考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

私の方が過激な気がする、抽象化について

2005年10月30日 | 物の見方
人さまのブログついて、こんなコトをこんな風に書くと、嫌われるかな。。。

 fer-matさんのブログ、「ときどき過激なことを書きます。」で始まっている記事『大体さ、人間との付き合いが一番つまらなくて夢がない』の内容とそれに対するコメントを対比的に読むと、うん、わかるんだ、論点のズレが。私もしばしば体験するズレだから。

 ちょっと喩えは違うかもしれないけれど、養老先生の受け売りをする。コトバは良く覚えてないが、以下のようなことを養老先生はどこかに書いておられる。

 女性の平均寿命が延びたのは、東京の某さんが水道の塩素消毒をしてからだと言う。しかし、自分の病気を治してくれた医者に感謝する人はいても、予防してくれた人に感謝する人はいないように、長生きを水道の塩素消毒のお陰だ、その考案者のお陰だと感謝する人はいない。
 
 書いてて、ちょっと違うかなと言う気もしてきたが。なにか違う喩えはないかな?
 
 何の勉強もせずにケータイを使っている高校生は、ケータイが、高度な数学や物理のお陰で作り上げられたものであることを知らずに楽しく使っている、とでも言うか。ケータイの中をのぞき込むことをしないで使える人は、仕組みの不思議さに全く興味関心を持たない人は、ある意味、幸せだ。(環境問題が起こるのも無理はない。)
 でも、こんな喩えを使うと、バカな高校生と一緒にしやがって、と文句を言われそうだ。

 人間は具体的事物を抽象化して言語を操るようになったが、もう少し上の段階の抽象化もあって、その能力は、まだ、十分に等しく与えられてないように思う。この能力を私はまだ定義できないが、形而上的と言い切って良いのかわからないが、たぶん、生物的に生きていく上では必ずしも必要ない能力で、だから誰でも持っているわけではないのだと思う。
 あー、排他的発言。

ブログ開設やがて1年

2005年10月30日 | 生活
 ブログのカレンダーを見たら、12ヶ月が並んでいる。ブログを開設して1年がたとうとしているのだ。早いものだ。

 開設当初のgooブログ数は7000ほどで、毎日1000ずつ増えていた。今では36万8000ほどである。もの凄い増え方である。これが社会的に見て良いことなのか、悪いことなのか。
 特にTBを通してブログ巡り?をすると、いろいろな考えの方が見えるのだなと思う。同時に、似たようなことを考えているとも思う。だからどうだと言うのは困難だが。(基本的に私は、烏合の衆の集まりで、多数決で、ロケットは飛ばない、という考え方をするが。←変な喩え、しかもイヤな奴かな。)

 私はと言えば、一昔前のパソコン通信というので、実は、自分の書いた物を人に読んでもらえる喜びを知ってしまった。だから、いまさら、自分のノートに思いを書きつづるなんてことが出来なくなってしまった。だから、ブログを開設した。

 下手の考え休むに似たり、と言うが、自分ではやむを得まいと思っている。おまけに私はぐずぐず同じことを考え続ける。いったんUPした記事も、それからしょっちゅう添削する。UPしてから思いつくことも多い。思考が数珠繋ぎになる。人さまのブログを読んで、読書で思考が紆余曲折する。
 書いた記事は220ほどある。「草稿中」で保存してある、書きかけも多い。結構書いたものだなと思う。

 多くの非論理的なこと、奇妙な考え書いていると思う。独善的でもあろう。また、文章の素人で、自分の言いたいことを的確な日本語で表現出来ているとは思えない。
 多くの人もそうではないかと推測するが、私のブログに関しては、お読みいただいた方々のご寛容を請いたいと平にお願いする次第です。

 コメントをくださる方も見えて、正直、とても嬉しく有り難いと思う。同時に恐縮に感じる。
 しかも、私は、コメントのレスの付け方が非常に下手くそで、これも、UPしてから、しまったと思うことがたびたびである。気を悪くされた方も見えると思うのだ。本当に申し訳ありません。不徳の致すところです。ごめんなさい。でも、また読みに来てください。よろしくお願いします。

 よく訪れるブログが、突然閉鎖される時がある。ショックである。自分がコメントを付けたことのあるブログだったりすると、余計ショックである。1,2度であってもコメントによって、一種の「人間関係」が出来た気になるから、それで、感覚的に自分に似た人だと思うときなどは、ある種の喪失感を抱く。生身の人間で転居した人なら、再会しようと思えば何らかの手段があるだろう。しかし、ブログは画面だけだから、再会はない。しかも、体調が悪そうな人だったりすると、心配になったりする。が、ブログを続けることがその人の幸福とは限らないから、私が気がかりに思う必要はない、と思うことにしなければならない。

 なんにしろ、私は、まだ書ける範囲で続けるつもりでいます。今後とも気が向いたら読みに来てください。よろしくお願いいたします。

立ち位置の問題

2005年10月26日 | 教育
 地面は常にでこぼこである。前進する。と、わずかでも高低がある。1センチ上がって、2センチ下がって、3センチ上がって平坦で、また2センチ上がって、それで、2センチ下がって1センチ上がって、5センチ下がる。ってなもので、じゃあ、今、元の位置から何センチの高さのところにいるのかと言われても計算しないとわからないだろう。
 1メーター上がって、2メーター下がって、5メーター上がって、2メーター上がって、3メーター下がって、2メーター下がって、3メーター上がって、2メーター下がると?

 なーーんか、目の前のわずかな起伏の増減のせいで、長いスパンで見ても上がっているのか下がっているのか、わからない。学校にいると、いや、今の世の中、変化が激しくて、眼前の起伏にとらわれて、本当は自分がどこにいるのか、それこそ立ち位置が、何をしているのかわからないことが多いんじゃないかと思えてしまう。

 ところで、身だしなみが悪い生徒は多数いるが、暑い夏の盛りの試験中、リゾート気分の格好で受査している生徒が何人かいた。で、なぜ?と思われるかもしれないが、身だしなみがひどかったりすると、実はそれだけでも不正行為をしやすい雰囲気を作りうる。
 この「雰囲気」というのが実にくせ者なのだ。生徒集団によっては、それで、実行する馬鹿者が出てくる。最初はその気がなくても、「雰囲気」で、だんだんと「これくらい構わないんじゃないか」という気分になってきてしまうのだ。で、場合によっては、不正行為が遠因で退学、なんてことだってある。(これ、マジ。表に出ないだけ。本人すら気が付かない。)「雰囲気」さえよければ何もなかったであろう生徒も、「雰囲気」で、変な方向を向いてしまってもう戻れなくなることがある。それが「誰」になるかはわからないだけの話である。本当に、「誰」がそうなるかわからないだけの話で、そういう子が確実に出てきてしまうのである。集団の怖さだと思う。

 「学校で最もうるさい」私は、当然、身だしなみを正させる。(なぜ、そういうことになるのでしょう。)でも、暑いからと言って、なかなか直さない。もちろん、試験監督中である。まあ、5分に1回くらい「直せ」と注意に行く。ほとんどの生徒は2,3度で直す。「試験受けてるんだ、うっせー。あっち行け。なんでオレばっかり。」等々、ここには書かない方が良いと思われる暴言を吐く生徒もいるが、「君だけだ。直せば済むだけの話だ」と言って、こっちも負けない。まあ、根比べで、直させる。私の性格?を知っているから、たいていは聞く。もちろん、聞かない生徒もいるから、そこのところは、多少考える。刺されたくはない。(私、危ないかもしれんけど、今のところは大丈夫だと思う。)

 でも、生徒って、叱られたい、構って貰いたいと思っている者も多い。で、最後まで頑張ってた奴が、数ヶ月でコロリと変貌することがあって、身だしなみの悪い友人に「おまえ、ちゃんと直せ。」と言ったりするのを聞くと、笑える。ウチは基本的に中学時代は真面目だった良い子たちの集まりなのだ。(もちろん、皆が皆というわけじゃない。)

 でも、と、考えてしまう。「そんなにコロリとかわるなよ~」とも言いたくなる。(ま、実際にはそう心配するほどのことはないと思うけど。)理由はほかにもあるが、それでまた、不謹慎かも知れないが、自分のやっていることが怖くなるから。

 元来教員の仕事がそういうところにあるのはわかる。でも、そもそもは教員の仕事とは受け売りで、それまで教えていたことでも、いったんお上から「墨を塗れ」と言われたらほいほい墨を塗れる性格じゃないと、まあ、勤まらないわけでもある。ゆとり教育からの変容もそうである。つまり、「自分で考えてはいけない」仕事だったのである。

 あー、性格、合わない。

 しかし、えらそーに「自分で考えてはいけない」なんて書いてしまったが、私の考えることなんて、「伝統の継承」、ただ、これだけである。なのに、合わないのはどうしてなのか。
 なぜなら、今の教育が「伝統の継承」にないからである。原理原則に則ってないからである。立ち位置が定まってないからである。

 (あら、脈絡が付いた。)

院生の感覚

2005年10月25日 | 生活
 元教え子二人と飲みに行った。と言って、私は下戸だから、舐めるだけである。彼女たちは少々飲む。

 二十代半ばの良い娘さん方である。前勤務校の生徒だった。1年生の時に一人は授業に行って、勉強の仕方の相談に乗った覚えがあるが、もう一人の方はあまり教えていないと思う。学校での彼女たちとの付き合いはその1年だけで私は転勤した。
 何となく不思議な関係である。私の話、学校でなぜお菓子を食べてはいけないか、なぜ人をいじめてはいけないかなどが印象に残ったようだ。(ちなみに、人をいじめてはいけない理由は「楽しいから」である。)あれからやせ十年、年賀状が途絶えたり来たりして、まれに「会いましょう」と連絡が来る。

 前に飲んだときは3年前だった。一人は大学院生、もう一人は学部生。今も、一人は院生、もう一人は学部生である。(私も全て知っているわけではないがいろいろ事情があったのである。)しばらく連絡がなかったからどうしているか心配だったが、元気そうで安心した。
 
 肴は、このブログに書くようなことが多い。それで、ゲラゲラ盛り上がる。院生の方が私に「先生の感覚は院生ですよ~。院生って、何でも分類したがるから~。」と言った。
 うん、まさしく私は分類が好きである。言語には切る作用があるからだ、それこそ人間の証拠だ~と、一部養老先生の受け売りをする。それで3人笑う。こんなことで笑ってくれるのは、この子たちだけだよお~。
 
 ちなみに一人は謡や仕舞を習っている。私の影響である。(私は伝統芸能に間接的にも貢献したわけだ。)たぶん、私よりうまいだろう。

 しかし、彼女たちのこの先はどうなのかなとちょっと気になる。一人は需要の少ない分野で、ドクターまで行きたいようだし、だからといって就職はどうなのだろう? もう一人も学部の後は院まで行きたいそうだ。
 オーバードクターは私の時代でもあふれていた。大学には「研究生」もたくさんいた気がする。

 私は早く自分で稼げないと不安だった。アタマもさして良いと思えなかったし、自分のテーマがもてるほど勉強が好きだとは思えなかったから、当時は大学院なんて全く考えられなかった。大学院は、大学の先生になりたい人だけが行くところだった。ただ、今の時代だったら、私も大学院を目指したかも知れない。で、それで、どうなっただろう?
 
 楽しい一時だったが、どうか、彼女たちがうまくいきますようにと思う。
  

「かわいい」と言わなければ、なぜ、いけない

2005年10月21日 | 教育
(追記あり)

 ある人気モデルさんがいる。雑誌モデルで今のOLの憧れらしい。テレビ番組で取り上げられていた。テレビが好評だったようで、それまでテレビに出てなかったのが、何かの番組にでるようになったようだ。20代半ばだが、彼女はモデルとして努力家で、見事に成功した。

 高校生の時に渋谷に通っていて、スカウトされたらしい。番組の中で今の渋谷が映り、「この中に第2の彼女がいる」みたいなことをナレーターが言っていたが、「まだ見ぬ第2の彼女」は渋谷にたむろしている大勢の少女のうちの一人でしかない。それ以外の少女たちの人生はどうなのだろう。

 1ヶ月のうち、25日が撮影らしい。朝早くから遅くまで150着以上着るらしい。実に大変な労働である。写真は、どれも同じ顔にならないように気にかけている。それがまたプロたる所以なのだろう。それはいい、というか、素晴らしいことだ。

 しかし、気になったことがある。
 撮影の時、モデルたちは互いに、カメラマンもしきりに「カワイイ、カワイイ」を連発していた。彼女自身も、「カワイイと言われたい」と言っている。他のどのほめ言葉より「カワイイ」が良いらしい。それで、彼女は「カワイイ」と言われて、言われ続けてどんどん輝きを増し、素晴らしい表情でトップモデルになっている。
 彼女がモデルとしてぐんぐん成長するのは良いことだろう。「カワイイ」という言葉も、イマドキの安易な言葉遣いだけの話なら、まだいい。私が気になったのは次である。

 インタビュー途中にカットが入って、その直後、彼女は続けてこういうことを言っていた。編集者はこの言葉を放送したかったに違いない。
 「カワイイって言われなかった日は落ちる。(←がっかりするという意味だろう。)あ、今日、言われなかったなぁって。」
 ちょっと寂しそうな顔だった。
 この場面のインタビューはここで終わり、次の場面に移っていった。

 さて、私が最も腑に落ちなかったのは、ある教育関係者、しかも教育委員会関係の方のブログで読んだ彼女の関連記事である。非常に好意的な内容である。
 その先生は、このモデルが「カワイイ」で輝きを増す様子を「声かけ」の重要性に結びつけていた。彼女は、「カワイイ」と言われて輝く、だから、声かけは大切だ、生徒にも声かけを心がけよう、と。

 「声かけ」は、おそらく小学生を対象にした授業方法なのだろうが、常に教員は声かけをして子供を励まして努力させる。
 趣旨がわからないわけではない。しかし、疑問も大きい。

 彼女も、やがては30になるだろう、40になるだろう、50になるだろう。そのときも彼女は輝き続けるために「カワイイ」と言われ続けているのだろうか。彼女ががっかりしない日はないのだろうか。
 カメラマンの仕事は、今の彼女の良い表情を撮ることである。30歳、40歳の彼女が今の彼らの頭にあるのだろうか。

 たとえ小学生であっても、ある意味で当たり前のことが出来る状態で、毎日毎時間の授業でも頻繁な声かけがないと学習出来ないものなのか。
 それで、いつまで彼らは先生からの頻繁な声かけの励ましを必要とするのだろうか。

 私が目にするのは高校生だが、近頃、ほめられて当たり前、ほめられないと出来ない、やる気にならない生徒が目に付く。「先生、僕がやる気になるように、言葉をかけてちょうだい、励ましてちょうだい」と言っている生徒が増えている気がしてならない。
 親からも、先生からも、大事に大事にされた育った子供たちである。しかし、大事にされて当たり前という様子がありありと見える。彼らにとって、先生と親の区別はない。親がしてくれることだから、先生もしてくれて当たり前だという感覚でいる。

 彼らはいつ自立するのだろうか。誰からの励ましもないときに、どうやって自分を励まし、自らを奮い立たせていくのだろうか。

 その偉い先生は、声かけで輝く彼女の「カワイイって言われなかった日は落ちる。あ、今日、言われなかったなぁって。」という言葉をどう聞いたのだろうか。


(以下、25日追記)
 気をつけたいのは、カメラマンの仕事の目的と学校教育の目的が異なることだろう。

 カメラマンの目的は、モデルの「今」を捉えて良い写真を撮ることである。モデル自身も、今の自分を撮って貰いたいと思っているだろう。方法は問われない。仕事中の彼らの頭にあるのは「今そのとき」が全てで、10年後20年後の自分たちはないだろう。(そんなことを考えていたら良い仕事なんて出来ないだろう。)

 しかし、学校教育の目的は「今日」限定ではない。小学生はやがて中学生になり、高校生になり、いずれは必ず社会に出る。学校は、子供を相手にしながらも、その先には、何らかの形で、遠い将来彼らがなるであろう大人の姿を思い描いているはずで、また、思い描かなければならないものである。「輝かしい今日」が積み重なって遠い将来に至るのはわかる。しかし、「最高の今日」が毎日続いて「最高の将来」に繋がるわけでは決してないだろうと想像する。

 高校の授業でも、「この1時間」を最も能率的に学習させることが、良い授業になるわけではない。たとえその1時間が無駄になることがあったとしても、一連の授業を継続的に受けることによって、1年後には、2年後には力が付く授業がよい授業である。それで、10年後に、20年後にその授業が何らかの形で意味を持つ、それが最も良い授業のはずだ。
  
 義務教育において、効率の良い能率的な授業で生活に必要な知識と技術を確実に我が物に出来るのは素晴らしいことである。しかし、同時に、それで、最も大事なのは、一人の人間として自律と自立ができる強さも学習できることである。

 だから、私は、「カワイイって言われなかった日は落ちる。あ、今日、言われなかったなぁって。」という彼女の言葉が気にかかってならない。事あるたびに励まされて大きくなったイマドキの高校生、他人に励まされないと頑張れない不安定な高校生に重なるような気がしてならないのだ。

ときどき勉強したいと思う

2005年10月19日 | 物の見方
 いつもより早く床に入ったら、変な時間に目が覚めてしまった。寝付けない。

 何だか猛烈に勉強したいと(ときどき)思う。自分の教科の勉強ではない。(苦笑)
 西洋語は性に合わない。高校生の時、英語が面白いと思ったのは、入れ子構造の文構造だった。日本語よりはっきりしているように感じられて、面白かった。パズル解きの感覚である。スラッシュを入れ、矢印を入れ、括弧でくくりながら読んでいた。今と違って、当時の英文解釈は、SVの入り組んだ複雑な構文が多かったから、私はばっちり得をして、自分は英語が好きだと思ってしまった。(笑)

 今、教科書をやっていて、生徒が可哀想だなと思う。ロクな文を読んでいないからだ。読ませていない、と言うべきかもしれないが、どの教科書も似たようなものだ。
 私は高三のとき、授業でラッセルの幸福論を読まされた。まあ、私は上記のごとく、構文大好き人間だったから内容は覚えていない。(苦笑)しかし、英文を読んでいる~という感覚はすごく、面白かった。SVOの文があると、次の文の主語は前の文のOで始まっていることが多かった。それでまたそのOに関係詞節が付いていて終了していても、その関係詞節の最後の単語が次の文のSに続いていた。日本語に訳そうとすると、語の順序が入れ替わってしまうから、文章の流れがスムーズにいかない。とても困った。でも、書いた人の思考の道筋がわかって非常に興味深かった。
 今の教科書の文章は、課によって日本人が書いているのがわかる。だって、文がぶつぶつ切れているんだもの。Oがあって、それがSになって繋がる、なんていう文章じゃないからすぐにわかる。それに、文章の流れ全体も発想が日本人。そういえば、あるスピーチコンテスト入賞作品を見たが、作文の書き方として、日本人の発想。帰国子女のようだったが、十分に日本人の文章構成。審査員の大部分は日本人だったに違いない。

 このブログに書いているような内容を英語で書けと言われても(恥ずかしながら)書けない。英語では思考できないし、しかも私は日本語を書きながらでないと考えられない。
 内田先生は、昨日のブログで、口がフライングをすると言うようなことを書いておられた。私が以前出会った生徒のように、しゃべっていると良い考えが次から次へと浮かんでくるタイプのようである。(私は、人には「聞き話す人間」と「読み書き人間」がいるのではないかと疑っている。以前、記事に書いた気もする。)内田先生は、かなりの部分、典型的な「聞き話す人間」であろう。
 私は「読み書き人間」で、書いた文字を目で確認しないと、考えが浮かばない。口に出して音声化すると、その段階で思考がストップする。口述筆記なんてあり得ない。

 話がヨコに逸れた。(と言って、もともとたいした内容でない。)勉強がしたいと思う。でも、これ、よくよく考えると、ただ単に、脳味噌が快感を覚えたいだけじゃないかと思う。(笑)
 だから、英語の勉強はしたいと思わないし、スピーチの練習もしたいと思わないのだろう。
 だから、文章を書くのは、考えることが出来るから好きなのだと思う。

 この頃、私が考えていることやそれに近いことって、昔の人が考え続けてきたことのどの当たりに位置するのかなぁ、知りたいなぁ、と思う。私独自の考えなんてあるわけがない。勉強するとしたら、そのあたりの位置づけかな? 
 生徒の発想を聞いていると、今の教育を受けてきた子たちだなぁと感じる。しかし、彼らは、自分の考え方が教育や環境の成果とは夢にも思っていないはずだ。そういう発想すらなく、「オレはオレの考えを持っている」としか思ってはずだ。どこかに立っていれば、足の下には必ず地面があって、どこでもない場所に人が立つことは出来ない。

 内田先生が「自分の専門家」になろとしていたとか書いていたことがあった。私もそうだろうと思うし、そう思う人は他にも多くいるんじゃないかと思う。
 今の私がやりたいことって、ホントはそういうことなんだよね、きっと。昔の人の思想の森を逍遙したい、って言うとかっこいいかもしれないけれど、世間一般の意味では全然生産的じゃない。(笑)

身だしなみはどうだっていい?

2005年10月17日 | 教育
その1

私「身だしなみは、きちんとしていた方が良いと思う? それともどうだって良いと思う?」

生徒「人それぞれで良いと思う。」

私「なるほど。じゃあ、みーーんながきちんとしているのと、好き勝手にしているのと、想像してごらん。想像した?」

生徒「うん。」

私「みんながきちんとしているのと、好き勝手にしているのとどっちが良いと思う?」

生徒「きちんとしている方が良い。」

私「あれぇ、さっきと答えが違うね? なんでだと思う?」

生徒「う~ん。。。(にたにた)」

私「想像力だよ。最初は、きちんとしている人といい加減にしている人、個人を思い浮かべたんだよね。でも、あとのは、全体を思い浮かべたんだよね。」

生徒「うん。」

私「全体を見るのと、部分だけ見るのとで、答えの深さが変わるんだよ。いろいろ想像力を働かせて考えると良いよ。」

生徒「(にたにた)」

会話終わり。

 同僚にこの話をしたら、「誘導尋問だね」と言われたけど、誘導尋問のつもりはないんだけどなぁ。

 ところで、違うクラスでだが「なぜきちんとしていた方が良い?」と聞いたら、ほとんど答えが返ってこない。

その2

私「みんなクラスで話をするときでも、自分がどう思うかより、周りを見回して人がどう言うかの方が先に気になるでしょ? みんながスカートを短くしているから、自分もそうしている人だっているでしょ? 周りに流されてるんだよ。どう思う?」

生徒「別に流されていたって良いじゃないの~。」

私「それは思考停止だよ。云々。(あー、この子たち、ヒットラーが現れたら、いちころだぁ。)」

生徒「先生、早くえいごやろうよ~。先生の話、難しい~。」

 上記と違う同僚にこの話をしたら、「そりゃ、共通一次から考えさせないようにしてるんだからねぇ。一部の権力者に都合の良い大衆を作ってるからねぇ。」

 ちなみに、ウチは、ほとんどみんなが大学に行く学校です。上の下から中の上程度の生徒の集まりです。

 日本はもう終わりです。

マジョリティ対象の仕事

2005年10月16日 | 教育
 養老先生は、高層建築がお嫌いである(はずだ)。電気が止まったり、不測の事態に対応しきれないからだ。
 養老先生は、今の?売れ筋、高層マンションのセールスが出来ないだろう。

 今の仕事の多くは「たくさん売る」工夫をどうするかを問題にしている。でなければ商売は、経済活動は成り立たない。
 ついこの前までは、「大衆」が一番の金持ちで、少しずつでも大勢からお金が取るのがうまい商売の仕方だった。今は、これからは、二層化が進めば、少数のかなりのお金持ちをターゲットに商売出来る人がお金儲け出来そうだ。レクサスや伊勢丹紳士売り場なんて、それだそうだ。

 金持ち相手であろうと、大衆相手であろうと、対象とする顧客のマジョリティの扱いに精通することが大事なのだろう。より多くの客が何を欲するか、顧客の心をつかむってわけだ。金にならないマイノリティより、金になる客の方を重視して離さないのがポイントに違いない。(顧客の何割かがそれぞれマイノリティであれば、それはそれで、マイノリティの集団というマジョリティが形成され、また別のマジョリティとして扱う対策が必要になるだろう。)

 それで、学校も全く同じ状況になっている。マジョリティと化したミニスカート好きの顧客、勉強をしたくない顧客、子供の教育に責任を取りたくない親という顧客の要望に悉く応えようとしている。それで、マジョリティ顧客の要望をきく接客が人気を呼ぶ。

 私はマジョリティ相手の商売は苦手だ。(笑)

必要って何?

2005年10月13日 | 教育
 生徒も教員もしばしば「それは(そこまで)必要ではない」と言うのを私は耳にする。

 ゴキブリに書物は必要ないだろう。なぜなら、彼らは文字を持たないし、書物は彼らの生存目的に合致しないからだ。

 「必要」は、主体が「必要だ!」と感じるから生じる。(ゴキブリは書物が必要だとは感じないから書物を必要としない。)
 もう少し細かく言うと、今の状態では届かない目標を目指す時に「必要」が生じる。(ゴキブリは書物が読めるようになりたいなどと思わないから書物を必要としない。)

 生徒が「必要ない」と言うときは、たいてい「そんなこと、オレはしたくないんだ」である。「必要だ」と思わない。高い目標がないからだ。

 教員が言うのは、生徒に抱かせる目標のレベルが低いときである。
 高い目標に到達させるのは困難である。目標は低い方が「目標到達度」は高くなる。(仕事量は相対的に少なくなる。)なんだか変である。

 ところで、こういう書き方をすると、「生徒をゴキブリに喩えるのか、けしからん。」と怒る人がでてきそうだ。

 生徒は人間である。

 生徒がどの程度の人間か、どの程度の到達度を示すことができる人間かは、全く未知数である。

 よって、未知数ゆえ、目標設定を高くするべきである。

 だから、若いうちは「何でも必要だ」と思っておいた方が、あるいは思わせた方が良いのである。

 しかし、何でも必要だと「思わせる」のはなかなか難しい。

 なぜなら、教員は自分が大したことのない人間だったから、余り多くのものを必要としなかったから、ついつい「生徒の気持ちがわかってしまう」のだ。
 それで、自分以上のことを生徒に期待するのはおこがましいと感じて遠慮してしまうのである。
 「自分のことは棚に上げて云々」というヤツである。
 しかし、よくよく考えると、これは「自分を目標にしろ」と言っているのに等しいから、そっちの方こそおこがましいということにもなる。
 よって、「自分のことは棚に上げる」ほうが、実は、教育的とも言えるのだ。

 問題は、子供には身近な大人を目標にする習性が、人間の常としてあることだ。眼前の存在以上の「何か」をイメージして目標にできないことである。

 しかし、生徒は、先生を、親を、乗り越えていくべきなのだ。
 
 君たちの目標は、もっと向こうにあるのだ。もっと大きなものをイメージしなさい。そのために、多くのことを必要としなさいね。そして、先生以上の、親以上の人間になりなさい。