考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

学ぶという心構え

2010年06月29日 | 教育
 今の教育で欠けているのは、学ぶ者に学ぶための心構えを強制することだと思う。

 お稽古事を始めるとき、先生がまず教えるのは、正座をして「お願いします」と手をついて先生に頭を下げさせることで、終われば「ありがとうございました」と同様に頭を下げることである。共に、生徒自らが自らの意思で行うなら理に適っているが、実は、先生が、「私に頭を下げろ、私に礼を言え」と命じているというのが、興味深い。
 先生が言葉優しくも強制しているのは「学ぶための心構え」である。

 ディズニーランドで弁当を食べることはできない。うるさいから数学の勉強ができないと言うのは筋違いだろう。遊ぶしかない。レストランでTシャツを買うことはできない。席に座って、食事をする。ふらふら歩き回ったら迷惑である。-----どこに行っても、それなりの「心構え」と準備が必要である。

 不自然なのは、学校の場合は、大方の場合、何でも許されると思われていそーな気配を感じることである。

 学校は、大勢の人がいるところ、みんなで何かをするところ、一人一人の自由があまりないところ。
 学校とは、全く、不自由きわまりないところである。

 「この学校は自由だ」と思っている人は、騙されているんだよ。でも、それで良い。上手に騙されなさい。あるいは、あなたが教授する自由が何であるかを自ら問いなさい。あなた自身を進歩させるために。
 「この学校に自由はない」と思っている人は、それが真実なのである。しかし、どこの学校にも自由はないことを知りなさい。それで、自由とは何かを考えなさい。それだけであなたは随分と進歩する。

 不自由な中に、自由を見出しなさい。あなたを大きく成長させるだろう。

アマデウス

2010年06月25日 | 教育
 封切りの頃に見たときはサリエリに感情移入したが、(ちゃんとは見てないけれど)今は、想像力豊かに、モーツァルトの方に同情する。さぞやモーツァルトは、辛かったに違いない、と。

発見

2010年06月25日 | 教育
 find + O + --ing があっても、+ 原形 がない理由がわかったら、逆に、make + O + --ing がないのが、わかった♪ で、生徒に言ったら、ふむふむ、と言ってくれる子と、そんな参考書に書いてないようなことを言う先生、大丈夫なのかなぁ、という顔をする子もいた。decide to は、なぜ、to不定詞なのかは、イマドキは参考書に書いてあるけれど、昔は、書いてなかった。でも、私は、ちゃんと、高校生の時に、そうじゃないかなぁと思ったんだよ。
 で、たぶん、今回も、合ってると思うの。だって、根拠はちゃんとあるから。論理的に考えて、どーしても、そう考えないと、理屈に合わない。だから、あってると思う。

感性を育てる

2010年06月24日 | 教育
 生徒を見て気の毒だと思うのは、彼らは中学で「重要ポイント」を教わってきていて、先生が大事だと言ったことを大事だと思って勉強を頑張って来ていることである。多くの方は、「そのどこが悪いの?大事なところをやることは大切だ。」と思われよう。大抵だったら、それで良いはずである。そう、良いはずなのである。大事なことを大事だと学習することそのものが悪いわけではないのだが、授業をしていると、教室から立ち上ってくる「オーラ」が、これが、実に良くないのである。

 多くの生徒は「感性」を伴わないままに習得だけを目標に勉強しようとするのである。そのオーラが悪臭を放つ。
 学習が、言わば「張りぼて」になっていて実(じつ)が全く伴っていない。このところの感じは、文章で書くだけではうまく伝わらないかもしれない。彼らは、何かしら腹の底まで落とし込めないまま、結果だけを求めているのである。
 たとえば、単語一つであっても、「良い感じ」でも「嫌な感じ」でも、何でも良いが、そんな「感性」に関わるものを伴わずに、ただ単なる数値目標のように覚え込み、試験ではき出そうとしているように感じられるのである。大事は大事であっても、「先生が大事だというから大事」「試験に出るから大事」程度の認識でしかない。しかし、勉強をする際に大事なのは、「これを覚えておかないと、後でわからなくなるから(注・「試験ができなくなる」ではない。)困る」という時間軸を伴う感覚であったり、「この問題は何だか変な感じである」あったりしても、「語調が良いから好きだ」でも、まあ、要は、何でも良いのだが、「感じ取る感性」を持つことなのである。ところが、残念なことに、こうした感性で感じ取る気配が教室に漂ってないのである。
 彼らは、最も大切なことを忘れている、というか、あまりにも鍛えられていないというか、ほとんど教えられていないかのように私には思われる。

 そんなんじゃあ、決してできるようにならないよ。君たちの勉強に対する感性は間違っている。大事なのは、もっと「感じる」ことなのである。何でも良いから、「良い感じ」でも、「嫌だなぁ」でも、何でも良いから、感じることなのである。

 しかし、今どきの生徒のこうした感性は、全く鈍磨しているのが、私には気の毒に思われるのである。
 
 しかも、さらに困った状態に陥っているのが現実である。
 
 彼らは、そもそもの生き物としての感性が欠けているから、何をして良いのかわからなくなって、何もできない状態に置かれている。それで、先生は、仕方がないから、あるいは、ここぞとばかりに、事細かに指示し、教授し、先生の言う通りに従えば、試験ができて合格するなど、何とか格好が付くように指導する。しかし、こうした「手厚い指導」が、彼らの感性を鈍磨させるのにさらに一役買ってしまうのである。その結果、それなりに知識が付き、それなりに試験ができるようになってそれなりの格好が付いたとしても、自分自身では、何をして良いのかがわからないのである。一見素晴らしく見えることが、目に見えないところで悪循環を招いているのである。

 この負の連鎖を断ち切るには、生徒たちが、まず、自分で感じ取ることを意識的に始めるしかないのである。それには勿論、幾ばくかの指導が必要だろう。しかし、その指導は、生徒がそれまで受けてきた指導と異なるものになる。決して、言うことを聞いたままに行動をする「作業」でないのである。生徒は、最初は不安だろうし、苦痛だろうと思うよ。絶対に、嫌に違いないと思う。しかし、これは、新しい次元を獲得するために必要欠くべからざるもので、心地良いはずがないのである。エネルギーを使うのだから、また、未知の世界に向かうのだから、楽なはずがないのだ。しかし、子供は若い。(笑)やっていくうちに、どんどん自分自身が変化していく、成長していくのである。自分で発見をすることができるようになっていく。感性が鍛えられるのである。
 
 感性を鍛えるためには、身体を使うしかないのである。感性は、当然、感覚に基づく。感覚とは,即、身体である。目で見るだけでなく(イマドキはこればっかり!)、声を発して、耳で聞いて、身体を動かして、身体で感じ取るのである。それで、想像をする。想像をして、さらに、「感じる」のである。これしか自分の感覚を鍛える術はない。
 問題は、それまでの身体経験が少ない生徒には、身体を使うことどのものが難しいことである。だったら、少しでも身体を使うことを厭わさせない、というレベルから始めるしかないのである。こうして感性を鍛えってやらないことに、何をしても、決してわかるようにならないし、身にもつかない。これまでやってないから、今からやるしかないのである。
 何であれ、触って、匂いをかいで、身体で感じ取るのである。そうやって、自分自身の「感性」そのものを鍛える。勉強以前の段階であるが、これからはじめることでしか何ごともなしえない。その人の身体は、その人しか使えない。
 そうやって初めて、勉強という本の中の世界が、身体感覚の延長線上で、自分の肌身で感じられる「リアル」な世界になり「自分のもの」になる。それが「学習事項の真の習得」に通じるのである。
 この段階にいたって初めて、「先生が大事だと言うことが大事だとわかって身につく」ようになる。途中の自分の感性をスキップしたら、何も身につかないのである。
 
 「可哀想な大学生」を増やしてはいけない。「匠」の卵を育てなければならないのである。

試験勉強

2010年06月22日 | 教育
 「明日の試験のための勉強」を毎日やっても、決して底力のある学力は付かない。
 英語ができるようになるためには、「英作文」と「英文による要約」、「和訳」と「日本語での要約」ができるようになることを目指せば良いだけの話である。文法も、文法の書き換えも、並べ変えも、(  )埋めの問題、文章読解も、全てが集約される。
 対象は易しい文章から始めて構わない。(当たり前だ。)徹底的に、細かいところまでやることだと思う。「つまみ食い」みたいな勉強は、良くない。

 こんなブログであっても、自分で文章を書くと、わかることがいろいろある。真面目に書く時は、私は、結構文章構成に気を遣っているつもりである。ただ私は語句レベルのセンスがないから、感度の良い人には味も素っ気もない、がさつな文章にしか思われないだろう。

 文章の読み書きというのは、かなり頭脳的な遊びだと思う。それで、生徒を見て思うのだが、上手い生徒は日本語で書かせても英語で書かせても上手い。語句の選び方、つなげ方が違うのである。当たり前と言えば当たり前だが、ここに何か「秘密」が隠されているのではないかと思う。

 しかし、英語の教科書を読んでも、たぶん、国語の教科書においても、そのような能力を高める指導についての指針は全くない。いわゆる「教師用指導書」と言われるものであっても、本当の意味での文章読解は何も書いてない。私はこのあたりに知的能力を高めるための英語という観点で、大いに不備があると思う。
 
 しばしば「『教科書を教える』のではなく、『教科書で教える』のだ」と言われる。それでも、多くの場合は、「教科書を教える」レベルに終始する。生徒もそれを要求して満足するし、前の記事でもちょっと触れたが、「教科書で教える」内容を生徒に教えようとしても、彼らの多くはなかなか受け容れようとしないのである。言ってみれば、教える側も、教わる側も、それぞれの平和と共存のために教科書にとどまっているのが現状である。これでは「秘密」の解明も体得も何もない。

 いわゆる「できる子」は、「秘密」を自分で習得するのである。あるいは、スポーツなどでしばしば見られるように、一流の指導者の指導で能力を高めることもある。そうした指導者は、「秘密」を体得しているのである。しかし、おそらく、「学校の先生」のレベルにおいては「秘密」は共有されていないし、「秘密」を解明し、習得しようという機運も感じない。

 まあ、わからんでない。
 「秘密」は、おそらく感性の問題で、たんなるマニュアル的なもので理解されるモノではないからだ。
 しかし、だったら、その感性を高める指導を心がければよいはずなのである。しかし、感性がない者に、感性を高める指導はできないのであろう。

 私がブログに文章を書くのには、ちょっとした理由がある。わずかな数だが、相変わらず自由英作文の添削をしている。その際、文法事項の間違いだけでなく、文章の構成や発想の仕方も生徒に提示する。これが以外に難しいのである。脳味噌が柔らかくないと、一人一人発想が異なる生徒に合わせた指導ができないのである。
 かなり苦しいことがある。通り一遍の添削はたいしたことがない。でも、あと「一踏ん張り」の一言が難しい。自分で自分の脳味噌が固いと思う。どうあがいても、難しい。壁である。しかし、書いていれば、少しでも「わかること」がある。それしか自分の能力を高める方法がないのである。

牛になれ

2010年06月21日 | 教育
 近頃は、勉強をするときには「牛になれ」と言っている。
 牛さんは、いつもよだれを垂らしてモグモグやっている。一度飲み込んだ草をもう一度胃袋から戻して、もぐもぐしているからだ。確か、胃袋がいくつかあったはずだ。(理科か生物の授業か何かで習った気がする。)
 勉強も似たようなものだ。一度で、わかった、とか、覚えた、なんてことは絶対にない。何度か反芻して初めて「本当にわかる」のである。
 ところが、多くの生徒は、一度飲み込んで「わかった」と終わる。しかし、「わかった」が実は始まりなのである。学習内容は何度も咀嚼すべきものだ。でないと、消化しきれない。「1+1=2」だって、同じである。何度もおはじきを数えて、それで、初めて「わかる」ようになる。
 
 私が「わかりやすい授業」という言葉を好まないのは、この表現が、「わかる」ことが、咀嚼を何度も繰り返して初めて成立するものであるという事実を忘れさせるからだ。そんな嘘っぱちの勉強をするくらいなら、わかりにくくても、何度もぐずぐず咀嚼してうんうん唸ってかみ砕いた方が、よほど理解が深まろうというものだ。
 正直言って「わかりやすい授業」を唱道する人は、勉強の本質をよくわかってないんじゃないかと思っている。先生と生徒で、うんうん唸って、あーでもない、こーでもない、と悩めばいいのである。唸ることが勉強である。「ターヘルアナトミア」って、そうやって訳したんじゃの? 私は子供の時、そう習った。勉強をする「プロセス」に今も昔もない。

文法という虚構

2010年06月21日 | 教育
 授業では、けっこう「いい加減なこと」を言っている。参考書には、書いてないことを言う。でも、必ず、断っている。書いてないけど、たぶん、それで合っていると思う、と。自分の経験に照らし合わせて、上手くいくやり方だったり、考え方だったりするからだ。参考書に書いてない、と言うと、ちょっと不安げな顔をするときがあるが、覚えていてソンはない、というと、まあ、通じる。(笑)

 中学、高校の時から、けっこう、好き勝手に、都合の良いように考えて使っていたものがほとんどである。文法に関する規則性が多い。あるいは、いかに間違えずに済むか、また、いかにして自分の間違いを自分で発見するか、という方法である。けっこう役に立つと思っている。大昔でも、教育実習生でも同僚でも、ふむ、なるほど、と言ってもらえたものもある。(説明すると、ちょっと時間がかかるから、授業で生徒にしか言ってないのもある。)

 でもね、私が、なんでぇ~???と思うのは、生徒がちっとも覚えてくれないことである。けっこう成績が良い子は、覚えてくれる。でも、肝心の生徒たちが、大して興味を示さず、利用しようとしないのである。
 
 これって、どーゆーこと~??

 -----でも、わかる気がする。

 なぜなら、英語という教科において、具体的な単語や熟語を覚える、というのは、勉強の方法として、誰の目にもまっとうで、必ずや「できるようになる方法」に思われる。書いてある語句でも、聞こえてくる語句でも、その意味がわかれば、それなりにわかるようになるのから。
 しかし、「文法」や、何らかの「方法」は、実のところ、この世に実態あるモノとして存在しない。文法とは、あくまでも語句などの「並べ方」でしかない。この理解は、けっこう難しいことだと思う。人の脳の中にしかない抽象だからだ。(だから、文法は文法学者の数だけある、と言われる。)
 それで、あまり勉強ができない生徒というのは、こうした抽象化の過程を理解しないことが多い。だもので、せっかく、こうすると便利だよ~、という方法を教えても、たぶん、いかに便利な方法たりうるかを理解しないのだと思う。彼らの「常識」から鑑みてどうして納得できないのだと思う。方法を覚えても、一発でわかるようにならない、と言うのが理由に挙がるかもしれない。その方法を、応用的に実際に当てはめて使わないと役に立つところまでいかないからだ。この点、英単語を覚える方法は、直に「役立った」という実感を得やすい。途中にワンステップ入り込む、というのが習得困難な理由なのだろうと思う。あ、もう一つ、理由がある。順序よく整理してやらなければならないことが多いから、めんどーなのである。
 でもね、こうした思考を得ないことに、ブレイクスルーは訪れない。もう一段階上まで至らないのである。

 こうしたところが、彼らの弱さなんだな、と思う。
 思考の次元を変えるのは、難しい。

線を引く話の続きえんえん

2010年06月20日 | 教育
 デザイン系の学生の「コンピューターは、自分が引く線以上の線は描けない」という話をしたら、「でも、コンピューターだと数式を入れれば線を引けるんじゃないの?」と言われた。
 う~ん。。
 ほりは困ってしまった。
 全然、話が通じていない。
 たぶん、この人は、「自分の線」を「見た目がきれいな線」としか捉えていないんじゃないのか。捉え方がもの凄く荒っぽい気がした。たぶん、この人、壁にぶつかるまで何かをした経験がないんじゃないかと思う。能力は高くても、なんとなくてきとーにできた、みたいな感じだったろう。

 ほりが対応に困るのは、どう表現して良いのかわからないが、こーゆー捉え方をする人である。
 よく思うのだが、この違いは、何なのか? 通じる人と通じない人がいる。あうんの呼吸でもないし、何なのだろう?

 ひょっとしてそうじゃないかな?と思われるのは、明確な答えを求める人、物事には結論が先にあると考えていそうな人、自分の前提を問わない人、あるいは、場に応じて前提をころころ変えることに何ら疑いをもたない人(これは、前提を問わないのと同じである。)は、そういう発想をする。
 要は、「考えない人」ということか。行き先がわからないと思っている人は、こうした捉え方をしない。

 でも、よくわからない。

 「街場のアメリカ論」を読んでいる(斜め読み)が、無意識的な判断の陰に潜む「何か」の捉え方が、この本の面白さだと思う。内田先生は、この捉え方がうまい。「先生はえらい」も、結局は、学ぶことが成立する要諦がただ一つ、「先生はえらい」だということだ。

 しかし、今、だれもそんなことを考えない。「えらい」からには、何らかの合理的な理由が必要だと思われている。それで、そうした何か「合理的な理由」を考えることが「考えることだ」と思われているような気がする。

 でも、ホントは、そうじゃないのではないかと思う。 

 「考える」というのは、もっと、非合理的なワケのわからないことだと思う。
 「合理性」を求める人は、考えたくない人だと思う。考えないために考えているだけだと思う。
 入り口と出口が示された迷路のクイズで、あるとわかっている出口への行き方を考えるのが考えることだと思っているのではないのかなぁ。
 
 「まだ誰もそうは言ってない無意識的な答え」を求めるのは、そうでない気がする。

 よくわからない。

 コメントを停止すると、ここまでいい加減な記事が書けることに気がついた。(笑)