考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

生徒が「わからないこと」も教えましょう

2006年10月19日 | 教育
 生徒を見ていると、教えられることはわかって当然、わからないのは先生の教え方が下手なせい、自分たちは悪くない、という気配があるように感じてやまない。それで、勉強が「自分が知っていること、わかることの確認」になっている。だから、試験が返ってくれば○を目で追いかける。「わかること、わかりそうなこと」しか受け入れようとしない。「自分の知らないこと、わかりにくいこと、わからないこと」を自分の中に取り込もうとしない。もっと言えば、これらの存在を認めようとさえしないかのように振る舞う。
 甚だしく傲慢である。なぜなら、自分にわからないことはない、とでも思っている発想だからだ。

 (何だか書くのがめんどーになってきたからちょっと端折る。笑)

結論:
 生徒がこうなったのは、これまでの教え方が、生徒のわかるように、わかりやすいように、負荷をなるべく掛けないように、と気を配って教えてきたからである。(←あ、教員の反感を買いそう。。私も教員だけれど。)

 「わかること」に価値があるなら、「わかる自分」に価値があることになる。それで、「わからないこと」を認めなければ「わかる自分」を保ち、自分の価値を落とさずにいることができるのだ。
 だから、こういった生徒の反応は、当然の帰結である。

 教員は、世の中には、君にはわからなくても、もの凄い価値のあることがあるんだよ、と教えてこなかった。「わからないのは可哀想」と教員は勝手に思ってきた。わかることが素晴らしいことである、とばかり教えてきた。だから、今はたとえわからなくても「そのうちわかってくればいいこと」を教えなかった。なぜなら、今わからないのが可哀想だから、無理をさせるのはいけないから、わからない不快感を感じさせたくないから、子どもにそういう不快感を感じさせる自分がイヤだから。
 「わかること」を重視する余り、「わからないこと」がいけないことだとか、情けないことであるかのように思わせた。覚えることも、わかってから覚えるべきだと教えた。

 しかし、これらはおそらくみんな間違いだったのだ。

 世の中には「わからないこと」がたくさんある。(現にあなたはそんなによくわかっているのですか。)どうして「わからないことがたくさんある」のがいけないのか。
 わからなくてもやってみたり、とにかく覚えれば、わかるようになったりするのに、わからない不安や覚える苦痛を感じさせることがそんなにいけないのか。
 何にせよたくさんある「わからないこと」の中から、少しでも「わかること」を見つけようと、わかる努力をする苦労がなぜいけないのか。(だったら、学者はいけないことをやっている!)

 これらは一種の「背伸び」である。ウエイトトレーニングなら、汗水垂らして負荷を掛けるまさにそれである。
 それが、なぜ、勉強においては「無理をさせない」「負荷を少なく」になるのだろうか。
 「わかること」ばかり教えていると、生徒は、どんどんバカになる。
 「わからないこと」がたくさんあった方が、逆説的に「わかること」は増えるだろう。それで、一応は教えておきながらもまだわからなくていい、と留保する分のある方が、どれだけ現実に即していて、未来に向かって伸びていけるかわからないと思う。