考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

「全体を見る」ってどういうこと?

2006年10月23日 | 教育
 少し前、私は「あなたは全体を見ていない」と批判された。私から見ると、その人の方が全体を見ていないように見える。互いに考えが入れ違い、話が合わない。
 
 この理由が、ずーーーっとわからなかったが、やっと予測が付くレベルまでに至った。

 「全体を見る」とか「俯瞰的」と言うとき、私は鳥瞰図的に全体を上から眺める、というイメージを持つ。このとき、全体の中に含まれる個々の独自的な特性は問題にせず、個々の関係性やそこからぼわーんと浮かび上がってくる「全体像」、個々だけを見ていたのでは見つけることが出来ないものをつかもうという意図でもって行う。

 しかし、例えば、次のように考える人がいることに気が付いた。
 全体とは、個の集合体である。よって、「全体を見る」が、個々の事象、個々の独自的な特性をくまなく見て回る、という見方である。

 この後者の見方は、それぞれの個と同じ地平に立って、見て回る、というイメージである。人間集団においては、「あの人はこういう意見で、その人はそういう意見で」という情報集めで、それぞれの意見の意図や要因、その意見がどういう理由で出てきて、今後何を求めようと、或いは何を目的としているのかを問わずに、表に現れた事項を問題にする。(選挙で、誰が誰に入れたか、みたいなものか。)

 しかし、私は、常に、そこにあるものは、どこに起因し、何を目するのか、を重視する。
 まずは、「集合体」が存在する所以から検討する。なぜなら、集合の成員は、烏合の衆でない限り、なんらかの特性を共通点として持つからである。よって、共有する特性が何であるかをはっきりさせれば、その集合体の特性をつかむことができようものだ。その上で、集合体としてどこに行こうとしているのか、またその集合体を含む更に大きな集合体の有無なども問い、関係性を検討する。また、個々の成員の性質についても、それぞれが何に由来し、どこに向かうのかを検討する。自分では、かなり階層的なものの見方だと思う。

 だから、教育について、学校について考えるときでも、「保護者がこう思っているから」「生徒がこういう気持ちでいるから」だけで、そういった個々の要望を満たすことが良いことだとは決して思わないのだ。
 生徒がそう思うことで彼らが何を意図しているのか、それが時間的社会的空間という全体像の中でどのような位置付けになるのか、「満足」以外に何が生じるか。(保護者についてもなかなか難しいが本来は同様であると思う。)

 しかし、このような見方をする人が意外に少ないことに気が付いた。(気が付くのに時間が掛かった。)私が経験する多くの場合は、階層性を抜きにして同じ地平で表だっている個々の特性を一つ一つくまなくつかむことを「全体を見る」と捉えているようである。そういう捉え方をする人は、私が個々を同じ地平で細かく汲み取らないことを「全体を見ていない、視野が狭い」と評する。それで、私が階層的なものの見方をしていることを理解しない。何故理解しないかという理由は私はよくわからない。

 道理で話が合わないはずである。(笑)