「言葉」は、抽象化の道具で、(養老先生の講演にも出てきた内容ですが、)「リンゴ」などの具体的な物体は、「抽象化」されたとしても、さほど問題にならない。(問題にならないとは、人によって捉え方がほぼ同じ、リンゴと聞いて同じようにリンゴを想像できると言うこと。)しかし、「正義」とか「民主主義」となると、人によって捉え方が違うから、問題になる。お互い、同じ内容についてしゃべっているつもりであっても、元々の捉え方はじつは全然異なっていて、誤解が齟齬が生じてくる可能性は非常に高い。
私は、同じことが「ものの見方」にも全く当てはまると思っている。しかし、そう考えない人も多いようだ。言語は言語、日常の出来事は日常の出来事と、全く別物としてとらえ、「抽象化」が言語に置いても日常に置いても同様に考え得るものであるとは考えない人が意外にいる。(だから、物事を人に説明するときには、話は具体的に行えということになる。新書の「頭のいい人の話し方云々」の本(←部分的に立ち読みしかしてないけど。)にも、そう書いてある。)
大学入試の小論文指導で、何かのマニュアル?に、入試で要求される「具体例」は、あくまでも一般化した抽象化された内容でなければならないと書いてある。あなたの個人的な体験ではないと書いてある。まあ、言われてみればそうだわな。大学の先生、大学で行われる学問は抽象的なものだから、要求されるモノはそうなる。
抽象化というのは、次元の深さ、というか、まあ、私のたとえだと、XY平面で見るとある形に見えるモノであっても、Z軸を含めた立体で見ると、XY平面のその形はホントは違った形だったということが大いにあり得るということだ。(たとえば、簡単に説明すると、△ABCがXY平面上だとA(0,0)B(1,0)C(0,1)だったら面積1/2の直角二等辺三角形だが、XYZ軸上でA(0,0,10)B(1,0,0)C(0,1,0)なら、細長い二等辺三角形で、面積だって変わってもっと大きい。でも、XY軸上で見たら(つまり、Z軸に垂直方向で見たら(真上から見たら))、やはり面積1/2の直角二等辺三角形にしか見えないのだ。)
これは、数学的な次元だけでなくて、本当は日常生活の中でもあり得るものだと思う。
養老先生の話は、この手の抽象化がもの凄くたくさんある。だから、物事を抽象的に考え受け取ることが下手な人は、養老先生が何を言っているのか、さっぱり分からないのではないかと思う。モノを見て何かを判断し、まあ、つまり考えると言うことは、自分がある立場からある曲面で何かを切って見ると言うことだ。だから、人がどのような立場でどのような切り方をしているのかがわからないと、その人の言うことは分からないものだと思う。言っている方だってそうだけれど。でも、このことを自覚しない人は多い。
不思議なのは、たとえば、東大の現代文の問題でも、できる人は少ない。(もちろんその中に私も含まれよう。)「なぜ、できないか」は、論理的思考だったり抽象化の思考が問題制作者より劣っているからにほかならない。(問題は順当なものと仮定する。この問題は、悪問だとかいう難癖はつけないでね。)だから、斉藤孝の東大の入試問題を解く本が出版できるわけ。で、私が何が言いたいのかというと、ほとんどの人間は、論理的思考や抽象化がうまくできる能力は持ち合わせていない。それでいながら、自分の論を正しいと展開していこうとするのは、無理があるってコト。で、その状態で議論するというのは、本当は全くの不毛だと言うこと。養老先生の「バカの壁」という言葉を借りると、バカの壁があると気がついてない人と、どこにどんなバカの壁があるか分かってない人とは議論不可能と言うことになる。
理系だと、わかりやすい。烏合の衆の多数決でロケットの打ち上げは不可能だ。一人の専門家であっても、その人の説が正しければ、うまくいく。それがニュートンの力学だったり、アインシュタインの相対性理論だったりしたわけだ。こういうのは、「パラダイム」と呼ばれるものだ。
ところが、文系系統の学問や教育は、ぱっと見て分かる類のモノではないから、判断がしにくいということになる。まあ、そのあたりで、衆人を納得させる手段として知恵として生んだモノが「宗教」じゃないかなと本当のところは思う。だから、宗教もパラダイムだと思う。
と、私が書いたこと、表現の下手くそさはありましょうが、分かってくれる人は分かってくれると思うし、分かってもらえない人には全く分かってもらえないと思う。私のことをアホだと思った人もいると思うが、私がアホなのか、そう思ったあなたがアホなのかはわからない。