考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

抽象化の能力(その2でもないのだけれど)

2005年03月31日 | 養老孟司
 昨日のアクセス数がかなり増えていました。カテゴリーを「養老孟司」にしたせいだと思います。新たにお訪ねくださいました皆様、どうもありがとうございました。ご期待に添えましたかどうか、心配です。
 
 数学の座標軸を使ったたとえが「下手」でしたね。言いたかったのは、表だっては違っているものでも、次元を変えて、より深く見ると同じ物だったりすると言いたかったのですが、あのたとえでは、逆の解釈ですね。書き換えようと思ったのですが、細長い三角形をXY平面上で表すとなると座標にルートがたくさんついてややこしくなるので諦めました。

 一応、受験校で教えているので、頭の良い生徒にも出会います。しかし、勉強ができる、試験で点数が取れる、というのと、深くモノを見る、日常生活の中から何かを取り出して抽象的にモノを考える能力は、イコールではないとつくづく感じます。センター試験で9割とっても、記述模試で偏差値70をはるかに超えていたとしても、つまり、論理的な思考力はあっても、これができない生徒がいます。

 人間の能力は、本当に不思議ですが、養老先生の考えを私なりに突き詰めて考えると、同じ「アタマを使う」能力であっても、2つに区別できる気がしています。なるべく誤解の少ない言葉で表現したいのですがまだ良い表現を思いつかないので。。。でも、そのうち書きますから、どうぞまた読みに来てください。

 ところで、「養老先生と遊ぶ」が最近発売になりました。もう、読まれましたか?

 私の感想は、ちょっと複雑というか何というか。(この手の本ではいつものことですが。)

抽象化の能力

2005年03月30日 | 養老孟司
 「言葉」は、抽象化の道具で、(養老先生の講演にも出てきた内容ですが、)「リンゴ」などの具体的な物体は、「抽象化」されたとしても、さほど問題にならない。(問題にならないとは、人によって捉え方がほぼ同じ、リンゴと聞いて同じようにリンゴを想像できると言うこと。)しかし、「正義」とか「民主主義」となると、人によって捉え方が違うから、問題になる。お互い、同じ内容についてしゃべっているつもりであっても、元々の捉え方はじつは全然異なっていて、誤解が齟齬が生じてくる可能性は非常に高い。

 私は、同じことが「ものの見方」にも全く当てはまると思っている。しかし、そう考えない人も多いようだ。言語は言語、日常の出来事は日常の出来事と、全く別物としてとらえ、「抽象化」が言語に置いても日常に置いても同様に考え得るものであるとは考えない人が意外にいる。(だから、物事を人に説明するときには、話は具体的に行えということになる。新書の「頭のいい人の話し方云々」の本(←部分的に立ち読みしかしてないけど。)にも、そう書いてある。)
 大学入試の小論文指導で、何かのマニュアル?に、入試で要求される「具体例」は、あくまでも一般化した抽象化された内容でなければならないと書いてある。あなたの個人的な体験ではないと書いてある。まあ、言われてみればそうだわな。大学の先生、大学で行われる学問は抽象的なものだから、要求されるモノはそうなる。

 抽象化というのは、次元の深さ、というか、まあ、私のたとえだと、XY平面で見るとある形に見えるモノであっても、Z軸を含めた立体で見ると、XY平面のその形はホントは違った形だったということが大いにあり得るということだ。(たとえば、簡単に説明すると、△ABCがXY平面上だとA(0,0)B(1,0)C(0,1)だったら面積1/2の直角二等辺三角形だが、XYZ軸上でA(0,0,10)B(1,0,0)C(0,1,0)なら、細長い二等辺三角形で、面積だって変わってもっと大きい。でも、XY軸上で見たら(つまり、Z軸に垂直方向で見たら(真上から見たら))、やはり面積1/2の直角二等辺三角形にしか見えないのだ。)

 これは、数学的な次元だけでなくて、本当は日常生活の中でもあり得るものだと思う。

 養老先生の話は、この手の抽象化がもの凄くたくさんある。だから、物事を抽象的に考え受け取ることが下手な人は、養老先生が何を言っているのか、さっぱり分からないのではないかと思う。モノを見て何かを判断し、まあ、つまり考えると言うことは、自分がある立場からある曲面で何かを切って見ると言うことだ。だから、人がどのような立場でどのような切り方をしているのかがわからないと、その人の言うことは分からないものだと思う。言っている方だってそうだけれど。でも、このことを自覚しない人は多い。

 不思議なのは、たとえば、東大の現代文の問題でも、できる人は少ない。(もちろんその中に私も含まれよう。)「なぜ、できないか」は、論理的思考だったり抽象化の思考が問題制作者より劣っているからにほかならない。(問題は順当なものと仮定する。この問題は、悪問だとかいう難癖はつけないでね。)だから、斉藤孝の東大の入試問題を解く本が出版できるわけ。で、私が何が言いたいのかというと、ほとんどの人間は、論理的思考や抽象化がうまくできる能力は持ち合わせていない。それでいながら、自分の論を正しいと展開していこうとするのは、無理があるってコト。で、その状態で議論するというのは、本当は全くの不毛だと言うこと。養老先生の「バカの壁」という言葉を借りると、バカの壁があると気がついてない人と、どこにどんなバカの壁があるか分かってない人とは議論不可能と言うことになる。

 理系だと、わかりやすい。烏合の衆の多数決でロケットの打ち上げは不可能だ。一人の専門家であっても、その人の説が正しければ、うまくいく。それがニュートンの力学だったり、アインシュタインの相対性理論だったりしたわけだ。こういうのは、「パラダイム」と呼ばれるものだ。

 ところが、文系系統の学問や教育は、ぱっと見て分かる類のモノではないから、判断がしにくいということになる。まあ、そのあたりで、衆人を納得させる手段として知恵として生んだモノが「宗教」じゃないかなと本当のところは思う。だから、宗教もパラダイムだと思う。

 と、私が書いたこと、表現の下手くそさはありましょうが、分かってくれる人は分かってくれると思うし、分かってもらえない人には全く分かってもらえないと思う。私のことをアホだと思った人もいると思うが、私がアホなのか、そう思ったあなたがアホなのかはわからない。

趣味の能楽・袴編

2005年03月30日 | 能楽
 たいした内容じゃないけど、聞いた話。

 大体年1回か2回、お温習い会をする。普段のお稽古は、その発表会を目指したものになる。発表会は当然着物。一般的に、袴は、先生のお許しが出てからになるらしいが、このとき、一度きりの発表会のために、ただその時のために袴を作ることがある。それではあまりに経費がかさむから、知人のお社中で、社中で皆同じ袴を作りましょうかという話が出たらしい。しかし、多くのお嬢様方が「えー、毎回お袴を作るのが楽しみなのに。。」とおっしゃり、この案は、即、没になったそうな。

 お金持ちのお遊びです。袴を取っておく箪笥も当然おありでしょう。その箪笥を置く空間もお屋敷に。。。。

 ところで、ちなみに能楽は基本的に男性のもの。男性が演じることを前提に所作(型)が決まっている。仕舞(能の一部をふつーの着物と袴で演じるもの)の女性役を演じるときの袴は、暗い色ではなく、黄土色っぽい色など、優しめの色であることが多い。で、たったそれだけでも、うまい人が演じると(←これ、ポイント)、まさに「女」なんだよね。歌舞伎のような化粧も何もないのに。これが能の不思議。私が虜になった理由。

 眠れぬ夜の能楽話でした。明日(今日)も学校なのに!!

自転車通学指導の2つの形式

2005年03月28日 | 教育
 自転車通学者に対して学校は何らかの形での掌握と指導をするものだが、自転車通学には以下の4通りが考えられる。

 ①自宅-自転車-学校  学校の自転車置き場に自転車を置く。
 ②自宅-駅-電車-駅-自転車-学校 学校の自転車置き場に自転車を置く。
 ③自宅-自転車-駅-電車-駅-学校 学校には自転車を置かない。
 ④自宅-自転車-駅-電車-駅-自転車-学校 学校の自転車置き場に自転車を置く。

 学校が自転車通学者を掌握するのに、多くは学校指定のシールを発行し、また、シールの発行に伴い何らかの自転車通学指導をするものだと思う。このときのシールの発行方法に2通りあるようだ。

 A.①②④のように、学校の自転車置き場を利用する者に対してだけシールを発行し、指導の対象とする。(④の場合は自転車を2台用いるがシールの発行は駅から学校までの自転車用1枚のみとする。)
 B.①②④はもちろんのこと、③のように学校の自転車置き場を利用しなくてもシールを発行し、指導の対象とする。④の場合にはシールを2枚発行する。

 実際問題として、②や④などの「駅から学校まで自転車」というのはあまり認めていないように思う。多くの駅では自転車置き場の混雑に困っているので、歩いて2,30分程度だったら、まあ、駅が嫌な顔をして学校に言ってくるのではないかな。 

 それから、いずれの場合でもそうだが、特に②や④の場合は、(どういう事情でそうなるかは別にしても)学校からとんでもなく遠く離れた駅から、「お宅の学校の自転車が当駅に放置される」と電話がかかってきて学校が迷惑するということがある。

 さて、上記A.B.の違いは何を「意味」するか。

 A.は、自転車通学者を「自転車小屋の使用者」とみなしている。従って、③の自転車通学者は自転車通学者と見なされず、指導の対象としないことを意味する。(自宅から駅は通学途上じゃないみたいね。)
 B.は、自宅から学校までを通学と見なし(←当たり前の話だが)、自転車通学者として学校が把握し指導していることを意味する。

 あなたの学校はどっち?

本当はお金がかかる趣味の能楽

2005年03月24日 | 能楽
 年度末にもなって、まあ、新しい展開は何もなく、また一年と勤務関係では似たような月日になるのかなと思うと、ちょっと退屈な気もしてくる。人生も折り返しを過ぎて己の来し方行く末も思いたくなるこの頃である。
 
 先回UPした「熊野」の使いの名前が間違っていました。「朝顔」が正しいです。訂正します。

 友人と話をしていて、「これからどうしよう」と、まあ、ちょっと仕事は抜きの内容で、「謡はどうなんですか」と言われたが、能楽関係の趣味は、ホント、純然たる道楽でしかない。物事は、趣味が高じてプロになる、と言う場合もあるが、能楽の場合は、プロとアマの世界が真っ二つに分かれている(はず)。プロというのは、素人さんに謡を教えて生計を立てている。これ、ほんと。能楽の場合は、舞台公演で食べていけないのでそうなる。で、まれに、素人からプロの世界に入る人もいるが、(大学を出て、弟子入りしてという場合は省くと)年取ってからの人は、開業医さんとか、会社役員だったりとか、とにかくお金持ち(のはず)。もの凄~く、お金がかかるのだ。時間と体力と、それなりの能力は当然としても。

 金持ちの人で能楽を趣味にする人は、お温習い会で、舞台に立ちたい人だろうと思う。楽しいらしい。で、私の推測としては、そういうお金持ちの「偉い人」は、人前でしゃべったり何したりという機会が多い(はず)。その度胸を付けるために、能楽の稽古、発表会が役に立っていると推測する。ただの自己満足、自己顕示でないと思う。

 「じゃあ、あなたは?」と問われても、そういうコトには縁がないし、だいたいお金がない。時間も能力もない。

 「では、鑑賞は?」と問われても、これまた時間と金のかかる仕事になる。先回も書いたが、能楽の公演で連日おこなわれるものは基本的にない。「誰それの何々を見る」となったら、その公演それこそ一期一会である。また、最近の人気能楽師は、東へ西へ忙しい。多くは、土日の公演である。いっぱしの能楽鑑賞をしようとしたら、やや高額なチケット購入、交通費の費用に足を運ぶ時間を作らねばならぬという大変な労力を要するわけである。場合によっては、義理を欠かねば能は見ることができない。もう、大変な趣味。(水道橋の宝生能楽堂の上階はマンションだから、老後にそういうところに住めたら最高かもしれないが。)

 と言うわけで、能楽を真剣な趣味とするのは大変な贅沢。

 で、私の今の状態は、ほとんど小謡。一曲通すと習うだけで時間がかかるから嫌だと言っている。(だって、お稽古に行くのが2ヶ月に1回とかいう状態だもの。)その点、小謡は能の「いいとこ取り」で、なかなか楽しい。ちょっとした気分や季節を味わうのには大変よろしい。江戸時代や戦前は、謡を習う人口も多く、能の先生も生計を立てやすかったらしい。その頃も一曲全部を教えていたのかもしれないが、まあ、だけど、今の能の先生たちは、小謡は教えたがらない。理由はわからないけれど。どんどん小謡を教えて、そこから本物の能の世界へと誘えばいいのにね。

 先日は3ヶ月ぶりに稽古に行って、春の曲の一節だけをやることにした。だたし、昔一曲全部を習った曲だ。先生に「このあたりを復習したい」と言ったら、「本当にいいとこどりですね」と言われたが、私って、きっと恵まれているなぁと思った。また2,3日後に稽古がある。全然練習してない。ちょっとはやっておかなきゃ。

 実は、私にだって「下心」はあって、自分の教科が外国語なものだから、能楽の趣味はそれなりに良いことだと思っている。研修などで外国語の教員が集まって話す趣味は、圧倒的に「映画」。私の場合、まったくはずれている。(映画、嫌い。だってよくわかんないんだもの。マンガはよく分かるけどね。)でも、国際化何だのと言われる時代に「ウリ」になるのは自国の文化・歴史だろうと思う。外国語の表現はできるに越したことはないが、要は、内容だってば。その点、能楽でも何でもを趣味にすると、「語るべきもの」を持つことができる。私が教員をやりながら謡の稽古を止めない理由の一つはそういうこと。生徒にとっても、この類のモノは、聞いて見て、「ぷっ。。。くくくくっ。。」と笑い出す子も多いが、新鮮な気持ちで吸収できる生徒もいるのだ。その昔、授業中の雑談で能楽談義をしたときもあったが、「外国語教員による日本の古典」だけでも意外なようで興味深かそうだった。

梅若六郎の「熊野」(テレビ)に関する竜頭蛇尾のコメント

2005年03月23日 | 能楽
 「熊野」は、「ゆや」と読みます。遠江の遊女で、平宗盛の寵愛を受けて京に暮らしています。そこに故郷から朝顔という遣いが熊野の母が重病だという知らせを持ってきます。母に会いたい熊野、しかし、それを許さず、時は春、花見に行こうという暴君宗盛。花見の席で舞を舞い、母を思う歌を詠う熊野に負けた宗盛が、やっと帰郷を許す。(でも、こういう場合、二度と戻ってこないものらしい。)

 能「熊野(喜多流・湯谷)」は、そんなお話です。「熊野(春の曲)松風(秋)は米の飯」と言われるほど能楽ではよく知られた曲です。(能では、能の演目を「曲」と呼びます。)能の一部を習得する前段階の「仕舞」の初段階で練習するのも熊野です。

 ところで、「舞」とは平面重視のおどり、「踊」は上下運動が関わるおどりです。能楽は、「摺り足」のように、腰の位置を水平に保つ動きが主流なので「舞」で、ジャンプのあるバレエは「踊」です。

 さて、六郎の熊野は、成熟した熊野でした。昔の友枝昭世の湯谷は可憐な乙女のような湯谷でした。成熟がこの曲の解釈にどう影響するのか、ちょっとよくわかりませんが。ずいぶん昔になりますが、友枝昭世の湯谷のビデオと、そのうちに見比べてみようかな。

 この能は、NHK能楽鑑賞会のものです。NHK能楽鑑賞会は、12月から2月にかけて国立能楽堂(千駄ヶ谷)で毎年催される会で、番組もまあまあで、料金もお得です。(今回は、たぶん、値段の割には、きっと最高のキャストだったはず。)国立能楽堂では、定例公演もやっています。最近ご無沙汰していますが、なかなかお薦めですよ。(ただし、能楽は、歌舞伎と違って毎日公演があるわけでありません。ご注意を。)

仕事服や制服は個人の好みじゃない

2005年03月19日 | 教育
 先回UPしたものとも関わって、夜回り先生の新聞記事だが、「ネクタイが好きで」というのが気になった。水谷先生は、おばあさんから中途半端はダメだと言われたこともきっかけなのだろうが、ネクタイが好きで家でも外さないらしい。しかし、ネクタイをすることと先生が夜の町を回ることには、深くて密接な関係があると思う。(う~ん、我ながら、日本語が下手だ、表現が下手だ、伝わらないなぁ~。たとえば、水谷先生がもっと違ったものが好きで、それを身に付けて夜回りをしたとしたら、まあ、なかなか、今以上に苦しかっただろうと、あるいは、夜回りは不可能だっただろうと推測する。ネクタイのもつ偉大な力である。こう書くと、ドブネズミルック肯定とかいろいろ反感を買いそうだが、今の日本の社会で、ネクタイに替わるべき不文律の「ドレスコード」がないというだけの話だ。)

 今日(昨日か)、テレビで女子少年院の様子を映していた。少年院の教官は、紺のブレザーに紺のスラックス、白いカッターシャツにネクタイという出で立ちである。同じ人が同じことをしゃべったとしても、Tシャツにジーパンでは仕事にならないと思う。あの格好だから、少女たちは安心できるのではないかな。で、私が言いたいのは、教官たちは、皆が皆、好きであの格好をしているわけでないだろうということだ。

 小学校でも中学校でも高校でも、先生が先生らしい格好をしなくなっているのが、教育の荒廃の一因になってるんじゃないかと思う。ちなみにウチの今の校長は、生徒の前では常に背広、ネクタイ。炎天下の部活の応援であってもその出で立ち。(体育大会の開会式ではポロシャツだったがジャケット着用。)ヨソの校長からそのことを指摘されるらしいが、ウチの校長は、「生徒の前ではこうすることにしている」と答えるらしい。だから、この人、出世できたんじゃないかなと思う。彼の中身は、教育に対する考え方は、能力の高い生徒を前にして浅すぎるし、もー、本当のところが分かってないと思われる点が多々あるが、人間的には、まあ、暖かみのある良いおじさんで、彼は、服装にずいぶん助けられて生徒の指導も出世もできたはずだ(と、私は見る)。

 言いたいことがちょっとずれそうだが、「好き嫌い」で動くべきものじゃないということ。それで、たとえば、「私は背広が好きだから、ネクタイが好きだからいつもしているんだ」じゃないってこと。嫌いであっても、教員をやっているんだったら、そのくらいの格好をしているべきだろう。それで、かつ、(ここからがまた大事→)「私は好きだから」という論理は、「私は嫌いだから何々しない」を許す論拠になる。(←ここ、わかってね。)個人の好き嫌いの問題ではない。

 あ、わかった!
 
 生徒も同じだ。「私は制服をきちんと着るのが好きだから(という好みで)きちんと着る」も、「私はスカートを短くしたいから(という好みで)短くする」も、現象はスカートの長さの差となって如実だが、内在する論理は同じ「個人の好み」ということだ。制服は個人の好みで着るんじゃないって。

 それで、元々言いたかったことは、行動も同じってこと。母親が、「私は朝食を作るのは好きじゃないから作らない。」は、母親失格だろうということ。受付嬢が、「私は化粧が好きじゃないから化粧はしない」も、余程じゃなければまずかろう。テレビで、銀座の新人ホステスさんを映していて、ママさんに「銀座ではニットのストールはダメよ」と言われたら、ダメなのだ。(あ、これも「制服」の類だけど。)その他いろいろ枚挙にいとまがない。(ただし、こう論を広げると反論が来そうだが、そういう場合は、膝を交えてお話ししなければなりますまい。)

 最近、「私は好きだから云々する」という表現を、それこそ学校でもどこでもよく聞く。そう言えば、「そうしない相手」を非難することにならないからだと思う。でも、その表現が「そうしない相手」に弁解の余地と権利を与えているのだ。

夜回り先生のスーツとネクタイ

2005年03月15日 | 教育
 朝日新聞だったと思う、ネクタイの特集?で、今、話題の夜回り先生こと水谷先生は、スーツとネクタイを必ずするそうだ。でないと、夜の町では隙をつかれることになるらしい。

 私はこの方の本をパラパラとしか見ていない。立派な方なのだろうが、マスコミの話題になるのが、底辺の生徒と超トップに関わることが多いから、大多数を占める普通の生徒の扱いが気になる者としては、ちょっと遠ざかりたいのである。

 イメージから言うと、ラフな服装でいそうな感じだが、実態が違ったと知って、ちょっと感動した。「なるほどね」と「やっぱりね」。ネクタイなど、きちんとした格好の持つ力について(うろ覚えだが、私はそんな風に読んでしまった。)書いてあったが、イマドキのふつーの人は、ここ、読み飛ばすんじゃないかな。

 まあ、とにかく、女性の場合はなかなか「スーツにネクタイ」にかわる服装が見つけにくいが、私は今後も上着は必ず着ていようと心に誓った。経験的に、自分の格好がきちんとしていた方が様々な指導がしやすい気がするし、他、様々な「先生としての機能」を果たしやすいように思うのだ。(ところで、最近のホリエモンは、ジャケットを着ている。そりゃ、そうだよね、Tシャツなんて下着だよ。)

 先日、この春卒業生した子が来た。2年続けて担任した女子で、2年目の担任発表時には、また私が担任だと知り、嫌で嫌で悲しくて悲しくて、ぼろぼろその場で泣き出した生徒である。その子が、私に会いに来たという。(もちろん、友達と会う約束もあったわけだが。)私と親しい先生がその子と出くわしたときに「○○君も、昨日、ほり先生に会いに来ていたよ。」と言ったら、(ちなみにこれは進路相談でしたが。)「ちぇっ、あいつもファンか。」と言ったらしい。このせりふを聞いて、ほり、正直、とても嬉しかった。しかし、彼女はかなり手のかかる生徒で、私は何度も叱りました。卒業式の日も、スカートを長くしろと叱りました。(もの凄~く嫌~そうな顔をしていました。)まあ、でも、そんなもんなんだよね。

 ちなみに、今年の前期国公立の結果は、真面目にきちんとしていた子が合格していたのが、私は何より嬉しいです。心根の悪いヤツは、知らない。

「僕も人の役に立ちたかった」

2005年03月14日 | 教育
 A君は不治の病で体が動かない。それもだんだん動かなくなっていき、「僕も人の役に立ちたかった」と言って10代の若さで亡くなったという。この話を多くの若者に聞かせるとしたら、そのメッセージは、実は、表と裏の2つがある。多くの場合は、表のメッセージ「人の役に立つことは重要だ。この話を聞いた君も、人の役に立てる人を目指しなさい。」を受け取るだろう。しかし、私は同時に裏のメッセージである「A君自身は人の役に立てないまま亡くなってしまった。つまり、A君は重要なことができずに生涯を終えた。」も受け取らないと、メッセージの受け取り方としてはかなり幼稚ではないかと思う。

 確かに、裏の内容は、A君にあまりにも過酷な事実を突きつける。彼は、どんなにか人の役に立ちたかっただろうにそれができなかった。このことは、冷酷かもしれないが、同時に、彼自身、自らの短い生涯を否定したということを意味するのではないか。それを思うと、私は彼が不憫でならない。

 私が胸が痛むのは、彼の無念さばかりではなく、人生の目的が人の役に立つことばかりではないということを彼は知らずに(あるいは、教えられずに)亡くなったということなのだ。そしてまた、この物語を多くの若者に伝えることで、「人生の目的は人の役に立つことだ」という、私には不十分に思われる、あるいは、場合によっては誤りになるメッセージを流布することになるのが引っかかる。このメッセージを全否定するつもりもないが、私は、人生の目的は、もし、そういうものがあるとしても、「人の役に立てる」といった直接的なことでは決してないと思うからだ。

 (私に同意してくださる方がいたとしたら、上記だけで全てが通じると思いますが、もう少し詳しく書いた方がわかりやすくて良いかもしれないので書き足します。)

 A君は体が利かなかったから、その意味で人の役には立てなかった。ここで言う「人の役に立ちたい」は、基本的に「困っている人を援助する、救う」「社会に貢献する」という直接的な意味だと思う。もっと広汎な意味で「人に喜びを与える」等、多少とも抽象的で肯定的な「役に立つ」もあるだろうが、A君はそこまで考えていたかどうかわからないし、たぶんそこまで考えていなかったんじゃないかとも推測するし、また、こういったのも直接的な意味の「役に立つ」ことに含まれると思うから、別扱いしなくていいと考える。

 私が何より胸が潰れるのは、先に書いたとおり、A君は自分の人生を否定的に見たのではないかということだ。私は幸運にも中年まで生き延び、年若く命を終えなければならなくなった青年の気持ちは察するには余りあるものがあり、そう言わざるを得なかった彼の気持ちをおもんばからないつもりはない。しかし、それでも、そう言わざるを得なかった彼が可哀想でならない。なぜなら、私は、人生の目的や人間の価値はそれだけじゃない、もっと違うところにある、だからA君は「僕も人の役に立ちたかった」と自分の人生を否定しなくても、A君にはA君の生きる価値があった、と見るからだ。繰り返し言うが、若くして命を終えなければならなかった辛さは甚大で、それだけを思っても本当に哀れでならない。しかし、それでも、あのような自分を否定する残酷な言葉は言わなくても良かったのにと、私は彼が痛々しくてならない。

 A君の「僕も人の役に立ちたかった」という言葉は他の大勢の若者に伝えられた。このことは、A君は命がけで表のメッセージを伝えたことになり、その意味で、彼はもの凄く「人の役に立った」。これは、上記の「直接的な意味の『役に立つ』」ことであり、その意味においては、彼は確かに自己の死を呈して人の役に立った。しかし、私は、それでも彼は自分の生涯を肯定したことにはならないと思う。やはり、先に書いた裏のメッセージも伝えることになってしまうと考える。これは、人の役に立てる人の価値ばかりを上げることにつながる。しかも、実際問題としては、「人の役に立てる」と自分で思っている人の生きる意味の価値を上げ、自分では人の役に立っていると感じることができない人の生きる価値を下げることになると危惧する。

 このことは、何も考えない鈍感な人には関係のない問題で、感受性や考える力があって自分の無力さを認識できる人ほど、大きく傷つくことになる。それで、優れた感受性を持つA君は、辛い思いを抱いて亡くなった。

 私は、人の価値が、人の役に立つかどうかだけで決まってもらっては困ると思っている。人の役に立つ重要性は、もっともらしく聞こえるが、裏返して見れば優生学に関連し、障害者に対する偏見につながるからだ。

 現代は、障害者に対する偏見も少なくなってきた時代で、それは大変喜ばしいことだ。それでも、こういった善意で語られる物語に落とし穴が見いだされるのは、多くの人が、人が生きる意味を本当のところはしっかりと考えていないからだと思う。人が生きる意味といった大それた問題は、安直に言葉で解答を述べることはできないのはわかる。しかし、答えがないからと言って、答えが無数にあるからと言って、考えなくていいわけでは決してない。今の日本では、それこそ命が粗末にされる事件が数多く起こっている。「命を大切に」という言葉が標語のようになって語られれば語られるほど命はどんどん軽くなり、かえって生きることそのものの意味が問われなくなってきている気がする。

最近の生ものは腐らないから気味悪い

2005年03月12日 | 生活
 新しいカテゴリーを作りました。ちょっと気になる程度のことを書きます。

 さて、早速。
 卒業式に花を貰いました。私はけっこう花を保たせるのは得意。以前、最後の花を捨てたのは1ヶ月以上たって4月に入ってからでした。夜はバケツに入れ替えて、涼しくなった風呂場で休ませる。弱ってきていたら、花によっては水を含みやすいように横に寝かして休ませる。また、バケツに一晩、水道水をちょろちょろ流しっぱなしにしておく。これで花はかなり長持ちします。
 
 今年も律儀でよい子の生徒たちは、私の知らない所で花を用意してくれました。(今年は花だけでなく、ペアのマグカップまでくれたのですから、驚きでした。本当に彼らは良い子で、しかもリッチです。ありがとう。)それで、いつものようにせっせと世話をしていますが、今年の花は、ちょっと変。

 何が変かというと、チューリップが咲かない。昔は、知らぬ間に窓の方を向いて、昼間は花びらを大きく開かせ、夜になると閉じる。開ききったチューリップの花は、まあ、美しいものではありませんが、毎日これを繰り返し、やがて閉じる力を失って花びらを落とす。ところが、今年は、花びらが全く開かず、乾燥していって花びらが落ちる。ミニバラもそうです。バラだって昔は開いた。でも、今年は開かずに、花瓶の中でどんどんドライフラワーになっていく。。。。花瓶の水もそんなに汚れない。

 先日、鯛の活き作り風(?)のお刺身を買いました。お刺身を食べ、翌日、残ったお頭と背骨と尾ひれでお吸い物(というか何か)を作りました。鯛の目玉がおいしいんです。魚は、時間が経つと目が白く濁ってきます。ところが、濁らない。食べると、味がちょっと変。

 まあ、この「変」というのは、最近、魚だけに限ったことではありません。出来合いのお総菜のような加工品でも感じることがあります。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ風味が薄く、ミントのようなスーッとする味というか臭いがするのです。この鯛もそうでした。先日は、ペットボトル入りの有名メーカーの野菜ジュースでも後味でこの臭いがしました。外国産の黄桃などの缶詰を開けたら、その瞬間、その香りがふわーっと匂い立ちました。

 この臭いではありませんが、最近、冷蔵庫で生長しないエノキダケがあります。キノコですから、生長に日光は不要。今までは、どのエノキも必ず冷蔵庫で伸び続けていたのに、だんだん黄ばんでぐったりしてくるだけのエノキがあるのです。メーカーによってはのびてくるものもあるので、それを選んで買うことにしています。

 近所の安い丼屋の天丼を注文したとき、エビにその臭いがしました。以後、二度と行っていません。

 頼りにしているスーパーの肉もそんな臭いがします。食べると口の中がスーッとする。うっかり冷蔵庫に入れっぱなしにしても、嫌な臭いもせず腐らない。ただ、風味がどんどんなくなっていく感じ。ちょっと離れた個人商店の肉はそんなことがありません。腐る肉の方がどれだけ安心か。

 なんだかとても気持ち悪い。加工品の場合、食品添加物等の表示は何もありません。でも、何かある。消毒剤が残っているのでしょうか? 特にO157の事件があってから、肉が腐らなくなった気がします。

 いったいどういう訳でしょう。自分のブログに書いたってしようがない話ですが。。。