考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

年功序列と男尊女卑と作業能力

2005年12月29日 | 物の見方
 どこかで誰かが書いていたようなことでもあるし、こんな事書くと、とんでもない変な奴だと思われそうだなぁ。。。 まあ、自分とは関係ないどうでもいい話なんだ。

 能力主義とか男女同権は、能力差による個人差が社会集団内において大きくなるシステムだと思う。
 人間の能力差はかなり大きい。小学生でも大人を凌ぐ能力を発揮する場合だって多いし、もちろん、能力に男女差なんてあるわけない。ヘタな男より、能力のある女の方がずっと役に立つことは多い。「できる」か「できない」かなんて、露骨にわかることだ。
 で、昨今は、年齢や性別を問わない「能力差」を重視しつつ風潮がある。だから、年功序列で賃金が決まるのはおかしいと思われてるし、男女差も同様だ。自分ではどうしようもない年齢とか性別という変えようがないものを基盤にした悪しき過去の制度に対抗させるべきものとして、「個人の能力」という華々しい、社会に益するものを重視した方がずっと実利的で合理的な良い考え方だと思われている。

 が、あえて、異を唱えてみよう。
 
 年功序列は、簡単に言えば、「年を取るほどに生き甲斐が生まれ、得をする」システムである。偉くなった人の若い頃や子どもの頃を知っている人には、「あのハナ垂れ小僧が、、」てなことはしょっちゅうだろう。しかし、このシステムが十分にうまく機能していると、そのご本人さんの立場からしてみれば、かつてのハナ垂れ小僧だった自分にだって、明らかに若い人が頼ってくるようになるのだ。これは生きる甲斐ができてくる。他人に承認されるという欲求を持たない人はない。また、頼られることによって「おれもいい年になったのだから」という自覚が芽生えて「おれもがんばらなくっちゃ。」である。それ相応の働きだってせざるを得ないだろうし、するだろう。その上、(昔は、)「経験」という実に人間らしい「記憶」の力を発揮することもできた。だから、良かった。面白くないのは能力のある若い人である。しかし、時間が経って自分も年さえ取れば、必ずそういう役割が回ってくるのがわかっている。だからさして腹も立つまい。まあ、世の中、順繰りに平等だということだ。そのメリットに預かるためにはせいぜい長生きをしようではないか、ということにもなる。
 よって、最大のメリットは、だれでも、年を取れば、認められ、それ相応の尊厳を保ち、生きる甲斐が出来てくるシステムだったということがわかる。「みんな、長生きしよう。」それでまた、昔のことだから、途中でこの世を去る人も多かった。だから、生きることそのものも貴重だったし、長生きした人が貴重でもあったのだ。つまりは、年を取っても生きることに希望が持てた。
 しかし、これが崩れた現在の社会は「長生きするメリットと希望が減った」と言えてしまうのである。
 みんな長生きするから、長生きが希少性を持たなくなり、若者が年長だからという理由だけで年寄りを頼ることもなくなってくる。時代の変化が激しい。取り残された年寄りは何をなす術もない。よって若い世代の尊敬も得にくく厄介者扱いされやすくなる。で、「そんなこと知るか」くらいの強気の姿勢でいないと生きにくくなるのではないかな。強気になれない人は、それだけで「弱者」になってしまう。で、生き辛くもなる。と、結果的に、世の風潮は、何だか年功序列の時代より、良く言えば「元気で活気がある」、悪く言えば「弱者に厳しく荒々しく」なりそうだ。「教養」とか「文化」の逆を行くような感じである。教養や文化が長年を掛けて培われてくるものであるなら、ますますもって「長く生きる」ことを否定する根拠たり得てしまう。困ったことである。

 男尊女卑は、能力が大したことのない男性であっても「男だ」というだけで尊ばれ、それ相応に配偶者も得、子孫を残してこれたはずだ。しかし、どうやら女性というのは、自分の子孫を有利に繁殖させようと、より優れた相手を対象に選ぼうとする傾向もあるようだ。だから、実質的な意味での一夫多妻は大いにあり得たはずだ。社会に格差が大きかった場合には特にそうだろう。持てる者は配偶者(の類)も多く持ったはずである。しかし、社会がそれ相応に豊かになって皆が一様に配偶者を持てる時代になれば、男性優位の社会においては、女性本来?の好みに合わない相手であったとしても、マッチングが行われただろう。でないと数が合わなくなる。それぞれの女性に「高望みをするな。おまえに相応しいのはこの程度の男だ」と、相応の相手が配偶者としてあてがわれた可能性もある。で、それでそれ相応に子孫を繁栄させた。で、かつ、女性に力がないと、「貧乏人の子だくさん」となって子孫は繁栄し、人口が増加した。

 しかし、男女同権となると、ダメな男は女から全く相手にされなくなる可能性が出てくる。(年収300万以下では結婚できない、という近頃の話もそうだ。)女性は相変わらず有利な子孫を望むだろう。となると、能力の高い(というか、)甲斐性のある相手を求めることになる。で、基本的には男女ともに強者連合のような能力の高い者同士のマッチングが生じ、それに、まれに+αが加わる寸法にもなるのだろうか。
 となると、子孫の傾向はどうなるのだろうかな? 男性に関しては甲斐性の有無が子孫繁栄に影響を与えることになろうか。(これは人間社会における一種の淘汰であろうか。)また、これとは別に、女性に教育が与えられ、付随的に支配力というか一種の権力を持つようになると子どもの数が減るという現象があるから(養老先生が書いていた、インドのケララ州とか。)子孫の数はそんなに増えないことになるのだろうか。まあしかし、「強者連合」になると、意外に子どもの数は増えそうな気もするが、強者連合カップルの絶対数は少ないから子孫の数もそう増えないか。+αにしても、一人当たりの子孫の絶対数が多くなるはずはない。
 と言うことは、社会全体として少子化傾向が進むということである。

 つまり、荒っぽく概観すると、昔は皆が年を取りたがり、子孫の絶対数を繁栄させて人口増加に向かっていたということである。現在は、長生きに関して途中で降りようとする人が出てきてもおかしくなく(現実にそういう人の数は多く)、また、それとは別に少子化も進み、人口減の社会に突き進んでいくということになる。

 で、思うんだけれど、子どものうちから能力を最大限に開花させて、それで幸せなんだろうか。人生、やることなくならないのかなぁ。年功序列は、その点で、制度的に、幸せや生き甲斐を長時間保たせてくれたんじゃないのかなぁ。

 バイオリニストの五島みどりさんなんかは天才少女から巨匠になりかかっているらしいが(文藝春秋で読んだだけだけど。)、まれな例であろう。スポーツ選手などでは、若いときに名を馳せて後の人生に狂いが生じる場合だって多そうである。子どもの能力を早期から発揮させるんだったら、その点、余程賢くやってかないと、こんなはずじゃなかったのに、になりかねない。大人の鑑賞対象じゃないのだから、一人の人間の人生として、近くでしっかり見てやる人がいないと、そう言う子は意外に不幸だろうな。うまくいったら、最高だろうけれど。

 話はずれてきたが、(いずれ書こうと思っていたことだが、)今は「作業能力」の時代である。時代の変化が激しいというのは、作業がどんどん進んだりいろいろ変化しているからだ。だから、「技能」が重視される。何事においてもである。しかし、それが究極の意味で「何のためか」は案外に問われない。これはもちろん最も深い意味での「生きる」ことに関連しての「何のためか」である。(で、こっちの方は、時代が変わって人々の暮らしが変わっても、さして変化はしないものだと思う。藤原先生だっけ? 情緒は一代限りだと言っていたことと関係するだろう。)
 拝金主義も作業能力に関与する。より良い「作業」はカネを生むからだ。産学協同なんてのも、この類である。科学者は大変だ。だから、教育も「作業能力」をひたすら問題にする。最も深い意味での「何のためか」は問わない。だから若者は時に(しばしば?)迷走する。いや、迷走するなら、まだまし、かもしれない。考えなくなる。(まあ、考えなくても生きてはいける。オケラだってアメンボだってみんな生きているのだから。しかし、考えるのは、たぶん、人間だけなのだ。)
 「何でも良いから作業的な欲望を持て」と言っている社会である。そう言う人にはまだ生き甲斐を感じやすい社会かもしれない。(あ、ここでの「作業」は技術だけじゃないよ。「ある一定方向をひたすら推し進めていく力」だから。その「一定方向」の意味は問わずに。)

 で、「あんたはなんだって?」って? 私は「作業」に余り興味がないつまらない人間です。で、ぐじぐじと役に立たないどうでも良いことを考えるのが好みなんです。(笑)

 それだけ。以上、ただ書いただけ。最後まで読んで下さってどうもありがとう。
 

部活は子守の一種だと思う

2005年12月27日 | 教育
 部活中心の学校生活は、ホントのところはおかしいと思っている。部活は卒業認定に関わらない。本来の学校は、勉強をするところである。

 土曜日が休日になって喜んだのは、部活動(の好きな先生や生徒)である。
 それで平日には7限目とか0限目という授業あるいは課外学習の時間帯が生まれた。生活時間帯が日ごとに異なって、実に不合理な学習計画である。先生も生徒も親もやればいいと思っているから、こうなる。いかに生産的に計画するかという視点がない。だから、授業中、寝る。(しかし、親は知らない。)教員だって、実は、体力的にきつい。かつては6日間で行われていたのと同じ授業時間数を5日間で行っているうえでの課外学習だったりする。誰も口に出して言わないが、授業が薄まる可能性がある。(しかし、親は知らない。)その分は精神力で頑張りきるなど、視点を取り違えてはいけない。課外学習は土曜日の方が、実は、もっとも効率がよい。かつての学校と同じだと思えばいい。だから、地域等によっては、そのようにやっている。(課外に関しては、保護者がお金を出しているはずだ。)しかし、部活をやりたがる先生が多い学校は、「グランドを十分に使いたい」という理由で、全員は関わらない部活動のために、全員が関わる学習が間接的に大きく犠牲になっている。平日の授業時数等があるという理由で表面化しない。直接には見えないからわからないだけだ。

 部活動の意義を認めないわけではない。
 どんな学校でも、勉強について行けなくなる生徒は必ず出てくる。部活動などの学習以外の活動がそういった生徒を支えることがある。同じ活動であっても、学校への吸引力という点で、学外の「クラブ」は同等の働きをしないだろう。
 休日でも平日でも、勉強もせずにただ時間を潰すかのように、「なんか刺激的な面白いことないかなぁ~」とふらふらしている生徒は多い。彼らと比べたら、部活動に取り組む生徒は、やりたいことややるべきことがあるという点で輝くもの持っている。しかし、あくまで副次的な意味合いでの重要性である。
 部活動とは、勉強と対になった裏番組のようなものである。そこのところを本末転倒させてはいけない。

 教員採用の点で、部活動の顧問が出来るかどうかで採否が決まる?場合がないとは言い切れないような気がする。これはあくまでも推測であるが、底辺校では部活動の面倒を見ることが出来る人を求めるフシがあり、公立高校の底辺校は意外に多い。もちろん、この理由は、学校が勉強をするところとして認知されたり期待されたりしてないから、つまり、学習活動が学校本来の主軸をなしてないから他のことで釣る、と言うことだ。

 しかし、「だからといって何の問題があるの?」と言う人は多いと思う。生徒が喜んでやっているのだからそれで良いじゃないか、と。
 運動部は「見た目が派手」で、若さはち切れんばかりに活動する生徒の姿は見ても感じ悪いものではないからだ。一般的に、町の人が見れば、特に高齢者には好印象を与えるだろう。彼らは強靱な肉体で未来に向かっている。それこそ何かの災害でもあったら、体力あふれる彼らは頼りになりそうでもある。
 対して、勉強をする、というのは、見た目も地味である。傍目からは何をしているのかわかりにくい。その上、「成果」もわかりづらい。また、「成果」は、給与などの個人に還元されることが多いと世間的に思われる。老人が、自分が頼りにしている薬の一錠が、かつての高校生の勉強の成果であったと思うことは決してないだろう。人間の想像力は、まだそこまで進化していないのだろう。だから、「見た目」と「今すぐ」に弱い。
 よって、文化的文明的な生活の基盤を為す勉強の価値は認められず、虐げられる。

 部活動関係を授業とリンクさせて卒業認定の単位修得にかけている場合は別である。しかし、そうでない場合は、部活動を優先すべきでない。

 しかし、なぜ、学校生活の中心に学習がないのか。

 勉強が好きで高校に進学する生徒は少ないからである。よって、社会人にも少ないと考えられる。高校教員になった人でも、自分の教科以外の理解度は余り大したことはないと思う。だから、ついつい「気持ちがわかる」。よって、「そりゃ、これだけするのは無理だよなぁ」というコトバがぽろりと出る。頑張らせるのは大変だからだ。また、近年は、「頑張るのはいけないことだ」と思いたがる人も多く、「そんなに頑張りたくない」という生徒の気持ちの巧くリンクさせる。「頑張りすぎるな」の曲解である。
 また、勉強は、ある程度の素養はあって当たり前だと思われる、ないと困るだろう、という程度の価値は認めるが、それ以上のより積極的な価値は認められないという理由がある。これも、上記、人間の想像力に限界があるせいだろう。

 「高卒で当たり前だろ」という感覚がある。これは、高校で得た知識というより、過程としての「忍耐」に価値をおいていることが多い。(そう言えば、美容専門学校の人が、高卒者と大卒者を比べると、高卒者は続かないことが多い、と言っていた。大卒者は「受験勉強に耐える」(+「大学単位修得」)という経験をしている分だけ違うのだろうということだ。)
 それで、「忍耐」ならば、勉学以外でも育成できるという考え方も出てくるわけだ。部活動がその筆頭にあげられる。しかし、部活動は、「好きでやる」のが基本だから、嫌いな勉学ほどの「忍耐力育成」効果はないだろう。
 勉強は、まともにすれば人間に「落ち着き」がでることが多い。部活動はそうとも言い切れない。ただ、何かが好転する「きっかけ」になることはある。
 学校の勉強の目的に「落ち着き」は挙げられようが、「きっかけ」は目的そのものになり得ない。よって、この点でも部活動は副次的なものである。

 「子守」は対処法でされることが多い。「教育」は目的的になされる。「部活動」そのものに視点をおけば部活動も「教育」になりうる。しかし、「学校」という教育の仕組みの中での位置付けは、あくまでも副次的なものであるゆえ、対処法としての「子守」としての側面が強いと思う。

 以上、なんとなく書いた。 

養老先生を読んでわかったこと

2005年12月24日 | 生活
 思い出した。(笑)こっちの方は、「疑問が解けた」ではなかった。でも、すごい衝撃を受けた。

 小学校の時、理科の教科書に自然の変化が絵で描かれていた。火山が噴火して溶岩のようなモノが流れて森が破壊される。でも、風でタネが運ばれてやがて芽を出す。草が生え、灌木が茂り、樹木が育ち、また森が出来る。
 私はこれが当然だと思っていた。世界中がそうだと思っていた。熱帯雨林は特別だけれど、温帯だったら、どこでもそうだと思っていた。きっと30年近くそう思っていた。

 しかし、再生できるほど湿潤な自然は日本だけだったのだ! ヨソは、違うんだって。これは人生観も世界観も変えることだ。

 中学の地理で世界の気候について学んだが、自然の再生とは関連づけられてなかった。小麦が荒れ地の産物だとも習わなかった。こういう関連が、私の感覚の「総合学習」なんだけれどなぁ。(電車に乗って街に出たり、進路について研究する「総合学習」は、特別活動の学校行事やホームルームの時間で事足りる。今までもやってきたことだ。わざわざ科目を設定することではない。)
 養老先生は、「一見関係のないもの」を結びつけて答えを探してくるのがうまい。私の感覚だと、そういうのが「頭が良い」って思うんだ。

養老先生を読んで疑問が解けたこと

2005年12月22日 | 生活
 大きな感激は唯脳論の考え方だけれど、ちょっとしたことでは光がなぜ3原色かと言うこと。(別に養老先生じゃなくっても良かったのだろうけど、たまたま私は養老先生を通して知った。)

 小学校高学年のときか中学1年の時、3原色を知った。理科の授業だったかも知れないけれど、先生も「光の色は3つです。」と言っていた。図工か美術の教科書に色と光の3原色がベン図のように描かれていた。でも、同時期に光は電磁波で、赤色は波長が長く、紫色は短いことや、赤外線や紫外線のことも習った。で、光が波長なら、だんだん長くなっていくはずである。それなのに、なんで「3原色」があるのか、3原色があるということは3つに分割できるのということを表すのに、波に「切れ目」はないはずだ。なのに、なぜ3つ色の「切れ目」が生じるのかがとても不思議だった。それをずーーーーっと、たぶん30年近く不思議に思っていた。そしたら、それは「光」の側に区別があるのではなく、こちら側、人間の視覚の細胞が3種類あると知ってなるほどと思った。

 だいぶ前だが、テレビ(「科学大好き土曜塾」か何か)で茂木さんがザンビアの人の中には4色分かる人がいると言っていた。「赤」の系統の方でのもう1色だそうだ。熟れた果物の弁別のためだそうだ。たとえば、同じ赤でも熟れたリンゴとそうでないリンゴの区別ができたら、便利だ、ということだ。一般的には、逆に2色しか分からない人もいるわけだ。ということは、光(色?)の3原色とは、要は、「人間の多数派は3色派」ということのようだ。鳥が特に赤い色だけをよく識別するとかも、要するに、色ってのは、知覚する側の問題だったということだ。しかし、これではますます唯脳論である。養老先生は偉い。お釈迦様はもっと偉い。

 もう一つあったのだけれど、忘れた。(笑)若年性健忘症だなぁ、、。思い出したらまた書きます。

普遍と変化

2005年12月21日 | 教育
 教科書に墨を塗った養老先生は、「変わらないもの」を求めて解剖学に進んだ。社会の価値観でも、時代によって(世代によって)普遍(不変)を好む場合と、流動や変化を求める場合があるようだが、「教育」の基本的な立ち位置も両方あって、古典や伝統を重視するように普遍(不変)を求めたがる人と改革として新しいものを取り入れたがる人の違いがあるようだ。
 でも、人間は、ここ何千年、1万年か何万年か変わってないのだから、そうそう改革を求めなくってもいいはずだ。それを変化させなければならないと思わせるのは、何らかの別の意図なのだろうなぁ。(まあ、たいていは、モノを売りたい、だろうけど。)
 具体的には、木の机が大事だと思ったり、校舎に風格を感じたりとか、そういうことと繋がりそうだ。
 だから、私の場合は、明らかに「普遍」の立ち位置を取るから、そうでない人とは話がかみ合わない。

 藤原先生の「国家の品格」が売れているらしい。余り売れないかと思ったから、嬉しい。危機感を抱いている人が多いと言うことだろうからだ。でも、アタマの中のコトバとしてしか理解しない人は多くないかなぁ。
 学校でも、理念としては、その通りだ、と言っておきながら、いざ生徒に接すると、理念がどこかに行ってしまう人もいる。それこそ、(この間の記事に書いたけど、)「悪い政治家のようにはなりたくない」と思いながらも、いざ自分が「ねぇ、○○さん、お願いですからぁ、人助けと思って~」なんて言われたら賄賂をもらっちゃうかも、と(正直に)答えた生徒みたいで、そのままいってしまう。(あ、これは、例えとして書いているだけだからね。)でも、自分ではたぶん悪いことをしていると気が付かいてないから、理念に合わないことをしているつもりはないから始末が悪い。「これはそういうことじゃない」と思って。(まさに政治家の答弁だ。)

 勉強をして知識を増やしても、それが本当に自分のハラに収まらない場合が多そうだ。ハラに収めるのは大変だ。人間が変わるということだから。養老先生は「知行合一」とおっしゃるけれど、なかなか難しいのだ。知行合一でなかったら「教養」ではない。(と、勝手に教養の定義をした。)
 で、変わるものと変わらないものを比べると、変わらないものでないと、ハラには収まらない。
 センター試験が近くなって、後1ヶ月どんな対策を立てるか。よほど余裕がある生徒だったらいい。でも、ギリギリの生徒たちだと、問題の傾向に合わせた対策が大事になる。英語はリスニングが入ってくるから、通常の「英語」がどう変わるか。第5問の会話がどうなるか。アクセントはやった方が良いのか。評論が再び入ってくるのか、等々。非常に多くの若者が、しかも、勉強とは試験の傾向と対策だとしか思わない若者が、それを取り巻く大人たちと共に右往左往する。そんなんで勉強をしたって、ハラに収まるわけがない。テクニックは真新しい機械と同じようにすぐに古くなる。
 松井孝典さんの本に東大の学生でも理系の学生は歴史や哲学や文学に昔ほど関心がない、と書いていたのも宜なるかなだな。
 センター試験がなくなったら、この国はもう少し良くなる。


「系譜的思考」の有用性

2005年12月20日 | 教育
 「街場のアメリカ論」は、面白かった。特に、前の章が面白い。

 何が面白いって、「系譜的思考」の発想が面白い。簡単に言うと、歴史の分岐点で、「もし、あの時、こうなっていなかったら」と考えることだ。「歴史にもしもはない」と言う考え方は一直線に流れる必然であり、それは、今後の未来も決まっているという考え方にほかならない。しかし、内田先生は、それに異を唱える、というか、そうでなかったら、と言う考え方を適切に言語で説明して下さっているのである。

 で、我が身に当てはめる。

 教育とは、そもそも未来を作る仕事である(と、私は考える)。

 私は生徒との触れ合いこそが教員の醍醐味である、とは考えない。正直言って、子供相手に話をしたって、さして面白くない。確かに、成長が見て取れるときは本当に嬉しい。大きく変化できる、成長できる能力こそが、老いた者にない若者の特権である。子どもの成長を見るのは大人の快楽である。(だから、教員をやってられるのだろな。)でも、やっぱり相手は(当たり前だけれど)子どもだからね、、。

 子どもはいい。未来に向かっているのがいい。未来は未知である。それでも、全くの未知ではない。「ああすればこうなるんじゃないかな」ってことが多い。「こうさせるためにああしよう」という発想もいい。それが教育ってものだろうし、でなかったら、教育も躾も「(養老先生の言う)手入れ」もない。

 私の周りにいる多くの「学校の先生」は、生徒個人との触れ合いを大事にし、一生の付き合いを得ることを喜びとする。それが教員であることの見返りであると考える。それで、生徒も、それを希求することが多い。人間同士の付き合い。なんてたって、学校は出会いの場である、校長が卒業式でそう言っていた。生徒も、保護者もそう言っていた。否定はしない。が、卒業式でそればっかりとは情けなかった。私はがっかりである。

 で、「系譜的思考」である。
 学校で奇妙だと思うのは、ときどき、「今の流れだと、こうなる」と未来を断定する言い方をされる方が結構みえることである。

 「今の流れ???で、こうなる?????」

 流れは流動的なもののはずだ。今そこを流れているものであっても、明日はどうなるかわからないはずじゃないか。で、明日の流れを変えて、というか、作っていくのは、自分たちじゃないか。それが「教育」だろうに。このまま行くと、生徒は悪くなっちゃう「その流れ」を大事にしたら、いったいどうなるというのだ?

 まるで未来がすでに決まっているかのように主張するのが「流れではこうなる」である。教育に携わっている者がそんなことを言って、どうする。 
 
 養老先生の「無思想の発見」を読むと、その理由がホントによくわかる。誰も考えてないからそうなる。
 生徒を見ても、ピアスに超ミニ、厚化粧、腰ズボンであっても、発想の根幹は見事な日本人。(なんだかんだ言っても、それだけまだウチは、良い方の学校の、良い生徒たちだってことかもしれないけど。←ただし、判断の根拠あまり無し。間違ってるかも。)

 上記と全く関係ないけれど、「受験(勉強)をいつから始めるか」と言う言い方が学校の公の場でなされるのは、本当の受験校じゃないからだ。
 入学したその日から、授業が始まったその日から「大学受験」が始まっていることに気が付かないのは愚かである。(もっと言っちゃうと、小学校の時から、生まれたときからだよね。だから、母親の学歴と子どもの学歴は相関する。)
 「先生はいつから受験、始めたの?」と聞かれた。授業は受験じゃないと思っている限り、学力は大して伸びない。生徒には、「数学と英語と古典はいつでも必ず予習していたよ。大事だよ。」と答えたけど。
  

非常勤講師のSさん

2005年12月18日 | 教育
 Sさんは、休職中の教諭に代わって授業をしに来ている若い非常勤講師である。他の学校にも行っている。いまどき珍しく(?)毎回かちっとしたスーツを着てくる。(イマドキのヨソの学校の先生がどうだか私は知らないが。)格好だけではなくて、考えもしっかりしている。まあ、こういうことはコトバの端々でわかるものだ。
 それで、なぜか(というか、勉強がしたいと言って)、私の話が聞きたいと言ってきた。教科科目は違うが。で、時間を見つけてお話しした。私の言うことをとってもよくわかってくださった。まあ、ここに書いているようなことばかりだが、納得してもらえて嬉しかった。
 でも、採用試験はダメだったらしい。どういう理由かはわからないけど。
 私の好みとしては、ホントにSさんのような人に先生になって欲しい。

養老本が面白いわけ

2005年12月14日 | 養老孟司
 養老先生の「無思想の発見」の2回目読書中。
 養老先生の本が面白いのは、書いてあることを現実に引き寄せて考えることが出来るからだと思う。これは、養老先生の書いてみえることが、深い意味での「ハウツー」だからだ。(以前も書いたかな?)ご本人も、世の中を解剖する、てなことを何か(だいぶ昔の本)に書いていたはずだ。もっとも、ふつーの「ハウツー」は生活に密着した「ああすればこうなる」だが、養老本は、一皮も二皮もめくって奥に潜むモノを見ようとする、その方法だという点で大きく異なる。で、それがものすごく面白い。私は何か総体的なモノに関する洞察力は、子供の時からけっこうあった方だと思う。だから、そういう自分の脳味噌の癖が養老先生のモノの見方とちょっと似通っているのかなぁと思ったりする。養老先生の脳味噌は、私の脳味噌のずーーーーーっと先のところにあるって感じだ。で、それが心地よい。

 ちょっと関係ないけど「国家」もまだ読んでいる。(笑・ちびちびとしか読めないから、なかなか進まない。で、はじめの方のことはもうアタマにない。笑)まだ上巻だし、以降どうなっていくのか何にも知らないまま読んでるだけだが、アディマントスの言ってることは生徒の発言に思われるときがある。(どこがどうだって訳ではないけど、何となくね。)ソクラテスの返答は、素朴だなぁと言う感じがする。昔の哲学だからかなぁ。でも、「国家」も意外に読める。書いてあることが、現実の「何か」を想起させるからだ。だから、読んでてふと本を閉じたくなる。で、これはこういうことかなぁと想像する。
 「・・って、こういうこと」とか「・・って、どういうこと」と思わせる本は面白い。(注・だからといって、ちゃんと理解しているかどうかは別。)

 でも、私の場合、難しいコトバがたくさんあるとわからない。内田先生が褒め称えていた白川先生だっけ? 抽象語が並んだ文章は読めない。詳しい概念を知らないのと、「ってことはどういうこと?」と、まず、文章を解釈しなければならないから、これで私の場合はまず手こずってしまう。ただ逆に、抽象語って便利だなと思う。難しい内容を一言で表現できてしまうからだ。自分の言葉に代えようとすると、めちゃくちゃ長くなるしやっぱり説明しきれない。
 「言葉を知らない」って、ホント、不幸だわ。(←これって、「アタマが悪い」と同義だね。笑)
 それで、養老本が読みやすいのは、「ちゃんと」とか「ああすればこうなる」といった、文脈を見ないと英語に訳しづらいような(?)「ひらがな」表現が意外に多いことだ。英語で論文を書くのを止めた先生らしいとでも言うか、いかにも「日本語」である。

 ところで、これこそ関係ないけれど、ブログを始めてから考えを文章にまとめるようになって良かったことがある。脳味噌の配線がこんがらがってショートする感じ(!)がこの頃ちょっと減ってきたことだ。言語化すると脳味噌の整理がつくようだ。コトバってありがたい。切る作用のおかげだ。

進化している養老先生

2005年12月11日 | 養老孟司
 養老孟司著・ちくま新書「無思想の発見」を読んだ。
 もう一度読み直さなければならない。途中がちょっくら(だいぶ?)難しい。
 養老先生は進化している。さらにめちゃくちゃ理屈っぽい。(笑)
 しかし、書いてあることで私が理解したことは、私の職場に実によく当てはまる。
 養老先生は凄い。
 私は人間に生まれて良かったと思う。人間が少しわかってきた。それで、養老先生の言うことが(だいたい)理解できて良かったと思う。勉強をして良かったと思う。もっと勉強が出来たら良かったが、私の能力でこれ以上は無理だから仕方がない。

「そんなこと知らん。」

2005年12月10日 | 教育
 何故かここ1、2年聞いてないが、3、4年前までは、生徒に日常的なことを何か教えると、「そんなこと知らん。」と反発して返ってくることが度々あった。

 たとえば、クラスの日直当番が日誌を書いて担任に持ってくる。大方の男子は、もちろんのように片手で、黙って、「ほい」と突きつけるような感じで渡しに来る。(ノートを提出のときもそうだが。)で、小うるさい私は、「それじゃ、いけない。もっとちゃんと渡しなさい。」と言う。たいてい、「ちぇっ。」と言う顔をする。時によって私の言い方も変わるが、まあ、「考えろ」と言ってから、正面を向けて渡すように教える。すると、うるさそうに「そんなこと、知らん。」と吐き捨てるように言う生徒がいる。

 どうやら「知らないことはできなくていい」「知らないことは教えて貰わなくていい」かのようだ。

 まあ、正直愉快ではないので、「だから、教えてるんだ」と言うようになった。と、さらに、「うるせぇ」という顔をする。「(そんなこと)どうでも良いだろ」と言う奴もいる。「就職したとき役に立つぞ」とか「常識だ」という返答を用意しているが、前者に対しては、「就職しねぇもん。」後者にはさらに「知らん。」と返ってくる。「いずれするだろうに。」「だから、教えてるんだ」と返事する。

 彼らの「知らん」は、「オレはそんなこと興味がない、さっさとこんな用事は済ませたいんだ、余計なことを言わないでくれ」と言う意味である。
 断っておくが、国公立大学に合格するレベルの生徒である。「ものの道理」がさっぱりわからない生徒ではない。正直あきれる。勉強ができればそれでいいと思っているようで、腹が立つ。

 もちろん、生徒によるわけだが、学校にいながら「知らん」は何事かと思う。
 学校は、自分の知らないことを学びに来る場所のはずだ。それで、生徒は自分を成長させるはずだ。が、「知らん」には、教えを拒否し、自己の成長を放棄するかのような響きがあると感じざるを得なかった。学びには「謙虚さ」が必要なのに、それがない。(もちろん、「あ、そうか。」と言う顔をして納得する生徒もいます。正直、育ちが良いんだなぁと思ってしまいます。)

 この頃の学校は、生徒を成長させるという役目を放棄し始め、かつ、利用者(生徒・保護者・教員)の多くが、互いの存在をありのまま認め合うことを果たすべき役割としているのではないかと思う。
 まるでホテルやレストランである。望まれる接客は、常に客の存在を認め、要望に応えるという形でサービスを提供する方法である。しかし、客にその接客を体験させることによって快感を得させることはあっても、人間的成長を図ることは目的としない。(当たり前だ。)教育もサービス業であるという言い方をされることがあるが、「客を大きくする」と言う点で、通常のサービス業とは大きく異なる。
 この点の誤解が大きい。

 あるとき生徒が「先生、ありのままがいいんじゃないの?」と発言したことがあった。まあ、そのとき私は舌足らずでうまく説明できなかったが、これもそうだと思う。「ありのまま」の自分を認めてくれる先生が良い先生だと、その生徒は感じていた。「本当の自分」「自分らしく」「自分探し」に繋がる概念であろう。ここに「成長」という変化を望む考え方はない。

 子供は、通常大人より劣った存在であると見なされる。体力も知識もその他の能力全般に関して、現状では大人より劣っているからこそ、子供は学んで大きくならなければならない。それが「教育」である。それで、普通の健康な子供には、自分の能力を高めるための能力が十分に備わっているのである。が、どうやら昨今の風潮では、子供独特のこの能力が蔑ろにされているようだ。

 どこにどれだけ伸びるかわからない能力を持って子供は大きくなる。うがった見方をすれば、大人にとっては、子供とはどっちの方向にどれだけ伸びるかわからない予測不可能の存在という意味で統御できない存在と言える。
 「意識化」と「都市化」が進んだせいで、大人たちは何事も理解可能で統御できるものだと思い始めた。が、いざ子供を目の前にしたら勝手が違った。その違和感が子供の特質を「ないもの」にして、子供が「そんなこと知らん」と堂々と言える環境を作ったのかもしれないと思う。