考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

旭川北高校のコミュニケーション英語の話をちょっと耳にして思ったこと

2012年08月31日 | 教育
 北海道旭川北高校という学校がある。
 2番手進学校(私の勝手な定義だが、「学校をあげて大学進学を標榜しそれなりの進学指導を行っているが東大・京大への入学者がほとんどいない、しかし、旧帝大への進学者はいて、ほぼ全員が大学に進学する、という学校」)のようである。
 この学校、来年度から始まる新しい教育課程でコミュニケーションが重視される英語の授業に関して、ほとんどall English で授業を行い進学も頑張っているという観点で、最近?ちょいと脚光を浴びているようすだから、HPをググって勝手に調べてみた。

 部活動も盛んで、なかなか良い学校♪のようだ。(ほりの勤務校にとってもよく似ているよ♪)
 勉強がとびきり出来るわけでないけれど、進学したい、勉強だけでない高校生活を充実させたい、と思っている中学生にはお勧めの学校かもしれない。(って、ヨソの学校を宣伝してどうなる? でも、ほりの勤務校も、部活が盛んで全国大会に出る部活もある良い学校だからね。)

 HPによると、ここ数年の沿革は以下の様子。

2005 4 1 国立教育政策研究所より平成17・18年度教育課程研究指定校(外国語)
2005 8 2 平成18年度から進学重視型単位制導入決定
2005 8 30 全国高校化学グランプリ2005 金賞受賞(3年加茂君)
2006 3 24 平成17年度第2回実用英語技能検定優良団体賞受賞
2006 4 1 英語科募集停止・進学重視型単位制導入
2006 7 19 平成18年度北海道学力向上推進事業(高等学校学力アッププロジェクト)
     Englishプロジェクト推進校指定
2006 10 12 単位制導入校舎改修工事(~19.2.28)
2006 10 24 通信回線を利用した遠隔キャリア教育(東京~旭川間の双方向同時対話)
2007 3 29 平成18年度実用英語技能検定優良団体賞受賞
2007 4 2 文部科学省 スーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクール(SELHi)指定(3ケ年)
2007 5 1 文部科学省(国語力向上モデル事業)国語教育推進校指定(2ケ年)
2007 6 1 「遠隔キャリア教育」実践評価表彰( 電波の日・情報通信月間記念式)
2010 11 6 創立70周年記念式典挙行

研究指定校に関しては以下のごとく、すごい。(HPでPDFがある。)

■「北海道イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクール奨励校」
  (英語力向上)北海道教育委員会 平成16~17年度
■「北海道パイオニアハイスクール奨励校」(単位制)
  北海道教育委員会 平成16~17年度
■「教育課程研究指定校事業」(外国語)
  国立教育政策研究所 平成17~18年度
■「北海道学力向上推進事業」
  (高等学校学力アッププロジェクト Englishプロジェクト)
  北海道教育委員会 平成18~20年度
■「スーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクール」(SELHi)
  文部科学省 平成19~21年度

 この学校、英語に関しては、16年度から21年度にかけて(18年度は抜けるが)、研究指定に取り組んでいたことになる。また、同時にこの時期、他の教科等でも、同様に研究に取り組んでいたと言うことになる。

 進学校の場合、コミュニケーション英語などに関して心配するのは、授業を変えて進学実績がどうなるか、という問題だ。

 聞いたところによると、進学実績は上がったと言う報告がされたということだ。
 顕著なのは、偏差値が50以下の生徒の割合が減ったと言う。英語嫌いが減り、学習に精を出す雰囲気が広がったと言うことだから、これは大きい。平均偏差値がぐっとあがるだけでなく、授業の質が変わる。
 また、模試などでは表現力、つまり、作文力が上がったらしい。以前、別のソースから聞いた話だが、作文力がある生徒は、学力が伸びる傾向がある。(これは体験的にも感じる。)

 私が聞いた国公立合格者数は、140人を超える数字である。それまで100人ほどだった国公立合格者数がほとんどオールイングリッシュの授業を始めてから140に跳ね上がったというものだった。(しかし、上記のように英語だけがこの時期の学校の改革?ではない。他の要因の影響はなかったかの検討は必要だろう。
 HPに以下のような数字が並んでいた。(H23はこの春H24年3月の数字だろう。)1学年6クラス計240名の学校だから、120人ならクラスの半数が国公立に進学する数字だ。それなりに良い数字である。(良い悪いは相対的なものではある。40人学級で30人が国公立というのも理系クラスならけっこうある話だ。)

(どうしても、>の記号が消えない。)>
>
        H19  H20  H21  H22   H23
国公立現役計  123  125  103   98   106
国公立現浪計  142  146  116  115  130

ちなみに旧帝大・医学部など入りにくい大学合格数(現役のみの人数は不明)を拾って勝手に合計した。
北海道大      14   27   17   16   15
東北大           2       3    3
京大        1    1    1         
大阪大                     1
名古屋大                          1
旭川医・医               2    2    1
東京工業大      1                    
一橋大          1    1    
東京外語大       1                      1
上記計   15   32   21   22   22
   

 地元医大は「地域枠」があるから、学力で合格した数字かどうかはわからない。
 また、下賤だが、阪大はどこ学部かな?と思う。外国部学部だったら、元の大阪外語で阪大と言えどかなり入りやすい。
 H19・20に国際教養大も合格しているが当時はさほど難しくない。当時の合格者のほりの印象は「文法の基本がきっちりわかっていることが記述の答案からわかる生徒は合格」だから。

 気になるのは、H22・H23の低下であるが、年度ではなく、同じ卒業学年としての合格者数を考える。過年度卒合格者分を「2浪はない」という仮定で現役数に加えて表を作ってみた。
>
>
        H19  H20  H21  H22  H23
合格現役計  123  125  103   98  106
1浪合格計   21   13   17   24  
同学年での計  144  138  120  122  

 こうしてみると、浪人での合格者数に年度による違いはない。
 H20とH21で、数字が大きく下がる。浪人を加えたとしても、合格者は、H19・H20よりやはり下がっている。
 これって、SELHi以前の数字とどれくらい違うのだろう?

 で、思うのは、果たしてall Englishの授業が成果をだしたかどうか、だ。
 意地悪かもしれないが、教育はコンビニのお菓子とちょっと似ている。
 コンビニでも何でも、近頃は、「新製品」がいろいろ出る。目新しさで売り上げを伸ばすためだろう。飽きっぽい消費者対策である。
 生徒も同様な性質を持つ。「目新しさ」が生徒の歓心を買い、一時的に高い効果を出すことがあるのである。教える方が意気揚々とするから、生徒に良い刺激を与えるというメリットもある。でも、こうした方策は、お菓子の新製品と同様、「飽きられたら終わり」である。で、先生たちは次から次へと「工夫」をする。ところが、そんなの、コンビニ菓子と違って、そうそう続くわけがない。
 「世間の常識」だと、「一般の企業はそうした努力を重ねているのだから、先生も努力して生徒の歓心を買え」だろうが、これこそ、子供を学習から遠ざける要因である。(この辺りの理由は単純には、生徒に「先生の教え方が下手だから勉強できない」、「やる気を失って良い」口実を与えることになるからだ。)
 しかし、教育は、「ロングセラーの飽きのこないお菓子」が基本である。何世代にもわたって継続的に行われている、ということはそういうことだ。近年の教育改革とは、DNAそのものを変化させることが良いことだ、とでも言わんばかりだ。(無理だ。)

 で、思うに、日本の昨今の生徒の学力の低下(私は肌で感じる)は、「ロングセラーレシピ」を捨てたからではないか。「ロングセラーのレシピよりも、新しいレシピだったら何だって良い」と言う誤った価値判断があるように思う。それが「教育改革をしよう」という考えに向かう。

 ただ、「この人は無意味にコミュニケーション英語に反対しているんだな」と思われるのはちょっと違う。
 コミュニケーション重視の授業の利点を次に検討したいと思う。
 偏差値50以下の生徒の「英語嫌い」は、「コミュニケーション」によって減る可能性は高い。なぜなら、オーラル指導(一般にはコミュニケーション=オーラルであろう)は、読み書きと違って、「間違いが消える」。また、読み書きと違って、わざわざ鉛筆で書くという手間が省ける。一般論として偏差値50以下の生徒は、筆写などのめんどーな行為を嫌がる。「しゃべってその場はとにかく終わることができる」のは彼らにとって、大きな魅力なのである。しかも、「予習不要」の授業らしいので、こりゃ、生徒は「取っつきやすさ」の観点で魅力的である。で、試験前には、「試験に出そうなこと」を徹底的にやれば良い。イマドキの英語の試験範囲は大したものでない。(それでも出来ないのだが。)
 イマドキの生徒は現金で、極めて具体的に「何をしたら点に結びつくか」がわかると俄然やる気を出す。(逆に言うと、ストレートに点に結びつかないとやる気を出さない。)
 と、聞くと、「じゃあ、その性質を利用して勉強させる方策はすばらしい」と思われることだろう。
 で、ここで見解が分かれる。私の見解と。で、ちょっと話は逸れる。

 私は現金な合目的的な生き方は、たぶん、そのうちに行き詰まると思っている。もっと極端に言うと、若者を死なせることになるから、私は反対なのだ。
 あれほど就活に懸命になってもいざ就職してもすぐに止める、とか、直ぐに離婚する、とか、子供を虐待するとか。共通するのは、「結論を早くだそうとする思考法・行為」である。この究極は、自分で自分の人生を止めることである。(生活苦、金銭的なものだ、というのは、私は与しない。お金がなくても生きている、少なくとも死を選ばない人はいくらでもいる。)
 この意見に説得力を認めない人もいらっしゃると思う。なぜなら、私はイマドキの「真っ当」な考え方の逆を言っているからだ。
 と、話がずいぶんと逸れた。
 
 さんざんケチをつけたが、利点がある。その利点は、「ロングセラーのお菓子のレシピ」に関わるものだ。
 この観点で、「コミュニケーション」という言い方が良いのか、悪いのか、わかったものじゃない。

 「英語ができる」ということが何を意味するかを考えると、「英語の文章や人が言っていることの意味がわかり、他の日本人に内容を適切に伝えることが出来、かつ、自分の意いたことや他の人の主張を英語を用いて的確に伝えることが出来る」というものだろう。異論はないがはずだ。ただ、ぱっと聞くと「それはなかなか難しいね」と言うだろう。
 しかし、これを「コミュニケーション」と言い換えると、「コミュニケーションは大事だ」と、とたんに肯定的な意見が出るだろう。「読み書き」のハードルがなくなるから、容易に感じられるのだ。(偏差値50以下の生徒と同じ発想である。)

 で、ちょっと話を元に戻すと、「人の主張がわかって、自分の言いたいこと、伝えたいことを伝えることの重要性」なら、私は大賛成である。(自由英作文の大部分はこれである。)
 でもね、これ、東大の入試問題とほとんど変わらないよ。現実の対話ではなく、書面でこれを行っているのが何年か前の東大の入試だ。多少、「伝えたい内容」が込み入っているけど、やっていることの本質はそうである。

 ところで、上記高校の試験問題の一部を見せてもらったが、ほとんど作文である。
 それで良いと思う。
 (   )埋めや記号問題がそもそもの邪道なのである。でも、たいていの先生は、採点の基準や他の手間暇などの観点から、(  )埋めなどの問題を好み、記述中心の問題を嫌がる。センター試験の存在がこの心情を助長させる。センター試験が(  )埋めや選択問題を正当化してくれるからだ。

 かといって、いきなり東大の入試問題で要求している方式を生徒に持ってきても困難である。教員が嫌がるのと同じ理由で。(しかし、近年は、また昔のふつーの問題に戻ってしまった。「選抜」の方式としては無理があったのかしらね。)
 そうした抵抗感を減らすための「オーラル」が「コミュニケーション英語」に名を借りるのは、なかなか名案かもしれないと思う。
 これを「ロングセラーのお菓子」にするのは名案である。

 しかし、気になることが一つある。
 「論理」の学習である。「コミュニケーション」が話題の時、たぶん、決して論点に挙がってきそうにない問題である。
 で、思うのは、口頭での論理の学習は無理ではないか、というものだ。

 文章(スピーチでも発話でも何でも良いが)の論理的な展開は、日本語でも生徒の理解がなかなか困難である。「論の展開」という抽象的な事項の理解は、難しい。思考法を変えることに同意だからだ。「論」は聞きかじって知った「知識」のレベルでは体得できない。母語でも難しい学習を、まして、外国語では。。。
 私の疑問は、論理の学習をこの高校はどのように習得させているのだろうか、ということだ。
 readingの教科書には、論理展開のいくらかが書かれていることが多いが、英語ⅠでもⅡでも、もっと言うと、小学生の文章であっても、論理展開は教えることが出来る。(ネイティブは習っているはずだ。)しかし、日本人は、こうしたものを「難しい」として教えない。教えないから、わからず、読めない、通じる英語(文レベルではなく、文章展開の観点で)になりにくい、という問題が生じると私は思う。
 非常に多くの場合、「論理」は、「問題を解く」という形で、何となく習得される過程を辿る。しかし、読解そのものの時点で、あるいは、作文の時点で、習得されない限り、正しい文章理解や文章表現にはならない。(「文」ではなく、「文章」である。念のため。)

 私は、難しいものは、扱いが易しいうちに、たとえば小学生レベルの文章のうちに基本をたたき込んでやるのが良いと思うが、賛同を得ない。容易な文章は、とにもかくにも「わかる」から必要性を感じないのである。しかし、難しい文章も、もともとは容易な文章展開と本質に変わりはない。そのときに読解の基本を体得しているのとしていないのでは随分違うだろうと感じるのだ。
 だから、この学校は、どうしているのか、と思う。

仏教の教えとイマドキの高校生

2012年08月30日 | 教育
 仏教は、けっこう欲望が深い人を対象にした宗教だろうなぁと思うことがある。たいていの宗教がそうだろうけど、まあ、大昔が貧しかったからだろうけれど、煩悩が多いことを苦にするのも、「欲望がある」という前提があってのことだ。でも、ともすると、社会が豊かになってくると、何も望まなくてもたいていのことは、ちっぽけな自分の思うがままになる。それなりに恵まれている、イマドキの生徒の毎日の生活がそうだ。「あなたは何をしたいの?」と問われて、問われるから彼らに「煩悩」が生じるだけの話で自分は何も考えない。その意味で、今の若い人は、けっこう仏教的な精神を持っているのかなと、真面目な人が聞いたら怒り出しそうなことも思ったりする。この意味で、何も考えない生徒にせっせと煩悩を背負い込ませるのが教員の仕事なのかなぁ。その意味で、煩悩を背負い込むことが「大人になる」ことなのかなと思ったりする。

 と書くと、それぞれ生徒は、悩みや苦しみを持っているものだ、と言われそうだ。もちろんその通りである。でも、なーんにも考えていない幸せな子もけっこういるものさ。



「オレだって、勉強していれば。。」と言う人

2012年08月23日 | 教育
 「オレだって、能力は負けていない。もう少し勉強をしていれば、(彼らと)何も変わりない。」と、自分に自信を思っている人にけっこう出会うけれど、私は信用をしない。
 その脳裏に浮かべる相手は明確でないことが多いが、どんな人たちであるかはわかる。しかし、私が見る分にその人たちと同等と言うことはない。たいていは明らかに負けている。
 そのように思っている人たちの「自負」は、それなりの専門的な知識を蓄え、既にひとかどのことをやっている、と思っていることだ。しかし、内実は二番煎じで「冴え」がない。思考の次元を変えることがないから汎用性がない。私と同様(笑)「一山」を超えてない。というか、決定的にまずいと思うのが、「一山」の存在をそもそも全く知らないと思われることだ。あるいは、無視をするというか。本当のところは広さどころか、深さも空の高さも知らない蛙なのかなぁと申し訳ないが思ってしまう。
 というわけで、それは違うでしょ、と思ってしまう。

ジャーナリストの英文ばかり

2012年08月23日 | 教育
 この頃、「生きた英語」とか何とかいうわけで、教科書でも問題集(つまりは
入試問題)、要は、どこかのジャーナリストかルポライターの文章ばかりである。若い感性の生徒は、決して入念ではない文章を読まされる羽目になっている。それなりに面白い内容もあるが文章そのものには含蓄がないというか、何というか、英語初心者が読むべき英文なのかと非常に疑問に思う。
 新聞雑誌の文章は軽いし文法上で「破格」にあたるものがけっこうある。「現代英語として通用するなら何であっても教えるべき価値がある」という前提だろうが、その言語そのものの「クセ」を習得するのが初心者にはけっこう大変なだったりするのに、いきなり「破格」の表現はこれを損なうのではないか。また、口語英語は、特有の表現が多い。まあ、「特有」というのでなかったとしても「よく使う」ものが中心になるから、それが本来の意味や用法から多少はずれた「例外」であることも多い。中学英語でtakeの初出は確か How long does it take to -- ? か何かである。takeの基本はあくまでも「(選んでで)取る」だから、生徒は「取る」と言う意味でのtakeを理解しない。「時間が掛かる」と内容敵意につながりにくく、結局、両方共に習得にものすごく時間が掛かる。羅列的な丸暗記だからだろう。He is gone. などが初級段階で出てきた分にはgoの用法を間違えて覚える。goだけに留まらず、どんな動詞であっても「be+過去分詞」の用法をOKだと考える。
 困ったものである。
 文法上の問題だけではない。現代の文章は、軽い。また、難解な文章は、今度は中身に乏しいことがある。また、日本語であってもそうだが、味付けで喩えると水っぽいと言うか何というか。何ほども文章を読まない生徒が読む文書として意味があるのだろうか。戦前(←大ざっぱ。。)の文章にはうんうんと唸らせるものが多い。語法は古いかもしれないが、これぞ日本語の味付けと思う。また、語と語の連関が密で文章読解の観点から解説をしたらおそらくキリがないほどではないか。言語学習の初心者が学ぶべきことは、それこそ「これだ! これこそが日本語だ、英語だ」というそれぞれの国語の「エキス」が詰まったものの方が価値ある学習になるのではないか。

 「覚えるほどに音読をしなさい」と言いづらい文章は正直言って教えたくない。

学校教育の影響力

2012年08月17日 | 教育
 教員の中には、「学校の教育なんて、子供に大した影響を与えない。それよりむしろ、家庭で、親がどんな教育を行っているかの方がずっと重要だ。」と言う人がけっこういる。他方、「いや、学校でどんな教育を行うかは、大きく子供に影響する。」と、反対の意見を言う人がいる。
 さて、一体どちらが正しいか?

 前者、「学校教育の影響力は少ない」というとらえ方は、子供一人一人に着目して「個人」として見る場合、学校教育の影響よりも親の影響力の方が大きい。反論する人はいないだろう。格差の再生産が生じる理由にもつながる。

 ところが、子供を「集団」として捉えると、はたして学校教育にはさしたる影響力がないと言えるだろうか?
 それこそ、真実か否かは別として、「ゆとり教育」が子供に与えた影響は大きかったか、それとも何の影響もなかったか。----答えるまでもないだろう。誰しもが学校教育が与える影響は大きい、と認めたから、新しい教育課程が生まれたのだろう。
 家庭科の「食物」に関わる指導で、一定の年齢層以上が小・中学校で学ばされたのは、「赤のタンパク質など」「黄色の炭水化物と脂肪」「緑の野菜など」の栄養のバランスの徹底である。未だ戦後の余韻を引きずっていた時代は栄養状態の善し悪しが一番の関心事だったからだろう。ところが、近年、社会が豊かになってきたら、「楽しく食べる」が食事の目的になった。栄養のバランスが----おそらく豊かさゆえに足りないもはがないという考え方で----、昔ほど重視されていない。それが子供の食生活に与えている影響は大きくないか。
 国語で「筆順」が重視されなくなった。文字の形が乱れる生徒が増えた。今後、ICT教育が進むと、子供たちはどんな影響を受けるか。

 子供一人一人に着目すると、学校よりも家庭の影響が大きいと言える。親の言う一言の方が教員の一言より大きな影響を与えることが多い。教師がどんなに頑張っても、親がしっかりしていなかったら子供は不幸である。
 しかし、中長期的な見方をすると、また、子供を「マス」として見ると、学校教育は大きな影響を子供に与える。
 教育の基本中の基本だと思うが、こうした前提から捉える見方は、意外になされていないように思う。

内田先生と光嶋裕介氏の共通点

2012年08月16日 | 教育
 内田先生の思考の豪放磊落、というか、きわめて柔軟な態度は読者が大勢付いて当然であるように思う。で、そんな内田先生が家を建てるときに白羽の矢を立てたのが光嶋氏だが、はっと、気が付いた。ご両人には共通点がある。
 日本の中期高等教育を受けていないのである。
 内田先生は日比谷高校に入学したものの1年かそこらで退学している。東大に入ったのは大検で資格を取ってのことである。光嶋氏は帰国子女である。
 高校生の時期は、人生の分岐点に相当する。ちょうど本当の意味での「ものごころ」が付く。この時期をどのように過ごすかがけっこう人生観に影響を及ぼすことになるのではないのかな。

 という観点で、内田先生を見ると、彼の思考の自由は、何ものにもとらわれない。あくまでも、自分自身が直に観察する対象に接する。「接する」というのは物理的な接触ではない。こういう場合なら当然人間はこのように考え行動するだろう、という普遍性から対象を鑑みる見方である。世の人はどのように感じるかわからないが、真の思考の自由は、何らかの普遍に則ったものでなければ私は達成できないものだと思っている。時空をこえた「普遍」から導き出される思考だけが、高い蓋然性を持つと思う。ただ、その普遍は通常、目に見えない。だから、なかなかわからない。しかし、内田先生には見える。それを言葉に載せるから、読者はおもしろがる。

 建築のことは全然わからないが(全然わからなくても家を建てる過程の内田先生のtwitterだけでけっこう見えるところがあった気がする。)、「みんなの家」というコンセプトに対する光嶋氏の態度には、従来の概念を通り越す自由度を感じてならないのである。

 というわけで、両者はたぶん、「自由」という観点で通じ合っているのである。で、なぜ自由なのかは、きっと、日本で高校教育を受けずに、知性を活性化させたのであろう。
 てか、もともとめちゃアタマが良かったのだろうけど。
 めちゃ、アタマの良い人は、日本で高校教育を受けてはならないのであろう。
 高校に行って良いことがあるのは、凡人である。
 養老先生は高校に行っている。もし、行ってなかったら、もっと一般ウケし、かつ、希有な存在になっていただろう。

社会に出て不思議に思ったこと

2012年08月16日 | 教育
 高校生の時、国語が苦手だった。どんなに頑張って勉強をしても現代文の読解の読み取りで、大きな間違いを必ず1つやってしまう。そう、定期試験ではどんなに頑張っても、どうしても間違えるのである。優秀な友人は間違えなかった。優秀な人の答案は美しい。私のはなかなかそこに到達しない。どうしても、最後の一山を越えることが出来ないのである。読解力・思考力に欠けているのである。この能力で大学に入ったら、最初に入った大学は、38度の発熱があっても合格できると思ったところだが(←たぶん)、試験やレポートでとても良い成績が付いた。自分で決して納得できたわけでない「醜い出来」なのに良い成績が付くのは変だと思った。(結局ここは1年で止めた。)2つめの大学は、何故受かったのかわからないところだった。試験もレポートも大した成績は取れなかった。
 で、卒業して社会に出た。
 不思議に思ったのが、さまざまな事象に関する理解について、なぜ、非常に多くの方が、あんなにも自分の理解を正しいと考えるかであった(というか、ここの時制は現在完了形)。職場でもそうだが、社会全般における主義主張などにおいてそう感じた。
 「学校の試験と社会とは違う」とおっしゃることと思う。
 しかし、ものごとをどういう側面から捉えるか、何を無視するかなどの吟味に関しては学校の勉強と何ら変わりはない。が、そこのところを全く意識せずに、自信たっぷり自説を主張する思考法が意外でならなかった。
 何の思考であっても原点には、一種の「読解に関わる理解力」がある。もちろん、言語だけではないが、言語だけでないにしろ、いかなる事象にあっても「行間を読む」読み方がある。これも国語の力である。(ちなみに国語力のある生徒は伸びるとされる。)「学校の勉強」というのは、「いかに深く理解するか」の訓練だと思う。というか、私にとっての学習はそうだった。それが結構良い成績にもつながった。しかし、この種の吟味無しに議論を重ねる世間の思考法は、私には空理空論に思われる。ところが、深く考えることが逆に疎んじられて空理空論と見なされる理解の方法と思考停止に、実のところ、私は未だ馴染めない。

間違う英語

2012年08月08日 | 教育
 大人の基礎英語という番組で、"This must be the place you're looking for."というのをやっているが、出来の良くない生徒(1年生でね)は、こう間違える。
 Here must you're(yourもあり) looking for(前置詞は落とす可能性がある。) place.
 「ここ」はhere 「ちがいない」はmust(覚えていればの話だが。)、「あなたが探している」だからyou're looking for 、もし、日本語が「あなたの探している」ならばyourとする可能性大。「場所」だからplace というわけである。

 名詞の後置修飾がわかれば大したものである。名詞に冠詞が付くことを思い出せれば大したものである。「ここ」が難しい。Here is などの表現があるものだから、Here must be が何故いけないのかがわからない。be動詞は、落としやすい。(ネイティブでも子供はそうである。あ、助動詞があるときはどうだか知らないけど。)

 「易しい」と言われる英語表現であっても、「語順」や日本語にない品詞の存在を意識できれば英語の学習は、大きな壁を乗り越えている。「勉強をしてもできない」と言う生徒の大部分はここに問題を抱える。
 日本語と英語の「置き換え」の発想をいかに捨てさせるかがポイントだと思う今日この頃(って、昔からそう思っているけど。)