考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

英語で作文を書いた

2008年11月26日 | 教育
 今年は、ずっと莫大な量?の添削をやってたから、書くのがラクだった。まあ、そんなものだね。慣れ、慣れ。
 文章は、書けばそれなりにラクに書けるようになるものだということがよくわかった。自由英作文を書かせた生徒の感想文も同じことを書いている。

 時々通勤時に出会うヨソの学校の外国人英語講師の人が、わざわざ英語の文法の参考書になる本の紹介のコピーを渡してくれた。私のヒドイ英語に「これはなんとかしないと高校の生徒が可哀想だ」と思ったに違いない。(笑)親切である。

 試験前になってきたので、生徒が質問に来る。職員室の出入り口近くにいるから「ほり先生~質問があるんです~」と声が掛かるが自分のクラスの生徒しか教えないことにしている。
 

[ゴミ]好きじゃない話の展開

2008年11月23日 | 教育
 こっちが、そういう前提でしゃべってないのに、そういう前提に持っていかれると嫌になる。
 空気の抵抗も排除して、それで重力加速度や速度を考えようとしているのに、「でも、現実は空気抵抗があるではないか。だのに空気の抵抗を勘定に入れないのは前提がおかしい。」といわれても困る。まずは、空気の抵抗無しで、一体何が生じているかを突き止め、空気の抵抗はその後で考えればいい。それで、後で組み合わせて考えればいいのである。
 物事の本質を突き止めるのには、こういった思考過程が必要ではないかと思う。(面倒くさい数学の証明も同じであろう。)何でもかんでも一緒くたに考えることはできない。思考、論理は常に時間軸に乗っている。

 自由英作文の指導で、作文を書くときに言うことの一つがこういった類のことである。(他にも色々あるのはあるけど。それは自作プリントで纏めてある。)何の立場からの何を目的としたどういう考え方なのかという「視点」を持つと言うことである。でないと、ちょっと長い作文を論理的な構成で書くことは出来ない。書き手が視点をどこに置くか。どう言った観点で、どのような見方が出来るか、その多様性が、文章を豊かにする。文章構成の可否を決める(と私は思っている)。だから、生徒は、それが難しいと言う。視点を持たずに書いても内容が空虚になるだけである。英語なんて、まあ、後回し。そこで彼らは言いたいことをどのように考えて良いか、それを英語でどう表現するか、苦吟した。
 ご苦労さん。


若者の旅行離れと「わかりやすさ」をめざした教育との関係

2008年11月18日 | 教育
 今どきの若者、20代は海外旅行をしたがらないらしい。これ、わかることが目的の教育、わかりやすい授業、わかりやすさ優先の教育や社会風潮が絶対に影響してる。(車離れもこっちだな。)
 旅行を始めとする、要するに「遠出」は、既知の場所から未知への移動、未知への探求心がないとする気になれないものである。「遠い向こうには何があるのか」というイマジネーションは探求心から生じる。「未知なるものへのわくわく心」がなければ未知なる土地への憧れも興味も何も生じないだろう。よって、旅行をしなくなる。

 今どきの教育は、「未知への探求」を子供に教えていない。(現場の人間が感じて言ってるのだから、間違いなかろう。)労無くしてわかる「わかりやすさ」とは、新奇なことであっても、既存の枠組みに押し込めることに他ならない。なぜなら、新奇なものを未知なるものと捉えるのは、既知の枠組み、つまり「自分が理解できる範囲にあること」から逸脱させることゆえに新奇のものを「理解の外」に置き、「わかりにくくなる」ことになるからだ。教えられる事柄のあらゆるものであっても「既知のこと」として扱うことに価値があるのが「わかりやすさ」なのである。「わかりやすさ」とは、通常の学習で通る過程である「未知のものが既知になる過程」をすっ飛ばすものと言える。
 また、「わかることの目的化」は、「わかって終わり」に繋がりやすい。教える側が、「わかることで次なるステップに至る」と思っていたとしても、これは、そもそも「わかる」は実は決してなし得ないということを忘れての判断でしかない。これは、ちょっとマトモに勉強をすれば誰でもわかるはずのことである。よくわからないままであっても、学習を続けていくことで、「いつのまにかわかるようになっている自分に気が付く」のが本来の学習の過程である。(この理屈がわからない人は、勉強をちゃんとしてないのである。で、そういう大人も多い。)この点、今の教育は「教わったことは必ずわかる」という幻想を子供に与えているのが現状なのである。それゆえ子供は、わかれば「わかって満足」してしまい、---だって、それ以上、「わからないこと」はないのだから---次なる未知への欲求を持たない。
 教える側は「新たなるもの」を教え込んでいるつもりであっても、受け入れる側は、「既知のもの」として捉え「わかっている」枠組みに入れ込む。入れ込むことがわかることで、それが目的であるから、それで十分になってしまうということである。
 子供は、「それは本来、自分にとって未知なるものであった」ということに気が付くことすらしない。故に、いくら学習を積んでも、学習にどんなに労力を掛けたとして、基本的に、枠組みを変更したり枠組みを広げることにならないのである。
 対して、「未知への探求」は、「わからないからこそ進んでいけること」である。この過程では、上記と逆のことが起こる。自分の枠組みでは捉えきれないものがそこにあることを認めなければならない。「それ」を受け入れるには、自分の枠組みを変更するか広げることでしかなし得ないのである。これは、教育において、「子供にとってはわけのわからない困った状況」に子供を落とし込むことでしかなし得ないのだ。しかるに、今どきの若者は、この試練が与えられていない。彼らの思考は、言わば、「わかるボックス」と「わからないボックス」の2つに限定されている。「わかるボックス」に入らないものは「わからないボックス」に入る。後者は、無視してよいのである。---だって、わからないのだから、ないも当然だもの。←この思考過程が彼らの考え方の大きな特徴なのである。「わからないボックス」にあるものは、存在すら知らなくても一向にかまわない。ゆえに、「未知」は「存在し得ない」存在なのである。
 「未知なる土地への探求」という「「わかる」に当てはまらないこと」は、今どきの若者の思考法にそぐわない。よって、旅行などの遠出に興味がなくなって当然なのである。
 で、それより、ファッションである。オシャレである。目の前に「見えるもの」はどんなに目新しくても、それらは「既知」として眼前としてそこにある。眼前にあるものは全て既知である。だって、そこにあるのだから、「わかる」としか言いようがないじゃないか。だから、「あ、これ、ステキ」である。目で見て同じものに証明が要らないのと同じである。目で見てわかるものはとにかく「わかる」のだから、証明なんて要らないのである。それは究極の「わかりやすさ」なのだ。だから、わざわざ目の前にない、何が出てくるかわからないものを求める気持ちにならなくて当然である。

 文科省は、厚生労働省とは結託できたが、経済産業省とは連携出来なかったのね。

作文のレベル

2008年11月17日 | 教育
「昔、自分たちの頃は、もっと格式のある和文英訳をしたよねぇ」
「そう、なんてたって、コンポジションと言ったよな。」
「(う~ん、先生と同じ世代にされるのも、やだけど。)そうそう。1単位あって。」
「うんうん。」

そんだけ。

「英語はやるな」

2008年11月16日 | 教育
 将来は英語を使う仕事に就きたい、と言っている生徒には、私ははっきりと「止めろ」と言う。(前も書いた気がするけど。)
 世の中英語英語の勘違いで、生徒は英語さえ出来れば良いと思っているのである。授業の課題で、「外国語を学ぶ」と言うフレーズを訳すのに「study English」と板書した生徒が何人かいて愕然とした。「foreign languages」と書けなかったのかもしれないが、そうとも言い切れまいと私は危惧する。
 まあ、入試のレベルも、英語だけダントツに難しい。(多くの場合、君たちの成績では無理であることが多い。)それでもって、英語で喰っていくのは実に困難を極める。最も易しいのが「中学高校の教員」であろう。(これは、自分を基準にした話であって、実際はどうなのでしょう・笑)しかし、彼ら彼女らは、教員になりたいわけでない。あくまでも国際舞台で活躍できるような職種である。ならば、他の外国語、フランス語でもドイツ語でも何でも良い。アジア系の言語も良いかもしれない。専門家は、常に必要であるはずだ。もっとも、「その国に行く」のを前提で考えるのは必須であるが、他の外国語の方が食える確率が高いはずである。

 それでも英語人気は続くのであろう。その結果が、「英語の幼児教室」だのなんだの、「私、英語を専門にやったのだから、これを仕事にしよう」と、無知な親子を対象に、よく言えばビジネス、悪く言うと要は金儲けの、あってもなくてもいい、もっと言えば、なくても全く困らない、時に百害あって一利無しの子供をダシにした商売が蔓延るもとになるのであろう。私は彼ら彼女らを将来のその手先にしたくない。
 幼児のためのフランス語教室、マレー語教室、スワヒリ語教室は存在しないだろう。(ヒッポ何とかは知らないけど。)如何なる言語であろうと、その道の専門家としての修練を積み、真の国際化時代の旗手たるべく努めて欲しいものである。
 

和文英訳の授業

2008年11月12日 | 教育
 楽しかった♪ たぶん、生徒も楽しかったと思う♪ みんなニコニコしてた♪

 出来の悪い子がいて(そういう子はどこにでもいる。)、その子が指名されて(って、指名したのは、私なんだけど。列で中てていったら、たまたまそうなった。)、書けなくって困っていたから、考え方を言ってやった。そしたら、そこそこ書けたものだから、その生徒も「そうか。英訳ってこうやってするのか」と思ったと思う。

 いきなりその場で中てて、板書させる。(この授業は例外的に予習無しのことが多い。)なかなか出てこない時は、「早く出ろ、出ろ~、とにかく出るんだ~」と急かすのが私の仕事♪ (これは実にラクちんである。)「わからない」と言ったら、言っても、「とにかく、書け。書くんだ~」とでかい声で叫ぶ。「何でも良いから書くんだ。思い付いた主語から書け。」で、板書させながら、考えさせる。これ、他の生徒にも良いのである。思考の過程がわかるから良いのである。で、ときどき、「授業中に背筋を鍛えろ。人間、最後はカラダだぁ~」と関係のないことを言って姿勢を正させる。まあ、もの凄く嫌そうな顔をする生徒もときにいるが、彼らはバカじゃないから、大抵はその通り言うことを聞く。えらい子たちである。板書ができたら、確認をする。いつもすることは同じである。主語と動詞、時制、名詞。その他、時に応じていろいろあるが。まあ、考え方を示すのが一番大事なのである。間違いがあることも多いから、「まだ写すんじゃない、写したって力にならないよ~、考え方を知れ」と言う。これは労力が掛かる。授業は肉体労働である。でも、この説明が結構楽しいのである♪「基本に戻れ」を確認できるからである。中学校の英語に戻ることも多い。すると、ほほ~っという顔をする。結構快感である。
 
 勉強ってのは、答えがわかったって、しようがない。「わからないときにどうすうか」がわかることが大事である。でないと、応用力も何もつかない。でまた、学校は、勉強だけをするところではないのである。授業中に背筋も鍛えてやることができるところなのである。(笑)

 まあ、でもね、昔、自分が受けた授業より、ずっとレベルの低いことをやってると思う。今どきの高校生、どうなってるのだろう。


英作文

2008年11月11日 | 教育
 和文英訳だが、結局、当たり前だけど、1年生の時の文法の教科書(副読本)をしっかりと学習して体得していれば、大抵の作文はなんとかなってしまう。語彙は、出てきたときに増やしていけばいいだけの話。
 英語はそれができるかできないかだけで決まるだけ。