考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

「知の系譜」を忘れた学校

2006年10月03日 | 教育
 私は今の学校が嫌いである。「今の学校」といっても、現勤務校だけなのか、日本の学校全体まで含まれるのかどうかは、よくわからない。
 生徒も嫌いである。でも、根っから生徒が嫌いというわけではない。学校に来ているのに、勉強をする気のない生徒が嫌いである。アタマの善し悪しはどうだって良い。勉強をする意欲があるかどうか、それが重要なのだ。アタマが良くてもずれている生徒は嫌いである。アタマが悪くても真摯な生徒は好きである。

 生徒が勉強をしたくなる方法を、手を変え品を変えいろいろ工夫しようとしたこともあった。もともと生徒をわぁ~っとのせるのが上手ではない、という不器用さもあるだろう。でも、そもそもの初めから、何でこんなコトせねばならぬのか、という違和感があった。
 学校は勉強をするのが当たり前のところである。しかも、行っても行かなくてもいい「高校」である。(小中は、また少し別であろう。しかし、私は小中の先生になる自信がなかったから高校を選んだ。)勉強をする気がないなら、来なければいいだけの話である。なぜ、教員がわざわざ生徒の興味関心を引かなければならないのか。英語なら英語、数学なら数学、魅力は、教科そのものに既に満載されているではないか。

 とこんなことを言うと、「この先生、アタマが硬いな。楽しくやれる方法はいくらでもあるでしょうに。」と言われるだろう。「今どきは違うのよ。」と言われるだろう。しかし、勉強は、そもそもが数学の計算一つをとっても、面白さは数多く発見出来るものである。英語だって、そうだ。そのものに直に触れて見る。それで十分なはずである。数学の計算も、英語も今も昔も変わらない。(英語は違うところがあるだろうが、そんなのは些細な違いである。)勉強は不思議に満ちているものだ。

 勉強をするというのは、「知の系譜」に参画すると言うことである。算数の初歩であろうと、文字を覚えることであろうと、もっと難しいことを学ぶことであろうと、それらは全て、人間が数千年にわたって積み重ねてきた何らかの系譜に触れることなのだ。先端的な研究に従事するのも、学校で初めてのことを学ぶのも、やっている本人には感覚的に変わらないことだと思う。最先端は、自分が見出した不思議をどんどん突き詰めていったら、いつの間にか最先端になっただけの話だろう。不思議を追いかける気持ちは、算数の1+1を学んだときと変わりあるまい。

 過去から連綿と流れ、古人より大切に育まれてきた「何か」を感動と共に自分も所有し、自らもそこに何らかの目に見えぬ「思い」をのせるのだ。もちろん、実際のその系譜に名を連ねる者は、ごく僅かだろう。しかし、それが何だというのだ。数千年間にわたり、大切に伝えられてきたことの上に、今の我々の生活があり、一人一人の生がある。それは、誰がどんなに自分が「個人」であると思っても、大いなる流れに乗る泡沫でしかないということである。

 勉強は、おそらくそういったことを感じさせるのだ。自分が生まれ出る遙か昔に既に「知」というものがあり、おそらく数百、数千万、或いは、数十億もの人々が関わってきたことに自分も関わる。昔の人が思い抱いてきたことと同じようなことを自分も抱くことになったのかもしれないし、「私」が何かの初の発見者になったかもしれない。何でもいいのである。でも、そのように「関わる」ことが人間の証であるとも言えるのだ。

 しかし、今の学校は、そういった勉強が持つ基本を忘れている。
 勉強は、個としての自分、現代に生きる人間の欲望充足のために存在するだけのものに変容してしまったかのようだ。
 だから、学校では、試験に出るか出ないか、社会に出てから役に立つか立たないか、お金になるかならないか、それが勉強の動機付けになるものとされる。それで、親や子が欲しているのは、教師が与えなければならないと思いこんでいるのは道具のような結果だけなのである。

 生徒が勉強をする際に言うのは、「それが何の役に立つの」である。でなければ、「おれ、関係ない。」「どうだって、いい。」この言葉の背後には、全くの「個」としての存在しかない。今このとき、自分だけが浮かび上がってきたかのような傲慢さがある。ならば、言葉も話さなくてよい、衣服も着なくてよい、人間が持つ歴史が育んできものを否定しなければなるまい、もしそのようなことができるのであらば。

 人間はおそらく大きな意味での「過去」を否定できない存在である。知的能力を得てしまった今は「過去」の上に乗っかって現在を築き上げるほかないのである。だったら、勉強をして当たり前である。役に立つ、立たない、は、遠い先に存在するだけのものでしかない。
 人間に生まれて間もない存在、つまり子どもは、だから、勉強をして、自分が人間に生まれたことを感じ取らなければならないのである。でなければ、人間は本当の意味で人間になることはできない。
 しかし、今の学校が教えることにその力はない。個々の教授の問題ではない。誰先生が何を教えたのか、というレベルで済む問題ではない。

 友人が私に言った。
 「それは、川の流れに逆らって泳いでいるようなものですよ。大変ですね。私は、川岸に立って、『ああ、変な方向に流れてるわい』と見てるのです。」

 そうか、私は逆方向に泳ごうとしているのだ。うまいことを言う。道理で辛いはずである。(笑)

 だから私は今の学校が嫌いである。