英文を因数分解のように解釈する。そうそう、私もそんな風にやりましたよ。
 今の英文は、つらつらすいすい読めるが、当時の入試問題は確かにこんな感じだった。やたら、構造がややこしい。
 いやぁ、とっても楽しい♪♪

 もちろん、私は高校時代、こんなのがあるなんて知らなかった。大体、田舎だったものだから、街で一番の本屋でも駿台叢書を扱ってなかった。初めて700選とかを見たのは、浪人中だった。(笑)
 「和文英訳の修業」は現役の時に手にして、これは今も手元にある。でも、あんなにたくさんの練習問題が覚えられなかった。(笑)はい、私は記憶力がありませんから。
 えっ? 英作文用の例文集? 学校で配られた美誠社の「構文150」でした。
 The girl's name reminds me of my bitter but sweet school days. 第1文はでしたっけ。highが入っていたっけ?

 この頃、妙に昔のことを思い出す。年取ったのね。

なぜ学校教育に「文法」がないのかという疑問

2006年10月31日 | 教育
 今の高校の英語は、英語Ⅰ、Ⅱ、リーディング、ライティング、オーラルコミュニケーションⅠ、Ⅱになっている。
 やりにくいなあと思う、というか、「現実」に即していないのは、文法が科目として設定されていないことである。文法は、英語Ⅰ、Ⅱで学ぶことになっているが、はっきり言って極めて不適切である。

 当たり前だけれど、文法というのは、言語の規則性を体系化したものである。それで、「規則性」とは、非常に抽象的な事項で、実は、生徒は理解がしにくい。それで、文法が苦手な生徒は、数学も苦手であることが多い。でも、これは当然予測が付くことである。なぜなら、数学も文法も高度に抽象的と言う点で一致するからだ。

 時々授業で、文法は、数学の公式だと思え、と言っている。公式があり、それに具体的な数字を当てはめるのが数学で、コトバを当てはめるのが文法である。「抽象」という概念において、極めて人間的(新皮質的)思考を行わなければ理解できないのだ。(だから、新皮質が発達していない他の動物は、基本的に言語を持たないし、数の概念も持たないだろう。)

 抽象性の極みとも言える数学を「体系的に教えない」学校はあるか。あるわけないだろう。なのに、現在の学校教育における英語学習では、英語という言語の抽象性としての体系や系統性が無視された教育課程になっている。

 英語Ⅰなどで出てくる文法事項の学習は内容読解と共に行うわけであるが、系統的に纏めるだけの余裕はない。課によって、バラバラに出てくるし、系統性を持って教えようとすると、教科書をあちこちバラバラ捲らなければならない。何のための文章かわからなくなるし、せっかくの文章読解が台無しである。

 一つの言語材料を、様々な角度から学んで言語学習とするのは、一見「理想的」である。なぜなら、日常生活上、言語は、読解や文法など、全く分離されていないからである。

 しかし、これは「学問的」とは言えない学び方である。

 なぜなら、あらゆる学問は、「似ている」とか「同じ」あるいは、「違う」から成り立っている。「これとこれはこういう点で似ている、同じである」或いは、「こういった点で異なる」つまり、「分類」することから学問が始まるのではないか。
 「具体」は一つ一つ「違う」。我々の世界に全く同じものは一つとして存在しない。しかし、人間は、違うものを見てその「特徴」を捉え、「似ている」とか「同じ」と判断する。これは、「抽象化」という作業(思考)で、概念化と言う意味で階層的に一段上の段階になる。(入れ子構造と捉えても良いだろう。)養老先生のいう、感覚と抽象の世界を行ったり来たりすることである。私が言えば、個と集団の概念に繋がるものである。
 いずれにしろ、この抽象化がなければ、人間としての証であるような学問は生じない。

 「学問」とは、人間の知的作業である。それは、抽象化ができる人間だからこそできる知的作業で、「これとこれはこの意味において同じ、違う」と判断することに他ならない。
 自分が勉強でも何かの学習でもするときのことを想像すればすぐに思い至るだろう。「これって、あれと同じじゃないか」から、全てが始まるだろう。それで、この作業の得意な人が勉強が得意であるし、学問の世界を新たに切り開くことにもなる。

 言語において、文法こそが正にその作業である。日常使用されている言語材料の個々の「具体」から「規則性」という「抽象」を抜き出す作業で、抜き出されたものが文法である。何故それを学校教育において明確に行わないのか。我々は、母語の習得において、無意識のうちにこの作業を行っている。

 外国語の学習においても、無意識に行われることが理想とされるようだが、それは、特別な才能を持った人だけができることであろう。凡人には無理な話である。
 もし、凡人にでもできるなら、外国語学習において「文法」という概念そのものが生まれなかったであろうというものだ。「文法」が存在するのは、必要とされてきたからではないのか。

 「文法」という具体から抽象を抜き出した「規則」の数々を高等学校の教育課程で、一つの科目として系統的に纏めずに教え「ない」状況にあるのは、人間の抽象思考の基盤を捨てたようなものではないか。これは、人間の学問に対する姿勢を否定することに相通じるだろう。

 生徒は文法を嫌う。それは数学を嫌うのと同じ理由である。「抽象化」が難しいからである。しかし、文法という抽象化作業を学習せずに、どうして人間独自の営みである「勉強(学問)」が可能であるのか、甚だしく疑問に思う。