考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

勉強の目的は「わかる」ことでは決してない

2006年10月08日 | 教育
 勉強をするときに目指すのは、やはり、わかることでは「ない」と思う。
 こう言うと、「勉強は、わかるようになるためにするんじゃないの? わかるためじゃないの?」と言われそうである。しかし、ここで、「それを否定しない」という言い方で答えてしまうと、説明のしようがなくなるから、私はそう答えないことにする。

 勉強とは、「わからないことに挑むこと」と定義する。

 「わかるためにする」と言うより、「わからないことに挑む」ために行うのが勉強ではないか。それで、「わかる」とは、たまたま結果的に生じることに過ぎないのではないか。言い方を変えると、「わかったこと」は現実として存在しうるが、「わかること」はただの想定でしかない。だから、「わかること」などただの空想を目指してはいけない。(子どもの学習も偉大な学者の研究も、当の本人にとってどんなものであるかという視点で言えば、まったく同じである。)

 それこそ、小学校か中学校で習った高村光太郎の詩で、「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」みたいなものである。「わかる」というのは前方にあるのではなく、自分の後ろに、過去を振り返ったときに「わかった」という過去形としてしか生じ得ないのが勉強における「わかる」なのである。

 子どもは、勉強をするとき、どんどん挑むべきなのである。それで、「わからない」のは当たり前、それでも「わからない」に耐えて挑戦していかなければならないのである。しかし、「わからないこと」にどんどん挑戦していけば、必ず必然的に「わかった」ことができてくるものである。だから、安心して挑んでいけばよいのである。また、わかることで得られる安定感より、わからないことに耐える力の方が、どれだけ人生に役に立つかわからないと思う。


「かわいい」を求める現象

2006年10月08日 | 教育
 ちらっとしか見てないが、テレビで、最近の若い女の子の心を捉えるファッションショーをやっていた。手頃な値段でおしゃれができる日本独自の最新流行お洋服である。人気モデルが着ている服が、携帯で、瞬く間に売れる。購入する女の子が言うのは「かわいい」というコトバである。
 これを真剣に見つめるのは誰か。仕掛け人か何かの全然かわいくない「おじさん」である。彼らのねらいは何か。ビジネス、お金である。

 日本の若い女性は、世界で最もおしゃれにお金を使うらしい。だから、それを狙っている。そのためには彼女たちに「かわいい」と言わせなければならないらしい。彼女たちは「かわいい」「かわいい」と言って、携帯で買い物をする。

 今どきの若い子の語彙の貧困さについて、何でも「かわいい」で済ませる、などという批判を聞いたことがある。しかし、この番組においてはたぶん(全部は見てないけど)問題にされなかったんじゃないかなと思う。

 みんな、アタマが良くなったのだなと思う。今語っていることの「前提」が何であるか、その前提に基づいて語る場合、そうでないものは排除しなければならない。だから、若い女性をターゲットとしたビジネスにおいて、「かわいい」という語彙の貧困さは問題にしてはいけないのである。むしろ、この貧困な語彙をありのままに受け入れ逆手にとって、「かわいい」=「儲け」という図式を明確化する尺度とする。

 また、日本の若い女性が世界中で最もファッションにお金を使う、と言う現象をどう捉えるのだろう。「彼女たちは、おしゃれをして幸せを得ているからそれでいいじゃないか。」と見るのだろうか。まあ、そんなことすら何も考えられていないのではないか。なぜなら、「かわいい」と言わせて購入に向かわせるのが目的だから。
 自分の身は構っても子どものご飯を習慣的に作らない現象、などは関係しないのだろうか。所帯じみることはないということだが、等価の現象と言えないだろう。
 
 ケータイで好きなお洋服を買った女性は、そのうちに結婚をし、子供を産み、育てるだろう。おばさんになっていくだろう。
 ・・・・・どうか平和でありますように。