考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

わかって安心、だからできない

2006年10月14日 | 教育
 真性ゆとり世代は、どうやら「練習不足世代」のようである。

 勉強は、勉強をして理解する、わかる、これを第一段階とすると、ここで終わってはいけない。カルチャーセンターの講話ではないのだ。いわゆる「学校の勉強」では、「わかった」の次に、わかったことを「習得する」という第2段階に入らなければならない。「わかった」だけでは決して出来るようにならないからだ。このとき必要とされるのは、練習、練習、ひたすら練習、つまりは忍耐力である

 しかし、彼らにとってはどうやら「わかる」ことが最大の目的になっているようである。「わかる」ことに、しかもなるべく容易にわかることに全力を尽くす。だから、わかりやすい授業を求めるのだとも言えよう。よって、いったん「わかる」という段階を過ぎれば、目的の大半を達したことでほっとし、安心し、全ての活動が終わるのだ。第2段階、目標の「習得」まで行き着かないのである。授業の反応ほどの結果が出ないのはだからではないか。

 彼らはバカではない。ちゃんとした能力の持ち主で、話をすれば受け答えも(言葉遣いは幼稚ながら)内容はまずまずである。なのに、随分と出来が悪いように思われるのは、「習得する」ことを知らない、或いは習得の方法を知らないからだとしか考えようがない。
 中学校でも、ひょっとしたら小学校でも、「ちゃんと練習して習得する」或いは、「習得するために練習をする」ということをやってこなかったのではないか。あまりにもお粗末である。

 だから、せっかくの「理解」が腹の底に落ちないままに次の高次元単元に進み、どんどんあやふやになっていく。ぼんやり、なんとなく、という理解の仕方も増える。やることに確実性がないのである。それでも、説明を聞けばちゃんとわかるから、自分では更なる学習の必要性を感じない。で、いざ、問いに向かうと、できない。それでも、全くできないわけではないから、自分ができたところだけに着目して(近頃の生徒は、テストなどが返却されると○を目で追い、×を見ない。)、「できた」と安心する。

 う~む。どう見ても、ますます確信を持つ。

 勉強の目的が「わかる」で終わっていけないのである。きちんと「習得する」まで、しっかりとやれ。一に練習、二に練習、三、四がなくて五に練習。忍耐力、継続力、習慣力。
 書き込み式問題集で、「一回やって終わり」が染みついてるのだろうなぁ。あ~あ。ノートにやれ、ノートに。同じことを繰り返しやるんだ。習得の秘訣はそれしかない。ここに「効果的」も何もない。実行あるのみである。勉強はカラダでするのだ。

追記:
 きちんと言われたとおりにできる子は、ちゃんとできるものです。でも、たぶん、「言われたとおりにする」価値を知らない子がそもそも多すぎるような気もする、ということです。何のための学校か。