考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

私は「コーハ」

2006年11月30日 | 教育
 AERA12月4日号に、「時代の気分は新コーハ」という記事がある。この中の高村薫さん談に、私が書いているのと似たようなことが書いてあって嬉しい。
 少し引用する。

 「(古典を)読んでみて、すべてわからなくてもいいんです。「わからないことをどれだけ持っているか」が人生の豊かさではないでしょうか。(改行)いま「ゆとり教育」のどこが悪かったのかが問題になっています。が、私が思うには、わかる内容しか教えなくなったことです。わからないことがあるから「知りたい」という欲求が出てくる。その力が社会の底力だと思うのです。」
 
 ねっ♪♪ 私、時代の先端を行ってる。(笑)ま、当たり前のことだと思うのですが。

 続けて
 「観察者になると、社会を俯瞰する力を持ちます。」

 私は、けっこう観察者だと思いますよ、はい。

 関係ないけど、生徒に「『留意』ってどういう意味ですか」と聞かれた。
 英語より、まず日本語だぜ。同僚は、訳をするときに、日本語を教えている、と言っていた。(人(←日本語の下手な生徒)のことは言えない。私も思い当たる。私自身、内容のある「日本文」を書いたのは、高校時の英語教科書の和訳だったもの。苦労した。笑)外国語学習の意義に「母語に目を向ける」というのがある。だから、中学の義務教育でもするのだと思う。言語の学習は、言語習得ばかりではない。(しかし、こういった考え方は流行らない。)

 ウチの学校に来ているAETの女の子に、現代日本教育事情をあれこれ話したら、興味深いと言われた。

 さて、今日も「ちゃんと真っ直ぐに座りなさい。前を向きなさい。」と生徒を指導した。これは、「学ぶ以前の問題」です。
 私はなんて有能な教師なのだろう、と思う。(大笑)


やってもないのに、なぜ提出するの?

2006年11月29日 | 教育
 今年、非常に奇妙なのは、決められた宿題などをやってないのに提出する生徒が非常に多いことである。ほとんどやってないのに、やってきたかのように提出する。突き返すと、中には「ばれた」というような顔をする。或いは、素知らぬ顔をする。
 以前だったら真面目そうな生徒はそんなことをしなかった。しかし、いかにも真面目そうな子であっても、そういうことをする。「わざとなの?」と聞くと、「いいえ。忘れてました。」「寝ぼけていました」などと答える。しかも、注意しても同じことを繰り返す者が一人でない。

 「間違いや失敗は誰にでもあることだ」と思われるかもしれないが、何度も同じ失敗を繰り返すのである。以前だったら、一度注意すればそう何度もなかった。他教科の先生の話を聞いても、同じ生徒が他の教科でも同じことをしている。

 あまりにも、「きちんとする」習慣がなさ過ぎる。ただやればいい、と言う感じである。(書く文字も下手になった。)
 生徒が信用できないというのもあるが、私が最も心配するのは、今後の日本製品は、欠陥品が多くなるだろう、昔はなかったミスによる事故が間違いなく増えるだろうと言うことだ。

 

人生が「過程」であるワケ

2006年11月28日 | 物の見方
 「勉強をするのは、幸せになるためでしょ。」と聞かれた。(生徒ではない。)「そうでないと思うよ。」と答えるが、「でも、、、」と返され、少々難儀に感じたからそれ以上は何も言わなかった。その人は、「人生は結果を求めるもの、幸せを求めるもの」という考えを持つようだ。

 禅問答をするつもりはないが、不幸に感じる自分も幸せを感じる自分も自分だろう。この頃、幸せとか不幸とか、あまり考えない。
 間違ってもらっては困るが、決して悟っているのではない。だって「イヤだなぁ」とはしょっちゅう思う。学校へ行くと腹が立つ。「割に合わない。」「損してる。」ともよく思う。(笑)「トクしてるかな」と思うこともあるが、天秤に掛けるとそれがホントにトクなのかどうか疑問に思う。(←疑り深いね。欲が深いのか・笑)

 数学の問題で、「これはこれである」を証明あるいは計算するとき、真っ正面からぶつかって理解したり解いたりする方法と、他の議論から逆算する(というか何というか)方法がある。
 日頃数学をやっているわけでないが、タマタマ対数を思い出すのにちょっと勉強をした。「底」ってなんだっけ?から始める。(笑)基礎の基礎である。log2(2は小さい字)8=log2で2の3乗=3というヤツである。しかし、そのまえに指数の復習をしなければならなかった。すると、aの0乗=1である。何故0乗で1になるのかわからない。しかし、aのm乗×aのn乗=aの(m+n)乗である。これはわかる。だから、n=0とすると、aの0乗は1にならざるを得ないのだ。a/a=1という考え方もできると思ったが、これにしてもaの(1+(-1))乗で、同じ公式?を使う。
 マトモにaの0乗を考えても、私はわからない。しかし、このように他からの論理を使って考えれば、好むと好まざるに関わらず、aのn乗は0でなければならないと納得せざるを得なくなる。感覚的には依然わからないが、aの0乗は1なのである。

 同じように「人生」を考える。以下の思考の道筋は、私の中では上記の数学と同じ、「理屈」で考えた結果である。

 人は生まれて死ぬ。早世する人もいれば長寿を全うする人もいる。しかるに、今、「全うする」と書いたものの「全うする」とはどういうことか、わかったものではない。ひょっとして、本人も回りの者も「もっと生きて欲しかった」と思った可能性はあっただろう。あと1日、あと1週間、あと1年、そうすれば、孫の花嫁姿を、ひ孫の顔を見ることができただろうに、など。しかし、所定の儀式の後、最後は、ホントの最後がどうなるかはここに書くまでもない。
 養老先生が、解剖をしていると、結局自分も最後にはこうなるだけだとわかるからたまらなくなる、とか何とか書いていた。だから、解剖学者に酒飲みが多いとも書いていた気がする。人の情として当然でもあろう。「最後はこれか」だったら、「今」は何のためにあるんだ、ということだ。
 もし、人生が「結果」を目指すものなら、終局はそういうことである。

 「いや、そこまでのことは言わない」と言うかもしれない。しかし、それは「途中」を「最後」とアタマで、「見たくないものは見ない」と自分の都合で勝手に決めつけているだけではないか。

 しかしまあ、他の考え方もしてみよう。

 本当に幼くして病に倒れ早世する「人」もいる。(あえて、「その子」ではなく、「その人」と呼ぶ。)その人の「結果」は何だったのだろうか。或いは、「結果」がなければその人に人生はなかったというのか。

 しかし、それでは話が合わない。その人は、その人の生き方をした。なぜなら、現にその人は、死ぬまでちゃんとこの世に存在し、生きていたではないか。それはその人の人生ではないのか。

 ならば、人の死は常に「途上」に訪れると考えた方が納得がいく。途上に子供も大人もない。ならば、人生とは、「過程」としか考えようがないではないか。決して「結果」に集約されるものではない。「結果」なんて、ホントのところはどこにもないのである。そう考えた方が、整合性があると思うのだ。

 もちろん、私だって世俗的な「結果」もないとは言わない。老年に達して、金銭的社会的に余裕のある地位につき、人望を得、家庭に恵まれ、それなりに存在感を持っている人は、「結果」を得た人だろう。他の形でも、何らかの「結果」を得ることがあるだろう。「死んで名を残す」こともあるだろう。それはそれで良い。
 
 しかし、それでも、「人生は結果だ」とは言えないだろう。繰り返しになるが、その人は、死ぬまでずっと生きて、刻々と変化する。だから、それですらあくまでも「過程」なのである。決して「結果」と言い切れるものであるまい。
 また、「結果」という言葉は、とにかく、何らかのバイアスを掛けて都合良く状況を切り取っただけとしか思いようがない。それで、そういう「結果」を得る人はあくまでも少数派ではないか。では、それ以外の人には、人生がないというでも言うのか。そんなバカな話はあるまい。みんなちゃんと生きているではないか。

 生き物が生きるとは、日々の営みを通して「生きている」状態を保つ、生きてそこに存在することに他ならない。存在意義があるとしたら、営むこと、存在することそのものの意義だろう。
 過去、何億年かの歴史を遡って考えるとよくわかる。何億年もの昔から、我々は繋がって、遠い先祖からの時間と空間のやり取りがあって、それで今、ここに、我々各人が生じ、存在する。

 なぜ、ここにいるのかの「理由」を問うてみるとどうだろう。答えられるわけがない。答えられないからと言って問う必要がないとは思わないが、たぶんコトバで答える必要はないだろう。ここに生きていることが、そのまま答えになるのではないかと思うのだ。
 生き物が生きているというのは、存在することの意義だろう。そこにいるからそこにいる、だから、それをまず自他共に認めようではないか、ということでもある。

 それぞれの人そのものが「今、ここに、存在する」ことが、生きていることに他なるまい。人が、刻々と変化する今という時間に、ここに生きていることそのものが、まさに字のごとく「人生」であろう。それで、この考え方において、時間という要素を抜きにすることは出来ない。よって、人生とは絶え間ない「過程」になると思うのだ。

 う~ん。これで通じないかな、ダメかしら? 
 ただ、私に「人間は幸せになるために生きるんじゃないのか」と問うた人は、私の答えに納得しないと思う。「ちっともわかってない」と言われるのが落ちだろうと思う。考える「地平」がその人とずれているから納得しないと思う。


子供とコンピューターという道具

2006年11月26日 | 教育
 子供にコンピューターを使わせるのには反対である。なぜなら、コンピューターは実体のない道具で、しかも他人の脳という枠組みをはみ出すことがないからだ。

 同じ道具と言っても、包丁やナイフを使うのとはかなり違うと思う。
 包丁などの道具には実体があって、物理的な存在という「モノ」として、人間の身体と同様な原理原則に基づいている。しかし、コンピューターには、こういった物理的な要素、身体的な要素が少ない。私はそれを良しとしない。

 子供がまず第一に発達させるべきものは、私は、実は脳味噌ではなく、身体だと思う。子供の脳味噌の発達は、確かにもの凄く優れている。が、身体あってのものだろう。身体感覚からの入力があって初めて脳は発達するではないか。ならば、順序としては身体感覚を研ぎ澄ませるのが先決だろうということだ。
 その点、包丁やナイフは優れている。(他の道具でもよい。譬えで出したまでである。)こちらのちょっとした身体の扱い次第で結果が大きく異なる。構造がシンプルな道具は、使う際に試行錯誤を繰り返すことで、脳と身体との入出力の調整やモノと自分との繊細な関係を学習させてくれるだろう。その成果で、子供の脳が発達する。

 ところが、コンピューターは、いきなり「脳」である。せいぜい使うのが、視覚であろう。聴覚もあろうが、電気音声は電気の音声でしかない。人間の身体感覚、機能は、もっと豊かであろう。五感と言うが、実際、人と会って話をするときは、五感以上のものまでをも使っているのではないか。動物的な勘のようなものも含まれるだろう。そんなのがなんやかんや、ものごとを判断する際の根拠になる。

 子供は大人と比べて脳が未発達である。コンピューターを使うことは、既に固まっている他人の脳をそのまま自分の脳として受け入れるようなものである。しかも、多様な身体感覚を統合する必要がない。これはまるで発達させようと思えばどんどん進化するはずの身体感覚をわざと鈍麻させるようなものではないかと危惧する。

 学校教育において、全ての教科でコンピューターを使わせようとする試みがあるようだ。子供は単純なモノも好きである。喜んで使うかもしれない。それがねらい目かもしれない。しかし、学習に用いられるソフトはどんなソフトも所詮は他人の脳の産物である。その上、前述の通り、脳への入力方法も出力も限られている。ごく僅かの特定の事象についての学習効果は高まるかもしれない。しかし、教育の成果とは、単一分野における効果だけを狙ったものでもなかろう。効果的な学習は、意外に全人的な面での教育効果が落ちる危険性があるのではないか。そのあたりの検証はどうなっているのだろうか。
 
 話は変わるが、道具の扱いに関して、「道具」で何かをすることより、道具を使うことそのものを目的にすることを好む人がいるように思う。(私は明らかに違う。笑)
 コンピューターの普及にはそういった勢力の拡大があるのか。
 その人たちは、とにかく新しい道具を使うことを好み、便利を好み、道具を進化させることそのものを好む。(ひょっとして、日本人にはこういった人たちが意外に多く存在するのかもしれない。)
 人間がここまで文明化したのは、彼らのお陰かもしれない。
 しかし、道具は道具である。道具で一体何をするかも考えると良いような気がする。

 いずれにせよ、脳味噌発達途上の子供にコンピューターはいらない。例えばコンピューターを使って絵を描かせるより、クレヨンや絵の具を使って絵を描かせた方が、より多くを学習できるだろう。その方が、大人になってからいいことがあるのではないか。クレヨンの油臭さ、描いているときも、触ってみてもネチネチした感触があって細かな音もする。擦れば余白は汚れてしまうから気をつけなければならない。たとえ、コンピューターを使って作った作品がどんなに素晴らしいものであろうと、子供にとって絵を描く行為は絵を描くだけに留まらない学習効果があるだろうから。


「拝金主義」というマジョリティ優先人間関係

2006年11月24日 | 教育
 ふつー、「お金」とはかなり絶対的な価値があると見なされる。お金があれば、この世にある欲しい物品の大抵を買うことができる。畑で取れた大根だったら、そういうわけにはいかない。きらきら光るダイヤモンドでも、なかなかお金ほどの価値はあるまい。
 もっともお金も価値が変動する。国際社会では尚更そうだ。それでも、(養老先生によると)お金は、脳の機能と一致する。脳に入力されると、あらゆるものが「同じ」電気信号に変換されるのは、お金があれば何でも変えるのと仕組みは同じであると言う。
 で、たぶん、だから、「絶対的なもの」であると我々は思いこんでいるのだろう。

 しかし、モノには「相場」がある。それで、その相場を決めているのは、需要と供給、「これ、欲しい。私におくれ。」と言う人と「これ、要らない。あなたにあげる。」と思っている人との関係だろう。で、これは人間関係である。(経済も社会科である。)

 何にしろ、お金を生むモノがもてはやされる。流行もそうである。人が集まればお金が集まるという発想である。何が人気があるかに注目する。いかに人気を集めるかに腐心する。人の心を掴もうとするのである。人=お金という発想である。

 しかし、お金のない人は、除外される。マイノリティはカネにならないから除外される。コンピューター管理で、スーパーの品揃えが粗っぽくなった。要求しないと棚にない。着るモノだってシニア向けが増え、子供服は売り場がきれいさっぱりなくなった。すぐ近所には保育園もあるのに。書籍売り場は改装したら文庫とマンガと雑誌が増えて文芸書がほとんどなくなった。置いてある新書はベストセラーだけ。

 たぶん、昔はこんなにお金お金、言ってなかったような気がする。他にも密な人間関係があったからではないのかな。それが疎遠になったから、こんなにお金が力を持ち始めたのだろう。お金でしか、人と人が結びつかなくなったのだ。それだけ、みんなが金持ちになったということか。(お金持ちは、昔も今もお金で結びついていただろう、想像するだけだけど。)

 密な関係も気が重いが、それでもこんなのは、なんだか息苦しい。今に始まったことではないが。


立ち止まって注意する

2006年11月22日 | 教育
 廊下で生徒の身だしなみを注意するときは、立ち止まる。立ち止まって、向かいから来る生徒にはっきりと、私はあなたに話しかける意志があることを明らかにする。思いつきではないことを明示する。

 なんとなく、その方がうまくいく気がする。と言うか、注意しているうちに、私はいつの間にか立ち止まるようになった。(笑)引き留めやすいしね。まあ、いつもいつもというわけではないけれど。

 

何でもかんでも人間関係の時代

2006年11月20日 | 教育
 今の日本はなんだかんだ言って、豊かである。豊かとは、まず、物量が豊富なことである。物量は、「理科」である。絶対的な尺度に支配される。表現を変えれば環境問題である。(養老先生がそうおっしゃっている。)大変だ、大変だと言いながら、急にどうのこうの、個人のレベルにストレートに降りかかってくることではないから、多くの人の日常では「どこ吹く風」である。だから、ゴミの出るレトルト食品が売れる。お茶は湧かして水筒に持っていくよりペットボトルである。出来合いのパック入りお総菜である。使い捨てのぞうきん?が売れる。
 言いたいのは、モノがあって当たり前の世界では、物量という「理科」的絶対的な問題は意識の上には存在しないということだ。

 しかし、人間というものは、何にも関心を持たずに生きてはいられない動物である、たぶん。で、彼らの関心は、ただひたすら「人間関係」に向かっている。(それで、人間関係は、政治・経済、歴史の全てをひっくるめて「社会科」である。)

 数年前の卒業式の答辞、送辞、式辞の全てが、「人との出会い」がテーマだった。友人、先生に恵まれた等々と言う内容で、「学問」という絶対的尺度に向かう勉強だの学習だのに関する内容は一切なかった。ホントに、全く、なかったのである。ちなみにウチは、2番手ながらも「進学校」としてある学校である。生徒にとって、それから、親にも教員にも、学校が「人との出会いの場」として存在し、学習の場でなくなったことを表す端的な事例ではないか。
 生徒と話をしていても、悪さをして教員に叱られるのも、「自分とその先生」という個人的な人間関係があるからだと考えているような節がある。「生徒と先生」という間柄だから叱られている、と思わないのである。個と個の関係であると、考える。教師と生徒も、非常に広義の意味では(物量の理科に対するものとしては)人間関係であるが、個人対個人の方が、より濃厚な関係と言えるだろう。教員の方も、「人間関係が出来てないままむやみに叱ると逆効果である」と言う人がけっこういる。ここにおいては、「教員と生徒」と言う社会的関係、ある意味では、絶対的な関係は全く介せず、あるのは、個人対個人の人間関係である。(学校で生徒を叱るのは、個人的な人間関係云々ではない。個人的な関係を持ち込むと、「取り引き」になる。取り引きは人間関係である。生徒指導とは取り引きでは決してない。)
 「いじめ」も要は人間関係である。花鳥風月とは全くかけ離れた世界における濃厚な人間関係上の問題である。
 そういえば、「談合」も人間関係だなぁ。
 メールだって、人間関係だよなぁ。本や映画より、メールの方が「濃厚」な人間関係を感じることが出来るだろう。だって、出せばすぐ返ってくる、返ってこないという反応がある。彼らはそれにかなりのお金を使っているのが何よりの証拠である。
 テレビのデータ放送?アンケートに答えたりする企画もある意味、送り手と受け手を繋ぐだろう。
 このブログだって、ある意味そうだ。(笑)誰も読んでくれていなかったら、書く気にならないだろう。
 「おしゃれ」も、そうである。他人の目を意識するからここまで流行る。おしゃれは仲間内で理解される、一種の記号である。
 「理科離れ」も納得のいく話である。物量はもういい、きっとみんな心の底ではそう思っているのである。だから、工学部は人気がない。代わって人気があるのが医療系である。人間関係である。「人の役に立ちたい」と思って、面と向かって「ありがとう」と言われたくて希望する者も多い。工学部のような、何らかの「モノ」を通す社会貢献より、医療系の方がストレートで貢献している自分の存在を感じ取りやすいではないか。

 「大衆」は、とても勘の良い存在である。みんな、世の中の流れをよく知っている。


ブログ開設丸2年

2006年11月20日 | Weblog
 今日でブログを開設丸2年、3年目に突入しました。
 1年前にも書いた気がしますが、書くタネが尽きると思いきや、よく尽きなかったなぁと。不思議。昨日だって、さすがにもう、書くことないと思ったのですが、というか、書こうと思うと大変過ぎて書けないことは、まあ。あるのですが今のところは書けていない状態です。でも、内田先生に触発されて、とにかく記事は書けてしまった。TBまでしてしまった。

 毎日学校に行ってると、なんやかんや起こるから、いろいろ考えることが生じてきます。ブログのお陰で私は大分助かってます。私の脳味噌浄化機能を果たしてくれるからです。皆さまのおかげです。ありがとうございます。

 この2年で、大分脳味噌の整理がつきました。自分の考え方の骨子が出来た感じがしてほっとします。生徒への説教もラクになりました。(笑)基盤を持つというのはいいですね。受け売りもありますが、自分で論理的に納得した上での受け売りだから、それなりに自信と確信を持って話すことが出来るのです。ウチの生徒は、自信たっぷりの人に弱いので(笑)良かったです。まあ、大抵、誰としゃべってもたぶんそうは負けないと思う。

 上記の「大変過ぎて書けないこと」は、「わかりやすい授業」についてです。まだ気になることがあって、しつこく考えてます。もうちょっと視点を整理して考えたいと思っています。集団と個の関係と、知と情の関係ももっと考えたいです。「下手な考え休むに似たり」といいますが、今後も時々読みに来てください。よろしくお願いします。

 ものを考えているとき、同時に自分の脳味噌の程度がどうせ大したことがないとわかっています。それでも、考える。養老先生や内田先生の書いていることを私なりに解釈する。そうすると、わかることとそれでもわからないことが出てくる。まあ、でも、それが私の脳味噌なのだから、それで仕方がない。

 生徒が勉強をするのも同じではないかと思います。特別にアタマが良くなくても勉強をする。この意義は、アタマが良い人にはきっとわからないだろう。(笑)

 けれど、アタマの良さは、否、人間の能力は全て程度問題でしょう。あくまでも相対的にどうであるかの問題に過ぎない。人と比べてだったとしても、過去の自分と今の自分にしても、程度問題に過ぎない。どんなに能力の高い人も、絶対的に高いわけはない。だったら、誰だって同じなのですよ、ホントのところは。だから、人間が生きてるってのは、過程だと思うんです。(ちょっと飛躍はあるが。笑)

 というわけで、まあ、自分でもよくわからんが、これからも考えたことを書き留めていこうと思っています。お時間ありましたら、また読みに来てください。よろしくお願いします。