考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

今の英語は「実技」教科

2006年03月31日 | 教育
 現在の英語学習は、センター試験でリスニングが導入された経緯もあり、「聞く」をこれまでより重視する方向に流れている。これは、教育そのものが大きく転換したことを意味するように思う。

 「聞く」活動は、通常、「話す」活動と対になり、日常のいわゆる「コミュニケーション」に直結する。試験で「話す」活動を評価するのは困難だから、対象が「聞く」に集約されるのはやむを得まい。が、「聞く」活動を評価するための試験内容を見ると、これが学校で教えるべきことかと、どうしても違和感を感じてしまうのだ。表現の多様性はあろうが、「読み書き」に求められるレベル以下の知識を問う問題設定だからである。
 口語表現やリスニング問題で問われていることは、英語の技術的な側面である。知っているか、知らないか、できるか、できないか、の二者択一に近いものを感じる。「読み書き」ほどの「思考」を問うと思わない。これは、学習される内容に、学習者の人格の変容を要求しないことを意味するのではないか。もっと思い切って言うと、英語が「学問」から、「実技」教科に変わったことを意味するのだろう。

 私がこのところの大きな流れに、どうしても腑に落ちないものを感じた理由がやっとわかった。
 
 私は、英語を何故学習するのか、日本全国津々浦々、中学生の全てが英語を勉強するのはなぜか、理由を問われれば、「自分を知るためだ。外国語を学ぶことによって外国の文化を知り、他を知ることによって自国の言葉と文化をより深く知るためだ。」とずっと思っていた。それで、これが間違いだと思わない。昔、今ほど国際交流が盛んでなかった頃、多くの中学生が持った疑問「英語を使う機会もないのに、なぜ英語を勉強するのか」にはそう答えていた。だから、生涯にわたって外国人とやりとりをすることがなかったとしても、この国の文化に浸って暮らしている限り、対照するものとして外国語を、英語を学習することは、多くの学問をする意味と全く同様に、人間として自分を知るために重要になるのだと思ってきたし、語ってもいた。採用試験の面接でそのように答えた覚えもある。

 しかし、この考え方が根底から変わろうとしているのだ。それが、「コミュニケーション重視」の戦略なのだ。
 もちろん、口語表現を重視した学習や実技的な活動が、必ずしも自国文化の理解を生まないわけではなかろう。しかし、実用性という観点の重視は、目を他方に向けることはあっても自分自身に向けることはないだろう。野球選手や芸術家が外国へ行き、生活のために言葉を覚える。それを日本にいながら行おうとしているのが、現在理想とされる英語教育になりつつあるのだ。

 「何をバカなことを言っているんだ。コトバは道具だ。当たり前だろ。」という声が聞こえる気がする。しかし、この変化は、教育そのものが、今まさに本質から変化しようとしていることを意味するのではないか。(なおかつ、言葉が人間そのものを表すという考え方も否定する。)
 ある教授が「君たちは高校で英詩を学ばなかっただろう。」と嘆いていた。英詩の美しさを教えることに意味を見いだすことは今後益々減っていくのだろう。

 勉強が、学習が、道具としての手段でしかなくなりつつあるのだ。役に立つことを評価して無駄を省き、効率や効果を重視する考え方が、あらゆる教育の場に波及しようとしている。当たり前のように少しずつ、しかし大きく教育の本質を変えようとしているのである。

 私の勉強不足かもしれない。しかし、今私がここに書くような質的な変化を捉える英語教育論を私は耳にしていない。文科省や地方公共団体が主催する教員対象の研修会には何回も参加している(参加させられている)。が、「話せる英語教師を」と言ったキャッチフレーズは聞こえてきても、教育の意味そのものが変化しているのだという英語教育観を私は誰からも聞いた覚えがない。

 学校の英語が、「自分を知るための学問」から「道具としての実技」に変わろうとしている。それが今の日本の英語教育なのだ。
 やっと、気が付いた。違和感の原因はこれだったのだ。

 しかし、それで、なにもかもを手段や道具にして、我々は一体どこに向かおうというのだろうか。

塾と学校

2006年03月28日 | 教育
 塾では授業が行われていて宿題まで出るらしい。中学生の多くはそんな塾に通っているようだが、よくやるなぁと思う。というか、不思議な気持ちになる。

 昔(自分の時代)は、そんなヒマはなかったぞ。英語だって、教科書の単語を全部覚えるのがたいへんだった。やたら勉強することがたくさんあった。小学生の時、「参考書」を買いに行ったが、なんとかいう参考書は難しかった。教科書に準拠していなかったから、順番が入れ替わっていたり、応用事項があったりしたようだ。だから、私は買わなかった。で、周りを見ると、あまり勉強ができない子がその参考書を持っていた(傾向がある気がする)。だから、私の見方だと、塾に行って、学校の勉強と違うことをやって負担にならないのかなぁと思ったりする。しかし、昔ほど学校がしっかりしてないということなのか。(中学のことはよくわからないが、研修で一緒になった中学の英語の先生のデモンストレーションを見るとさもありなんという気がしないではない。)

 今春高校生になる子に「高校に入って、通信添削をするか塾に行くかする方が良いのかな」と聞かれたから、断固、「学校の授業をちゃんと受けろ。英語と数学と古典は必ず予習をする。それでいい。」と言った。学校は進学校だし、だったらそれなりの方策をちゃんと取っている。要は、やるかやらないかの違いなのだ。(私が高校の時に英語ができたのは、毎時間辞書を引いて予習をし、試験前には教科書に出てきた単語をバカ正直に全部覚えたからだ。大変だったといえば大変だったが、ただそれだけだと言えばそれだけの話でしかない。)
 まあ、高校だけは、やっていることは昔から余り変わってないんだよね。なんだかんだ言っても、子どもを椅子にちゃんと座らせて勉強をさせるのは、悪名名高い相変わらずの大学入試のお陰だろうね。(笑)

「皆でやったら逆効果」から「教育の主役は誰?」

2006年03月24日 | 教育
 教授法でも生徒指導の方策でも、「こういう方法で私は成果を挙げました」という発表がなされたり、「こうすると良いぞ」という内々の「教え」があったりすることがよくある。
 そういった先生方は、確かに独自の方法で成果を挙げたのだと思う。生徒の人気も高かっただろう。否定しない。しかし、他に誰もやってない中で、その先生だけがその方法を使ったために成果が上がったかもしれない可能性はどうだろうか。

 その成果は、もし同じ生徒に関わる他の先生みんなが同じ方法を使っていたのだったら上がらなかった成果かもしれない。そういうことが、現実にはよくあるのではないかということだ。
 
 「褒めて育てよ」という指導法にしても、多くの先生が叱ってばかりいる中で一人「褒める」指導をする先生がいたら、抜群の教育的効果を上げると思う。先生はには人気が出るだろうし、生徒は先生を慕って生き生き意欲的に自己を成長させるはずだ。
 しかし、全ての先生が「褒める」指導をしたら、どうなるか。問題はそこである。生徒は褒められることに慣れてしまうだろう。よって、あれほど効果的に見えた「褒める」指導が、かえって生徒の成長を損なうことになることはあるまいか。

 教科指導でも何でも、意外に、こういった観点が見落とされているのではないかと思う。

 研究発表がされるのは、教授者が誰よりも先んじて行った教授法である。先生は意欲的で、生徒には新鮮さがたまらないことがあるだろう。中には、素晴らしい成果をあげる方法があるだろう。しかし、この成果は、ひょっとしたら、その先生ゆえの手柄でないかもしれない。タマタマ「他の先生が行っていない」うえで、その先生だけがやったから生じた成果なのかもしれないということである。

 子どもは、生徒は、「新しいもの好き」である。同じことをやっていると、飽きることが多い。よって、教授者は、手を変え品を変えあれこれ工夫をする。変えることそのものが「効果」を生むこともある。しかし、これにしても、変わることに慣れてしまった子どもは、「変わらないことに耐えられない」性質、「習慣力(←何かで読んだ。良い観点だと思う。)が身に付かない」性質を、学習によって身に付けることになりかねないのである。これで「生きる力」は育たない。

 学校教育は、体系化された「組織」で動く場所である(はずである)。ところが、こういった全体的な視点から指導を考えることは、案外に少ないのではないかと疑う。
 生徒指導に関しては、一種の「役割分担」が効果的だったりすると思う。それができている組織は、教育の全体像を相応に捉えているという意味で立派だと思う。

 教科指導でも、(私は目の敵にしたくなる)「書き込み式問題集」は、目先の効率に関しては、生徒にとっても教員にとっても、実に素晴らしい。しかし、あらゆる教科で、あらゆる場合に用いられていることで、日本の若者の自律的な成長がどれだけ阻害されているかを考える人はほとんどいるまい。「おいしい毒」を毎日の食事に盛っているようなものである。「うまい、うまい」と食べているウチに、やがてじじわじわ来るのであろう。「あんなにおいしかったのに。どうして、どうして、こんなことに。。一体、何が悪かったの?私にはわからない、わからない。どうしても、わからない。。。」

 どういった方法であっても、「悪意」で行われているものはない。それどころか、「こうしたら、もっと成果が出るはずだ」という「善意」から来ているのである。だから、なおのこと始末が悪い。

 それで、良いつもりの指導が、ついつい「皆でやったら逆効果」に陥って、しかもそれに気が付かないのは、先生にとってより切実な「教授者は何をすべきか」という問題は、「生徒のため」と言いながら、実は自分が行う教育方法が最大の関心であること、そのため、肝心の「生徒をどう成長させたいか」が知らず知らずのうちに二の次になってしまうからである。何故そうなるかというと、先生にとって「教授者は何をすべきか」という問題は、細かく考えれば考えるほど非常に具体的でわかりやすく、かつ、先生がより主体性を発揮し充実感を感じる機会を与えてくれるからである。これは、教育の主軸にあるのが「生徒」ではなく、いつの間にか「先生」にすり替わってしまう危険性を暗に示しているのである。


中途半端は良くないね

2006年03月22日 | 教育
 昔、まだ若かった時、生徒の学習に関して「やってもできなかったら仕方ないじゃない」と素っ気なく言ったら、もっと若い先生に、げげっ、という顔をされ、「厳しいんですね。」と言われた。やったらやはり成果が欲しい、成果が出ないのは可哀想だ、と言うわけである。努力したら報われたいと思うのが、普通は人情である。

 しかし、と思う。可哀想かもしれないが、やっぱり仕方ないものは仕方がないじゃないか。

 私は物理ができない。できなかった。
 物理ばかりを毎日2時間勉強した。1学期に習う力学の復習である。夏休み、試験前、たっぷり2週間を掛けて、物理だけで毎日2時間の猛勉強をした。物理ができるようになりたかったのである。(他の教科の勉強も当然やったが。)それで試験を受けたら、クラスで下から2番目。100点満点がいた試験である。(私より悪かった子は0点だった。)あきれて笑ってしまった。あんなに勉強をしたのに一桁の点しかない。でも、お陰できれいさっぱり諦めることができた。良かった。
 テストはできなかったが、今も物理には並々ならぬ興味と憧れがある。で、私は物理ができる人を尊敬することができる。生まれ変わって物理の才能があったら、私は理論物理学者になりたいと思う。

 そんなものだと思う。なにがそんなものか自分でもよくわからないが(笑)、そんなものだ。

 たかが勉強、まずは徹底的にやればいいのである。できればしめたモノで、できなかったら諦めがつくだけの話だ。生徒は若い。他の道を考えることもできる。

素人の文章の読み方

2006年03月21日 | 教育
 私は、文章の素人である。何が言いたいのかというと、文章を書く際に、コトバを厳密に用いることができていない可能性が非常に高いと言うことである。どういうことかというと、コトバには、それぞれ定義があるが、普遍的な定義に基づいて文章が書けていない可能性があると言うことである。コトバの定義は、実際問題、一人一人異なる。だから、うっかりすると誤読される危険性が常にある。
 誤読の危険性は、文と文の繋がりからも起こる。逆に言えば、私が自分の言いたいことを正確に人に伝えようとするのは、(努力しても)かなり難しいということである。

 前置きが長い。(いつも長い。笑)

 かなり大勢の人に、自分の文章が読まれる機会があった。で、そのとき、誤読した人と、そうでもなく、私の言いたいことをかなり正確に汲み取ってくれた人がいた。

 それで、どういう人が誤読していたかというと、読解力があると思われる、インテリ系の人が意外に誤読していたのである。最初疑問に思ったが、理由はすぐに予想が付いた。

 どんな風に誤読されたかはわかったので、そのつもりで読むと、なるほどそのようにも読み取れた。
 インテリ系の人たちは、論理的に読む。つまり、コトバの定義と文章の流れに沿って、文章を厳密に読もうとしたのである。ところが、書かれた文章には論理的でない部分がちょこちょこあった。だから、そこから綻びが出て誤読されたのである。

 なんてこった。
 もちろん、書いた自分の責任である。

 読み手側に立てば、書かれた文章の意図を正確に読み取ろうとして、書かれたコトバを手がかりに綿密に検討して論理的に読み取っていくのは、極めて正しい読解方法である。
 しかし、これは、場合によって(つまり、書き手が論理的でなかったり、厳密でなかったりすると)かえって間違いになる、ということである。しかも、私の場合、文章の大部分は非常に論理的であり、一部だけがそうでなかったものだから、余計に始末が悪い。「この部分はこういう表現がなされている上で、ここではこんな風に表現されているのだから、ここはこういう意味だろう」が、下手な書き手(ここではつまり私)に通じなかったのである。

 その点、ふつーの人たちは、意外に正確に読み取ってくれた。
 たぶん、私が間違えて表現した部分のコトバの定義や文章の繋がりを論理的に解釈せずに、なーんとなーくの全体的な論理の雰囲気で読み取ってくれたからである。

 (文章は、読まれた段階で、書き手の手を離れ読み手のモノになるというのは、別次元の話である。)

 う~ん、書くのも読むのもムツカシイ。
 しっかりと時間を掛けて推敲できずに書くと、こうなる。
 

脚光を浴びるスペシャリストと個性重視教育

2006年03月21日 | 教育
 イチローは野球の専門家である。野球の才能に恵まれ、かつ、努力家でもあるようだ。彼の口から出てくるのは、(私がテレビで聞く限り)野球の細かな技能に関わることである。彼が野球の才能を開花させることは、天から与えられたミッションである。天才とはそういう存在であると思う。

 向井千秋さんや野口さんたち宇宙飛行士とイチローは似ている。宇宙飛行士はNASA(かJAXAかわからないけど)からのミッションを負うている。インタビューでは、皆が皆、ミッションを全うすることを述べていた。

 養老先生は、「仕事とは世間の穴を埋めることだ」とおっしゃっている。野球というスポーツが生まれたら、「野球」という深さのわからない穴ができた。文明が発達したら宇宙開発や科学技術という穴ができた。彼らはその穴を埋めている。

 宇宙飛行士は、見事な穴埋め作業である。健康と体力と適する性格を併せ持った上での、特別に優れた「事務処理能力」的な「作業能力」が要求される。

 それで、こういったスペシャリストたる性質の現代的な意味は、「脚光を浴びる」「お金になる」と言うことだ。マスコミの力の大きさが関与するのであろう。宇宙飛行士の給料は大したことないと読んだことがあるけれど、大いに注目される職業である。

 ところで、今は社会が豊かだから、通り一遍でモノは売れない。他と違った、何らかの特異な部分がないと売れないのは、イチローや宇宙飛行士の有り様と構造が同じではないかと思う。

 平積みの新書で、「自分を高く売る」なんて文言がタイトルに入っている本があったと思う。(手にとってもないが。)人間も売る。当たり前と言えば当たり前だけれど、「売れてきた」などの表現は、昔は芸能人とかそういう人にしか用いなかったと思う。(それで、「芸能」は、ひどく「個性」に関わる職分である。)しかし、今はふつーの人でも自分を「売り込む」必要が出てきた。だから、個性重視なのだ。

 なんだか納得できるではないか。

 ところが、モノを売る際に、通り一遍の「規格」を全く外して特異点だけで売ることはないのに対して、----たとえば「食べられないインスタントラーメン」が想定できないように、---- 人間の方は、すぐに「想定外」になりうるのである。

 近頃の子どもの様子がそれである。

 知り合い(?)のピアノの先生が、「今の子どもは、小学1年生でもの凄く難しい曲を弾きこなす子がいるかと思えば、ちょっとの間も椅子に座っていられない子がいる。」
 原因が何であれ、授業中に教室を徘徊するのもそうだろう。かと思えば、何においても、若いときから素晴らしい才能を発揮する子どもも何だか増えてきているような気がする。社会や家庭に余裕が出てきて、子どもの才能開発に時間と手間と技術を惜しまなければ、天分のある子どもは、十分にその才能を発揮するのだろう。しかし、何らかの最低限の条件を満たさなければ、きちんと座っていることも、真っ直ぐに立っていることもできない人間に育ってしまう。
 
 親も教育者も、「マス」としては、まともな、つまり、言葉は悪いが、社会生活を営んでいく上での一定条件を満たす人間という「規格」あるいは「想定」を意識することなく子どもを育てているのだろう。
 それなのに、脚光を浴びやすく、お金になりやすい「個性」を重視することこそが教育であると社会的に求められて来たのが、このところの経緯だろう。このギャップが目立ち始めたのが昨今なのだろうと思う。


普遍と変化・その2

2006年03月20日 | 教育
 fer-matさんのブログに、こんなのがあった。全文引用。

>>大変失礼なことではあるけれども、流行や政治といった「その場限りの社会の雑音」にしか興味を持っていない人間は、バカだと思っている。

 これに対するコメント、『たとえばどんなものがその場限りではないんですか。』に対して、fer-matさんは、『・・・普遍的なものに関心を持たず、その時々の流行や雑音ばかりを追いかけ・・・・その場限りでないものとは、その時々の流行や雑音に比較して普遍性を持っているものであり、たとえば科学です。』と答えている。

 「バカ」は彼独特の語法である。私に言わせれば、「人間だからこそ持ちうる認知上の特質を軽んじている」ということである。

 年度末になったので、皆で教科書庫の片づけをした。献本が貯まってきているので、処分しなければならないのである。で、捨てようとする人となるべく取っておこうとする人がいる。それを「性格が出る」と表していた人がいた。ま、誰がどっちかは、日頃の考え方で大抵わかる気がする。ある時、あるお葬式で、小さなアパートの2階の部屋から、ご遺体が布にくるまれただけで外階段を降ろされたのを見て、ああ、すっきりしていていいなあと思った、と言った人は、捨てるのが得意な人だった。

 「その場限りの雑音」相手に苦戦するのが生き物である。いかにして食っていくか、生き延びていくかは、意外に「その場限りの雑音」に左右される。
 しかし、人間は、自分の命に限りがあることを知り、同時に、それでも、その命が形を変えて次の世代に伝えられ受け継がれていくことも知ってしまった。人間の認識が大きく変わったのはそれからだろう。煎じ詰めれば、これが「普遍」を生んだ源ではないか。

 人だけが「ルーツ」を知りたがる。「未来への遺産(だっけ?)」のサブタイトル(?)で、「人はどこから来てどこに行くのか」は言い得ている。この疑問が学問の全てを生んだのだろうと思う。
 もちろん、どこから来てどこへ行くのかは、未来永劫、誰も知るよしがない。しかし、それで良いのだと思う。ただ、それでも、探求し続けるのが人間の人間たる証だろう。

生存競争

2006年03月19日 | 物の見方
 自然界の生存競争は、異なる種の間での争いである。
 しかし、人間の「生存競争」は、人間同士の生存競争である。
 知能が進むと、同じ種で争うことになるようだ。「縄張り」争いみたいに。
 人間が生存を賭けて戦わなければならない生き物って、人間と微生物とウイルスみたいだ。
 ふ~ん、そうかぁ。。。

起きろ!

2006年03月18日 | 教育
 生徒は授業中に、つい、眠ってしまうことがある。
 机間巡視でちょっと突っついてやると、多くは「はっ」とビックリして自ら姿勢を正す。心の中で「いけない、ちゃんとしよう」と思っている様子である。普通はこうだろう。教壇から、名前を呼んでやると、目を覚まし、恥ずかしそうに顔を上げる。

 「以前」は、こうだった。

 ところが、実に、今どきは違うのである。

 生徒が寝るのに変わりはない。
 しかし、突っついて、すぐに反応することがない。断じて、ない。男女差なく、大抵そのままの姿勢である。せいぜいで、のそ~っと身体をくねらせる。で、時には、こっちの方をさも恨めしそうに見る。「せっかく人が寝ているのに、なんで起こすんだ~」と言わんばかりの顔つきである。露骨に「なんだよ~」と小さな声で宣う方までいらっしゃる。

 座っている姿勢からして、寝るのに都合が良くなっている。座り直しをさせるのに、1年かかった。やっと、こういう場合に、座り直しをさせることができるようになるのに1年かかった、ということである。

 信じられないが、現実である。「ここは家じゃないんだ、私はお母さんじゃないよ。」と何度か言った。

 本能的欲望に忠実である。かつ、サービスを受ける側としての感性で動く。
 「眠いんだから仕方がないだろうに。授業はつまらんし。」という理屈である。あんたは授業していればいいんだ、オレはオレのしたいようにする、騒いで迷惑をかけるワケじゃない、という理屈である。
 自分自身は教育を受けている存在である、という自覚が全くない。自分の欲望に合致する部分だけ、授業を享受すればいい、という考え方である。オレがこれで良いと思ってるんだから、あんた、黙ってろ、関係ないだろ。生徒ではなく、「お客様」である。
 (で、繰り返し言うことになるが、ウチは、多少は知的能力の高い生徒が在籍する学校である。にして、この実態である。)

 「自分の好きなこと」を大切に育ててきた成果がこれなのかと思う。好きなことを育てるのは悪いことと思わない。しかし、逆説的に「好きでないこと」を軽視することになった結果はこれなのだ。

 好きでないことを大事にしなくても豊かに暮らせる社会になったと言うことであろう。
 しかし、がっかりである。こんな若者の姿は、だれも期待してなかっただろうし、予想もしていなかったはずである。

絶対者との関係がありますか

2006年03月17日 | 物の見方
 この間、昼間のテレビ番組、芸能人が出る週の纏めのワイドショー的な番組に、東大合格者が数人出ていた。合格発表の場所で出演依頼されたようだ。
 それで、自分を優秀だと思っているか、と言う質問で、一人が「自分は底辺だ。自分より優秀な人とつきあえるのが嬉しい。」正確ではないが、このような内容の答え方をした。そしたら、出演者の芸能人の方が、「東大合格者が底辺だったら俺たちはどうなんだ」と憤った様子を見せていた。
 両者とも、「ごもっとも」である。両者は異なるものの見方をしているから、それぞれの立場で「ごもっとも」なのである。

 芸能人の方は怒っていたが、だからといって、その合格者が、東大に入らない人たちを見下していることにならない。

 芸能人の方が怒った理由は、「自分と東大合格者」を対する二者として、しかもそれを上下の関係で捉えたからだ。それで、自分より上にいると想定される東大合格者が「底辺」とすれば、自分は底辺以下の存在である、と言う論理である。これはこれで整合性があり、怒りが生じてもっともである。
 しかし、その合格者は、東大という集団内において当然生じる優劣に関して「自分は底辺」と言ったのである。これはこれで整合性がある。
 ほぼ同様に、東大だから優秀だ、と自分で言う東大生がいたら、かなりアブナイと思うし、聞いた人はそれはそれで不快になるだろう。

 しかし、ここにおいて、上下や優劣に関しては、当事者同士での関係だけでなく、絶対者との関係を想定すると、大いに様相は異なってくる。
 
 「底辺だ」と言ったあの合格者には、自分より優秀な人に対する僻みのような感情はまず、ないと思う。なぜなら、その合格者は、自分より優秀な人を通して、更にその先を見ているであろうからだ。(もし、何らかの理由で、その人だって、二者の関係で捉えるようになったら、様々な負の感情を想起するだろう。)
 自分より優秀な人は、「何か」を求めて進んでいるのである。そして、その合格者もまたその人たちと同じ「何か」を求めて進もうとしているのである。その意味で、より優秀な人とその合格者は、絶対的なる「何か」に相対する者として、「同志」であり、つまりは立ち位置が同じ、ある意味で対等になるのだ。

 しかし、テレビで怒った素振りを見せた芸能人は、絶対者の存在を想定しておらず、相手と自分の関係を二者の関係で捉えた。だから、上下が気になり、不快な感情が生じることになったと考えられる。
 もし、「自分は優秀である」と言う人がいたとしたら、その人もやはり自分より劣る他者と自分を二者の関係でしか捉えていないことになる。

 他者との関係を二者の関係でしか捉えない人は、世界が己と相手とでしか成り立っていないと見なしているという点で傲慢である。絶対者との関係を見る人はより自由で謙虚であると思う。
 もっとも、二者の関係で捉えるのを通常とすれば、自分の方が下であると感じた人が怒るのももっともである。いかなる人も、存在としては対等であるはずだから、上下の関係を作り出すのは「けしからん」のだ。

 内田先生が「先生はえらい」で書いていた、「仰角」は、「絶対者」(人間や神というわけではない。)を想定した考え方であると思う。師が仰ぎ見るものを弟子も仰ぎ見て一層精進するのである。弟子は、師を通して、絶対者を見る。しかし、弟子単独の力で絶対者に挑むことはできないのである。師に対する敬意の念が生じるのは、おそらくそういった関係からだろう。

 「何か」を想定したり、仰角を持つ者は、想像力が豊かであり、想像力の豊かさとは、人間が人間であるために持った方がよいものではないかと思う。