考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

ブログ『S:「今日の一言」-ふうむ』に対するTB

2006年04月29日 | 教育
以下は、私の記事「ウォークマンを付けたまま」に対するsatomiesさんのブログ「S:今日の一言」の記事「ふうむ」(http://d.hatena.ne.jp/satomies/20060427/p2#c)に対するTBです。2つめのコメントとして書きました。
satomiesさんの記事で紹介されていたからでしょう、一昨日は今までにないアクセス数がありました。
(以下2つめとしての私のコメント)

私が前のコメントに書いたことと重なりますが、私は、この問題を「個人のための場」と「集団としての場」が生む「やっかいさ」であると捉えます。

学校という集団の構成員(生徒)は、多くの「自由」や「個人的な好み」が、確実に束縛されます。その束縛の度合いは、「その行動が全ての生徒に見られた場合であっても、その学校が目指す機能を十分に全うできるかどうか」という観点で判断され、判断の基準は時により学校によって異なるものになることがあります。(「子どもの学校選択をどうするか」が大切になるのは、学校によってこうした判断基準が異なることがあるという実態があります。)

学校で生徒が宅配ピザを取るのは是か非か。全ての生徒が各自がそれぞれの好みに応じて宅配業者を選び、好みの昼食を取ることになったらその学校はどうなるか。その状況を好ましいとするか。(一方、誰も宅配業者に昼食を頼まない状況は好ましいか、好ましくないか。)生徒が制服をきちんと着ないのは是か非か。全ての生徒が制服をだらしなく着て校内を歩く雰囲気は学校として望ましいか、望ましくないか。(全員が制服をきちんと着る状況は、好ましいか、好ましくないか。)朝の連絡会に遅刻をするのは是か非か。全ての生徒が遅刻してきたらどうか。(始業時間に全ての生徒が揃っているのは好ましいか、好ましくないのか。)予習をしてこないのは是か非か。全ての生徒が予習をしてこなかい授業は望ましいか、望ましくないか。(皆が予習をしてくる授業は好ましいか、好ましくないか。)
この判断基準は、それぞれの学校が何を目標とするかによって変わるものもあるでしょう。

ウォークマンも同様です。全ての生徒が休み時間にウォークマンをしている光景は、現勤務校が目標とする指導の観点で、通常の光景として見なされるかどうか。
私はたとえ休み時間であってもウォークマンを利用するのは、現勤務校が目する機能を十分に発揮できなくなると判断します。生徒が個人的に音楽を楽しむことを否定するわけではなく、学校にいるときにそういった個人的な楽しみ方をしなくて良い、もっと他の楽しみ方を見つけなさい、ということです。ウォークマンをしている生徒に話しかけると、そうでない時と比べて、呼んでもなかなか答えてくれない、という事情も関与します。

事柄によって、「そんなことをするのは一部の生徒だから、良いのではないか」という考えがあるでしょう。しかし、これは必ずと言っていいくらい、「なぜ○○ちゃんはして良くて、私はしちゃダメなの?」という問題を生じさせます。多人数が集う学校という場に混乱をもたらすことになりかねないのです。学校を運営する側としては、こういった混乱がもたらす秩序の崩壊を最も危惧し、「してはいけないこと」と指導することになります。ですから、場合によっては「今まで良かったのに、急にダメだと言われた。」ということが起こってきます。

学校の秩序崩壊は、実は、じわじわと始まるもので、うっかり放置すると手に負えなくなることがあります。ですから、先手を打つことが必要になることがしばしばあります。(遅いと、回復に何倍もの労力がいるのです。)この辺りの事情は、実際、一部の生徒や親御さんには理解しにくいかもしれません。願望の種類によっては個人の要求に応えることができないわけですから。

私が自分のブログに書いた街中のウォークマンは、「集団の場」の概念を最大限に広げて当てはめたものです。共同体という集団をどう捉えるかは人によって判断が変わるでしょう。もちろん、ウォークマンに対する考え方も様々でしょうが、私の場合は、「ウォークマンをした知らない人には話しかけにくい」という個人的な思いがあり、あのような考えに至るわけでもあるのです。


全国VS趣味

2006年04月27日 | 教育
 中学の個人競技の部活動で、本人曰く全国大会に出たと言う子が、同じ部活に入った。が、本当は球技の部活に入りたい気持ちがあるらしい。親にそのまま続けろと言われたのだ。親は教員である。だから、どうだというわけでもないが、そのことのメリットをよく知っているというのもあるだろう。
 う~ん。。困ったねぇ、悩むねぇ、と言いながら、でもねぇ、才能ある人は努力して欲しいと思うんだ、と私は言った。あなたが得意だということは、他の人は得意じゃないということだもの。きっと、得意になれる才能があるんだよ。だから、努力して欲しいと思うんだ。他の人にできないことができるのだから。

ウォークマンを付けたまま(一部追記・書き直しあり)

2006年04月26日 | 教育
 凄く嫌なのは、校内でウォークマン(今でもそう言うのかな?)をつけて歩く生徒がいることだ。当たり前だが、私は必ず注意する。それで、私はきっと校内で最も多く注意しているだろう。(この事情、わかる人にはわかるであろう。)
 
 「学校では外せ。」というと、「授業中じゃないのに、なんでぇ~~」と言う。「音楽じゃねぇ~。英語だ。」と言う。[追記:でも、英語ってのはウソ。]「それでも、外せ」と私は言う。

 なんでこんなことまで説明しなければいけないんだ。[追記:そう口に出して言うわけではないが、]内心腹が立ってしようがない。

 イヤホンがいけない。あれは、周りにいる人間を拒絶している。学校は勉強さえしていればいい場所ではない。多様な人と出会い、語らう場所でもあろう。授業中も休み時間もない。全部言うわけではないが、しようがないからそう言う。(言わなくてもすぐ止める生徒もいるが。)

 もし自分が予備校の教員だったら、(と言って、自分自身、予備校と全く縁がなかったが。)どう言うのかなとも思う。

 街を歩くにしても、ホントは、良くないのだろうなぁと思う。赤の他人の中を歩いて、それでも、袖振り合うも多生の縁を得る機会を減らすことになるだろうに。そう思って、街中を歩いて周りを見回したら、多くの人の耳にイヤホンがはまっていた。ウォークマンが先かどっちが先かはともかく(相乗効果というのももちろんあろうが)、これでは「共同体」がだんだんと機能しなくなって当たり前だ。

 イヤホンは、「効率主義」に則った便利な道具なのかな。
 なーんか、世の中、間違っている。

人間の定義

2006年04月25日 | 物の見方
って、「今、ここにないもの(時空を超えた存在)を想像できる力と、それから、この世に一つとして同じものがないのに、違うものを見てるのに、何かしら同じだと思いつく(抽象化する)力を持つ存在」に違いない。

そう、決めることにした。うん、これに尽きる。(笑)

問題意識と「同じ」と「違う」

2006年04月23日 | 物の見方
 うまく書けないので、具体的になってしまうのだが。

 この間、効率的な学習には問題がある、というようなことを主張したら(ブログ内での話ではない)、「効果的な学習だって良いところがあるのではないか」と言われた。で、「学習することで得られるもの」の記事に書いた内容で返答をしたのだが、その前に、実は私はものすごく驚いた。

 「効率的な学習」に何の懐疑も抱かないなら、第一、「良くない」なんて言うわけがないじゃないか。それに、「良いことだ」と思われているのをふまえた上で問題意識を抱えていると言っているのである。それなのに、私がそういった問題意識を持ったというそのことに疑義を申し立てるというのは、どういうことか。

 その人は、きっと効率的な学習に何の疑問も持っていないのだろう。だから、効率的な学習を良しとしない意見を受け入れないのかと思った。

 それで、こーゆーことってよくある気がするのだ。(ここから本題。)

 「こーゆーこと」ってのは、こちらが「これこれが問題である」と言うときの反対意見として、「それは問題ではない」とする意見が出ることである。
 また、(この例とは違うが、)「AとBは違うんじゃないか」と言うと、「いや、AとBは同じだ」と述べる意見である。

 前者は、こっちが問題意識を持って、「問題がある」というのに、「問題はない」とする認識で、ウチの生徒がなかなか覚えてくれない、little と a little の違いに関わるかもしれない。グラスの底に水が入っているとして、それを「ほとんどない」と表現するのか、「少しある」と表現するのかの違いである。同じ現象を見ても、自分の理想や目的と合致するか否かの視点から、「より良く」を求めて問題意識を持つか、「これで良し」と満足するかの違いであろう。

 後者は、「みかんとリンゴがどう違うか」を問題にしたいのに、「果物だから同じだ」と反論されるようなものである。
 この点については、養老先生が「考える人」春号でうまいことを言っている。(本が手元にないから)私のコトバで説明すると、概念の階層構造に由来するわけである。モノは全て違うが、抽象化し、同じ性質で捉えると下から上へ「同じ」となる上部構造に至る。一方、上から下へ向くと、「違い」で分類することになるわけである。同じ性質で捉えても違いはわからないから、「違い」に注目して分けるわけだ。(あ、わかりにくいかな。)「みかんとリンゴ」という分類された下部構造の上に、「果物」という、みかんとリンゴに共通する性質を捉えた「上部構造」あたるべき概念がある。この図式(と呼ぼう)は「同じ」と「違う」で同じ図式なのに、上に向かえば「同じ」になり、下に向かえば「違う」になる。養老先生は、うまくできているとかおっしゃっていた(と思う)。

 学校で話をしていると、しょっちゅう、これが起こる。今までは、この認識の違いをどうやって説明したらいいのかわからなかったが、これでやっと説明ができるようになって嬉しい。

 説明と言えば、「わかりやすい説明」「納得できる説明」とは、モノによって、この上部下部構造を元に解説する説明になるのではないかな。
 同じ平面上での説明は、わかりにくい気がする。(それとも、私の場合の理解だけかな?)しかし、違う平面、違う次元を使った説明だと、わかりやすい。たぶん、「同じ」と「違う」とは、常に、こういった次元の違い、平面の違いに必ず由来するからだ。(あ、だから、上記の「わかりやすい説明」「納得できる説明」で、「モノによっては」と前に書いたのは、「同じか違うかの説明」ということになる。なるほど。書いてみたら、こんなん、当たり前のことだと気が付いたが。笑)

 「同じ」と「違う」、つまり、「同一性と差異」とは、常に抽象と具体を行き来する階層構造にあるのだ。それで、人間独自の認識の仕方になるのだろう。(言語がその典型である。同じリンゴは2つとないのに、「りんご」という同じ表現を用いる。)
 それで、やっぱり、勉強というのは、「同じ」と「違い」、同一性と差異の学習なのだ。

 う~ん、なるほど。。。納得。(笑)


「個性」を伸ばせと言われても--専門バカの時代--

2006年04月22日 | 教育
 才能の分布には偏りがある。大勢の人を見ると偏りがあるのがわかるだろう。「絵を描く」のが得意な人もいれば、不得意な人もいると言うことである。また、これは一人が持つ才能に偏りがあることも意味する。絵は得意だが、算数は苦手というような例である。

 「個性を大事にする」とは、当たり前の意味で解釈して、「他の人の持たない素晴らしい才能を見つけて育てて発揮させる」ことである。

 しかし、才能の分布には上記のような二種類の偏りがあることを考えると、これは、具体的には以下のような状況を指すことになるのがわかる。
 まずは、「何かに才能がある人はその他のことには才能がない」場合、持てる素晴らしい才能を発揮させ、それ以外の能力を問わないことになりかねない事態である。他方は、才能が誰にしも平等に賦与されている保障はない。これと言って才能のない多くの人たちはどうしたらよいのかという問題を提起する。

 これと言った才能のない後者にとって、才能を伸ばそうとする教育、個性重視教育とは、まずは存在し得ない。「何か素晴らしい才能」に恵まれない場合にそれを見つけ出そうとしてもできるわけがない。(以前も書いたかもしれないが)「得意なものや好きなものを探せ」と言っても、見つからない子どもがいて当たり前であろう。しかし、今は、そんな子どもは、なんだかんだと、要は、「責められる」。昔だったら、「これこれをせよ」と、親なり社会なりの制約で規定され、否応なくも素直に従えば良かった。「そういうものだ」で済んだ。「責められる」ことはなかった。その意味で、「自由」と「個性」が尊重される社会は、あまりにも平均的で均等な「天賦の才」を与えられてしまった子どもにとって、言い換えれば、それなりにトレーニングを積めばそれなりのことなら何だってできるようになるであろう子どもにとっては、自分で選ぶには選択の幅が広すぎる、しかし、分野によって、本当の才能のある人たちに混ざれば常に負けてしまう可能性が相対的に高くなる不幸な社会であるだろう。
 
 それで、また、前者、個人の才能の分布に着目する「何かに才能がある人はその他のことには才能がない」の典型はサヴァンの人たちということになろう。(以下、ずっと昔の記事にもちょっとイロイロ書いたと思う。)何百年昔であろうと未来であろうと、日付を聞けばたちどころに曜日を言うカレンダーマンや、一度聴いた音楽をピアノで再生できる人など、特異な分野でもの凄い能力を発揮する人たちである。しかし、彼らは、普通の日常生活を送れない知的障害を併せ持つ。持てる能力の全てが、そういった「特殊な」能力に集約し、ふつーの能力が欠如したようだ。

 実は、ここまでは前置き。随分と長くなったが、サヴァンの少女、もの凄く絵を描く才能に恵まれた少女に算数を教えたら絵が描けなくなった、という話がある。
 何が言いたかったのかというと、この少女にとっての幸せは何なのだろうか、ということだ。それに付け加えて、社会にとって、そういう少女がどういう存在であるかという問いもある。
 たとえサヴァンでない一般論としても、偏りのある才能の何をどう伸ばす教育が人(その人個人と、その人を取り巻く社会集団内の人)の幸福に資するかどうかの判断の方法が、ここにないかと思うのだ。 
 
 得意だったり、好きだったりするのはきっと「快感」であろう。脳も活性化しているはずだ。だったら、快感を感じるように行動するのが生物として自然な生き方になろう。絵を描くのが得意な少女は、算数をしているときより、絵を描いている方が、おそらく快感を得るだろう。
 しかし、快感を犠牲にしてでも嫌なことをしなければならないときがあるとしたら、その方が大きな意味で自分の生存に有利になるときだろう。だから、これは、どの程度まで快感を犠牲にすべきかという問題でもある。

 何でこんなことを言うか。
 「数学は全然ダメ、英語は得意」という生徒は数学と英語を共にどこまで勉強すべきなのか。どこまで快感を追求して良く、どこまで不快に耐えさせるべきなのか、ついつい思ってしまうからだ。

 そもそも、今の高等学校の教育内容は、90%以上の高校進学率を鑑みると、多数の生徒の受け入れ能力の範囲をかなり逸脱していると思う。
 どうみても勉強に不向きな生徒が多い。国語でも数学でも実際的ではない勉強をするよりも、身体を動かした方がずっと脳内快感物質の放出が盛んだろうと思うのに、彼らは身体を机に縛り付けられている。
 また、たとえば、数学だけなら耐えられようが、それに英語が加わると、どうにもしようがない生徒もいる。
 これは、「算数をしたら絵が描けなくなった少女」と似た状況ではないだろうか。

 しかし、机に身体を縛り付けることによって、将来的な意味を含めた大きな意味での生存が有利になる状況ならそれで致し方がないと言うことか。しかし、この「有利」は、その「個人にとっての有利」である。
 そういう個人が増加することによって、社会の構成員の割合は変わることになる。絵を描くのが得意な少女が、算数の勉強のせいで絵が描けなれば、人類は素晴らしい芸術家を失うことになるという危険性である。これが「マス」として起こった場合、どうなるかである。それで住みやすい社会になるか、かえって住みにくい社会になるのか。


 しかし、「個性」が標榜される時代とは、結局は、人生所詮は「快感」だ、という、世の中に何割か必ず存在する「ある種においてのみ才能に恵まれた人」を優遇しようという、世の傾向を感じるのである。(これが、今回、最も言いたいことです。)


 たとえば、養老先生や藤原先生のような余程の人を除けば、語学の才能と数学の才能は両立しにくい傾向があるようだ。かの吉田研作先生は、数学がどうしてもダメだったらしい。しかし、彼の話す英語は完璧である。語学で身を立てている人の多くには、そんな人がかなりいるのではないかと思う。
 英語教育に関しての、とある「偉い人」と、電話で小1時間(否、1時間以上か)話したとき、語学に関しては大変な才能の持ち主であると知っていたが、その人は、文章読解力があると思えなかったし、ご自分の話の論理展開や整合性に欠けてもいた(と私は感じた)。その人の文章もそれまでに読んでいたが、私の文章の方がよほど英語の思考論理に適っていると思う。(私は英語は(期待される基準を満たすほど)できないけれど。)はっきり言って、技術的意味合いの強い語学ができるからと言って、語学教育が持つ様々な次元における曲面がわかると思えないのである。しかし、その人にとって、英語教育について語ることは英語という視点で「快感」であり、ご自身、一家言だと思っていらっしゃるはずだ。
 

 自分の快感を追求して、その道の専門家になったとして、その「論理」が、あまねく一般市民に通じるはずがない。自分の同様な快感を感じる人にしか通じない論理になる。私が言いたいのは、これがまかり通ろうとしているのが現代という時代ではないかということである。


 もっともこの道理は私にも当てはまる。
 私の場合、高校レベルまで(文系だけれど)数学を勉強して良かったと思っている。多くの人も数学を勉強した方が良いと思っている。「思っていた」と言うべきか。しかし、私が数学をやって良かったと思うのは、もともと私には多少なりとも訓練すれば開発される数学的なものの見方の才能が備わっていたと言うことではないかと気が付いたのだ。だから、逆に、そういう素地が全くない人がいてもおかしくないのである。才能は偏在するから、私にあればない人がいて当然なのである。その典型が、例の少女だろうし、ときどき学校で見かける生徒たちだろう。で、私の物理だったりするだろう。(私は物理だけはどうしようもなかった。)


 しかし、現状は、多少何らかの才能に恵まれた人のほとんどの多くが、他人も自分と同様な才能に恵まれていると思っていることである。あるいは、そう思ってなかったとしても、自分の同質の才能を開花させることが正統であると思っていることである。で、これが、ひょっとしたら、諸悪の根源だったりするのではないかしらと疑うのだ。
 表現を変えれば、自分が快感を感じることにおいてそれなりの成功を収めた人は、人もまた同じ快感を得るのがよいと信じて疑わないということである。


 だから、英語の達人は英語の重要性を訴える。音楽家は音楽の楽しさや重要性を語り、体現するだろう。数学者なら、「数学は美しい」と言い、数学の大切さを論じる。こういった主張は、いかなる分野に於いても当てはまる。(もし、あなたも同意するなら、あなたにもその才能がいくばくかは必ずあるということだ。)

 もっとも、「人生の豊かさ」と言うことを考えると、数多くの場面、英語であれ、音楽であれ、数学であれ、自分が楽しいと感じられる範囲で楽しめばいいのはわかる。それが「文化」だったりするだろう。しかし、マスメディアにのせられるような、あるいは、何かしら、特に素晴らしくもない「才能」をことさら強調して人を不自然に踊らせるような「気配」を感じるのである。

 踊らせる側としては、「同志」が増えるというメリットがある。自分と同じ感性で快感を抱く人を増やすというメリットである。それで、同志が多ければ、快感もきっと更に増える。たぶん人間はそんな風にできているのだろう。
 しかし、現代社会においての勢力拡大は、しばしば拝金主義と結びつく。それで、特別な才能らしいものを何も持たずに生まれついた人たちは、何らかの才能を持った人たちの勢力拡大の対象として、それなりの才能開発を計られ、それなりには楽しめることがあるかもしれないが特別なものは何もなく、メジャーな流行に踊らされたり、あるいは、次から次へと「もっと自分が楽しめるものがあるのではないか」、「自分にも何か才能があるはずだ」と思いこまされてとらえどころのない人生を送ることになるのではないかということである。
 つまり、何らかの才能に恵まれた人が、自分の分野で一層の成功を図るために、特別な才能に恵まれてない人を取り込もうとしているのではないかと私は推察し、危惧するのである。

 現代は、この意味で「スペシャリストの時代」だろう。力を発揮できるほどの才能の持ち主は、様々な分野にいる。割合も数においてもやはり限られるはずだが、その人たちが、大手を振っているのが今の時代だろうか。もちろん、これは今もいつの時代であっても変わりはない。しかし、今と昔では、雲泥の差で分野は多岐にわたり規模も大きく、社会全体に対する影響力が違うのだ。

 それで問題は、ある才能に恵まれる個人は、他の才能に恵まれていない可能性がかなり高いのである。しかし、専門家は専門家として社会的に認められれば発言権を持ってしまう。しかし、果たしてそれが「専門家」の意見として重要視されるべきことなのか。(一言で言ってしまえば、「専門バカ」の意見を聞くべきかということである。)それは、あくまでも、個人的に持つ才がもたらす「快感」に関わる勢力拡大の問題に過ぎない危険性があるのではないか。
 専門家は、おそらく、自分のやっていることによって社会全体がどう変化するか、社会全体に何をもたらすか、なんてことは、実は、余り考えていないのではないか。わからずに、それぞれの分野の、言わば「勢力拡大」を狙っている。

 その一端が、昨今の英語ブームだったりするのではないか。猫も杓子も英語英語で、現在、最も良い思い?をしているのは、英語にそれなり以上の才能を持つ人たちであろう。国家的レベルで、こんなに一つところに向かっていって良いわけがないのではないか。
 天から賦与される語学の才は偏在し、分布に限りがあるはずだ。その才能の多くが英語に流れれば、他の言語が手薄になって当然である。(フランス語の専門家が不足しているらしいと何かで読んだ。)国家が関わる教育が、それを助長するのはいかがなものか。

 パソコン好きはパソコンを重要視するだろう。それで子どもの教育に取り入れる事態が生じている。しかし、パソコンの利用を成長期の子どもに教えることが人間の発達にどのように関与するかという問題は、パソコンの普及を図る専門家の範疇を超えた問題で、全くの別次元にあるはずだ。(情報リテラシーとはまた別問題の話である。)しかし、そこのところが何かごっちゃになって論じられてしまうのは、これがパソコン通の専門家に欠けた視点だからだろう。
 パソコンに関しては、何らかのシステム作成による「一人勝ち」論もこれと関わる。より多くの人がパソコンに関われば、----たとえば、多くの人がブログを作れば作るほど、ブログというシステムを作る側が儲かる論理のように----「元」を牛耳る人が、全く目立つことなく最大の利益を得るのである。

 現在の諸問題の多くはこれに尽きるのではないか。
 社会の構成員の一人一人に自由が与えられているようでいて、その実は、目に見えてこない「誰か」に支配され、ふつーの才能を平均的に賦与されて生まれてきた大多数のふつーの人たちが、人より傑出した才という「個性」を持つ、少数ながらも様々な分野であちこちにいる、それなりに多数の人たちに「いいようにされている」ような現実がここにあるように見えて仕方がないのである。

 支配される側としては、たとえば、英語英語の時代にあって、必要以上に英語アレルギーで肩身の狭さを感じなければならない問題、対処しようと慌てふためかなければならない問題、「国際化」の名目で英語だけに着目させられることでかえって視野が狭められ、外国語がまるで英語しかないかのような錯覚を抱き、非国際的になるような本質の逸脱に結びつく視点である。

 支配する側としては、自分の分野のことにしか思いが至らない偏狭さである。
 「数学は全然ダメ、英語は得意」という生徒がどこまで数学と英語を勉強すべきかという問題は解決しない。しかし、その生徒は、長じてどんなに英語に熟達しても、自分に苦手があったことを記憶している必要はあるだろう。また、それを補う「何か」を学んで身に付ける必要があるだろう。でないと、支配する側に立ったとき、世の中に迷惑な専門バカになる危険性がある。

 「個性、個性」と言われて腑に落ちない理由である。


脳の時代万歳

2006年04月22日 | 養老孟司
 私は「バカの壁」以前からの養老ファンである。ちくま学芸文庫「唯脳論」第1刷1998年発行を持っているのが自慢である。(笑・へへっ、しかも養老先生のサイン付きだぜっっ。流行の講演会で書いて貰っただけだけれど。)

 で、その影響で、昔から学校でも「だから、脳がね。。」と話をしていたのだが、多くの場合「あの人は何でも『脳』だからね。。」と揶揄されていただけだった。当然、今流行の「脳のトレーニング」なんて何もなかった頃である。アタマを、脳細胞を鍛えろと言っても、「だから、何、それ?」と重要性を認識するどころか、大方が相手にしてくれなかった。

 でも、今は違う。
 話がスムーズに通る(気がする)。生徒にだって、堂々と話せる。理解してもらえる。

 嬉しい。

 世の中全般として誤った認識がないとは言えないだろうが、私にしてみれば、隔世の感があると言っていいほどである。うん。

 今日のNHKの養老先生は、真っ青のシャツだった。やっぱり養老先生は、はっきりした色がお好きなようだ。



平和な日々はいつまでか

2006年04月20日 | 教育
 平和である。

 「教室から戻ってくるときの顔が去年より穏やかですよ。」と言われた。そりゃ、そうだ。ストレスがない。

 無遅刻無欠席。朝は、所定の時間より早く始めることができる。
 つまんない授業も一生懸命に聞いてくれる。予習をしているせいで、それなりに興味深くなるようだ。授業なんて、そんなものだよな。課題意識は、先生に言われて持つものじゃない、対象そのものから自分で抱くものさ。

 授業で、私得意?の「らりるれろ」の発音練習をさせたら、おもしろがって大きな声でやる。
 辞書を引かせると、一生懸命に調べてメモをする。(予習の段階でそこまでやってくるべきだとは言わない。)「何をして良いのかわからない人いませんか」と聞いても誰も手を挙げない。(昔はよく手が上がった。)ホントにわかってるのかなとちょっと心配な気もするが、まあ、わかっているのだろう。この頃の辞書は、二色刷だったりしてわかりやすいものが多い。
 電子辞書を使う子に、別の生徒が「紙の辞書の方がわかりやすいよ」なんて、言ってくれてる。凄く時間がかかるとも言ってたが、まあ、そんなものだ。「覚えるのだって時間がかかるからね」と言っておいた。変な顔をしていたが、でも、たぶん、引きながら綴り字を記憶することに繋がるんじゃないかなと思う。電子辞書ではこういうわけにいかない。
 授業が終わると、「先生、次のここは予習をやってくるんですか」と数名聞きにくる。(聞くまでもないだろうとは言わない。)
 学級日誌には、「予習の大切さがわかった」と何人も書く。(書くだけではダメだぞとは言わない。)

 教科書をやりながらも、中学の復習宿題や小テストもしているから、それなりに頑張ろうとも思えるようだ。動詞の活用や月、曜日、数字を書かせる程度だから、やればすぐできる。ヘッドスタートである。

 スカートが若干短くなってきた。明らかに短い生徒に「バカな上級生の真似するな」と冷たく言い放ったら、次の時には直っていた。
 「ボタンがはずれているよ」と言うと、「あ、しまった、いけない、いけない。」という顔で直す。

 いつまで続くのかな?とみんなで言っている。まだ、2週間だものね。これで部活が始まると。。。。
 なぜ、だんだん悪くなるのだろう、とは・・・・やはり言いたくなる。(理由はわかっているけれど。)

 授業をしていて、我ながら、なんて古くさい方法なんだろうと思うけれど、わからないことを自分で調べて、わかりやすいように後のことまでを自分で考えてメモをする。それで、授業に臨む。座学に関することは、世の中、これで大抵大丈夫じゃないかと思う。何でもかんでも、先生が教えてくれることを望むな。