北海道旭川北高校という学校がある。
2番手進学校(私の勝手な定義だが、「学校をあげて大学進学を標榜しそれなりの進学指導を行っているが東大・京大への入学者がほとんどいない、しかし、旧帝大への進学者はいて、ほぼ全員が大学に進学する、という学校」)のようである。
この学校、来年度から始まる新しい教育課程でコミュニケーションが重視される英語の授業に関して、ほとんどall English で授業を行い進学も頑張っているという観点で、最近?ちょいと脚光を浴びているようすだから、HPをググって勝手に調べてみた。
部活動も盛んで、なかなか良い学校♪のようだ。(ほりの勤務校にとってもよく似ているよ♪)
勉強がとびきり出来るわけでないけれど、進学したい、勉強だけでない高校生活を充実させたい、と思っている中学生にはお勧めの学校かもしれない。(って、ヨソの学校を宣伝してどうなる? でも、ほりの勤務校も、部活が盛んで全国大会に出る部活もある良い学校だからね。)
HPによると、ここ数年の沿革は以下の様子。
2005 4 1 国立教育政策研究所より平成17・18年度教育課程研究指定校(外国語)
2005 8 2 平成18年度から進学重視型単位制導入決定
2005 8 30 全国高校化学グランプリ2005 金賞受賞(3年加茂君)
2006 3 24 平成17年度第2回実用英語技能検定優良団体賞受賞
2006 4 1 英語科募集停止・進学重視型単位制導入
2006 7 19 平成18年度北海道学力向上推進事業(高等学校学力アッププロジェクト)
Englishプロジェクト推進校指定
2006 10 12 単位制導入校舎改修工事(~19.2.28)
2006 10 24 通信回線を利用した遠隔キャリア教育(東京~旭川間の双方向同時対話)
2007 3 29 平成18年度実用英語技能検定優良団体賞受賞
2007 4 2 文部科学省 スーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクール(SELHi)指定(3ケ年)
2007 5 1 文部科学省(国語力向上モデル事業)国語教育推進校指定(2ケ年)
2007 6 1 「遠隔キャリア教育」実践評価表彰( 電波の日・情報通信月間記念式)
2010 11 6 創立70周年記念式典挙行
研究指定校に関しては以下のごとく、すごい。(HPでPDFがある。)
■「北海道イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクール奨励校」
(英語力向上)北海道教育委員会 平成16~17年度
■「北海道パイオニアハイスクール奨励校」(単位制)
北海道教育委員会 平成16~17年度
■「教育課程研究指定校事業」(外国語)
国立教育政策研究所 平成17~18年度
■「北海道学力向上推進事業」
(高等学校学力アッププロジェクト Englishプロジェクト)
北海道教育委員会 平成18~20年度
■「スーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクール」(SELHi)
文部科学省 平成19~21年度
この学校、英語に関しては、16年度から21年度にかけて(18年度は抜けるが)、研究指定に取り組んでいたことになる。また、同時にこの時期、他の教科等でも、同様に研究に取り組んでいたと言うことになる。
進学校の場合、コミュニケーション英語などに関して心配するのは、授業を変えて進学実績がどうなるか、という問題だ。
聞いたところによると、進学実績は上がったと言う報告がされたということだ。
顕著なのは、偏差値が50以下の生徒の割合が減ったと言う。英語嫌いが減り、学習に精を出す雰囲気が広がったと言うことだから、これは大きい。平均偏差値がぐっとあがるだけでなく、授業の質が変わる。
また、模試などでは表現力、つまり、作文力が上がったらしい。以前、別のソースから聞いた話だが、作文力がある生徒は、学力が伸びる傾向がある。(これは体験的にも感じる。)
私が聞いた国公立合格者数は、140人を超える数字である。それまで100人ほどだった国公立合格者数がほとんどオールイングリッシュの授業を始めてから140に跳ね上がったというものだった。(しかし、上記のように英語だけがこの時期の学校の改革?ではない。他の要因の影響はなかったかの検討は必要だろう。
HPに以下のような数字が並んでいた。(H23はこの春H24年3月の数字だろう。)1学年6クラス計240名の学校だから、120人ならクラスの半数が国公立に進学する数字だ。それなりに良い数字である。(良い悪いは相対的なものではある。40人学級で30人が国公立というのも理系クラスならけっこうある話だ。)
(どうしても、>の記号が消えない。)
| H19 | > H20 | H21 | H22 | H23 |
国公立現役計 | 123 | 125 | 103 | 98 | 106 |
国公立現浪計 | 142 | > 146 | 116 | 115 | 130 |
ちなみに旧帝大・医学部など入りにくい大学合格数(現役のみの人数は不明)を拾って勝手に合計した。
北海道大 | 14 | 27 | 17 | 16 | 15 |
東北大 | | 2 | | 3 | 3 | 京大 | 1 | 1 | 1 | | |
大阪大 | | | | | 1 |
名古屋大 | | | | | 1 |
旭川医・医 | | | 2 | 2 | 1 |
東京工業大 | | 1 | | | |
一橋大 | | | 1 | 1 | |
東京外語大 | | 1 | | | 1 |
上記計 | 15 | 32 | 21 | 22 | 22 |
地元医大は「地域枠」があるから、学力で合格した数字かどうかはわからない。
また、下賤だが、阪大はどこ学部かな?と思う。外国部学部だったら、元の大阪外語で阪大と言えどかなり入りやすい。
H19・20に国際教養大も合格しているが当時はさほど難しくない。当時の合格者のほりの印象は「文法の基本がきっちりわかっていることが記述の答案からわかる生徒は合格」だから。
気になるのは、H22・H23の低下であるが、年度ではなく、同じ卒業学年としての合格者数を考える。過年度卒合格者分を「2浪はない」という仮定で現役数に加えて表を作ってみた。
| H19 | > H20 | H21 | H22 | H23 |
合格現役計 | 123 | 125 | 103 | 98 | 106 |
1浪合格計 | 21 | > 13 | 17 | 24 | |
同学年での計 | 144 | 138 | 120 | 122 | |
こうしてみると、浪人での合格者数に年度による違いはない。
H20とH21で、数字が大きく下がる。浪人を加えたとしても、合格者は、H19・H20よりやはり下がっている。
これって、SELHi以前の数字とどれくらい違うのだろう?
で、思うのは、果たしてall Englishの授業が成果をだしたかどうか、だ。
意地悪かもしれないが、教育はコンビニのお菓子とちょっと似ている。
コンビニでも何でも、近頃は、「新製品」がいろいろ出る。目新しさで売り上げを伸ばすためだろう。飽きっぽい消費者対策である。
生徒も同様な性質を持つ。「目新しさ」が生徒の歓心を買い、一時的に高い効果を出すことがあるのである。教える方が意気揚々とするから、生徒に良い刺激を与えるというメリットもある。でも、こうした方策は、お菓子の新製品と同様、「飽きられたら終わり」である。で、先生たちは次から次へと「工夫」をする。ところが、そんなの、コンビニ菓子と違って、そうそう続くわけがない。
「世間の常識」だと、「一般の企業はそうした努力を重ねているのだから、先生も努力して生徒の歓心を買え」だろうが、これこそ、子供を学習から遠ざける要因である。(この辺りの理由は単純には、生徒に「先生の教え方が下手だから勉強できない」、「やる気を失って良い」口実を与えることになるからだ。)
しかし、教育は、「ロングセラーの飽きのこないお菓子」が基本である。何世代にもわたって継続的に行われている、ということはそういうことだ。近年の教育改革とは、DNAそのものを変化させることが良いことだ、とでも言わんばかりだ。(無理だ。)
で、思うに、日本の昨今の生徒の学力の低下(私は肌で感じる)は、「ロングセラーレシピ」を捨てたからではないか。「ロングセラーのレシピよりも、新しいレシピだったら何だって良い」と言う誤った価値判断があるように思う。それが「教育改革をしよう」という考えに向かう。
ただ、「この人は無意味にコミュニケーション英語に反対しているんだな」と思われるのはちょっと違う。
コミュニケーション重視の授業の利点を次に検討したいと思う。
偏差値50以下の生徒の「英語嫌い」は、「コミュニケーション」によって減る可能性は高い。なぜなら、オーラル指導(一般にはコミュニケーション=オーラルであろう)は、読み書きと違って、「間違いが消える」。また、読み書きと違って、わざわざ鉛筆で書くという手間が省ける。一般論として偏差値50以下の生徒は、筆写などのめんどーな行為を嫌がる。「しゃべってその場はとにかく終わることができる」のは彼らにとって、大きな魅力なのである。しかも、「予習不要」の授業らしいので、こりゃ、生徒は「取っつきやすさ」の観点で魅力的である。で、試験前には、「試験に出そうなこと」を徹底的にやれば良い。イマドキの英語の試験範囲は大したものでない。(それでも出来ないのだが。)
イマドキの生徒は現金で、極めて具体的に「何をしたら点に結びつくか」がわかると俄然やる気を出す。(逆に言うと、ストレートに点に結びつかないとやる気を出さない。)
と、聞くと、「じゃあ、その性質を利用して勉強させる方策はすばらしい」と思われることだろう。
で、ここで見解が分かれる。私の見解と。で、ちょっと話は逸れる。
私は現金な合目的的な生き方は、たぶん、そのうちに行き詰まると思っている。もっと極端に言うと、若者を死なせることになるから、私は反対なのだ。
あれほど就活に懸命になってもいざ就職してもすぐに止める、とか、直ぐに離婚する、とか、子供を虐待するとか。共通するのは、「結論を早くだそうとする思考法・行為」である。この究極は、自分で自分の人生を止めることである。(生活苦、金銭的なものだ、というのは、私は与しない。お金がなくても生きている、少なくとも死を選ばない人はいくらでもいる。)
この意見に説得力を認めない人もいらっしゃると思う。なぜなら、私はイマドキの「真っ当」な考え方の逆を言っているからだ。
と、話がずいぶんと逸れた。
さんざんケチをつけたが、利点がある。その利点は、「ロングセラーのお菓子のレシピ」に関わるものだ。
この観点で、「コミュニケーション」という言い方が良いのか、悪いのか、わかったものじゃない。
「英語ができる」ということが何を意味するかを考えると、「英語の文章や人が言っていることの意味がわかり、他の日本人に内容を適切に伝えることが出来、かつ、自分の意いたことや他の人の主張を英語を用いて的確に伝えることが出来る」というものだろう。異論はないがはずだ。ただ、ぱっと聞くと「それはなかなか難しいね」と言うだろう。
しかし、これを「コミュニケーション」と言い換えると、「コミュニケーションは大事だ」と、とたんに肯定的な意見が出るだろう。「読み書き」のハードルがなくなるから、容易に感じられるのだ。(偏差値50以下の生徒と同じ発想である。)
で、ちょっと話を元に戻すと、「人の主張がわかって、自分の言いたいこと、伝えたいことを伝えることの重要性」なら、私は大賛成である。(自由英作文の大部分はこれである。)
でもね、これ、東大の入試問題とほとんど変わらないよ。現実の対話ではなく、書面でこれを行っているのが何年か前の東大の入試だ。多少、「伝えたい内容」が込み入っているけど、やっていることの本質はそうである。
ところで、上記高校の試験問題の一部を見せてもらったが、ほとんど作文である。
それで良いと思う。
( )埋めや記号問題がそもそもの邪道なのである。でも、たいていの先生は、採点の基準や他の手間暇などの観点から、( )埋めなどの問題を好み、記述中心の問題を嫌がる。センター試験の存在がこの心情を助長させる。センター試験が( )埋めや選択問題を正当化してくれるからだ。
かといって、いきなり東大の入試問題で要求している方式を生徒に持ってきても困難である。教員が嫌がるのと同じ理由で。(しかし、近年は、また昔のふつーの問題に戻ってしまった。「選抜」の方式としては無理があったのかしらね。)
そうした抵抗感を減らすための「オーラル」が「コミュニケーション英語」に名を借りるのは、なかなか名案かもしれないと思う。
これを「ロングセラーのお菓子」にするのは名案である。
しかし、気になることが一つある。
「論理」の学習である。「コミュニケーション」が話題の時、たぶん、決して論点に挙がってきそうにない問題である。
で、思うのは、口頭での論理の学習は無理ではないか、というものだ。
文章(スピーチでも発話でも何でも良いが)の論理的な展開は、日本語でも生徒の理解がなかなか困難である。「論の展開」という抽象的な事項の理解は、難しい。思考法を変えることに同意だからだ。「論」は聞きかじって知った「知識」のレベルでは体得できない。母語でも難しい学習を、まして、外国語では。。。
私の疑問は、論理の学習をこの高校はどのように習得させているのだろうか、ということだ。
readingの教科書には、論理展開のいくらかが書かれていることが多いが、英語ⅠでもⅡでも、もっと言うと、小学生の文章であっても、論理展開は教えることが出来る。(ネイティブは習っているはずだ。)しかし、日本人は、こうしたものを「難しい」として教えない。教えないから、わからず、読めない、通じる英語(文レベルではなく、文章展開の観点で)になりにくい、という問題が生じると私は思う。
非常に多くの場合、「論理」は、「問題を解く」という形で、何となく習得される過程を辿る。しかし、読解そのものの時点で、あるいは、作文の時点で、習得されない限り、正しい文章理解や文章表現にはならない。(「文」ではなく、「文章」である。念のため。)
私は、難しいものは、扱いが易しいうちに、たとえば小学生レベルの文章のうちに基本をたたき込んでやるのが良いと思うが、賛同を得ない。容易な文章は、とにもかくにも「わかる」から必要性を感じないのである。しかし、難しい文章も、もともとは容易な文章展開と本質に変わりはない。そのときに読解の基本を体得しているのとしていないのでは随分違うだろうと感じるのだ。
だから、この学校は、どうしているのか、と思う。