考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

勉強の魅力を語る学校の先生って、少ないと思う。

2012年06月26日 | 教育
 ↑まるで、賢い生徒の言のようなタイトル。

 イマドキの生徒が勉強しない理由は、内田先生に詳しい。私は現場の一人として、実感として感じる。でも、同業者から同じ感想を聞くことはない。
 学校の先生は、「自分の生徒が同年齢集団においてどのレベルにいるのか」という、ま、ぶっちゃけて「偏差値」には興味を持つが、また、生徒の出来の悪さは語るが、他の生徒のことは知ったこと、ないのである。自分が教えている生徒だけが他の生徒の優位に立てば良いだけだから、内田先生がどんなに声を張り上げようと、関心を持たないのである。(これ、ホント。)
 これって、なんだかね、(同業者の皆さん、気を悪くしないでね。)出来の悪い生徒の反応そのものである。(あ、言っちゃった。)

 思うに、みんな、語れないのだなと言うことだ。それだけ実体験として、「面白さ」を味わってないのだろう。と言う自分だって、「面白さ」を「面白い!」と感動して思っているわけではないけれど、生徒から、「先生、英語好きなんだね」と言われる程度には勉強が好きだと思われているのだろう。自分自身が本気で面白いと思っていなくても、面白さは語れると良い、というか、語るのが仕事なのではないかとも思う。

 よく誤解されている事項ではないかと私が思うのは、勉強の「面白さ」はマニアックな知識の集積だとか、そんなのだということだ。でも、私はそうではないと思う。高校生の勉強なんて、たかがしれているから、あまりに専門的なものやマニアックなだけではなかなか生徒の共感を得にくいだろう。しかし、同じ「マニアック」であったとしても、どこかしら「感性」に関わるような、ちょうど、生徒でも理解し、想像できるような感覚のところがあれば、生徒も親しめるだろうと思うのだが、どうだろう??

 生徒の学習の際、子供たちに消費者的な行動を取らせてしまう(@内田先生)のは、上記のことが出来ないからだろうと思う。
 まあ、基本的に、「先生」はゲーマーなのである。「生徒に点を取らせるゲーマー」だから、「ゲーム」以外の「勉強の面白さ」は、なかなか語りにくいのだろうな、と思ったりする。「ゲーム」と「真実の面白さ」がまたビミョウに感覚が異なるから。

 ちなみに、私は自分自身がけっこう「点を取るゲーマー」だったから、「ゲーム」の面白さはわかっているつもり。それとも、逆に、自分が「ゲーマー」だったから、他人にまでゲームさせる気がなくなったのかな、とも思ったり。

板書で自由英作文

2012年06月22日 | 教育
 授業の課題で、自由英作文があった。どう扱おうかちょっとだけ迷った。飛ばすのは何だし、かといって、全員のを個別に添削してやるのは手間暇掛かって大変、というか、あまりの大人数なので無理である。でも、何らかの形で扱いたい。
 板書で書かせることにした。
 2人を指名して、黒板の半分にそれぞれ書かせた。(そんなに長いものでなかったし。)それを生徒の前で添削することにした。和文英訳の添削は、「模範解答」というものを手にしているので、困ることがないわけではないが、まあ、年の功もあって(そもそも、とびっきり出来る子もいないし)何とかなる。しかし、自由英作文の板書での添削は初めてだと思う。(たぶん。)
 自分自身への挑戦でもあったが、こうしたものの添削そのものは毎年やっているし、生徒の間違い方、落とし穴の落ち方もたいていわかっているから、辞書を引きながらではあっても、100語までなら1時間に5.6枚はけっこうさらさらできる確信がある。もちろん「直しようのない作文」もあるので、そうしたときは、文意はそのままに文章を流れからすべて書き換えてしまって提示する。(これは心に余裕がないとできなかったり、けっこう時間が掛かったりいするが。)とまあ、何だか出来そうな気分になったので、やってみた。

 添削をして直すのは、板書の2名だけである。ほかの生徒の作文を個別に添削するつもりはない。「模範的な作文例」を提示するつもりもない。生徒は、「模範解答」を写して覚えるだけである。それでまとまった内容の作文が書けるようになるわけではない。
 生徒に言ったのは、「どこをどのように直すと良くなるか」という着眼点を見て取れ、ということだ。
 大事なのは、着眼点である。出来ない生徒は、これを間違えるから、あるいは、わかってないから出来ない。だったら、「何が試験に出るかという具体的な対策」ではなく、「どうしたらより良い英文、文章が書けるか」に絞る方が応用力育成になるだろうというものだ。どうしたらより良く書けるか、については、何せ、これだけブログ記事を書いているし(笑)、使う英語は和文英訳と違って、「自分が使える英語」でよいわけだから、まあ、何とかなるだろうということになる。でまた、こうした「着眼点」は一斉指導で私は十分に教えることが出来ると体験的に確信している。

 生徒がどう思ったかはわからないが、私自身はけっこう楽しかった気がする。(って、先生が楽しんでもしようがないけどね。)ほとんど自己満足かもしれないが、長年何枚もの自由英作文の添削をこまめにやってきたからこそできた挑戦だという確信はある。
 また次も、「板書で自由英作文の添削」という、「出たとこ勝負」の、おそらく先生たちがめったにしないであろう授業方法を試みていこうかと思う。

政治の話題って

2012年06月21日 | 教育
 世の中の人はどうやら「政治」にけっこう関心があり、政治を好むようだ。だったら、世の中がもっと良くなって良さそうなのに決してそうならない。
 で、あることに気がついた。

 彼らが好んで話題にしたり関心を持ったりするのは、だれそれの政策やビジョンがどうのこうのという話題ではなく、人間関係、もっと言うと、勢力争いのあれこれなどの権力闘争であって、「今の世の中をどうしたら良くなるか」に関心があるのではないということである。つまり、「人気投票結果予想」の一種に過ぎない。
 その政策が国民や政党、党派でどのように受け取られ、どのように実践されるかには関心があるが、その政策などがもたらす効用その他に引きつけられるのではない。だから、、内田先生や他の真っ当な人たちが論じていることなど、てんで関心がないのである。その策が実質的に持つ意味とか役割などは関心を持てないのである。それより面白いのが、なんと言っても、「今度は誰が誰に勝つか」などである。(競馬の予想とかわりないのではないか。)
 
 なるほど、世の中が良くなるはずがない。
 
 この頃、「医者・病院もの」のテレビドラマも多い。その内容の実質は、これもまた権力闘争にかかわるものである。(白い巨塔なんて典型だったし。)だからこそ、誰にでも人気が出る。
 
 ある先生が生徒を指導する際に、「何よりも大事なのは人間関係だろ。」と諭していたが、危ないな、と思った。先生と生徒の関係を保つことは大事だが、人間関係そのものを第一に置く指導は危険であろう。変な意味での「和」を尊ぶことになりかねないからだ。目の前の人物の機嫌を取ることが、遠くにいる人たちーー未来の人も含めーーの幸せを損なうことだって大いにある。まあ、結局は、「とんでもない事故」を起こす引き金になりかねないからだ。おそらく、とんでもない事故の根源的な原因は、目の前にいる人たちとの人間関係を重視したことではないのかな、と思ったりする。

 なぜ人はこのように人間関係を尊ぶのか。(当たり前のことだけど。)
 古来人間は、か弱い存在として、多くの人が集まらないと生き残れず、人は力を合わせた。その成果が60億以上を計る人口である。しかし、「アリーナ」内の人間関係だけではゴジラの襲撃(@内田先生)を防げないのである。
 日本人は、人が増えすぎたせいで、ゴジラの存在をすっかり忘れてしまったのだろうと思った。

出来る子と出来ない子の違い

2012年06月21日 | 教育
と、以前も書いたようなタイトル。

出来ない子の特徴
1 ひらがな・カタカナ・アルファベット通して、文字の長さの割合、方向など、区別がうまくできていない。
2 上記、直せと言っても、直さない。直しても、その場その時だけ。
3 まっすぐにじっと立つことが出来ない。すぐにふらふらする。
4 人が何をやっているかが気になってしようがない。
5 答えややり方や覚える内容を一つに絞りたがる。
6 目先の効率を求める。
7 イヤなことや悪かったことの原因を人のせいにする。
8 それが必要か必要でないかをものすごく気にする。
9 「まあまあまあまあ」「いえいえ、僕は違います」と言う。
10 かける労力はなるべく最小限で済まそうとする。
11 結果を気にするが、自分の能力の伸長は気にしない。

ほら、出来るようになったでしょ。

2012年06月19日 | 教育
ある生徒。
 「1年生の時は勉強をしなかったから先生の言うことがわからなかったけれど、勉強するようになったら、本当に、先生言うとおりだとわかった。先生、ありがと。」
 「そう。私は、誰でも出来るようになる方法しか言わないからね。」

別の生徒。
 「先生の言うとおりに勉強をしたら、時間は掛かるけれど、模試の作文とかも書けるようになってきたし、英語が面白くなってきた。前は嫌いだったけど。何だかやれそうな気がする。先生、ありがと。」
 「大事なのは、基本の考え方なんだよ。他の教科にも応用しなさいね。必ずできるようになるから。」

 ちなみに、個別指導は一切していない。
 学校の勉強は、授業とそれなりの(進学校なら、その辺に転がっている)教材で十分なのである。

 勉強というのはね、正しい方法でやれば、誰だって、必ず出来るようになるものなのです。ただし、人間にはもともとの親からもらった能力というものがあるから、「限界」はある。ただ、その限界がどこにあるのかは、実際にやってみなければわからない。だから、やってご覧なさい。自分の限界に挑戦し続けなさい。自分の知らない自分に出会えるよ。

 ちゃんちゃん。

国語と数学は似ていませんか

2012年06月17日 | 教育
 中学生のとき、高校生の時もそうだったかもしれないが、1日中勉強をしなければならないとき、国語の後は理科、その後は英語、それから数学、社会などといった順序で勉強をした。
 絶対に、国語の後に数学はしなかったし、数学の後に国語の勉強はしなかった。脳みそが疲れて効率が悪いように感じたのである。理科の後に社会の勉強もしなかった。覚えることや記憶の確認が多く、何だか似ている気がしたからだ。私は「超効率主義者」だったのだ。
 困ったのが英語である。英語は、考える要素と覚えるべき要素が混在しているから、正直、どこにも入りようがない気がした。
 いずれにせよ、何時間もやっていると、脳みそはやはり疲れてきたが。


 というわけで、国語と数学は全然違う、と言われると、困ってしまうのである。

 それに、センター試験で、文系教科、理系教科がそれぞれ日にちで決まっているのが受験生には気の毒だと思ってしまう。(これは、私大受験者対応の時間割である。)

赤いシート付きの参考書

2012年06月11日 | 教育
 どうしたら生徒がきちんとした勉強をするか、と言う話が出た。「きちんと」というのは、歴史なら流れをつかむ、英語なら文を覚える、論旨をつかむ、数学などなら、公式の意味などを理解して問題を解く、と言ったところか。
 答えは簡単。「重要事項」を赤で記し、赤いシートを付けて売っている問題集や参考書を一切使わないことである。
 しかし、実行は難しい。イマドキ、そんなのは売ってない。教える方も、「みんなと同じ」の方が安心だから。目先の「結果」が欲しいから。あるいは、「目先の結果」が結果のすべてだと思い込んでいるから。

大発見発表の場の授業

2012年06月09日 | 教育
 時々、私は「大発見」をする。内容は書かない。
 朝の通勤途中で大発見をするときもあるし、授業中の時もある。そんなときは、なるべく「新鮮」なうちに生徒に伝えることにしている。
 生徒のノリが良いと、まあ、たいていはけっこう成績の良い子たちだったりするのだがとても喜んでくれて、なるほど~、と感心してくれる。鈍いとぜんぜーん乗ってこないからつまらない。テンションが下がる。
 こうした内容は、たいてい、参考書に載ってないが、真理を突いていることだったりする。(だって、まさにそのとおりなんだもの。例外はまず、ない。ほんの特定できる場合だけ。) 
 で、教室で、のりの良い生徒相手にわおわお騒いで職員室に戻ってきて内容を話すと、「それを知って何の意味あるの?」と言う顔をされることもあって、がっかりする。
 
 私はそうとうな効率主義者だから、真の実力につながらない「無駄」は決してしないのである。よって、エセ効率主義者からは、非効率だと思われ時に蔑まれる。この事実に大人も子供もない。

アタマの良さと知的好奇心と教員志望

2012年06月06日 | 教育
 「アタマが良い人は知的好奇心が旺盛である。」
 何となく、そんな気がしている人は多いのではないかと思うが、生徒を見ていると、なかなかそうでもない場合に出くわす。もちろん、よく出来る生徒の大部分はより詳しい学習内容を知りたがり、また、実験などの体験をやりたがるのはお察しの通りであるが、中には希に(かどうか知らないが)そうではない子もいるのである。
 試験をすれば点を取り、大学受験もすんな超が付くような難関大学に合格して入学してしまう生徒がいる。しかし、勉強の本質を理解しているわけでなく、自分の世界を広げるものとしての勉強を楽しむわけでなく、「必要悪」だったり、あるいはただの点取りゲームだけだったりする。ハタから見ると、知的好奇心に乏しく見える。興味関心の的は、それこそ偏差値55以下の生徒とほとんど同様である。それでも元々のアタマは良いから、吸収力が高く勉強は出来る。
 で、不思議なことに、どうしてだか知らないが、そういう生徒の将来の希望は「教員」だったりする。

偏差値50か55の壁

2012年06月02日 | 教育
 伸びる生徒と伸びない生徒の違いと言った方が良いと思うが、決定的に違うのが、自分変えていくことに貪欲か否か、また、知性に結びつく事項に好奇心を持って臨めるかどうかだ。
 近頃の学習方法は、参考書類を見ると明らかであるように、「これをやっておけば試験は何とかなる、高得点が狙える」という類いの「必ず出る事項」のまとめである。試験に出ないが参考になるより深い説明は少ない。よって、生徒の学習は、ただひたすら、参考書の理解と暗記になる。
 しかし、同じ「理解」「暗記」であっても、何らかの好奇心のようなものや獲得した知識を内面化する力があるかどうかで、習得のレベルが大いに変わる。この点、伸びる生徒は、単語一つであったとしても心の琴線に触れるような覚え方をして、確実に自分のものにする。応用できるほどに理解をして覚える、ということだ。ところが、伸びない生徒は「試験だから覚える」などの機械的な覚え方しかしない。あるいは、「追試や教師の叱責を免れるための必要悪」としての「その場限り」の勉強である。
 数値を出すのはイヤらしいが、このあたりが偏差値60に至るか否かの分かれ目になる。

 勉強の目的が自分の将来であっても大学入試であっても、「必要だからやる」という、一見合目的的な考え方を私が好まないのは同根である。この意味の「必要」とは、学習することによって得られる「社会的承認」、たとえば「試験の合格」などの必要であって、学習内容や学習内容を自分自身が習得する重要性ではないのだ。この意味の「必要だからやる」は、学習事項の習得そのものが「必要」の目的ではないから、他の目的(「合格」など)が果たされれば、覚えたことは霧散霧消する。伸びない生徒の学習がこれなのだ。
 人間は、こうした意味での「必要」では何も学べないものである。
 だから、「合格のため」「試験だから」だけで「これさえやれば叶う」のばかりの勉強で壁にぶち当たるのは当然である。日本が今の学習方法を続けていくと、集団としての平均的な学力、思考力や記憶力、注意力は、どんどん低下していくだろう。

 人年の能力は、何であっても限界がある。親からもらった脳みそにはけっこう上等なものもあればたいしたことがないものもある。それでも、伸ばせる限り伸ばすには、どうしても、学習することそのものを目的化しなければならないのである。それで、おそらく人間である限り、私は「脳みその刺激」そのものを快く思わない人は、知的レベルに関係がなく誰もいないと思う。(学生時代に、授業で、知的能力が低い人であっても知的好奇心を持つ、という内容の英語の論文を読んだことがあるなぁ。)「ゲーム」が好きな人は多い。みんな誰でも脳みそを使うのが好きだということだ。「方向性」がちょっと違うという事実はあろうが、今の学校の勉強では、本当の意味での「脳みそを使う快感」を味わわせていないから、学校の勉強もゲームに代わると言うことを知らない人が多いのではないか。
 もともと知的能力がある程度高ければ、自分だけの力でその面白さがわかる。しかし、そうでなければ、周りにいる人が知性を活性化させる方法を教えてやらなければならない。ところがこれができていない。伸びない生徒や伸びようとしない生徒の陰にある最大の要因はこうしたものではないかと思う。