考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

今日は授業をしました

2006年10月26日 | 教育
 って、毎日してますが。
 今日は、あるクラスで、1時間に数行しか進まなかった。でも、生徒はけっこう乗ってくれた気がする。大した授業じゃない。(そもそも私の授業だからね・笑)

 Not only A but Bという表現があるが、主語になるとき、動詞はBに呼応する。教科書にそんな文があり、前回に訳したとき、うっかりこのことを言わなかった。Aが複数名詞で、Bが単数名詞。動詞はhasである。(この教科書は、受験英語に関して、なんて行き届いているのかと感心する・笑)
 で、生徒に、「ねぇねぇ、この動詞、なんでhasになってるんだろ? Haveでないのはなんでだと思う?」と聞いてみた。しかし返事がない。「Hasってことは、主語はどういうこと? 主語は何のはず?」と聞いたが、なかなか返事が返ってこない。追加質問なども加えて何人目かでやっと、「三単現」が出てきて、それで、「主語は単数のはず」がやっと出てきた。「単数のはず、ってことは、どういうこと? 主語と動詞の関係で何が推測できる?」と聞くけど、答えてくれない。で、「じゃあ、Aが単数でBが複数だったらhas、haveどっちになりそう?」などと計4通り書いて、動詞はhaveかhasのどちらになりそうかを考えさせる。「理科の実験で仮説をたてるでしょ?あれと同じだよ」って。

 考えて予測してよ、などと言ってるうちに、クラス中が、なんだなんだとこっちを向いた。相談もさせた。生徒も結構楽しそうだった。なんやかんやこの予測で20分以上?を使ったと思うけれど、自分で勉強が出来るようになるためには、自分でこーゆーことに気がつかないといけないのだ。(というか、私はそうやって自分で勉強をした。)「聞いて覚えるだけ」は勉強でない。自分で気が付くことが大切である。まあ、そんなことも言いながら、進度は全然進まなかったが、まあ、それなりに充実してた気はするが。

 しかし、である。

 今までもよく思ったことだが、この子たちは、中学校で、一体どんな勉強をしてきたのだろう。「これこれを覚えなさい」「はい」しか、やってないんじゃないのか。とにかく、自分で考えることをしたがらない。チャレンジ精神がない。注意力散漫。(こんなんじゃ、勉強なんてできるようになりっこない。)
 自分で考えろ、自分で。で、気が付け。気が付くようになれ。


6 コメント

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Unknown (heisan)
2006-10-27 05:36:59
> 中学校で、一体どんな勉強をしてきたのだろう。

小中学校は全く登校してなくても卒業できますからねぇ(笑).というか,卒業"させてしまう".「あなたは中学校の課程を卒えたことをここに証明する」というが,発行枚数中のかなりの割合でこの一文は虚偽ではないか.「分かっていないが,分かっていることになっている」というやつですね.世の中にはこういうことがありすぎて,時に嫌になります… が,それも方便として,世の中を成り立たせるのに貢献しているんだろうなぁと理解"することにしてい"ます(笑).





> 自分で考えることをしたがらない。

まぁ人によると思いますが(笑).特に,高校生ともなると,その羞恥心のせいからか,自発的に手を挙げる生徒の割合は減るものだと思います(小学生では,クラスの過半数或いは全員が手を挙げるというようなことがあることと比べれば).すでに分かっている生徒も,分かっていない生徒に遠慮して分かっていない振りをするというか,わざわざ手を挙げて授業に物議を醸すことをしても面倒なだけだと考えているというか,そういう傾向もあるのではないでしょうか.





> 1時間に数行しか進まなかった。でも、生徒はけっこう乗ってくれた気がする。

 私も補習塾で教えていた手前,こういう経験は結構あります(笑).生徒が答えられる程度の質問をうまく用意するのがミソというわけですね.当時はこれでいいのだと思っていましたが,こういうことも"学校の勉強"だから許されるのかな,とも思うわけでして.

 実際問題として,(試験や現実的状況においては)数行の英文を読むために20分かけていられないわけで.実際的運用に対応する力をつけるためには,そういうことがある(この場合は,副文における三単現のsの有無は主文に依存する,ですかね)ことを,「ああ,なるほどね」とその場で分かる"だけ"では不完全だと思うのです.何回も書いて,何回も喋って,何回も聴いて…,という単調的訓練を経て身体で覚えてこそ,運用力がつくのではないか--と考えています.

 何がいいたいかというと,1時間に数行しか進まない授業においては,生徒も先生も「うわー俺めっちゃ勉強(授業)した~」という感覚にいざなわれがちでありますが,大切なのはその感動を土台としてどれだけさらに推し進められるか,ということではないでしょうか.(これって小学校では当たり前のことなんですよね.足し算の仕方が分かっただけでは終わらない.むしろそこが始まりで,それからドリルを延々と毎日のようにやる,というあれですね.)

 なーんて偉そうなことを言ってますが,これは今になって痛感することだからなわけで(笑).私は高校時代,座学の中では唯一英語"だけ"がどうしても好きになれなかったのですが,もう少し訓練していれば(別の視点を持っていれば)好きになれたかも,ということがあります.そもそも英語を座学と思っている時点でアウトかもしれませんが.

 <以下余談>

 国語では「川」という字は「かわ」と読むという風に教えられます.しかし「何でそう読むのか」は教えてもらえません.なぜなら,それは"国語"という教科の範疇ではないからです.それは国語学の対象になります.同様に,ある英文において「なんでそういう風に読むのか」に疑問を持つことは,許されません.それは"英語学"の対象だからです.

 大昔に読んだ小学館の小冊子漫画で,「I(僕は) am(です) Jaian(ジャイアン).」という一文に対して,のび太君が「ちょっと待って,それだと,『ぼくは,です,ジャイアン』となって,おかしいじゃないか」と(まさにそれは疑問だと思う顔をして)突っ込みを入れるのですが,それに対して静(香)ちゃんは「日本語だとそうだけど,英語だとそうなるのよ.」と,(素朴な顔をして)サラッと答えます.

 今から思えば,これが英語が出来る人と出来ない人の違いではないかと痛感するわけです(笑).私は,やたら論理的にものを喋ることが得意なのに,英語は苦手だという人を何人か知っていますが,まさにこれを"おかしい"と思う神経を持つか持たないかが,そもそも英語に対する対し方の点で非常に重要なのではないかと思います.

 考えてはいけないことがあるのです.それを自然に受け入れるためには("そういうものだ"と思える境地に至るには),英語を"座学"や"勉強"であるという認識ではダメで,それこそ英語はスポーツである,くらいに思っておくのが順当なのだろうなぁと思っています.ある先生(大学の先生で,専門は英語でない)が,英語に対しては「バカになってやれ」と言っていましたが,まさにそういうことなんだろうなぁと思っています.
気が付く重要性 (ほり(管理人))
2006-10-27 19:31:22
heisanさん、コメントをありがとうございます。



どこかに書いてると思うのですが(書いてないかな?笑)、今の子には、細かい引き出しがたくさんあって、ここにはこれを入れる、あれにはあれを入れる、それにはそれを入れる、で終わり。「これ」と「あれ」と「それ」の関係性を探ろうとしない感じが強い。で、私にはそういう態度が「考えてない」ように思われるのです。



「なんで?」は、初歩の語学学習においては、必要がないこともあります。言語の記号的特性ゆえに思います。

でも、「あ」の字はどうしてこう書くの?と言われたら、元々は「安」だったから、それが変形したんだよ、そういう約束ができたんだよ、とか、まあ、何でも返事はできるかも。isだって、英語は日本語より結論を先に伝えようとする言語なんだよとか何とか、言っちゃうと思う。まあ、初期の疑問は、「とにかくどんな疑問にも答えて欲しい」という願望のようなものもあるかなと思いますが、どんなものでしょうか。



「バカになる」のは勉強の基本です。とにかく受け入れる、という姿勢がないとそもそも勉強はできないです。



授業の進度が遅いのは、度々だと、生徒は予習を怠けることになるので具合が悪いです。

今回の授業は知識の伝達などより、勉強の方法の伝達、また、動機付けだと思っています。

勉強は、とにかく「同じか違うか」「何がどのような点で同じか違うか」の学習です。抽象と具体の往復なのかな? これに気が付かない限り、勉強は決してできるようにならないと思います。

この訓練が、そのうちに私のコトバで言う「ベクトルの次元(軸)」を増やすことに繋がると思ってます。



高校だと、「ドリル」は家庭学習でしかできません。その動機付けになって欲しかったってところかな?



手を挙げるかどうかは、そのクラスの雰囲気。私は順番に指名していくから、そういう時は、わかっている子はちゃんと答えてくれるので、信じて良いかなと。(笑)

Unknown (heisan)
2006-10-29 04:51:07
> 「これ」と「あれ」と「それ」の関係性を探ろうとしない感じが強い。

なるほど.単一の各知識を自分の中で構造化することをしない生徒が多い,と.これは,テストで好い成績が取れればそれで好いという考え方がそういう風潮を強めている節はあるのではないでしょうか.筆記試験というのは往々にして単一知識だけで解けてしまうことが多いですし.





> 「バカになる」のは勉強の基本です。とにかく受け入れる、という姿勢がないとそもそも

「バカになる」というか「寛容さ」「柔軟性」ですかね.





> まあ、初期の疑問は、「とにかくどんな疑問にも答えて欲しい」という願望のようなものもあるかなと思いますが、どんなものでしょうか。

分かりました(笑).疑問にはきっと2種類あるのですね.一つは,人間社会における約束事が,なぜそう定まったのかを問うという種類のもので,もう一つはそれ以外のもの.いわゆる"学校の勉強"において,後者は問う(疑問に思う)価値があるが,前者にはあまりない(むしろ学習の妨げになる).そして,約束事に対する疑心は,若ければ若いほど小さい.



ヘリウムはHe,水素はHと書くというのは,約束事ですよね.もし日本人がこれの黎明期の研究をやっていてそれが世界中に広まっていたら,ヘリウムは「へ」,水素は「す」と書くのが世界標準になっていたかもしれないわけです.しかし,今の世界で生きていく限り,「Heじゃなくて『へ』が良かったのに」といくら嘆いても,どうしようもありません(笑).学問の大変さは,それが追求する本質的事項よりもむしろ,それに付随する種々の約束事の面倒臭さだというようなことを養老先生が言われていた気がします.



小さい子は何かに付けて「なんで?」と聞いてくると言われますが,案外,上に述べたような「約束事」に関しては突っ込んでこなかったりします.「あ」はなぜ「あ」と書くのか? ということに疑問をもちそれがネックとなって勉強ができないよ~という小学生はまずいないと思います.でも,一つ目の約束事を知っちゃうと,二つ目以降の約束事が入ってきたときに,一つ目の約束事との差を感じ取ってしまって,ああ面倒臭い(生理的拒絶?),という風になっちゃう.これを乗り越えるには訓練しかないのですが.



数式に対する生理的拒絶を示す人もいれば,活字に対する生理的拒絶を示す人もいる.一方でこれらに対して異常なまでの執着を示す人もいる.人それぞれ,と言ったところ,なのかなぁ….

何か違う気がするなぁ….学問というのは「真理の探究」だが,語学はそうではない(真理の探究にしてしまうと,語学学になってしまう,或いはスポーツだったら,スポーツ科学になってしまう),だからアプローチも異なるものが要求される,というのはどうでしょう.

疑問と受け入れ (ほり(管理人))
2006-10-29 10:16:00
heisanさん、コメントをありがとうございます。



関係性に行き着くまでには、個々の知識が重要です。で、そこで留まることも多いです。(近頃の問題は、そこまでも至らないことかな?)



授業で、「なんで?」と言語学や英語学に関する質問をする生徒がいます。私は、タマタマわかるときや、多分そうじゃないかという仮説を持っている時はそれをいいますが、大抵はわからないことばかりだから(笑)「私はわからないから、みんな、自分で考えてみて。」と言います。「それが言語学とか、英語学で研究していることだよ。たくさんの用例にあたったりして、自分で考えるんだ。君たちが大学でやるようになる勉強はそういうのだよ。」など、答えます。「で、今はとにかく、普通はこんな風に使うんだってことを覚えよう」ってな具合。

疑問は先に繋がることなので、全否定はしません。(授業の進行を妨げる意図があるときは関わらないけど。)



それから、約束事については、二つめ以降の理解は、「一つめと同様、以下同様」と扱えば、私は逆に、かえってうまくいくような気がします。面倒臭さは、「数が増える」ことに対する拒絶反応で、理解そのものに対する拒絶は減ると思います。「数が増える」ことに対しては、確かに訓練です。

「あ」の例は、たとえて書いただけです。不適当な例ですみませんでした。

そういえば、文字に関する疑問は、普通はでませんね。象徴とか、記号をすんなり受け入れるのは人間の特性なのですね、きっと。う~む、なるほど。(笑)それができる人が、世代を超えて生き残ってきたってことですね。お金だってそうだし、なるほど。養老先生だ。(←この辺、ほとんど独り言)



Unknown (heisan)
2006-10-31 01:33:32
> 「あ」の例は、たとえて書いただけです。不適当な例ですみませんでした。

いえ,とんでもないです.

もとよりそんな意図はなく(笑).





> 約束事については、二つめ以降の理解は、「一つめと同様、以下同様」と扱えば、私は逆に、かえってうまくいくような気がします

ほう,そんなもんですかねぇ.私の頭がカタいだけかも(笑).





> 「で、今はとにかく、普通はこんな風に使うんだってことを覚えよう」

ここで,疑問を保留したまま次に進むことができる体力(忍耐力?)が必要な気がします.数学で言うとこんな感じですか.



先生「この定義とこの公理を用いて,これから話を進めます.」

生徒「先生,その定義と公理に僕は納得がいきません.」

先生「これからの話を聞き終わる頃には,君もおそらく納得していることでしょう.」

生徒「・・・」



逆に言うと,あることを人が説明しようと思い至るのは,その先の結論が見えているからで,でもその結論が見えていない人にとっては,その説明を聴くには(結論が見えるまで我慢強く聴く)体力を要します.



余談:

ああでもこれって,「価値観の違う人と喋る」ということと似ている気がするなぁ.でも,同じ「価値観の違う人と喋る」ということであっても,快感であるときもあれば不快なときもある.なんでだろ? 多分,「今からそういうことについて喋るんだよ」という前提が共有できている場合は快感だが,そうでない場合は不快だということ,かな.

体力 (ほり(管理人))
2006-10-31 01:57:34
heisanさん、コメントをありがとうございます。



説明を聞く体力は重要ですね。

小さい疑問を一つ一つ聞きすぎる子は、勉強ができないです。「しばらく我慢して聞く」と、それらがなくなりますから。ただ、おっしゃってくださる定義と公式の対話は、ちょっと例がちがうかなとも思いますが。私だったら、もう一度、定義と公式に戻って、それを使う、という風にすると思います。



私の場合は、先が見えないまましゃべることがよくあります。ブログを書いていても、書いていて気が付くことなども多いし。(笑)でも、まとまってくるのが不思議です。内田先生が、「自分はこんなことも知っていたんだ」みたいなことを書いてましたがよくわかります。(レベルは全然違うけれど。)

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