考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

ようこそ当ブログへ

2006年06月29日 | Weblog
 一昨日から、アクセスip数が、どっと増えて驚いてます。
 数日前に内田先生のところにTBして、madographosさんのところにTBしたせいで、いくらか増加したとは思いましたが、一昨日どっと増えてました。で、今までだと、1日増えても翌日にはまたかたんと減るのが常ですが、今回は昨日も同じように多く、驚いています。(といって、gooの1000位からは外れています。)アドバンスにしてないので、どちらからお見えになったのかわかりません。でも、まなめはうすさんのところで「能力以上の学校」が紹介されているのがわかったので、そちらからおいでくださったのでしょうか。

 どちら経由であっても、当ブログにおいでくださいまして、ありがとうございます。これを読んで頂けているとしたら、初めておいでくださった方でも、3日続けてですよね。感謝します。

 個性がはっきりしているブログだと思います。教育に関しても、流行より不易、特殊より普遍を重視する考え方でしょうか。ブログタイトル通り、いろいろ考えます。書きながら考え、頂いたコメントからもまたぐずぐず考えます。基本にあるは、「人間って何だろう」という疑問です。これ、中学生の時からあまり変わってないんですよね、実は。(笑)当たり前ですが、答えはいろいろ年と共に変化してきています。どんどん積み重なるというか、掘り下げていっているというか。
 記事のUPは、多いときもあるし、少ないときもあるし、いろいろです。しかし、お気楽記事の方が評判(ってほどじゃないけど)になってたりして。「力作エントリにはコメント付かない法則」があったりして。(笑)

 自己紹介にあるとおり教員をしていますが、はっきり言って、学校で話の合う人がほとんどいません。ほとんど誰とも教育観が合いません。(文科省とも合わないね。苦笑)で、ここで、いろいろ吐露しているわけです。チャチャを入れて頂けましたら幸甚です。(掲示板もありますし。)

 教育関係者とお若い方が多いのかしらと想像してますが、今後ともどうぞよろしくお願いします。

 それでまた、最後になりましたが、ブログ開設当初からごひいきくださっている皆さん、何かの機会から引き続きおいでくださっている皆さん、本当にいつもありがとうございます。なにせアドバンスじゃないからよくわからないのですが、長く読んで下さっている方が多いように(勝手に)想像しています。今後ともどうぞよろしくお願い致します。


「エレガントな宇宙」(ブライアングリーン)を読もうかな

2006年06月28日 | 教育
 以前NHKで放送された番組の元本だろう。本屋で、ブライアン・グリーンBRIAN GREENEのTHE ELEGANT UNIVERSEを見つけた。表紙もなかなか美しい。あの放送は録画して幾度となく見た。だって、ムツカシイから、一度じゃわからなかったんだもの。でも、面白かった。

 内容はテレビ番組と同じのようだから、大体察しが付く。しかし、この本の英語、受験英語だよ。文構造から何から。結構面倒くさい文構造をしている。1文が長かったりもする。理論物理学者の書いた文章だからかなぁ? 関係詞がかなり用いられている階層的な構文だったり、挿入もそれなりにあるかな。しかし、高校3年くらいなら、単語の注釈をちょっと付ければ読める子はかなりいると思う。一応辞書を引きながら読んでいるが、ついついテキストを読むつもりになってしまう。スラッシュを入れて。(笑)上手に引っ張ってくれば、テスト問題ができるんじゃないかしら?

 以前、翻訳を見かけたような気がするが、もう売ってなかった。

 英語の本は、興味を持てないと、ホント、読めない。この本なら、私は読めそうな気がする。(なんてたって、大体のところはテレビで内容を知っているし。)

 まあ、英語は、理系なら、これくらい読めればそれで良いんだよね、きっと。。。

 まだ1/8。最後まで読み通せるかな? 途中読みの本がどんどん貯まる。(笑)

コトバを語る若者たち

2006年06月27日 | 教育
 若者が饒舌に語る番組がある。NHKの「しゃべり場」でも、土曜だっけ?にやってる?「一期一会」でも。一期一会は一度見ただけだが、一五ちゃん、つまり15才が「自分はこういうコトに興味がある。しかし、どうしたらいいのかわからない。だから、そういう人に会って話を聞きたい。相手は有名人じゃないふつーの人だが、その道の先達」といったものか。民放の番組では、学校を舞台にするのがある(あった?)ようだが、大勢の前で、中学生が大きな声でスピーチする。お調子づいた先生までが登場してくだらない(しかし、生徒に人気のある)言動をする。(嫌いだからほとんど見ないが。)いずれも、マスメディアが発達した現代ならではの番組であろう。

 何にせよ、登場する若者たちは、よくしゃべる、よく語る。これを目にするたび、近年の学校教育の成果、ここにあり、と思う。

 今の親の世代が子どもの時と異なり、近年の小学校では、人前で発表させる授業が多い(ようだ)。内容は大したものでなくても、とにかく発表をさせるように見える。小さい頃から映像メディアで育ち、学校教育でもそのような洗礼を受けて育ってきたのが今の若者である。たぶん、日本では初めて出現するタイプの人間であろう。ウチの高校でも、彼らは一様に、とにかく、人前でしゃべるのがうまい。いきなり指名しても、滞ることがない。だからこそ、上記のような番組もふつーに何の違和感もなく成立するのだろう。

 しかし、私は非常に大きな疑問を感じる。

 彼らは自分の内面を語るわけだが、私はあの年齢の子どもの心には、もっと複雑な心の動きがあるのではないか、それを口に出すことが不可能であるような、深い内容があるのではないのかと思うのだ。(内田先生も似たようなことを書いておられた気がするが。)
 しかし彼らは、まだ十分に表現できるだけの言葉を持たない。自分が何を考えているのかもわからないはずである。(大人だってそうだが。)しかも、心の身体も成長期まっただ中の、日一日と自分が変容している時期の子どもである。それが、なぜ、ああも簡単に「自分の考え」を信じて「自分のコトバ」として広く大きく語ることができるのだろうか。不思議でもある。

 コトバは不変である。コトバは人を制御する。彼らは、自分が語ったコトバに、自分も知らない間にコントロールされ、成長を阻まれることはないのだろうか?

 私がテレビで見た限りであるが、彼らは「コトバ=自分」であるかのように振る舞っている。不動であるコトバが、動く自分を語ることに違和感がないのだろうか。
 職場でも感じることではあるが、よどみなく話す人はコトバを信じ、コトバに制約されているように感じられる。大人ですら、そうである。まして、思考の方法も獲得しておらず、語彙も不十分な子どもは、語れば語るほどに、自らをコトバの囲いの中に閉じこめることになりはしないのだろうか。

 大人と子どもは違う。大人の考えは、そう変わらない。しかし、子どもは刻一刻と変化する。それが成長である。その成長の力は、あまりに急激すぎて、意識できる自分が付いていけない、つまり、自分でも気が付かないことがある。(逆説的だがそうだと思う。)それを、まるで大人と変わらないようにコトバを語り、固定的に振る舞う。今の大人の目には、そんな彼らは「しっかり者」に映ることだろう。しかし、若者の思考が「しっかり者」であるのは、実はかなり異様なことではあるまいか。

 彼らは、彼らの時代にしか思考できない大切な「何か」を、語るべき言葉を持たないまま語ることによって失うことにならないのだろうか。それで、不安定だからこそ感じ取られる感情の機微や思考の広がりを、未だ自分の語彙の範疇にしかないおおざっぱなコトバに転換することで、かけがえのない微妙な綾を失うことにならないのだろうか。それが彼らの本当の「成長」に悪影響を与えることにならないのだろうか、私は危惧する。
 

能力以上の学校

2006年06月26日 | 教育
に入学してしまったら、授業について行くのが大変です。
 ウチの学校でも、そういう子はいます。(当たり前。どこの学校にもいます。)大事なのは、それでも頑張って、授業について行こうと真面目に努力することです。そうすれば、学校の先生は鬼じゃないし、努力している様子が見えれば、卒業できない、と言うことは決してありません。(ただ、努力しなかったらどうしようもありませんよ、そこはシビアです。)

 しかし、とにかく努力すれば、どんな子でも、そこそこ付いていけるものなのです。教えてる方も、どういうわけか、わかんないのだけど。ポイントは、先生がしなさい、といったことをすることです。これがとても大事です。で、きちんと期限に遅れずにやる。で、この努力を続ければ、なぜか、何とかなる。学校の勉強が何とかなれば、受験だって、そこそこ何とかなります。そんなものです。
 都会の進学校に進学できた生徒が何だかそれなりに良い学校に進学してしまう理由に、そういうのがあると思います。ただ、繰り返しになりますが、努力しない子はダメです。


理想はきっと長寿村

2006年06月25日 | 物の見方
 養老先生は「政治家と学者は仲が悪い」とおっしゃっている。政治家は誰でもができること、つまり最低限のことを見極めるのが仕事である。逆に、学者は、人間が最大限どこまでできるかを追求する。だから、学者が政治家になってもうまくいかない。確か、そんなことを書いておられる。

 内田先生の「健康論」にもこの考え方が当てはまる。(健康って何?http://blog.tatsuru.com/archives/001799.php)
 「生理学的・生化学的に健康な生き方」は、たぶん、現在の価値多様化・欲望追求社会においては実践的理解が難しいものになっている。身体の調子の善し悪しにしても、目に見えない身体の中のことだから、わかるわけがない。この点、現代人は鈍感であろう。つまり、養老先生の「学者」にはなれないのである。に対して、「周囲からの支援と尊敬を得る生き方」、たぶん、みんなでわいわいがやがや「それ、良いねぇ」などと承認し合うのは、当たり前だが実感として受け入れられやすい。つまり、誰にでも理解可能な政治家的考え方である。
 さて、どちらがより多くの人々の賛同を得るかは問うまでもない。前者の原理主義的態度が社会的孤立を生まないはずがない。

 しかし、本当のところは、「生理学的・生化学的に健康な生き方」を互いに承認し会える共同体の成員み~んなが理解をして実践するのが、最大の健康と長寿を得る道であろう。で、それを可能にしているのが「長寿村」ではないか。

 そこでは、なんやかんや現代社会においては「健康食品」とされる食品を日常的に摂取し、生活習慣病とは縁のない生活を維持しているのだろう。なおかつ、みなが村落共同体として、たぶんお互いが「支援と尊敬を得る生き方」によって人生を謳歌しているのだろう。
 しかし、そんな共同体であっても、食生活など「生理学的・生化学的に健康な生き方」が変わってしまえばどうなるか。
 
 沖縄で売っているある種のお茶には「長寿を取り戻そう」とか書いてある。沖縄は、日本でも少子化傾向が最も少ない、たぶん村落共同体の良さを残している社会であろう。しかし、食習慣が変わったせいで、「社会的承認」がありながらも「生理学的・生化学的に健康な生き方」を失い、長寿日本一の座を他に譲ってしまった。

 で、養老先生とどう結びつくかって? 長寿村は、世にも珍しい、「みんなが学者さん」のムラなんです。皆が、人間が最大限にできることを実践している社会なのですよ、きっと。それで、皆がそうだから、社会的承認も得ることができる。
 で、かつ、「原理主義」は、成員の皆がそうである共同体にあっては空気のようなものだから、決して「社会的孤立」を生む要因になり得ない。だって、「そういうもの」なんだもの。




「思い通りできなかったから良かった」のかもしれません

2006年06月24日 | 教育
 快楽追求の時代である。自分のしたいようにすることがもてはやされる。だから、親の世代も子の世代も「やりたいことをやらずに後悔しないように」と考える。
 年を取れば、人生、後悔も多いものである。よって、親は、子どもが自分の二の舞にならぬよう願望を満たすべく子どもを応援する。そこに何の迷いがあろうか。

 しかし、である。(私は天の邪鬼である。)
 したいことをしなかったからこそ、親は今現在一家を構え、子を育むことができる「まともな」自分になれたことだって考えられるのではないか。若かりし日々、どれだけやりたかったことであろう、今、人生を悔いることだってあるだろう。しかし、あのとき「一歩」を踏み出さなかったからこそ、今、こうしてお天道様の下、表を歩くことができる自分がいるのかも知れないのではないか。

 「あのときああしていたら今はどんなに良かったことだろう」と思うことは数多い。しかし、逆に、あのとき我慢したからこそ、今の自分が真っ当な生き方をしていられるのではないか。
 私は天の邪鬼である。

 しかし、今の時代にそのような自己肯定的な考え方をする大人は少ないだろうし、人気もないはずだ。

アタマは良くなる!

2006年06月24日 | 教育
 ちゃんと見たわけでないが、NHKの再放送で、100才を超えて中国語の勉強をしているお爺さん幼稚園の先生(?)などの話をやっていた。MRIか何かの写真で、ふつーの人の海馬は、5ミリくらいらしいのに、その人のは1センチもあると言う。海馬は記憶を司る。これまでは、年を取ると海馬はやせ衰える、つまり、新しい神経細胞が作られることがないというのが定説だったが、年を取っても成長することがわかったのだ。(ロンドンのタクシー運転手の海馬が年を取った人の方が大きいという検査結果もあるらしい。ロンドンのタクシー運転手は、道を覚える試験が大変なのだ。何かで読んだ。)
 簡単に言うと、アタマは使えば良くなると言うことである。

 以前、コメントか何かに書いたかもしれないが、私、たぶん、勉強をしたお陰で記憶力が良くなったところがあると思う。

 とにかく私は記憶力が悪い。抽象化能力と思考力はある方かもしれないし、読解力もある方だろう。でも、それに比べてとにかく記憶力が悪い。特に言語で表現すべき記憶力が悪い。とにかく覚えられない。(自分で考えた論理でも忘れる。いきなりその場で説明することができない。笑)

 社会科の先生は、記憶力の強い人が多いようだ。「覚えるのに苦労をしたことがない。」と言っている人を知っている。わからないことを聞くと、たちどころに帰ってくる。コトバにもよどみがなく、素晴らしいものである。(こういう知人は実に有り難い。)しかし、この人、数学が弱い。だからか何か、論理的な話になると整合性に欠ける。(社会の先生には「独創的」な方が多いのはだからかと思う。)

 で、私の社会科は、中学時代からもの凄く苦労をした。中一で地理、中二の歴史が大変だった。白地図を自分で書き、覚えることを全て書き込んで勉強をした。年表を自分で作ってすべて纏めて覚えるべきことを整理した。実に涙ぐましい努力である。教科書を読んだくらいでは覚えられないんだもの、しょーがない。。。その中学生の時に思ったのは、「中学の勉強でこんなに大変なのだから、高校に入ったら、私、どうなるのだろう? ついていけるのだろうか」だった。ホントに心配だった。でも、実際は、何とかなった。もちろん、高校に入っても、同じように大変な思いはした。しかし、振り返れば何とかなったようだ。
 不思議である。高校の知識量は半端じゃない。それでも、何とかなった。

 考えられるのはただ一つ、中学の勉強があったから、私は高校の勉強ができたと言うことである。
 中学の勉強で、私の海馬は多少太ったのだろう。それで、高校の勉強も何とかついて行けたのだろうと思うのだ。だから、もし、中学で私は勉強をさぼっていたら、あの高校の成績はなかったのではないかと言うことだ。
 中学で学習したことを骨組みに、私は高校の内容を習得できたのだと思う。もちろん、アタマの良い人だったら、いきなり高校内容をやったとしてもついて行けただろう。しかし、私は違う。

 中学や高校の時は、こんなこと、思いもよらなかった。しかし、こういった番組を見ると、なるほどと自分のことと重ねて見ることができる。もちろん、私の生まれつきの能力は、元々アタマの良い人と比べれば全然大したことがない。それでも、使っていれば、何とか出来あがっていくものではないのか。

 しかし、こう書くと、次に書くべき内容が決まってきそうで、実はちょっとイヤなのである。(苦笑)

 「人生、まだ、半ばである。しっかり勉強をして、脳を鍛えろ。」

私家版授業力診断テストをしてみました

2006年06月23日 | 教育
「学校教育を考える」madographosさんの私家版授業力診断テストです。http://blog.goo.ne.jp/madographos/e/961206f923cfdf4c32864623356ccd7d

1 授業がはじまりとおわりに,児童・生徒に丁寧に挨拶をしているか。

 級長の号令で私は頭を下げているが、生徒はあまり頭を下げない。時々あほらしくなってくる。あまりに態度がひどいときはやり直しをさせる。やり直しをさせることができる間は、まあ、大丈夫。(一時、やり直しをさせられないかったときがあった。学校中、雰囲気がひどかった。)

2 教室の窓から外を見た景色の移ろいに言及しているか(時候の挨拶)。

 ときどき。いや、「たまに」かな?

3 教室の換気や採光の状況を整えてから授業を行っているか。

 教室の照明を必ず付ける。明るいときは、窓側だけ、電気を消すことがある。冬など、空気が悪いときは、短い時間、窓を開けさせる。ただ、生徒は嫌がる。

3 授業のはじまりに,ほっとする話題やなるほどと思う話題を児童・生徒に提供しているか。

 ほっとするかどうかはともかく、授業始めには雑談をよくする。学年統一で授業開始時に小テストをしましょう、と決まると、雑談がしにくいので、実はもの凄く嫌。

4 授業中,児童・生徒は,自分に注目しているか,また自分に注目していない児童・生徒は誰か,きちんと意識しているか。

 寝ている生徒もいる。気が付く限り名前を呼ぶなりして起こす。そっぽを向いている生徒に注意したりすることもある。(気が付かないときもある。他の生徒を指名している間に、離れたところにいる生徒が寝ていたり。。。改めて反省します。)ただ、自分に注目していない生徒が気になり始めると自分自身が授業に乗れなくなることがあるので、そうなると、逆効果になりかねない。だから、こちらを見てくれる他の数多くの生徒に話しかけるつもりで行う。何か「授業の空気」が出来上がると、そっぽを向いていた生徒もこちらを向くことがある。しめしめ。しかし、いつもうまくいくわけではない。この子たちはこの程度が精一杯なのかなぁと思うことも多い。(「学者」的発想と「政治家」的発想の見極めが難しい。←これ、通じないね、きっと。)

5 授業中,児童・生徒に表情の変化があるか。
  いっせいに児童・生徒がわっと笑う瞬間があるか。

 笑わせるのが下手。ただ、つまらない文法説明でも、1対1の話しかけのつもりでやっている。大事なところで声のトーンを急に落とすだけでも生徒の注目度が変わる。ぐっと視線を感じる。(たくさん芝居や能を見た経験が役に立っていると思っている。)真面目な生徒が多いから助かっている。

6 児童・生徒が,ノートに何を書いているか,教壇からでも推察できるか。

 気をつけるようにしている。授業以外のことをしているのは、割にめざとく見つけているのではないかと思う。最初はそれとなく注意したりもする。聞かないときは、そばに行って取り上げる。

7 児童・生徒の発表する姿勢や聞く姿勢,筆記用具の持ち方などの基本的な学習習慣について,注意を喚起しているか。

 椅子の座り方については、実際にやって見せて注意する。そばに行って、直したりすることもある。とにかく、まずは身体を真っ直ぐこちらに向かせる。モットーは、「勉強はアタマでしていると思うな、身体でする。」筆記具の持ち方は正直言って注意しきれない。小学校で何とかして欲しい。文字の書き方の注意はする。

8 授業中,上履きを脱いでいる児童・生徒は何人いるかわかるか。
  ついでに靴下まで脱いでいる児童・生徒は?

 う~ん。これは、難しいです。襟元の注意だけで精一杯です。それだけでも「うるさい」と言われるからなぁ。。

9 板書や提示した模造紙などの文字は,一番後ろの児童・生徒からも
  十分見えるようになっているか(パソコンから拡大して打ち出した
  模造紙は,多くの場合,文字が小さすぎて,よく見えない)。

 私は不親切なので、板書は少ない。横書き7行程度にしている。消すときも、白い粉が残らないように、なるべくきれいに消してから書き直しているつもりです。でも、なかなか難しいときもあります。

10 授業が終わったときに,すっきりとした気分になっているか。

 なかなかすっきりしない。生徒の予習ができていないとむっとする。期待以上に予習をしていると、スイスイ進むし、嬉しい。予習でわからなくてもいい、ただ、チャレンジして欲しいと思っている。でないとアタマは良くならない。


 このように、改めて振り返ると、反省すべきことが客観視できて良いと思いました。
 「授業診断」というと、最近の傾向では、生徒のご機嫌取りのような内容が含まれることが多いように感じますが、madographosさんのこのテストはそうでもないので良かったです。

「男女の怪」

2006年06月22日 | 教育
 養老先生と阿川さん対談。
 最後のトピックは、日本人の無思想についてだが、かなりわかりやすいのでお薦めです。
 養老先生はアタマが良いです。ここまで抽象思考のできる人は珍しいだろう。(それに比べて、ウチのがっこの主任どもは。。。だから、がっこが嫌になるんだよね。もう、ホント、嫌。じんせいろうひしてるきぶん。うちでほんをよんでいたい。いまのひとよりむかしのひととともだちになりたい。わたしはせっかくにんげんにうまれてきたのだから、きょういくをうけ、もじもよめるようになったのだから、いまじねーしょんもあるのだから、それができるだろう、に。)