考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

怒鳴って叱った話

2005年11月28日 | 教育
 ある日、教室に入ろうとしていたら、騒がしい。男子が10人位がはしゃいでいる。掃除用具入れのロッカーから、生徒が出てきた。
 一応、「起立、礼」で、授業が始まったが、怒鳴って怒鳴って怒りまくった。「さっき騒いでいた奴は立て」と言って、何度か促して立たせた。(それで正直に立つから、まあ良い子たちの集団なんです。)10分くらい、滅茶苦茶でかい声で怒りまくった。その件と直接関係がなかった生徒も、「関係ないって顔するな」「なんで誰も止めなかったんだ」他いろいろ、まあ、ある意味、とばっちりを受けたわけ。でも、大事なのはクラスの雰囲気ですから、しかたあるまい。

 その後、ふつーに授業をしたが、みんな借りてきた猫みたいでした。次の日の授業も借りてきた猫状態。みんな自分たちが悪いことをして叱られた、と言うことが意識できたわけですから。

 良かったです。

 このクラスは元々落ち着きがなく、多少困った状態でした。が、これに懲りて、これを機会に、今後は良い方向に成長してくれるでしょう。(現に宿題の出も少し良くなりました。今のところ。)

 私の怒声は隣の教室にも響き渡っていたようで、生徒からも先生からも「先生、何怒ってたの?」「どうしたんですか」と聞かれた。生徒には「怒っていたんだ。」と言い、先生には事情を話した。一人は非常勤の先生だが、事情を察し、そのときの生徒の質問にも適切に返答して下さったようだった。実に有り難い。(こういう方にこそ、正規教員になって貰いたいな。)

 つくづく思う、しかるべき時に叱っておかないと、どうしようもなくなるんだよね。(子供が小さければ小さいほど、その時その時が大事なんだと思うが。)今回は、見方を変えると、その点、実にラッキーだったわけです。

 しかし、怒鳴ったせいで声が嗄れ、謡のお稽古を休んじゃったじゃないか、もー。
 ある程度は若くないとやってけないよ、この仕事。気力も体力もいると感じた1日でした。

 わっ、何だかとっても先生っぽい、記事ね。きゃっ。
 

「癖なんです」

2005年11月26日 | 教育
私「ポケットから手を出しなさい。」
生徒「ん? 癖なんです。」
私「悪い癖は今のうちに直しなさい。」
生徒「ちぇっ、うっせー。」

私「もっと読みやすい字を書きなさい。これじゃぁ、tとfの判別ができないよ。」
生徒「綴りはわかってるんだからいいでしょ。それに、ほら、違うよ。」
私「自分がわかればいい訳じゃない。並べなきゃわからない字の書き方をするな。」
生徒「だって、これ、僕の癖なんです。」
私「悪い癖は今のうちに直しなさい。」

 (ところで、鉛筆の持ち方まではさすがに注意しきれないよ~。だから、今の子、字が下手なんだよね。まあ、私も下手だが、試験の答案くらいは丁寧に書いたものだ。採点者は人間である。「きれいだと、ついつい○を付けたくなる。」これは、高校時代の恩師の言。)
 
 個別の現象を述べたいわけではない。

 たぶん、中学校まで、あるいは家庭でも、非常に多くのことが「癖」で済まされてきたのだろう。(あるいは、「こっちの方がラクだもん、なれてるもん。」と言う返答で。)
 ただの悪い「癖」さえも「個性」と捉えられてきたのだろうか。この世に生を受けてわずか数年で身に付いた習慣も、今後の数十年の人生に向けて、既に矯正不可と見なされるのであろうか。

 こういう言動一つ取ってみても、この頃の「学校」は、生徒が自分を変化させる(成長させる)ところではなく、生徒の現状をありのままにひたすら受け入れるべき所であると、(利用者は心の中で)見なしているようだ。

先生は、「オレに付いてくるな」と言うべきだ・追記有り

2005年11月24日 | 教育
 とある文化部、しかし、身体が資本とランニングまで行う部活動のテレビ番組を見た。顧問は熱血教員である。強化合宿の指導はもちろん、自分自身の努力においても、帰宅がどんなに遅くなっても練習を欠かさない先生が凄い。(私は真似できない。)熱血について行く生徒も半端じゃない。

 そう、生徒がついて行く姿も番組は熱く描いていた。生徒の技術上の困難の指導に先生が生徒の目線に降りていって、生徒を指導する。生徒もそれについて行く。
 感動物として、視聴者の賛同を得たことだろう。これこそ、美しい師弟愛だと。全国大会では、優勝を逃したが、相当良い成果を残した。先生は、自分の道を究めようと、その学校を去り、大学に移った。生徒の惜別の涙を流した。高校生がこの番組を見たら、この先生に、部活動に憧れるだろう。

 話は変わるが、先日の東京国際マラソンで高橋尚子が優勝した。小出監督との付き合いはほとんどない様子だ。詳しく知っているわけではないが、Qちゃんは、かつて、小出監督を慕い、監督に従って練習し試合に臨み、世界新までをもマークし、勝利を勝ち取ってきていた。が、結局アテネを逃す。あんなに慕っていた小出監督から独立し、年齢を物ともせず強くなり、再度新たな勝利を得た。

 私は詳しい事情なんて知らず、一般的にテレビのニュース映像などから判断するだけだが(←いい加減~)以前の小出監督とその先生の部活指導がだぶる。

 マラソンの指導がどうだったかなんて知らないが、その部活番組を見て、「違う」と思ったのは、(先に書いたことと重なるが、)先生が、ある生徒の技術上の課題を解こうと、夜遅くまで生徒の目線に降りて、生徒の気持ちになって問題点を探り、解法を見いだし、生徒を指導した時だ。先生はこうすると良いのだという風だった。

 先生が、卓越した技術の持ち主だから指導できることだろう。私だったら、何に関してであっても「おまえが指導しろ」と言われて出来ることなんてありゃしない。だから思うのかもしれないし、関係ないかもしれない。でも、私は、先生は解法そのものを生徒に教えちゃダメだと感じた。なぜなら、生徒がそうやって技術を克服しても一時のことに過ぎない。また更なる山に出くわすのは目に見えている。今後自分の困難に直面した際も頼る人を求めるのではないか。自身の力で苦難を乗り越える力はいつ得るのだろうか。(こんなことを言うと、叱られるかもしれないが、)たかが高校生の部活動である。彼らに大切なのは、一つ一つの技術そのものではなかろう。成長期の彼らに必要な力は、もっと違うもののはずだ。

 確かに、高校生同士の試合は技術ひとつで勝敗が分かれる。指導者の力量次第であろう。でも、それだけの話ではないか。
 部活動では、先生が転勤すると、部活の成績ががたっと落ちることがある。(逆に、めきめき力が強くなることもある。)指導者の成果を自分の才能だと勘違いする生徒の方こそ気の毒である。(自分には才能があるのではないかと思ったばっかりに、人生を誤るかもしれないではないか。)大人になって、人より上手に出来ることがあって、なんだかちょっと良い気分になれたり、豊かな人生を送ることに繋がるかもしれない。その点でのメリットはあるだろう。が、学校ですることとして、それでも何かちょっと違うと思う。

 結局は、小出監督を離れたQちゃんだ。監督のままにやっていくことを止めたQちゃんだ。成功したから、今、私はここに例に挙げて書けるのかもしれない。しかし、きっと、人には何か「そういうところ」があるに違いないのではないか。

 それで、その上記の高校は、だから優勝を逃し、Qちゃんは、だからアテネを逃したのかもしれないという、逆説的な意味での「救い」はある。

 畑違いの例だが、40代?対象のあるファッション雑誌の投書欄で読んだことだ。(記憶の範囲で→)「娘時代から親の選んだ上品な服を着て、見合い結婚をし、失敗し、やっと自分で洋服を選べるようになり、生きている気がする。」良いところのお嬢さんだったのだろう、親だって、愛娘の幸せを願った上での「上品な服」と「見合い結婚」だったろうに、まさかこうなると思いもしなかっただろう。これも、一種の「そういうところ」ではないか。

 高校生に教え始めて何年も経つ。自分の高校時代から見ると、彼らの解く問題は、二十数年前と比べて随分と難しくなっているような気がしてならない。日本史なんて特にそうではないか。英語の重要表現も、昔だったら気にする必要がなかった意表をつく出題があったりする。(まあ、英語は語法問題が格段に増えてきているので、細かい知識が必要になってきているとも言えようか。)テキストの選び方、細かい「重要事項」の指導がモノを言うのか。
 しかし、にもかかわらず、生徒はちっとも賢くなっていない。というか、それどころか、こんなにもと言うくらいに頼りなく、何でも親や先生任せ、一人では出来ない「ばか」になっている気がする。これは一体どういうことだ。それで、いっこうに「そういうところ」を見せようとさえしないではないか。

 今は、技術偏重の時代だと思う。(私のベクトル論?で言うと、意味探索能力の矢印の「方向」ではなく、矢印の「長さ」、つまり(知的)作業量の方が重視される時代なのだ。)しかし、知的作業に関わる技術は、表面的には進歩を装いながら、実質は人間らしさや人の成長を阻んでいるのではないか。
 
 ああ、私は、もう、学校で何も教えたくない。
 授業で教えるのは、辞書の読み方と、試験に出ない文法と、文章の読み方だけにしたい。

 追記:
 だからと言って、部活指導の大変さやその他諸々を認めてない訳ではないです。何の指導であっても、学校である限り、「あくまでも、「言われたとおりにやれ」にとどまるような指導がいけないんじゃないかと思うわけです。(まあ、自分のやっていることを、そうだと、認める人は誰もいないと思うが。)
 
 勉強だって、技術的要素が大きいから、一種のテクニックとして、生徒に教えると格段に成果が高まり、能力の高まりに繋がれば彼らの人生に何らかの大きな影響を及ぼすことになると思う。教育ってのは、そもそもそういういものだろうから。

 でも、なんかね、授業をして、試験をすると、授業で言ったことは出来ているけれど、言わなかったら出来ないとか。先生に言われたことだけを丸覚えして、「できた」と、能力が付いた「気分」を味わっているような生徒が増えている。

 知的レベルは同じでも(だって、同じ学校だからそう変わってない。)、以前はこうじゃなかった気がしてならない。言わなくても、教えなくても、自分で大事そうな所を掴んで勉強をしていたと思う。そういう自主的な判断力がない。

 私は指導すべきと思うのは、自ら進んでやる、みたいなこと。そういう指導こそが学校の指導だと思う。だから、先生がいなくても、自律できるってのが理想。そこにいたるるまで、手がかかるというのは、わかる。そういう指導をしている先生は立派だ。純粋に頭が下がる。

私は養老先生と気が合うようだ。(笑)

2005年11月23日 | 養老孟司
 手持ちぶさたで中央公論12月号を買った。で、「鎌倉傘張日記」を読む。
 すると、「現実は人によって違う。唯一客観的現実なんてものは、皮肉なことに、典型的な抽象である。だって、誰もそれを知らないからである。私が演壇の上で講義しているとする。聴衆の目に映る私の全て異なっている。なぜなら、私を見る角度は、全員が異なっているからである。」

 ををっ!!!!!!
 私、十数年前の授業で、同じことを言っていたんだよ。(2番目の文の内容、抽象ってのは、さすがに気づいてなかったが。)

 養老先生、大好き♪♪

修学旅行でB級グルメ

2005年11月22日 | 教育
 高校の修学旅行で、なんでわざわざB級グルメを食べさせることに気を遣うのだろう。B級だって「文化」ではあろうが、学校で教員が勧める文化ではなかろう。「おいしい」から何だってありではない。あくまで「修学」は「修学」だ、ならば、本来求められる食も、相応であるべきだ。(まあ、少なくとも、そういう感性であって良いはずだ。)
 しかし、誰もそんなこと、思わない。なぜなら、今、学校で教えていることが、ことの本質から外れたB級だから、B級に疑いを持たない、B級で当然だと思ってしまうのだ。

 今日は、新潮選書「国家の品格」藤原正彦著を買いました。今から読みます。うふ。楽しみ。

ただ今脳味噌休憩中

2005年11月21日 | 生活
 ということで、記事を書いていません。書きかけはあっても、どう書いて良いのか難しくて書けない。(笑)
 で、言いたいことや思っていることを断片的に人さまのブログや自分のブログにコメントで書いて、なんだか満足しちゃってます。系統的に思考し、言語化するのが難しいです。

 ところで、内田先生の「街場のアメリカ論」の最初の方が、めっぽう面白い。おすすめです。目から鱗。(で、このことの書きかけ記事もある。)

 私が生徒に勉強させたいと思うのは、まあ、今は無理にしても、思索を骨組みから出来る人になって欲しいとの願いがあってのことです。多くは、勉強は大学に行くためとしか思ってない。だったら、進学校でなければ勉強する必要がないことになる。でも、そうではない。単に、生活の術を得るためでもない。(高卒資格を取ることを含めて、そう捉えられることは多かろうが。)

 ホントかウソかは知らないが、ある偉大な哲学者の書いた物は、分裂気質の人だと理解しやすいらしい。ならば思考は「癖」なのか。価値観が人によるのも、「癖」なのか。

 養老先生の思考は、私の脳味噌の志向するところのずっと先にあると思っている。だから、私は養老先生の考え方を好むのだろう。

 教育観が様々あるのも、そういうことに関係するのだろう。しかし、それでは、その「癖」とは何なのか。

どうでもいいけどベクトル

2005年11月16日 | 教育
 同僚の若い数学の先生に、(念のため)「ベクトルって?」と聞いて、驚いた。今の子は、n次元のベクトルを習わないそうだ!! で、その人、若い先生だから、高校生の時は習ってないとか。ええっ。私なんて、文系だったけれど、しっかりとn次元のベクトルの問題を解かされたよ。

 ベクトルも3次元まではラク。だって、イメージできるもの。でも、4次元以上になると、空間的にイメージできないから、これが辛い。もう、文字の羅列だけで観念的というか何というか、視覚イメージ無しで解かねばならないから、手がかりが掴みにくくて、困りました、私は。

 でも、今から思うと、抱けない「イメージ」を抱こうとするのが勉強だったのではないかな。だから、大人になって、物理関係の読み物を読んでいるうちに、なんとなくn次元のベクトルがアタマの中でゆらゆらし始めてきたのだろうと思う。

 だからどうだってとは何もないのだけれど、何かの脳味噌の訓練になってると思う。ああ、n次元のベクトル、習っておいて、良かった。(と言って、単なるカリキュラムの恩恵に過ぎない。)

 しかし、ウチの生徒で苦手な子は、3次元のベクトルすら、イメージできないのだろうなぁ。だから、3次元で十分という見方と、同じイメージできないならn次元でも一緒だという見方が出来る。

親の年齢は必要??

2005年11月15日 | 教育
 生徒が入学してくると、まあ、緊急時の連絡先とかを書類に書いて貰う。大昔は、親の学歴や(私の中学なんて、宗教を書く欄まであったが)勤務先、家族構成、兄弟姉妹の通学先など書いていたと思う。今、その項目がどんどん減っている。で、最近、親の勤務先も書いてない。連絡先電話番号だけのことがある。(これからは、携帯だけってことにもなるのかしら?)
 で、親の年齢が必要か否か、って話になった。私は、欲しい。保護者会などで話をするとき、やっぱりね。
 でも、「必要がない」と言う人が意外にいたのに驚いた。

 学習塾の書類には親の学歴まで書かせる。まあ、そうだろーなーとは思う。情報は、必要がないと判断するなら、使わなければいいだけの話である。必要な場合に、使えばいいのである。こちらにとって有用になりうる情報はあったらあっただけ得だと言うことだ。

 その点、学校の先生は、のんきだなぁと思う。個人情報が保護されるべきだというのは、個人情報を必要としない時代に入っているのではなく、逆に、個人情報にもの凄い価値が付いてきている、というコトである。なのに、個人情報に価値を見いださないという意味で、学校の先生は時流に逆行しているだろう。(まあ、世間一般では、金になるかならないかの話における価値であるが。)
 もっとも個人情報の流出に気を遣ってのことではある。(だから、卒業アルバムに住所録は付けていない。)しかし、学校なんて、はっきり言って、個人情報をしかない、個人情報以外は、他に何もない場所である。

 情報が少なかったら、生徒の面接で、いろんなこと、全てを聞き出すつもりなのだろう。そろばんが何級だとか、書道が何段だとか、隠れた特技を書く欄もなくすようだ。意外な子が意外な特技を持っていて、そんなのは、入学時に書かせる書類にしか書かないことも多いのに(と私は思うけど)。担任面接で、しゃべらない限り、担任にはしられない。もちろん、要録用に紙面で何らかの調査するのではあろうが、年度末になってからのことが多い。それで、いったん高校生活が始まってしまうと、中学の時に取った資格は書きづらかったりするものだ。

 それで、「先入観を持ちたくないから、情報は少なくて良い」という先生がかなり多い。情報を得ると、そんなに誤った考えを持つとでも言うのだろうか。無防備だなとも思う。また、「過去は見ない」と言う人もいる。「?」である。こういうのって、何らかの見方から言えば、もっともらしく聞こえるのだろう。が、私は傲慢だと思う。人相見でもするつもりなのだろうか。そんなに自分は人間を見る目があるとでもいうのだろうか。

 世間は、「印象」で人を、物事を判断しがちである。で、学校も、「印象」で、全てが判断されつつある状況に陥る気がして私はしようがない。目の前の人に対しての自己アピールの得意な、「感じ良い子」が得するのだろうな。

好きで得意が何よりなんて

2005年11月09日 | 教育
 今の学校は、「本人の望むこと、好むこと」をさせたがっている。昔と違って、「選択授業」が多いのも一例である。それでまた「押しつけはいけない」「頭ごなしに叱るのはいけない」とよく言われる。叱るときも納得させて叱らなければならないと言う。学校以外の教育理念でもある。子供のやる気を損なわないため、気持ちを傷つけないため、その子の「個性」を伸ばすためとされる。
 生徒は叱られてよく言う科白は以下の通り。「納得できない。説明してください。頭ごなしに叱ることは悪いことです。」(実際は、もっとひどい言葉遣いのことが多い。)
 
 ちなみに私はこの意味での「個性」尊重派ではない。多少納得できないことがあっても、自分で考えろ、その方が、きっとアタマは良くなるものだ、と考える(生徒から見ると)嫌な奴である。

 「好きなこと」は、実は、脳味噌の辺縁系と呼ばれる扁桃体が決めていることらしい。犬や猫でも、否、は虫類でも持っている古い脳が司る部分が決めることであるらしい。
 養老先生によると、好き嫌いとは、外界から入ってきた情報の重み付けだそうだ。(多くの本に書いてあると思う。)右に行って良いのか、左に行って良いのか決められないより、どっちでも自分で方向を決めることができる方が生き残りやすい、と言うのが理由のようだ。

 その意味で現代日本の上記教育理念を見直すと、は虫類的、本能的欲求を満たすことを人間教育の主眼に置いていることがわかる。
 もっと言えば、「快楽追求」が教育の一大目標になっていると言うことだ。

 困るのは、(困っていない人も多数いると思われるが)「押しつけは良くない」ことが、極端に発展?して「命じてはいけない」という不文律を生じさせていることだ。教育や躾は「まっすぐ前を見なさい」等、命令から始まるものであろうに、「子供がまっすぐ前を見たくなる気持ちにさせる」類のことが正しい教育だと思われているかのようだ。
 思春期には、「しなさい。」と言われると「したくなくなる」傾向があるのは理解できる。しかし、子供がそれを当然の権利かのように主張するのはいかがなものか。まして、大人が子供に賛同を示すのはどういうものか。

 それで、子供は「自分の好きなこと」をするのが最も大切なことだと思っている。(なぜなら、幼い頃から「好きなこと」を尊重すべく教育されるから。)これだけならまだ良い。また困るのは、彼らがそれを「したくないことはしなくて良いのである、なぜなら、したくないことは意味がない。したくないことや自分が興味のないことは自分とは関係がないことだから。」と拡大解釈することである。それでまた、大人も勘違いしてか、「したくなかったらしなくて良い」と迎合する場合がある。(まあ、それだけ社会に自由度が大きくなって、子供にすら選択の自由が与えられるほど、社会が豊かになっているということではあろう。でも、そんなこと言っていたら、子供の器は大きくならないよ。)

 また更に、教育を施す側から、万一「したくないことをしなければならない」状況に子供を陥れる(!)場合には、「正しい教育を行うためには、納得させなければならない」という不文律に従うことが世間的に要求される。「納得させろ」という子供の要求である。
 よって、伝統的に、人が社会性を身に付ける過程で、これまでならば説明無しで「ダメなことはダメ」と言われてきたことであっても、言語による説明が用意できない場合、根拠が提示されないという理由によって、あるいは、その子供が理解できる根拠を示せなかったという理由によって、「それは正しい教育でない」それどころか、「教育でない」とさえ思われる。

 これが実に困ったことになる。

 子供は、自分の好きなことは何の説明がなくても行う。それで、「気乗りしないこと、したくないこと」をしなければならないときに限って、彼らがすることは、説明を求める、ということになる。(だったら、何故したいのかも自分で説明するのが道理だろうになぁ。)
 つまり、彼らの行動の仕方は、実は、非常に自分の感情に忠実であるという姿勢なのだ。
 それで 好きなことをしていいんだよ、と言われて育ち、あるいは、周りの人々によって自然にその気にさせられて物事を行う子供が、そう簡単に意に沿わないことに納得するわけがない。よって、彼らは、十二分に納得できる多大な理由を求める。(それで、「自然にその気にさせる」のは、非常に巧い教育方法ではあるが、見方を変えれば、目の前のレールが、他人が引いたものだと全く気付かない人間を育成することにもなりかねない。)

 ところが、説得する側にいる今の大人の多くは、理論的にも感情的にも人を納得させるための訓練を子供の時から受けたことがない。ゆえに、「ああ言えば、こう言う」子供に対抗するのは、実は至難の業だったりする。
 近頃の教育は小学校の時からプレゼンテーション能力の涵養を目指している(と思われる節がある)から、口が達者で、堂々としている。で、簡単に言えば、「大人が負けてしまう」のである。

 ああ、困った。
 
 その結果、子供は「しなさい」と言われたことをしなくて良いさまざまな理由を獲得しやすい状況にいることになった。「当然じゃないか、納得できる理由がないのだから、する必要があるわけないもんね。」
 
 大人も心の中では、「これは何かおかしい」と思いながらも、説得力のあるコトバで表明出来ないものだから、子供に言いくるめられてしまうのである。あるいは、子供の「イヤなものはイヤ!」に押し切られてしまうのである。だって、「押しつけ」ちゃいけないのだから。(それで、ひょっとしたら、押しつけられたくない、と思うのは、大人もそうで、だから「押しつけられたくない子供の気持ちがわかってしまう」のでもあるのだろうなぁ。それで、安易に同意することになる。この意味では、大人も子供も本能で動くという同盟を組むコトになるのだ。何に対して?--理性に? 社会に?)

 イヤなことに関して、こうなのだから、好きなことに関して「待った」をかけることができなくなるのも同然である。
 当の子供は(大人でもそうだろうが)好きなことをしているときは、目を輝かせて、あんなに生き生きしているではないか、そのどこが悪いのか。あるいは、大人顔負けに、自己の能力を高めている、これこそ個性ではないか、このどこが悪いのか。

 こうして、子供の好みにのみ乗じた「個性」が伸ばされる。

 ここに於いて決定的に欠けているのは、その「個性」や「好きなこと」「したいこと」が本来的に持っている「意味」である。この考察がほとんど欠けたまま、「好きなこと」が「好きだから」という本能的理由によってのみ構造的に肯んぜられている現状がある。

 「意味」とはおそらく相対的なものであろう。それ単独では存在しない社会性を持つ。個人を離れた所に存在する。社会的尺度で、「していいこと」「しなければならないこと」と「してはいけないこと」の違いになって現れることでもある。ここに、「したい」「したくない」個人的な感情が入り込む余地はない。
 それで、現在、全く忘れられているのが、この社会的尺度である。「したくないこと」であっても、「しなければならないこと」があったり、「したいこと」でも、「してはいけないこと」があることが忘れられているようだ。この意味に於いて、人間が社会的存在でなくなったかのような現象である。

 さらに、私が見る限りに於いてだけだが、この論理に知的レベルの高さは余り関係しない。
 しかし、一般の感覚では、知的レベルが高ければ、「していいこと」「しなければならないこと」と「してはいけないこと」の判断を誤ることはあるまいと考える。能力が高ければ、自ずからそのようなことが学習されるという前提があるからだ。

 しかし、今の社会は、とにかく豊かで選択肢が豊富に用意されているから、ほとんどの場に於いて、拝金主義とも絡み合い、本能的な好みを尊重する方向に進んでいる。よって、「していいこと」「しなければならないこと」と「してはいけないこと」を学べる場が非常に少なくなっているのではないか。

 さらに、知的レベルに関して言えば、言わば、累進課税のように「勉強が出来るのだから、ほかのことも人以上にきちんと出来るように」というな指導もしてはいけない不文律が(なんとなく)ある。
 なぜなら、「不平等」が生じるからである。よって、「勉強が出来る」などの高い知的能力は、勉強が出来る、と言う場に於いてのみ発揮されることになり、他の総合的な能力の涵養を図ることが難しくなっているのである。

数学間違えてました。すみません。

2005年11月08日 | 教育
 「多数決でロケットが飛ぶか飛ばないか」で、必要条件と十分条件という言葉を使いましたが、間違えて使っていたのに気が付きました。で、直しました。
 
 必要条件は◎の外側の○、十分条件は◎の内側の小さい○です。
 私が書いたのは、科学技術と資金等の外的条件の関係ですから、◎にはなりません。{(科学技術)∩(外的条件)}と言うわけです。科学技術だけあることもあるし、資金だけあることもある。でも、それじゃ、ロケットは飛ばない。両方の条件が揃わないと、飛ばない。

 あー、みなさん、ごめんなさい。
 2,3日前に気が付いたのですが、落ち込んでます。
 
 でも、懲りずに(笑)、今度はベクトルのたとえを使って書くつもりの記事もあります。(今度は間違えたくないけれど。と言って、これまでも、自分で気が付かずにいろいろ間違いを書いていたかもしれません。重ねてお詫び申し上げます。)

 まあ、なかなか筆が進みません。落ち込みの影響かもしれません。