考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

傀儡政権とグローバリズムと学歴

2013年11月13日 | 教育
 安倍さんは成蹊大学、麻生さんは学習院。共におじいちゃんは東大なのに、なんで東大を目指さなかったのか。(理由は言うまでもなかろう。)誰かがどこかで書いていたが、今の政治は、グローバル企業の傀儡政権である、と。

 なるほど。

 で、付け加えて思ったのは、「既得権益」という言葉と実態があるとしたら、まさしく安倍さんや麻生さんなどの「世襲」と「人間的魅力」(「あんたのとこのじいちゃん、入院してたって聞いたけど、もう良くなったかい?」などの支持者、支援者に対する気遣いを見せるという意味での魅力)だけで(国家戦略や長期的展望がなく)政治家になった人たちだろうということだ。よく「アタマが良いだけで良い政治家になれるわけではない」というが、それは、「あんたのとこのじいちゃん云々」といった気遣いこそが選挙で勝つ、つまりは政治家になれる重要な資質という、学問的な知性に関わる「国家百年の計」という肝心な政治とは全く無関係の要素である。長期的展望とは、それなりに学問を積み、アタマも良くなければ持てるものではない。(断言。)中途半端なレベルは、「己の数年、数十年の利益」がせいぜいである。「支援者・支持者に対する気遣い」は、人間関係を円滑にする能力としてとにかく別ものである。こうしたものは多く、「自分の目の前にいないみんな」、つまりは「次の世代の国民」のことまで気が回らないことにつながりやすい。

 こうした政治家の方々は、論理的な思考やちょっと複雑な事項の理解となるとなかな困難なようである。やっていることが支離滅裂である。しかし、この程度の思考の瑕疵は、選挙で票を獲得するに、もってこいである。なぜなら、大多数の民衆の思考法に似ているからである。(小学校から英語をやれば話せるようになる、なんて、英語ができない一般庶民の発想である。)

 はっきりしているのは、「やろうとしていることや目指すこと」が、「己の利益を維持する方策」だということだ。グローバル企業との結託で行う、自分より優秀な人材育成およびそうした人材の台頭によって、権力者としての自分の地位が脅かされることを阻止することが目的で、その短期的策略が「法の整備」であり、やや長期にわたるものが「教育改革」である。両者とも、とにかく今現在、知的能力が低いにもかかわらず高い地位にいる自己の存在を揺るぎないものにしてくれるではないか。

 グローバル企業は、アタマの良い人たちその他が己の利益を求め、甘言を用いて(←知らないけど。)現政権を思い通りに操り、互いにwinーwinの関係を取り持とうとしている。グローバル企業は、使えるものは何でも使うつもりで、政権を利用する。彼らは自分たちの既得権益に突っかかる優秀な人材は要らない。安くて使い捨てにできる人材さえあれば良い。そのwin-winの中で「負ける」立場に置かされているのが、きちんとした教育さえあれば自らの力で幸せを産みだし、かなり優秀な人材になる、次世代の優秀な政治家にもなり得る一般庶民である。

 もっと端的に言うと、能力に自信のない権力者層が、その地位を脅かされないようにするための方策が、目指す法整備と教育改革とグローバル企業との結託で、政権と企業、両者の利益は互いに重なり合っているのである。

アメリカの知性はそろそろ終わる

2013年11月04日 | 教育
 間違いのない情報である。
 今のアメリカの学校の教育は、毎日がテスト、小テストの連続である。結果はすぐに親にまで知らされる。親がその結果に目を通さなければ子供の評価が下がる。小学校では、教育費削減の影響で国語と算数以外の教科の学習は実に僅かという。日本人にとって当たり前の一般常識が、今のアメリカの子供たちにとっては全くの未知である。ひょっとしたら、電池のプラスマイナスもわかっていない。ボランティア活動も、クラブ活動も、すべて時間数から点数化され、大学入試に影響を与える。
 私は今の日本の高校の学習が、小テストやら平常点やらで評価されることに疑義を抱いているが、それどころでない「ひどさ」と言えよう。日本以上に、子供たちは「評価」を受けるために学校に通っているようである。
 大人の人でボランティア活動に力を入れている人が日本ほどいないらしい。これも、子供の頃からの点数化の影響であろう。

 子供も頃から、評価されるために学習に励み、様々な社会活動に励んだ子供たちが、果たして大人になって、更に様々な活動に励むものなのだろうか。果たしてこれで、彼らの知性は活性化するのだろうか。アメリカに多数の留学生がいるのは、国内では調達できない頭脳を輸入していることはないのだろうか。(これは、私の邪推。)

 あるテレビ番組で、茂木健一郎氏が、自分は小学生の時から蝶の学会に入って活動していたが大学入試で全く評価されないのがおかしいと言っていたが、彼は、たかだか入試で評価されるために蝶の学会に入って活動したのだろうか。そうではないだろう。もし、自分がやっていることがいずれ入試などの副次的な目的に与すると知っていたとしたら、果たして心から楽しんで蝶のナゾに挑む気持ちを維持し続けることができただろうか。自分が最も好きなことを仕事にするな、とはよく言われることである。本当に好きなことに邪念が加わる機会は、なるべく少ない方が良いとは思わないのだろうか。それとも、彼の活動は、たかだか素人にもわかる程度のものでしかなかったのだと言うことなのだろうか。
 本当に「すごいもの」は評価の範疇に入らない。何でもかんでも「評価」の対象にすることほど、子供のやる気や才能をつぶす方策はあるまい。

 「評価してやれば頑張る」は「競争させれば誰でも頑張る」と似ていると思う。本物の能力伸長は、そんなものでなしえるものではない。例え子供であっても、いやむしろ、子供に対してだからこそ、それがそうではないことを知らしめるべきではないか。それが、「教育」の根幹に据えられるものだろう。イチローと同等な才能に恵まれた人は他にも数多くいただろう。だからといって、すべての人がイチローのようになれたわけではなかっただろう。それは、本人の努力だけでなく、正しい方向で能力を伸ばす方法を体得する機会を得るチャンスがあったかどうかにかかっている。我々は、子供の未知なる能力を正しく伸ばす方向で指導をしているだろうか。よく考えた方が良いような気がしてならない。

 アメリカの話に戻るが、この話を聞いて、アメリカの教育はもう終わりじゃないかと思った次第。