考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

「あの叱り方では生徒が可哀想」

2010年03月29日 | 教育
と、しばしば聞く。見ていて、確かに可哀想だと思う時がある。うん、可哀想なのである。あそこまできつく叱らなくても良いだろうに。。。
 しかし、と思う。
 もし、同じ共同体に所属するメンバーが落ち込む生徒の気持ちになって生徒に同情したら、どうなるか。
 人間とて動物だから、生徒もそのところを鋭敏に察知するものである。結果、「自分はそんなに悪くないのに、きつく叱る先生の方が悪い」と、叱られた生徒は自分を正当化する口実にする。他の愛ある同情が、実に、非教育的な指導になってしまうのだ。
 ここで、「いや、非教育的なのは、最初にきつく叱った先生だよ」と思う方も多くおられるだろう。しかし、叱った後だから、もう、どうしようもない。私やあなたは、たぶん、きつく叱る側でなく「その他の同じ共同体に所属するメンバー」だろうから、私たちは、そんな際に、どのようにふるまうべきかということだ。

 結論として、生徒に同情するくらいだったら、そのきつく叱った先生に、次回から、もう少し叱り方を変えたらどうか、と忠告するのよい。そのつもりがないなら、下手に生徒に同情しない方が良い。関係する生徒なら、あくまでも叱った先生の価値基準で話を聞く。もし、生徒に同情し、生徒の味方をするのだとしたら、教育者ではなく、ただの人気取りだろう。

 叱られる、というのは、けっこう、理不尽なものである。自分は悪いことをしたつもりがなく叱られると、理不尽さを抱く。悪いことをしたという認識があり、その上で、それに見合う叱られ方だと生徒が納得すれば、理不尽でないが、多くの場合、イマドキの子は叱られたことがないから、場合によっては、注意されただけで、理不尽さを抱くものである。だって、叱られるのって、不快だもの。今の世の中、何が大事だと言って、快適さであるからには、不快を感じさせるものは何であれ、「悪」なのだ。
 これが家庭内だと、どうか。
 お父さんが子供をきつく叱った。見ていたお母さんは、いくら何でもあそこまできつく叱らなくてもいいのに、お父さんが悪い、と、ちょっとだけでもそんなそぶりを見せたら、家庭の教育力はなくなる。お母さんの役割としては、お父さんがきつく叱った理由を言って、涙をのんで優しくなだめるしかない。(しかし、こんな風景、近頃あるのかな?)
 これはどういうことかというと、「叱る」とは、それまでの子供が持っていた価値観を是正してやることである。目的とする正しい方向を示してやらなければならないということだから、同じ共同体に属する人は、最初に叱った先生やお父さんが叱ったのと同じ価値基準のベクトル上にいる他ないのである。「きつく叱ったお父さんが悪い」は、教えるべき価値観と異なるベクトルがあることを子供の示すことになるから、当初の目的のベクトルを外れてしまう。よって、教育力がなくなるのである。教育とは、あくまでも、「目的とするベクトル上に子供を乗せること」である。勉強をしなければならない子供に「あなたは勉強以外のことを頑張っているのだから、あそこまで勉強のことで叱られなくても良いのに」と言ったら、勉強以外の価値基準の重要性を示すことになり、子供は肝心の勉強をするわけないだろうということだ。

 叱るというのはエネルギーがいる。叱られるのも、大変である。
 「叱りたくない」「叱られたくない」で、教育力は低下し、たぶん、傷つきやすい子供たちができあがる。

自分の言葉で語る

2010年03月26日 | 教育
 私が思っていることを自分の言葉で語ると、生徒の中には、面白がって聞いてくれる者と、聞いてくれない者がいる。聞いてくれない理由は、たぶん、自分にはワケがわからないことを言うから、今まで聞いたことがないことを言うから、試験に出ないことを言うから、要は、くだらないと考えるからのようだ。
 どこかで聞いたことしか聞こうとしない生徒は、一般に伸びない。面白がる生徒は、ワケがわからないことや新しいことに興味を持つ生徒である。知的能力が高い生徒であることが多いが、必ずしも成績に関係しないような気もする。学ぶ姿勢の有無だろうと思ったりする。そう考えると整合性がある。学ぶ姿勢がない生徒は伸びないからだ。
 語る内容は、論理的に整合性さえがあれば、正否そのものはどうだって良いと私は思っている。正しさは彼らが判断すれば良いのである。この点、高校生に語るのは気楽である。でも、語る時間が少なすぎる。それなりに内容のあることを語るには時間がかかる。その時間はない。

主観はカラダ、客観は脳

2010年03月24日 | 教育
 客観性が大事だと言うが、客観とは、他人との共有を求めるということである。他人を説得するのに有用になるのが客観性、客観ということで、しばしば数字が用いられるのは、「抽象」としての共有物だからだ。(抽象とは「同じ」を表すものである。)しかし、外界を捉えることそのものは、捉えるその人にしかできいないことである。これは感覚に根ざして行うことであり、具体的には「暑い」、「寒い」等の主観と言い換えることが出来る。つまり、人によって大いに異なるというわけだ。よって、他人と共有できないものだから説得力に欠け、客観の下に見られることが多くなる。何かの説明を求める際の批判として「それはあなたの主観だ」と言う言葉があるだろう。
 しかし、現実の世界を捉えるのに必要なのが、まずは各人の感覚に基づく主観的な判断であるのは間違いのない事実である。これは、客観も主観あればこそということだ。学校の勉強は、抽象であるからには客観が重視されるが、近頃の生徒を見ると、客観の元になる肝心な主観に乏しいように思われる。主観というより、そもそもの「感覚」が乏しいのである。自分では何も感じない、ということだ。先生が大事だと言うことをただ単に覚える、公式を当てはめて問題を解く、などのことは行う。しかし、それぞれに実態的な感覚がないように感じられる。もっとも、私だって、中高生の時にしっかりと体感して勉強をしたかどうかと言われてもアヤシイ側面はある。それでも、「勉強」として目の前に突きつけられた抽象をより具体的なものとして自分の感覚で捉え直そうとする姿勢という観点で生徒を見ると、何だかなぁ、という気がしてならない。
 モノを捉える感度が鈍いから、主観も育たず、客観性はただふわふわ宙を漂っていうのが現実ではないかと思う。抽象が、あまりにも空に浮遊しているかのようである。まるで虚構の脳化された社会に生きているように思われる。

強制はキライ?

2010年03月21日 | 教育
 「教育に強制は付きものだ」と言うと、途端に反発する人がいる。強制と言っても、された側が意識できる強制と、意識できない、独りでにそうせざるを得なくなる強制の2種類があると私は思うが、おそらく、「強制」に反発を感じる人は、後者を強制と見なすまい。
 強制嫌いの人たちの判断の基盤にあるのは、快不快の感覚だろう。人から無理矢理「しろ」と言われたりさせられたりするのは、端的に言って「不快」なのである。しかし、自分が納得したうえでするのは、実質的に不快感を感じることであっても、何らかの「意味」や「意義」を見出しさえすれば不快を軽減することができるから、強制されたという気分が減じる。「納得する」ということだ。しかし、納得できない不快は減じることが出来ないゆえ、不快は不快でどうしようもない。つまり、これは「脳の判断」に支配されたものではないかと思う。納得するのは脳だからだ。
 快不快は、本来、身体的な感覚だ。風呂に入れば気持ちいいし、不味いものは不味いのである。しかし、そこに、何かしら意識的なものが加わると、快不快は身体性を逸脱する。不味くても、「健康に良い」と納得していれば、同じ不味さも軽減されるということだ。これは、意識が身体を支配し始めたと言い換えて良かろう。
 
 ってことは、教育における強制を嫌う人たちは、身体性より脳に依存しているということになる。
 「強制はいけない、納得させろ」は現代人の考え方である。現代社会がそれだけ脳化され、身体性を失いつつある時代であるということがよくわかる一例と言えよう。

 う~む、そうか。教育に強制がつきものだという考え方が、昔ながらのものだと思うが、そのように考える私のような人間の方が、身体性に準拠し、地に足が着いた生き方を志向しているということになる。不味いものを不味いと感じた自分をそのまま受け容れ、あえて、これが美味いものであると思い込ませない自分の身体感覚に対する正直さを大事にする生き方と言うことだ。

 さあ、皆さん、どっちが良いと思いますか?(別に二者択一というわけでないけど。)

実は客観よりも主観の方が大事です

2010年03月20日 | 教育
 生徒の文理選択をどうするかという話で、どうみても、文系的な生徒が理系に進んで進学先がぱっとしないところになる、というのは実はよくあることである。もっとも「本人の希望」でそうなるのだが、わずか15か16の時点(高一で選択し、2年から文理別になる。)での選択が果たして正しいのだろうか、という疑問が残る。文理分けではないが、「保育士になりたい」という希望の生徒のきっかけは、私が知る分には、ほとんど全てが中学生の時の職場体験で、唯一行った保育園訪問である。
 文理分けの話をしたかったわけでない。そのとき、担任として他の選択を勧めることが出来るか出来ないか、と言う話をしていて、「しかし、結局、判断は主観的なものだから、こうだ、とは言い切れないよねぇ」というところに落ちた。私はちょっと釈然としなかった。
 判断というものは常に主観である。それで、主観の根拠になるのは、その人の「感覚」である。私が物理が出来なかったのは、物理的な捉え方、物理の感性に全く欠けているからだ。ぱっと、言われて、瞬間的に、そうだ、と判断が出来るのは、何らかの感性が自分に備わっていてのことだ。
 何であれ、判断の根拠を客観に求めることは多い。人を説得するときには、「数字」などの客観が重視される。しかし、イチローがホームランを打つときに、球をバットのどこに当てるかという判断は、他人に説明できるような数字などの客観ではない。あくまでも、彼の「感覚」である。熟練工が、ミクロンか何かの単位で金属を削るのは数値ではない。彼自身の感覚である。測定器械は、それを作る人の感覚以下のものでしかないからには、優れた人間の感覚が最も頼りになるのである。大事なのはこうした感覚だが、これは、他人から見ると、「主観」にしか見えないものである。
 よって、文理分けの適性にしても、短絡的に「大学入試」の点で、より良い「成果」を挙げたかったら、熟練工のような主観に基づいての判断が最も良いと言うことになる。それには、経験ということになるか。
 しかし、上記、あくまでも「目先」についてのみ述べたものである。生徒個人にとって、「本人の希望」に沿うのが良かったのかそうでない方が良かったのかは、長い目で見てもまあ、なかなかわかるものでない。「じゃあ、どっちだって良いじゃないか」となるなら、目先を取る、というのも選択である(と、学校に好都合の結論だなぁ)。

塾へ行くと出来なくなるぞ

2010年03月18日 | 教育
 それなりに指導をしている進学校の生徒が塾へ行くのは、「(たとえさしたる成果が出なくても構わない)安心」を買いに行っているのである、親子共々。
 成績は良くない生徒が多い。なぜ良くないかというと、学校が要求することをやりきれていないからである。それで、安易に塾へ助けを求めようとする。彼らは塾が打ち出の小槌であることを期待している。しかし、塾の勉強も勉強であることに変わりなく、塾は塾での授業があり課題がある。それで、これまたやりきれない。そんなこんなで学校の宿題や課題に関する疑問を塾の先生にして答えを得、塾の宿題は学校の先生に聞く、というバカとしか言いようがない生徒まで出てくる。(と、ここで、「ばか」と言う言葉に反応をした人がいたら、立ち去ってくださって結構です。)
 生徒が塾へ行く大きな理由は、授業料が高いからである。「これだけお金と時間をかけてそれでも成果が出なかったのだとしたら、仕方がない」という、自分たちはやるだけのことをやった、という言い訳に、塾がかなりの程度使われていると見る。学校の授業や講習の費用は塾に比べて全然たいしたことがないから全く「ありがたみ」がないのである。彼らは「身銭を切る」重要性を知っているのである。それで、お金をかけたからには意味があった、と考える素直な資本主義者である。
 彼らは成績を下げるためにせっせと塾へ行く。自分のやっている矛盾に気がつく生徒は、前払いした塾を思い切って辞めて、学校の勉強に専念し、成績を上げる。

 しかし、生徒が塾へ行くメリットがある。日本の経済を潤し、失業率を下げるというメリットである。イマドキは、塾がなければ、かなりの大卒、院卒者は路頭に迷うことになるはずだ。この意味で、中学校の教科書がわかりにくい理由もはっきりする。文科省と厚生労働省が結託しているのである。日本の官僚制度が縦割りだというのは、実は「ウソ」だということもよくわかる。(笑)

こりゃ、中学生が可哀想

2010年03月17日 | 教育
 中学校の英語の教科書を見た。
 中学生が可哀想だと思った。
 こりゃ、塾に行きたくなるわ。
 教科書が、めちゃくちゃである。よくぞこうも、わかりにくく書けたものである。だらだらずるずる繋がっているものの、基礎的な言語学習に必要な脈略がない。何がどのように繋がるのかがめちゃくちゃわかりにくいのである。
 活動中心だから、こうなったのだろうが、それにしても、無責任な編集である。
 どうでもいいことが大きく書いてあって、わかりにくいことが小さくわかりにくく書いてある。
 作った人の脳味噌が知りたい。
 こんな教科書で勉強をさせられている中学生も、こんなので教えさせられている先生も可哀想である。

 一体、どうなってんだ?

困った大人たち(加筆)

2010年03月17日 | 教育
 子供の教育という観点で言うと、子供の周りにはかなりの頻度で困った大人が存在する。近くにいなくても、困った言説を振りまく大人がいる。
 典型が、「子供の気持ちを考えよう」という実に耳に心地よい言葉を囁く人たちだ。「子供の心を傷つけてはいけない」「子供の目線に立とう」・・・
 共通するのが「世界の中心が子供である」という扱い方である。しかし、そんなはずがないことを知るのが、大人になることであろう。20歳になって、30歳になって、6歳の、15歳の子供のままの気持ちでいる大人が果たして幸せになれるのだろうか。
 子供の気持ちはすぐに傷つく。柔らかな肌と同じかもしれない。傷つけまいと何重にも覆っていたら、傷つきやすい肌はますます容易に傷つくだろう。子供に必要なのは、少しずつ強く丈夫になることなのだ。そうすれば、子供は容易に傷つくことがなくなる。それを「子供の心を傷付けてはいけない」と真綿で包み続けることが子供を慈しむことだと思う人が多い。子供の心はいつまで経っても傷つけられるままだろう。
 子供の目線は低い。近くの大人が低い子供の目線に立ったまま対処していたら、子供は大人の目線も自分と同じ高さだと思うだろう。より高いところがあるという存在すらに気がつかないだろう。いつまで経っても、低いところからしかものを見ることが出来ない不幸に陥るだろう。
 子供にとって大事なのは、世界が大きく広いことを知ることである。自分が弱い存在であるからには、自分がもっと強く丈夫になることを覚えることである。これが何より求められることである。
 ただ、考慮しなければならないことがある。もちろん幼気ない存在であるからには「安全地帯」を持つ必要があることだ。しかし、彼らは保護され守られなければならない存在だが、保護され、心地よさを感じるばかりであってはならない。同時に不快や保護されない状態に陥ることも必要なのである。しかし、困った大人たちは、これが子供の成長に必要不可欠だということを体感的に理解しない。それが、「子供の気持ち」「子供の目線」と言う言葉になって出てくる。「誰だって、不快なのはイヤだ。」と言うわけだ。「褒めて育てよ」がいつの間にか「叱ってはいけない」に取って代わるようなものか。未熟であるとは、快適ばかりを求めることと同一なのかもしれない。
 子供が大人になる過程においては、苦難の道に進む勇気を持つ必要があり、周りの大人も同じ勇気を持つ必要があるということだ。見ている方だって、辛いに決まっている。これだけ快適な社会であり時代においては、子供に苦労させる方が面倒に決まっている。しかし、何ごとにおいても、新たな世界に入り込むのは努力と忍耐と幾ばくかの苦痛を伴うものだが、必要不可欠なのだ。それで、向こうに新しい広い世界が開けているからこそ苦労に耐えられるのである。この面白さを教えるのが大人の仕事である。快適さを与えることが大人の仕事ではない。
 子供はいつまでも子供のままでいることは出来ないのである。今の大人の多くはこれを忘れている。自分自身が子供だと未熟な対処の仕方でしか子供に接することが出来ないのだろう。快適さを前面に子供の味方面をする大人は困った大人である。

何が新しい学習指導要領だ

2010年03月13日 | 教育
 ヨソの学校の英語の先生と話をした。私の勤務校よりもいわゆる「良い学校」の先生である。大変だと言っていたけれど、話を聞くと、よく似たところがある。とか何とか話していて、新しい指導要領の話になったけれど、英語の先生で今度の改革を良いと考えている人って、いったいどれくらいいるのだろうか? 

 めんどーだから、端折る。
 
 思うに、新しい事に賛成する人は、それによって一旗揚げようとか、自分が偉くなりたいと思っている野心ゆえではないのか。(ついでに言うと、「教育」に野心は不要である。)

 本当に英語ができるようになるためにどうしたらよいのか、どうしたら身に付けさせる事が出来るかを考える人は、だれも新しい方法を求めないと思う。
 語学習得の基本は、辞書を引いて、読んで、書いて、口に出して覚える、まずはこれである。凡庸な能力の持ち主に、他に道はない。

 だいたい「英語が大事だ、もっと自分も英語が出来ると良かったのに」と思っている人は、英語がほとんど出来ない人たちである。多少英語が出来る人は、英語を習得することがいかに大変であるかを知っているから、「もっと英語が出来たらなぁ」なんて、夢物語を持たないのである。多少出来る人は、英語が出来ない理由が、己の能力と努力の不足であることを知っているから、夢は語らない。
 ところが出来ない人は、能力と努力は必要ないと思っている。そんな人たちが「小学校からするといい、話せることが大事だ」ともの申したとて、正しいわけがない。良い野球選手を育てるのに、野球ができない人の推奨する方法を参考にするコーチや監督が一体どこにいるだろうか?

わかりやすかった

2010年03月13日 | 教育
「先生、○○大学の○○語学科に合格しました。ありがとうございました。英語もこれからも頑張ろうと思います。」
 ・・・
「教えたのは授業だけだったよね。」
「はい。とてもわかりやすかったです。」
「何がわかりやすかった?」
「どこが大事か、ということです。」
「私、そんなに言わなかったけれど。」
「問題の文で、ポイントがどこかということです。」
「自分で、大事なところを見つけ出しなさいと言ったけれど。」
「はい。それまでは、問題をやって出来たら終わりにしていました。」
「自分で学び取ることが大事なんだよね。1文からでもいろんなことが学べるから。」
 ・・・
「何にでも、挑戦していきなさいね。」
「はい。頑張ります。」

 私の授業は「わかりやすい」と言われるときと「わからない」と言われるときがある。
 応用できることを言う(あるいは、応用できる事しか言わない)から、どうやら、自分で考える意思のある生徒には、簡単な原理で多くのことがわかる元になって「わかりやすい」ようだ。先生の言ったことを覚えることが勉強だと思っている生徒にはとてもわかりにくい、というか、試験に出ることとして何を覚えて良いのかがわからないのが困るようである。