考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

慣れればわかるようになる-きっと脳への刻印

2006年05月31日 | 教育
 先日買ったニュートンにある量子論は、かなりわかりやすいと思う、と思った。しかし、考えてみると、一般向けの量子力学の本は、これで何冊か読んでいる。シュレーディンガーの猫でも、光子や電子に粒子としての性質と波の両方の性質があるとか、何回か読んだことになる。で、この手の本を読むのは久しぶりだったものだから、やっと、自分の中で馴染んできたと言うことだけかもしれない。

 「わかる」とは、「馴染む」とほぼ同義かもしれない。覚えれば、できるようになったりするのと同じだ、きっと。脳にそういう回路ができるのだろう。いったん回路ができあがると、その脳の持ち主は回路を疑問に思わなくなるのだろう。

 行動でも同じだろう。悪いクセは、カラダに馴染むまでに改めさせる、でないと、どうしようもなくなってしまう。三つ子の魂って奴だろう。

根っこにあるもの--原則に帰れ

2006年05月30日 | 教育
 ウチの学校は、「比較的良い生徒を貰って、十分に育てず(ややもすると悪くして)卒業させる学校」である。地元の評判が極めて悪い。(悪かった。)やっと少しマシになってきたかもしれない。しかし、学内ではほとんど誰もそんなことを認めない。共同責任は無責任の原則に則っているのと、人の功績と自分の無責任は表裏だからだ。
 それでも、多少は良くなった。遅刻の数もやや減った。以前は制度的に問題がありすぎたせいである。それを改善した。主任がある提案をした。しかし、内部で反対が出た。それでも何人かが強く賛成した。そこから数年かかってやっと全体として制度化した。実は、何にも大したことではないのだが、それでも制度化に数年かかった。

 しかし、学校が変わった大元は、集会である。年に何回かの学校集会だが、何年か前の校長が、ものの数回の学校集会で集会を劇的に変えたのだ。それまでの全体集会は、うるさくて仕方がなかった。べちゃくちゃしゃべっていて、教員は誰も注意しない。(私だって注意しきれなかった。)前に立った教員も(もちろん、管理職を含めて)静かにしろとも言わない。マイクを使うから関係ないと言ったふうだった。更に、生徒の整列の仕方もまずかった。それで、生徒の並び方を変えた。実はこれだけで、かなり静かになった。
 その校長は、労力のかけ方としては、そう大したことをしたわけではない。前に立って、生徒が静まるのをじっと待った。ただそれだけである。何も言わずにじっと待つ。生徒は、静かになった。静かになってから、校長は話し始めた。

 大勢が集まる場で静粛になるかどうかは、その場だけの問題ではない。その場を離れた後も、この「静粛さ」の影響が出る。私はそう思う。
 「教育」というか、子どもを相手にするときは、「そういうこと」が最も大事なのだと思う。「そういうこと」というのは、さまざまなことの根底に潜む何か、それも生活感覚に根ざしたものをしっかりと確認させるようなことである。この例だと「静粛さ」だろう。

 大勢が集まったとき、ぎゃーぎゃー騒いでいるのと、静かにしているのとで、何か災いが起こったとき、どちらの生存確率が高いか。言うまでもないだろう。たぶん、人間が社会的動物として生活をし始め、学校が社会に必要なものとして認められたことの大きな理由の一つにこの捉え方があるだろう。集団が「パニック」を起こすことがある。それを避けさせるという隠れた目的が学校教育にあるだろう。子どもたちが大勢でわいわいにぎやかに騒いでいてにこにこしていられるのは、その子たちが何らかの指示で必ず静粛になれるという前提があってのことだ。
 そういう「前提」が忘れられかけているような気にもなる。

 子どもの接すると、たいていの場合、子どもは「大人」の言うことをよく聞くものである。(反抗期とかはちょっと別と考えてね。)たぶん、そんな風に人間はプログラムされているのではないかと思うくらいだ。しかし、この頃はそうでもない。それこそ、「教育」が間違っているのではないかと思う。「親」や「先生」の言うことを聞くべきだ、という大原則が、教えられてきていない。なんだかんだ言って、親や先生は、生き抜いてきたから、その年齢まで生きているのだ。ならば、生き物として「道理」に適っている。生き残る知恵を得るために年長者の言うことは聞くべきなのである。
 近頃の子どもは、「自分が納得できるときには聞く。そうでなければ聞かない、聞く必要がない。なぜなら自分が納得できないからだ」と思っている。「頭ごなしはいけない、納得させなければ、その指導は効果がない」という指導法のせいである。指導する大人は、指導の効果を狙って子どもを納得させようとした、しかし、子どもの側は違って受け止めた。彼らにとって大事なことは「指導されて自分が何をするか」ではなかった。大人の側の「子どもを納得させよう」という努力は、子どもの側には、「最も大切なのは自分が納得するかどうか」に変質してしまったのだ。

 子どもには受け入れやすいことであろう。子どもの「その場」の「負荷」が減るからだ。しかし、負荷が減ることは、成長の機会が減ることに繋がりかねない。子どもは「疑問を自分で考える力」も失った可能性がある。(だから、この頃の子ども(若者)は、瞬間的に納得できなかったら間髪を入れず、「なぜですか」と聞いてくる。それで、大人も、そういった疑問に答えてやることが責務だと思っている。とんでもない。まずは自分で考えろ。)それで、「納得させてくれ」あるいは「オレが納得できないのは、アンタにその力がないからだ」という意味で依存的な人間になりやすくなっただろう。つまり、「騙されやすく小粒になった」。

 学校というのは、子どもというのは、なかなか思うようにいかない。勉強をしろ、行儀良くしろと言っても、なかなかである。規則やペナルティで締めればいいというものでもない。規則なんて、最後の手段、最も表面的なものでしかないと思う。こう言うと、「大事なのは、心である。本人のやる気である。心をはぐくめ」と善良な大人は考える。しかし、そんなこと、不可能である。
 大事なのは、もっともっと根本的だが、実効性のある「表面的な形」で良いのである。ちょうど、学校を変える「元」を作ってくれた校長のように、「そうせざるを得ない状況」をカタチとして作らせることである。
 その最も簡単な方策は、たぶん「親の言うこと、先生の言うことを聞け」である。親も先生も時々間違える。しかし、間違えない親や先生はきっといない。子どもは、やがて間違いに気が付く。たぶん、それで良いと思う。それでも、近頃の大人の風潮を見て心配に思う人もいるだろう。しかし、「親の言うことを聞け、先生の言うことを聞け」と親や先生が高らかに宣言する限りに於いては責任感を持って言っているはずである。だから、親も先生も、そんな間違ったことを言うまいと思う。逆に言えば、「言うことを聞け」と言えなくなった時点で、大人は無責任になったのだ。人間って、たぶん、そんなものだ。

 もっとも、「時代の変化が激しすぎて大人が自信を失ったから、子どもに『言うことを聞け』と言えなくなったんだ」という議論がある。で、だから、たぶん、「国家の品格」や「武士道」、「日本人論(の類)」が流行ってくるのだ。原理原則を求めてのことである。数学の問題を解くのと同じである。自然科学の方法である。養老先生や藤原正彦などの科学者が求められる理由である。言葉を換えれば、社会科の人間関係による「多数決」では、埒があかないということである。憲法や他の法律の制定など、法学に関わる解決方法をとろうとしても本来は埒があかないことだと思う。(←よくわからんけど。更に関係ないけど、fer-matさんとこを読むと、法学って、ホント、「人間関係」なのね、と思う。確かに「社会科」だわ。うん。)
 しかし、「原理原則まで遡る」という方法論は、たぶん日本の学問の世界ではこれまで「役に立たない」「そんな(当たり前の)こと、どうでも良い」とされてきたやり方である。だから、みんな、わからないのである。結局は、「人間とは何か」という人間観に行き着く。学問の根本である。


読書中

2006年05月27日 | 教育
 PHP新書の「なんとなく日本人」を読んでいる。
 養老先生の話、日本語には一人称二人称の区別がないということやら、日本語が日本人を作ることが書いてあって。まだ、途中だけれど面白いと思った。もう少し言うと、養老先生のおっしゃるようなことをやや具体的に説明してるって風だから、養老先生よりわかりやすいと思います。根底に養老先生がいる感じで(事実はどうか知らないけど。もちろん。)、私には馴染みやすいです。
 世界で働いてきた方の体験を基盤にした日本人論といった趣です。まだ4章目だけれど今のところお薦め。

 昨日は本屋で、この本以外に、日経サイエンスとニュートンと内田先生の「身体知」と川島隆太&藤原智美対談「脳の力こぶ」を買った。嬉しいな♪(←こら、英語の勉強しろ。)でも、本を読むと、この頃目が疲れてしようがない。ちょっと読む気がしなくなる。それが難点。

「欲望」の階層性を探求すべきだ

2006年05月25日 | 教育
 今ほど欲望の追求が是認される時代はないが、「欲望」には階層性があると思う。
 「階層性」という言葉は適切かどうか、よくわからない。もっと良い言葉があるかもしれない。「質」という語で代替してもよさそうだが、平板な響きが感じ取られるので私の意にそぐわない。

 この「欲望の階層性」については、一般的にも、親も教員も余り考えてないのではないかと思う。もちろん、子どもは何も考えない。
 だから、目先の欲望の充足に、自分の未来そのものを失う事態が生じる。さまざまな醜い本能剥き出しの事件がそうだろう。

 「欲望」は全て「・・・したい」という「現在形」で表現される。よって、全ての欲望はまるで同質であるかのように見えてしまう。(これも、上記、「質」という語を使いたくない理由である。)「なぜ、・・・したいと思うのか。なぜ、それが良いのか」を問うことがまずないから、どの欲望も同質に感じられる。

 今の時代の変な兆候のそもそもの原因は、欲望とは何かを深く探求させないままに実行に移そうとする考え方にあるのではないか。

 しかし、常に現在形でしか表せない欲望であっても、欲望には「階層性」があるのだ。本能的な欲望から、今現在の自分の目には見えていない未来、あるいは、空間的に遠い世界を予測したり予想したりした上での欲望まで。一皮めくって二皮めくって、ひっくり返して、欲望は初めて構造的に捉えることができる。

 ところが、現実には、欲望は、階層性を無視し常に同質のものとして語られる。よって、捲ったときの階層の違いから、奇妙な行き違いがあちこちで生じる。

 これを防ぐにはどうすべきか。

 私は、(私の考えでは「人間の独自性」たる)「想像力」を駆使させる訓練が重要なのではないかと思う。
 ところが、今の教育は、「欲望」を持たせることに、特に重きが置かれているかのようで、想像力の訓練がまるでないに等しい。社会もただ「自分のしたいようにするのが良いことだ」と言う価値観で、欲望の生成と欲望の追求を後押しする。欲望の階層性を問うことはしない。それで、「勘違い」する子どもや親が多く出てきても何ら不思議はない気がする。(教員もそうだが。)

 確認のために言うが、私は欲望を追求するなと主張しているのではない。しかし、いかなる欲望を何故に欲するのか、それを裏から表から表層を剥がして剥がして本質に迫る。あらゆる角度からとことん探求する姿勢を育てる方が何より大事なのではないか。
 養老先生は「参議院は50年先のことだけを論じろ」と提案するが、これも同じ発想だ。常に現在形で語られる欲望の「現在」に騙されてはいけないのである。

 なぜ人間は「現在」に騙されてはいけないのか。

 なぜなら、人間の最大の特徴は、時間的にも空間的にも眼前にないものを想像できる力を持たされたことにあるからだ。人間が今ここにこのようにある理由を、私はこれ以外に考えることができない。

 子どもには、欲望について考えさせろ。どうやったら、その欲望が適うかが大切なのではない。その欲望が適ってから後、どうなるか。その欲望が適うことに何が見いだせるかを想像させるのだ。その納得のうえに欲望を追求させるのだ。
 幼い時分からそういった訓練を積んだ子どもは、きっと素晴らしい大人に育つだろう。

だから勉強は難しい

2006年05月25日 | 教育
 勉強とは抽象化である。感覚で捉えられる差異に満ちた世界を何らかの形で同一性を見出して記号化し、概念化するわけであろう。だから、難しいのだ。この脳の働きは脳の機能としてかなり後発だろう。だから、難しいのだ。

英語の予習:古くさくってどこが悪い

2006年05月20日 | 教育
 今年は実に古典的な英語の授業を行っている。まず、予習では、本文を写して和訳をしてくることを要求する。これで、生徒は、鉛筆を持って机に座り、心を落ち着かせてせっせと目と手の運動をし、前頭前野を活性化することができる。めんどくさいと思いながら紙の辞書を引き、ノートに意味を書き留める。彼らはノートの使い方もこのときに考えることができる。時間を掛けて引くことで、いくつかの単語は覚えるまではいかずとも、いくらか印象に残るだろう。

 自分が高校生の時にやっていたのとまるで同じ勉強法である。で、私の場合、夏休みにはどんどん予習の「やり貯め」をした。2学期中間考査くらいの授業範囲の予習は、夏休みにできていた。すると、9月に入って授業が始まると不思議なことが起こった。1と月以上前に自分が書いた予習の訳を見る、教科書の英文を見る。と、自分の訳の間違いに気が付くのである。(もちろん、気が付かないものもあったけど。)ちなみに、私は塾にも行ってなかったし、家庭教師に習うこともなかった。それでも、自分で辞書を引いて訳をしていただけで、英文解釈の力が付いてしまったということである。でなければ、自分の訳の間違いに気が付くはずがない。で、授業を受けるより先に、自分で訳を直していた。

 これって、凄くない?

 同時通訳のとても偉いお爺さんの先生が、日本で最も権威のある英語教員コミュニケーション能力向上用の研修で「この講座でこんなことを言うのも何だが、訳をすれば良いんだ。私はそれで同時通訳もできるようになった。」

 で、更に、私の場合、いまでこそ、こんなにたくさんの文章を喜んで書いている。ブログじゃなくても「わかりやすい」と褒めてくれる人もいる。しかし、小中学生の時は、文章を書くのが苦手で嫌いだった。それで、私が初めて日本語を「文章」としてたくさん書いたのは、なんと、英語の教科書の「和訳」だったのである。私は日本語の主述の呼応を学習し、「てにをは」に悩んだ。(今もそうだが。)私は、和訳を通してかなり強烈に日本語を学んだのである。
 これももの凄いことだと思う。(笑)

 こういった「文章修行」により、私が書く文は、やたら長い修飾語が名詞の前に付いている。(笑)関係詞の後ろからひっくり返して訳すやり方そのままである。(昔は、全部そうやって訳していたものである。)やっと最近になって、これって変だよね、日本語の言い回しだったら副詞・動詞が多いはずだ、という事実に思い至り(笑)、日本語らしく表現を練り直すこともするようになったのだ、実は。(←気が付くのが遅いってば・笑)

 日本語の文章を書くと言う点では、今の生徒だって、似たようなものじゃろ。
 だったら、私と同じやり方でやればいいじゃないか。それなりにできるようにはなるよ、絶対に。で、たぶん、私が受けた授業より、私の授業の方が「文章読解」の観点では良い授業していると思うよ。(これは時代の流れもあるけれど。)しかも、文章の書き方までをも読解を通して教えている。(文章は、語彙だけで書けるものではないのだ。)

 教員なんて、ホントは、前に立ってるだけで良いのである。それで、生徒が勉強をすれば、良いのである。(授業の究極の目的とは、生徒が勉強をすることであって、教員が教えることそのものでないからだ。)教員は、方向を正しく指し示せば、それで良いのである。生徒が変な方向に曲がろうとしたとき、ひょいひょい直してやれば良いのである。でなければ、生徒は将来的に先生より偉くなれないじゃないか。それが、きっと、内田樹先生がおっしゃる「仰角」で、「先生はえらい」ということなのである。
 

勉強するのは良いことではない

2006年05月20日 | 教育
と、皆さん、思っていらっしゃるでしょう、きっと。ほら。口では何のかんのとおっしゃるでしょうが、内心では、心の奥深いところでは、「勉強する奴にろくな奴はおらん」とお思いでしょう。真の病は、学校の先生でも、たぶん、かなりの人は、そのようにお考えだということです。最近(と言って、ここ数年)の結論です。

 だったら、ケータイも使うな。テレビも見るな。病院にも行くな。いいとこ取りをするな。恩恵だけを受けようとするなよ、と思う。

教員評価とその他愚痴

2006年05月19日 | 教育
 私の記事としては、大変珍しい内容である。
 教員評価に関わる書類を書かされる。そのためのテーマを2つ決めろ、指標を書け、と言うものである。
 で、そのテーマの決め方に関わるのだが、本校は以下のような分け方をしました、つきまして、一つずつ選んで書いて下さい、と言う。
 余程質問してやろうかと思った。だって、その二つの分類の意図がみえないんだもの。

 学校教育の基本は、学習指導と生徒指導じゃないの? どんなに小さい学校でも、学習指導と生徒指導はあるでしょ。なのに、研究テーマとして、ウチは、両者を同じカテゴリーに入れている。そんなんで、なにが一つずつ選んで2つのテーマにせよなのか? 本校の教育は、片一方だけでいいってことなのね、きっと。みんな不思議に思わないのかしら?

 私は無性に腹が立つ。根っこが間違っている。学校がうまくいくわけがない。
 (こんなことで腹を立てていたのでは、教員なんてやっていけないのだろーなぁ。。で、このハラの立て方、教員のハラの立て方としては、きっとちょっと、いや、もの凄く、「変わっている」のだろうな。)

 以下も、愚痴。
 生徒が昼ご飯を庭で食べていた。教室で食べろと言ったら、外で食べても良いじゃないかという教員がいて、主任までが、昔は外で食べている生徒もいた、いつから禁止されたのか、等と言い出す。
 ついこの間、私は中庭で地べたに座って食べている生徒に注意したのだ。そしたら、ベンチだったら良いんじゃないのか、数少ないベンチがいっぱいだったらシートを敷いていたら良いんじゃないのか、と言い出す御方が出てくる。マナー指導をすればいいとおっしゃる御方もいる。誰がするんだ。今だって、ジュースを飲みながら歩く生徒はたくさんいるのだ。はっきり言って、そんな指導を私はしたくない。これ以上、仕事を増やすな、しかも、結果的に、ひ・と・の・し・ご・と・を。
 第一、学校に、昼メシを食うのにわざわざレジャーシートを持ってくるのかい??? 学校はピクニックじゃない。

 ほんの数年前、玄関先の庭石に座ってパンをかじっている行儀の悪い生徒がいたことを忘れたのか。傘立てに座って食べていたり。
 のど元過ぎれば、とはこのことか。

 ま、「ウチはレジャーランドだ」と思えば、全てがすんなり理解できる。教員は、「お客様」「それぞれの個性に応じたご要望に応える」ためにいるんだね。保護者の中には、「そんなの当たり前でしょ。学校は生徒のためにあるのだから。」と宣う御方もいらっしゃるであろう。

 学校にいると、自分がときどき「宇宙人」のような気がしてくる。マイノリティは辛いぜ。あー、やってられん。

扁桃体の欲望と理性による制御

2006年05月18日 | 教育
 昨日の「ためしてガッテン」で、振り込め詐欺を扱っていた。この詐欺は、うまいこと扁桃体の機能を利用しているようだ。前頭葉による理性は、扁桃体の「欲望」になかなか勝てないのである。その方が本来だったら生存に有利なのだ。「正常」が「騙されやすさ」に繋がるのである。

 扁桃体は古い脳で、情動を管理する。ふつーに「人間らしい」と言うときの人間らしさは、情動によって行動することで、つまりは、「扁桃体による支配を受けやすいこと」であろう。
 計算機能が人間だけが持つ新しい脳の働きだと言っても、ふつーは、計算能力が高い人を指して「あの人は人間らしい」と言うことはない。扁桃体が操る情動的な本能と学校の勉強は、対立することが多い。振り込め詐欺に引っ掛かるのは情動が勝った状況で、子どもが「勉強しなさい」と言われて嫌々ながらでも学校の勉強ができるようになるのは理性が勝ったということだろう。だから、「勉強ができる奴には冷たい奴が多い」なんて思われるのである。(たぶん。)

 その点、「勉強好きの子ども」は、珍しく扁桃体の欲望と理性が一致したのだろう。私の知っている「とてもアタマがいい人たち」は、とても人間的である。優しさも兼ね備えながら、冷静な判断力を持つ。ホントに余裕があるというか、アタマがいい人、っていうのは、こういう人なのだろうなぁと感心する人は現実にいる。彼らはとても余裕があるのだ。生得的なものか教育によるものなのか、両方なのかはわからない。

 ってことを考えると、そういう「ホントにアタマの良い人たち」は、人間として極めて正統的に進化している人たちと言うことなのだろうか。だって、新しい脳の機能が優秀で、古い脳との調和も取れているのだから。

 なんにせよ、「古い脳と新しい脳の調和」が、教育の課題であろう。かつ、「人間らしさ」の常識が古い脳の機能によるものである限り、当面は、古い脳をいかに制御するかが最大の課題になるだろう。それで、古い脳を制御しすぎようとしたのが、かつての「詰め込み教育」と揶揄されたものだろうか。
 「勉強ばかりさせられて、自分のしたいことがわからなくなった。だから、子どもには私のような思いをさせたくない。好きなことをさせてやりたい。」という近頃の親の気持ちがそうだったりするのだろう。だから、「ゆとり教育」が一時的であれ、大衆的には容認されたのだ。

 養老先生が、「身体と脳の調和」というのは、「古い脳と新しい脳の調和」を意味するだろう。
 うん、養老先生は、えらい。人間をよくご存じである。
 
 書いてしまえば、こんなに簡単である。なのにうまくいかないのは、きっと、理性を暴走させる人と、古い脳に支配されている人の方が、人間としてうまく進化して調和が取れる脳を獲得した人よりずっと人数が多いからだろう。
 こんな事を書くと反感買いそうである。しかし、私だって、うまく調和が取れているわけではない。情動が過ぎるか、理性が過ぎるかのどちらかだ。(笑)調和のとれている人がうらやましい。

 で、なんで反感を買うか。「認められてない」と思われるからである。「認めて欲しい」という欲求を持っていない人はいないから。「イエスマン」が生まれるのもだからだろう。民主主義がもてはやされるのもだからだろう。そう考えれば、全てが納得いく。(話がずれた。)

集団と個(書いただけ)

2006年05月17日 | 教育
 全てというか、大方の議論は、個人の立場と何らかの集団のどちらの立場からモノを言うか、あるいは、その兼ね合いがどうなっているかという問題ではないかと疑う。

 個人とは、欲望(あるいは本能)に基づいて行動する生物としての実在に依拠するのが常だろうし、対する集団は言わば「虚」で、アタマの中の存在でしかない。集団は、個人が互いに認識し合うという脳のもつ働きに依存するほか成立し得ないからだ。「実体」と「空想」の違いとも言える。

 自己の認識を自分一人の個人にとどまっていたのでは、誰も集団を認識することをできない。よって、集団とは、個人より高度なモノとして位置するものではないかと思う。個人は、あるがままに存在していて「これはオレだ」と何か感じるモノさえあれば良かろうが、集団はそういうわけにはいくまい。だから、他の動物には(知能の程度というか、どの程度社会的かどうかによるが)「自分」しかない。他の動物は、共に何らかの集団を作っているという認識を人間ほどには決して持たないだろう。

 何にせよ、集団と個は対立するのではないかと思う。心と身体、都市と田舎の対立のようなものかもしれないが、今はまだよくわからない。

 理想は、集団と個人の共存共栄だが、現実は、こちらを立てればあちらが立たず、になりがちではないか。

 それで、今の日本の社会は、個を妙に重視するものだから、集団が成り立たなくなってきつつあるのだと思う。
 教育も、まずは自分ありきである。「あなたは何がしたいの? どういうことに興味があるの?」進路相談でよく使う科白だ。その子に何が要求されているかを問う必要はない。「親は好きにして良いと言っている。」と彼らは言うし、制約もない代わり、社会から切実に要求されるものも、これと言って特にない。

 集団には、国家も含まれる。学校も含まれる。個は、どんな動物にもあり、対立は、集団と個だけでなく、個と個においても生じる。しかし、集団は視野を自分だけの「個」から「個と個と関わり」に広げなければ目に入ってこない。この方が「人間らしさ」が強く感じられるのではないか。だから、小さい頃から子どもに要求されるのが個であるというのは、一見は「高級」そうに見えても、実のところは逆に人間らしくない気がする。それで、日本における「個」は、西洋からいきなり入ってきた概念だろうから、十分消化されないまま孤立しやすい個になってしまっているのではないかしら。人間ほど社会性のある動物は他にないと思っていたが、近頃の日本人は、どうやらそうでないということだろうか。
 「日本人は結束すると何をしでかすかわからない」と思ったアメリカの思うつぼってことなのかな?

 もっとも、個を重視できるのは、それだけ社会が富んでいるからでもあろう。個が並び立つほどに豊かになったのだ。同じ場所で集団でそれなりに平和に暮らしていると危機感がなくなってくるのだろう。そうなると、「集団」よりも「個」が優先されるのだろうな。集団は対抗する他の集団がないと、存在を認識できないのだろうから。(だから、人間は集団のアイデンティティ確認のためなのか、時々戦争をしちゃうのだろうか。)
 個として食っていけなくなれば、集団が優勢になってくるのだろうか。それとも、(そのときまでにまとまる力を全く失ってしまうと)個は次から次へとばたばた倒れ伏していくのだろうか。