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考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

早く出ろー

2011年01月10日 | 養老孟司
そこまるブログ

>新潮社の足立さんが来て、校正を広げたら、きちんとその上に乗りました。

「考える人」の「万物流転」の校正かしらん?
本、早く出ないかな。うふ♪♪ 

わ~い

2007年12月19日 | 養老孟司
郵便局に行ったら、年賀状の宣伝チラシがあった。養老先生のだけ5枚くらいもらってきた。(勝手に取ってきた。)
わーーーい。ウチには、5人も養老先生がいるよー!!
サインだって、あるよーーー! 一つは落款付きだぞーーー!(でも、年賀状宣伝用チラシの落款とは違ってる。たくさん持ってるのかなぁ?)

「情報化」と「伝言ゲーム」の共通点--養老先生の魅力と楽しみ方

2007年11月04日 | 養老孟司
 「ぼちぼち結論」の「なぜ脳なのか」で、養老先生は、子ども時代に終戦を迎えて「だまされた」と思ったから、騙されたくないと思って解剖学を選び、騙されたくないと考えていたらひとりでに「脳が現れた」と書いている。
 で、こういった肝要な話は、本を読んでもらえれば良いことであるが、この経緯を語る途中でこんな表現が出てくる。(P.161)

「(略)。ただしその情報化にはかならずウソが入る。情報は実際ではないからである。伝言ゲームをやれば、イヤというほどわかるはずである。」

 小難しい「情報化」を、身近なバスのゲーム(遠足の時など昔はよくやったなぁ)の「伝言ゲーム」と同列に扱う。
 私は、正直言って、こんな一節を読むとき、養老先生って、アタマ良いなぁと感心する。

 人によっては、「『伝言ゲーム』はたかがゲームで、仮想の世界じゃないか、『情報化』は、実社会で行われている重要な活動だから、たかが遊びと一緒にするなんて、この人、どうかしている。わけがわからん。」と思うんじゃないかと思う。こういった考えの基底には「ゲームのような遊びと現実の社会は異なる」という前提がある。だから、情報化とゲームは、それぞれの前提が外れているから、「なんでここでゲームがでて来るんだ?」と思うだろうと想像する。或いは、「伝言ゲームは決まったコトバを伝授するだけだ。情報化は、もっと複雑な事象を言語化することだ。だから、違う。」とか。
 いずれにせよ、「情報は、特定の人間の脳を経由して言語化され、人に伝わられる」という共通性に気が付いていないから「相違」の方に目が行っての言ということになる。

 だから、私は、誰でもが知っている「ゲーム」という「遊び」と、「情報化」という現実社会の最優先事項に共通する上記の観点に、「伝言ゲーム」で必ず生じる「ウソが入る」という状況を敷衍して「共通点」として見抜く養老先生は、本当に抽象化能力が凄いと思うのだ。

 う~む。さすが。
 だって、私は、「伝言ゲーム」と「情報化」にこんな共通点を思い付かない。自分の思い付かないことを思い付く人を、私は(自分の定義で)「アタマが良い」と思っている。養老先生は、本当にアタマが良い。

 養老先生を読むと、小難しい中に、こういった卑近な例がさり気なく持ち出されていることがよくある。全く関係のなさそうな事項が突然出てくることもある。もっとも、ほんの一言付け加えているような、今回の伝言ゲームのような例は、「こういった点でこれとこれには共通点がある」とまで親切に書いてない。(書くわけない。)だから、読者は自分で気が付くほかない。これがまたちょっとした「目から鱗」だものだから、私は読んでいて、思わず「わはは。。」とか、くすりと笑い出したくなり、養老先生は本当に抽象化能力の高い人だと感心するのだ。

 養老先生のアタマの中には、自分の身の回りの出来事や体験の全てを基盤にして、このような「まとめ上げ方」で抽象化する発想があるのだろう。だから、文章の中で、小さな具体が適切な場所でそこかしこ顔を出す。養老先生の議論は、小さな具体の集積が上手にまとめ上がって(としか私はもう表現しようがない)、抽象化し、難しい議論に発展しているのだ。

 養老先生の考えに、昨日今日の付け焼き刃は何もない。人のコトバの受け売りもない。全てが自分が咀嚼し、自分の体験から出してきた言葉なのだ。だから、「解剖は自分にとって修行だった」と彼は言えるのだろうし、養老先生の言うことは、「もっともなこと、当たり前なこと」なのだ。


「普遍」を「具体」に当てはめる養老先生のアタマの良さ

2007年08月20日 | 養老孟司
 虫は関節で話をするらしい。人間の関節はすべすべしているからなめらかに動くが、虫の関節には凸凹があるので、ごつごつさせて動くと言う。私のイメージでは、昔々のロボットのようなぎくしゃくとした動きだろう。凸凹をかみ合わせるから同じ姿勢を取り続けることも出来る。しかし、動かせば凸凹が擦れ合うものだから音がすると言う。だから、蟻の巣の中はさぞかし五月蝿いだろうと養老先生はおっしゃる。それで、凸凹は、擦れ合うからには摩滅する。しかし、虫は1年の命だから、摩滅してもその頃には命も終わるから構わないと言う。

 なるほど。
 私が「養老先生がアタマが良いと思う理由の一つに、↑こーゆーことがある。「凸凹は擦れ合うと音がする」「凸凹は擦れ合えば摩滅する。しかし、虫の寿命は短いから構わない。」

 言われてみれば当たり前のことである。
 なぜ当たり前なのか。それでなぜ私は感心をするのか。

 養老先生は、「凸凹は擦れ合うと音がする」という「普遍」を「具体的な事例に当てはめる」からである。凸凹の摩滅と寿命の関係もそうである。

 つまり養老先生は、我々の世界の「ふつーの常識」が昆虫という私などから見れば「特別な世界」にも当てはまるのだ、ということを意識化させてくれるのである。

 あまりにも自然で素朴なモノの見方である。でも、私は、大事なのは、こういった感性ではないかと思う。何事も、人間が形作る世界はさまざまである。しかし、その根底に横たわる普遍的な何かを見出す素朴な「感性」は、ものを見る上で非常に大事なことではないか。

 我々はややもすると、物事を切りたがる。(コトバの性質がそうだからである。)虫は虫、音は音、凸凹は凸凹と、それぞれ別物であるという見方をする。虫は「生物」だし、音は「物理」である。凸凹は「物理」もあろうが形態として「美術(造形)」である。これらそれぞれを別物として捉えて何の誤りもない。「勉強をする」ことの基本は、虫は虫、音は音、というような「切り方」をまずは覚えることにあるからだ。教科、科目が良い例だ。
 しかし、本物の勉強は、そこからまた「何らかの結びつき」を再構築したり、再発見したりすることから始まる。でないと、学校の勉強だって、本当には出来るようにならないのだ。

 養老先生のアタマの良さは、いったんは別物として扱われたモノに「繋がり」があることを思い出させてくれることにある。私は、養老先生は、これがものすごくうまいと思う。

 私が感心する養老先生のアタマの良さの基本は、こういった点である。


終わった「鎌倉傘張り日記」(ゴミ)

2007年07月23日 | 養老孟司
 中央公論の6月号で「鎌倉傘張り日記」が最終回になった。7月号、8月号と出ているが、養老先生が載ってないのが寂しい。
 茂木さんも確かに面白いのだけれど、茂木さんは、かなり文学的だから、私の好みには合いづらいところがある。私の原点(?)は養老先生だなぁ。

 先日の「科学大好き土曜塾」で、ちらりの養老先生が出ていた。電子顕微鏡の話で、養老先生そのものではないから、ちょっと残念だった。

面白いよ、養老先生

2007年06月08日 | 養老孟司
 「逆立ち日本論」読みかけ中。「小説を読みながら考えた」多分読了。
面白いよ。前者は、内田先生のブログによると、過激すぎてカットされたらしい養老先生のコトバが知りたいよなぁ。。
 「逆立ち」の最初の方を読むと、やっぱり内田先生は感覚と抽象のバランスがとても良く取れた人だと分かる。私は自分自身、(たぶん)バランスが取れている方だと思わないから、言ってみれば、よりバランスの取れていない養老先生の方が好きなのかな。(笑)


養老先生と気が合うみたい(笑)

2007年04月17日 | 養老孟司
 中央公論5月号の「鎌倉傘張り日記」に大いに同感してしまった。(笑)
 
 以下、「>」の後は引用。

>われわれの現実を決めているものはなにか。それが自分自身だと言うことは私には明白だった。
 
 この部分の後は略。ちょっと違うし、よく分からないところもある。

 仮面浪人した頃、親と自分の現実は違うんじゃないかと思った。同じものを見ているはずなのに、全く違うことを言い合う。それで、私は、真実は人によって違うと思った。もっと言うと、真実は生きている人間の数だけあると思った。後々、20代半ば頃に読んだ曾野綾子氏の文章に全く同じことが書いてあった。その頃、私の周りでそんなことを言っている人は誰もいなかった。だから、自分の思ったことが満更ウソでもなさそうだと思って嬉しかった。教員になってから雑談でそんな話をしたら、たまたまその時の現代文の教科書に、「真実の百面相」というのがあって、似たような内容だったらしい。生徒が分かってくれて嬉しかった。

>こうやって書いていても、自分の考えを表現することがいかにむずかしいか、よくわかる。人は一直線にものを考えるのではない。一直線に表現するのである。さもなければ、話が面倒になって、相手に伝わらない。しかし本当は一直線には考えていなのだから、どうしたってウソが入る。

 以前、「作文が下手なわけ」に書いたことに似ていると思った。私は、「考え」とは巨大な分子のようなもので、複雑に絡み合っていると思っている。その記事には書いてないが、「時間」の要素も当然関わってくる。以前の考えがなんだかんだの理由で変化してどうのこうのとか。文章化するとは、上記養老先生の言葉だと「一直線」になる。私も正に、「文章化することは、立体構造のものを上手に1本の線になるように切り取っていくことなのだろう。」とそのときに書いているよん♪♪ でも、それは難しい。だから、養老先生は、「ウソが入る」と表現されたのだろう。確かにウソといえばウソである。

>それは幾何学と同じである。幾何学ではまず定理を習う。論理は前提を固めるところから始まるからである。でも実際には、定理は最後に発見されるのである。最後に発見されたものが、説明では最初に来る。それを実際に最初だと思ったら、既に誤解なのである。論理的説明の困難はそこにある。数学の問題ならまず解けて、それから証明がついてくる。「まず解けた」部分は意識下だから説明できない。やむを得ず事後的に「説明を書く」のである。

 学校で、いろいろ疑問を持つ。やっていることや対応の仕方が間違っていると思うことが多い。それが正しいと思うこともある。「まず解けた」ということだろう。しかし、意識化できないから、言葉で表現できないから、なぜそれが間違っているのか正しいのかの説明ができなかった。自分の考えや立場をも守ろうと、私は仕方がないから、理由を自分で考えた。自分なりの定理を発見したつもりもある。このブログはそのためのものだった。

 本当は、そんなこと、したかったわけではない。私は現実で自分を分かって貰いたかっただけだ。生徒に対してでも同僚に対してでも、「そんなの、いいわけないでしょ。」「それは良いことだ。」本当は、私は、それだけ言い切れれば良いはずだったのに、適わなかったということだ。

 今の教育界は、私の教育観に合わない。相変わらず、疑問に思うことが多い。最新の疑問は、人間があまねく勉強をするってのは、本当のところ、どういうことなのかな、ってところかな。(笑)

 考えるのは好きだが、結構辛いところがある。自分の無意識を掘り起こす作業だからだ。少なくとも、よほどアタマの良い人でない限り、はっきり言って健康的ではない。人間が動物として生きている感覚の世界を無視するかのように、異様に抽象の世界に入り込むことになるからである。(言語は抽象の世界である。)私が自分で考えていることは自分の能力をはるかに越えている気がしてならない。(笑)