考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

ちょっと良いことがあった

2017年01月31日 | 教育
 ちょっと嬉しいことがあった。やっぱり自分は間違ってなかったんだなと思われることだ。
 せっかくだから生徒にも具体的事項は異なっても、似たような体験をしてもらいたいと思う。もちろん、彼らの遠い将来においてである。私の手を遠く離れてしまってからだ。しかし、そのために今私は何を教えたらよいのか、何を鍛えたらよいのかを自分に問い続け周りに振り回されずやっていきたい。
 感性のよい生徒たちである。活かしてやりたい。


再度、お久しぶりです。

2017年01月07日 | 教育
 お久しぶりです。
 全くアクセスしてなかったので、コメントが放置されていた。お詫びします。
 8ヶ月も放置したのは、ツイッターのせいです。
 ただ、ツイッターは、前にも書いたとおり、タイムラインに乗らないと読んでもらえず、埋もれてしまう。その点、ブログは、なんだかんだ検索で引っかかって読んでもらえる記事がある。有り難いことだ。

 
 この頃、生徒たちをもっと励ましてやりたいと思う。
 彼らは一つの尺度に載せられ慣れているのですぐに他人の評価に依存する。先生の評価だったり、模試の偏差値やコメントだったりに依存するのは自分自身が内的に持つ感覚を忘れようとしているからだ。

 しかし、何かを判断するときに他人の評価を当てにして右往左往するのは、少なくとも教育を受けた人間にふさわしい行動であると私には思えない。幼い子供だったら親を当てにして当然だが、何年かの教育を受けてそれなりに知識を身につけて考える力を得たはずの人間がうろうろするのは「先進国」と呼ぶにふさわしい環境においてみっともない光景であると思う。

 最も問題なのは「どうして良いかわからないときに考える」ことである。私はその際に「わからないときに戻るべき場所」を持つことが大事だと考える。場所といっても「〇〇先生のところ」という依存的なものではない。自分自身の中の「場所」である。それは結局のところそれまで身につけてきた自分の感性や感覚ではないかと思う。肥えて耕された直観のようなものか。生徒にとって身近な試験問題でも同じだ。覚えてきたとおりの解法に頼るのではない思考。これは常日頃から培わなければならない思考である。学校の勉強なんてたかだかしれているが、それでもこの場所を持つか持たないかで実力が問われる。

 日常においても、こうした「場所」、あるいは思考法は重要だろうと思う。特に今現在の日本、あるいは世界の情勢においてこそ大事になるのではあるまいか。予想外の出来事が次々と起こっている状況である。「マニュアル」に従っているのは時代遅れであろうし、マニュアル人間は新しいマニュアルを作ることなど思いもよらないだろうし、現実に作成などできるわけがない。それでは相対的にも、人間として物理科学的、肉体的にも生き残ることが困難になろう。それは忍びない。

 具体的には書かないし書けもしないが、生徒たちにはそのヒントになるものを授業を通して学校生活を通して身につけてもらいたいと願っているが、そのために必要なのは自分の能力を信頼することだと思う。「どうせダメだ」「やってもムダ」など思っていたら、つまり、自分にあるはずの能力の存在を否定したり過小に評価していたりしたら、能力の伸長など望むべくない。
 
 だから、私は彼らの内に潜むものを見いださせ、活用させ、伸長させたいと願う。それこそ一朝一夕になし得ることではないが、時間をかけ、ゆっくりと見いだしてやりたいと思う。それが私の「励まし」である。