考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

徹底的にやりましょう。

2009年06月30日 | 教育
 自分が受験生の頃から受験はゲームだと思ってるが、この頃、さすがに行きすぎているなぁと思うようになった。

 ゲームに勝つのは面白い。私は、かなりマトモに勉強をした生徒だと思うが、試験の点に関しては、常にゲームの感覚を持っていた。それで、きちんと勉強をするのが、もっともゲームに勝つ良い方法だということもわかっていた。(その割には、保健体育や家庭科など受験に関係のない教科も強迫的に(?)一生懸命に頑張ったけど。)

 今の生徒や教え方を見ると、どっちつかずで見ていて嫌になる。点取りゲームに徹するのなら、それに徹して、徹底的に勉強を基本からやればいいのに、そうはしない。そのくせ、下手なゲームの感覚だけは持っているから、点は取ろうとする。でも、そんなやり方では決してゲームに勝てない。中途半端な勝ち方しかできない。(まあ、それでも大学に行けるのだからいいのかな?)

 そういうのが見えるから、歯がゆい、と言った方が良いのかもしれない。いい加減などっちつかずの方法を取るのだったら、いっそのこと、徹底的に基本から勉強をすればいいのにと思うのに、その方法は選ばない。多くの人はちゃんとしたやり方を知らないのかなと思う。ちゃんとやれば、(私みたいに)持って生まれた能力以上の点数が取れるのになぁ。
 
 なにか、ソフトが変わったのかどうしたのか、記事を打ちにくい。(目が痛くなる。)よって、短い記事になる。

競争の是非

2009年06月30日 | 教育
 「競争」や「評価」は、結局、当たり前だけど、同じ土俵にのっているからできることだ。
 それで、教育で「競争」を論じるときの違和感は、教育のそもそもの目的が、「土俵を変える」ことにつながるからだ。
 これは、教える方も教えられる方もそうだ。
 まあ、人間が成長していくというのは、どんどん自分がいる土俵が変わっていくことなのだろうと思う。

 で、土俵が違う人と相撲はとれない、ということになる。
 相撲を取ること、取ろうとすること、取れることばかりが良いことではない。

 数値や数値による目標は、同じ土俵にいろ、という意味だから、まあ、ホントのところは、あまり賢いやり方とは言えない。

 時間切れ。


ノートの取り方を学習した人たち

2009年06月26日 | 教育
 昔は、少なくとも私が中学生だったときは、中一時代とか中一コースなどの学習雑誌に、ノートの取り方のあれこれが書かれてあった。それで、みな、教室の話題として、どうやったら上手くノートを作れるかを学習していた。

 それで、と、思う。

 そうやって、ノートの取り方を学習した世代が、今や、プリント作りや問題集作りに精を出してるんだなぁと。それで食べている人たちも多いのだろうな、と。

 まるで、自分の子供を喰い物にしているかのようだ。


 

くどいようですが、55と世間

2009年06月24日 | 教育
 IP数もいつも通りに減ったし、もう、そういう方は読みに来てないと思うが、例の偏差値55の感想で、私がいう世間がどのような規模のものか、と疑問に思った方がそれなりにいたようだ。

 思うのは、そう思った方は、偏差値55前後が世間を動かすと思ってないだろうということだ。なぜなら、賛同した人は、この「世間」が何らかの意味で実体を持ったものとして感じられたから賛同したのだろうと思われる。世間の規模も感覚的に理解し、理解したからには疑問を持つということはあり得ないということだ。この逆で、疑問を持ったと言うことは、実体験として感じてないから疑問を持ったのだろう。

俯瞰的なものの見方と「上から目線」というコトバ

2009年06月24日 | 教育
 近頃、「上から目線」という表現があるようだ。人が自分に向けて発した言葉を非難する際に使われるようだ。たぶん、命令的な内容や口調だったりするとき、まあ、要は、「ちぇっ、偉そうだなぁ。」と思ったときに非難として使われるのだろう。(と言うのが、私の理解。)

 それで、ふと思ったのは、俯瞰的なものの見方をした場合、人によっては、何を言われても「上から目線だ」と捉える人がいておかしくないんじゃないのかなぁ、ということだ。
 ↑と、こんなことを言うだけでも、何人かは、「上から目線」と思うんじゃないのかな。(そう思う人は、このブログを読みに来ないと思うが。)

 「上から目線」という表現が非難であるなら、「目線」は、どこから来るのが望ましいのか? 当然、対等であるか、下から、と言うことになろう。「私とあなたは平等で、対等よ」「私を見上げて♪」というのが、「上から目線」を嫌い人が望む関係だろう。まあ、「お客様は神様です」とか「患者『様』」の類だろう。---う~ん、そう考えると、厚労省も「上から目線」という表現を流行らせる土壌を作ったということか。

 「俯瞰」が何であるかを考えると、どうしても、「上方から全体像を掴んでものを見る」ことになる。それで、「こうこうである」という見方をすると、ある意味で「上から目線」になると思わざるを得ない。それで、そのものの見方を知った人が「全体像」を描くことが出来ない場合、つまり、俯瞰するものの見方ができなかったり、しなかった場合、自分自身がふわっと(かどうかがともかく、)上に上がれないから地面に這いつくばるような気分で、俯瞰的なものの見方を「上から目線」としか捉えられなくて当然だろうと思ってしまう。

 「俯瞰」は、たぶん、抽象化と関わるだろうし、それこそ、絶対神の西洋的なものの見方と関わるだろう。八百万の神の日本の風土には合わないよなぁ、と思う。 西洋でも「上から目線」という言葉が批判的な言葉として流行ることがあるのかしら? 神は常に「上から目線」でものを言うだろうから、どうなのかなぁ?


人間関係の第1次産業と第3次産業

2009年06月24日 | 教育
 産業の区分に、第1次産業、第2次産業などというのがあるが、ふと、人間関係にもこんな分け方ができるんじゃないかと思った。
 最も基本的な生活共同体、家族は、第1次産業的だろう。なんてたって、人間の「生産」をするのは家族だから。第2次産業というのは思い付かないが、第3次産業は、私が小学生のときに習った(笑)のは、基本的な生存にはあってもなくてもいいようなサービス業の類だから、メル友でも何でもいい、遊び友達だろう。

 家族が昔ほどの共同体的な役割を失ってきていることと、サービス業が流行ってきていることには負の相関があるだろう。
 人間関係も、家族のような、それぞれの良いところも悪いところも受け入れる、少なくとも、受け入れざるを得ずに受け入れてきたものが機能してないから、第3次産業としてのサービス業が流行っているのだろう。それで、人間関係も、家族のような濃密な関係が薄れてきている分、浅い場合が多いであろう、おそらく、「良いところ、しかも自分にとって都合の良いところをだけを見て付き合う」第3次産業的な人間関係の度合いが増えているのだろう。(実質的に増えているかどうかはともかく。)

 ↑思いついただけ。

わかりやすいと言われても

2009年06月23日 | 教育
 たぶん、卒業生からだと思うが、どうやら私の授業がわかりやすいという噂?があるらしい。以前もあったけれど、そう言われても困る。
 授業は、生徒と先生が共に作り上げていく。しかも、継続することで授業内容の理解を深めていくものだから、時々質問に来られても、できるようになるわけでない。
 質問は、自分の授業担当者に聞きに行くこと。これが基本である。でないと、学校の雰囲気も悪くなる。
 と言うわけで、先日、一人目はついうっかり間違えて答えてしまったが、次からは断った。
 職員室の廊下で、何の教材かわからないが捕まって、「辞書を引け」と指導したら日本語だけを見ていたので「用例を調べよ」と言って、見付けさせた。すぐに分かる。「ほらほら、ちゃんと書いてあるでしょ。」--それで、終わり。

 ほりに聞くより、辞書に聞け。

 他の先生の方が、英語は絶対によくご存じで、造形も深いはずなのだ。
 うん、私の方が、出来ない生徒に近いのだろう。(笑)

 私は英語があまりできない。(とっても優秀な英語の先生のブログに「英語教師は英語ができることが条件」みたいなことが書いてあったのを読んだときは思わず赤面した。)でも、どうしたら、読めるようになるか、書けるようになるれるかは、今教えているレベルの生徒程度なら、多少はわかっているつもりだ。その方法を教えている。(この本を読め、とか、ラジオ講座を聴け、とかいう方法ではない。)

 それにしても、トシを取ってからの方が、授業内容が変化している。若いときの方が通り一遍だった気がする。
 去年と今年でも、変化しているように思う。「基本に戻る」が、もう、相当に徹底してきていると思う。
 でも、ときどき、間違った方向を向くことがないと言わないから、気をつけないといけない。

思考の再構築

2009年06月21日 | 教育
 ある先生が言うには、二年生のとき、教えたことについて、めちゃくちゃな持論を展開してくる生徒がいるが、そういった生徒が三年生になって急激に伸びてくることがあるということだ。

 これ、私、なぜそうなるかが、わかる。

 その生徒が滅茶苦茶な持論を述べていたのは、その際に、習った事項を自分で再構築しようとしていたと考えられるからだ。だからこそ伸びることが出来たのだと思う。

 再構築とは、与えられたものを取り込むために行わなければならない過程である。食べ物の消化吸収に似ている。取り込むべきものは、一旦バラバラにして、自分のなかで再度組み立て直す。これをしないと、実際のところ、習ったことの消化吸収にならない。上記の生徒は、2年生のときに先生の前で行ったのだろう。彼(彼女?)がその際に学習したのは、習得すべき事項そのものというより、習得の方法だったと言える。それで、これこそが、学習上の最大の武器になる。どんなに複雑なものであっても、丸暗記では駄目だということだ。

 こうした思考の再構築の強みは、応用に通じるという点である。体系化された構造のどこに自分が今現在必要としているものがあるのかを抜き出して見出すことができる--これが「考える」ということで、勉強をするとは、これをして初めてのものである。
 できる生徒は、無意識であったとしてもこれを必ず行っているものだ。だから、力をつけるため、力を付けさせるためには、こうした思考の再構築を重視しなければならない。
 しかし、この重要性に気がつかない人は多い。だって、試験で問われるのは、「結果」だけだから、気がつかないのである。普通の生徒がなかなか勉強ができるようにならないのがだからだ。

基礎を固める?

2009年06月20日 | 教育
 一般的に言うと、高三生は、この時期に基礎固めをするものらしい。

 「らしい」と、ちょっといい加減な言い方をしたのは、私には「基礎固め」に時期があると思えないからである。

 基礎とは、わからないときに立ち帰るべきところであるからして、基礎は、勉強していれば常に意識せざるを得ないものであろう。ならば、いつだって勉強をしているときは基礎固めをすることになる。わざわざ言葉にするほどのものではない、というのが持論である。

 英語なら、単語が基礎になるらしいが、単語集一冊覚えたからそれでいい、というわけでない。使わない単語は忘れる。しかし、そもそも、単語集の単語は、ほとんどが既出である。正確には「覚える」でなく、「確認する」のはずなのにそうなっていない。生徒を見るに、一冊覚えて高校を卒業する生徒はまれである。この意味では、多くの受験生が、基礎がないまま本番に向かっているということだ。

 「基礎が大事」「基礎固め」は、「受験」と聞いて、いきなり小難しい問題に手を付けようとする生徒を牽制する以外に意味はない。大事なのは、いかに毎日の授業を活かすかということに尽きる。

 何を今更、と思う。