考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

茶髪をやめると「偉かったね」って

2006年10月20日 | 教育
 一応、茶髪指導をしている。茶髪になったら直させる、という指導である。学校によって異なろうが、ウチはそのようにしている。で、生徒はすぐに直す生徒と、なかなか直さない生徒が出てくる。後者の場合は、しようがないから繰り返し注意することになる。で、観念してのことか、やっと直してきた場合、教員はどのようなコトバかけをすることが多いか。
 「おっ、直したんだね。偉かったね。」
 「頑張って努力したね。」
 見回せば、茶髪にしていない生徒が多くいる。彼らに「茶髪にしていないからえらいね」と言うことは決してないし、まあ、言うのもおかしな話である。

 話は学校の外に出るが、世の中にはいろいろな人生を送る方がいる。中には、一度転落し、そこから這い上がって普通か、或いは少し上等な職に就く人がいる。同じ職に就き、真っ当に真面目に働いていている人が数多いる中で、世間の人は、這い上がった人をどのように評価するか。
 「凄い」「えらい」
 まるで英雄であるかのような扱いである。一度転落した、或いは転落しかかって這い上がるという「変革」をきっと賛美するのだろう。

 私は上記両者の賞賛は同根であると見る。

 老いも若きも茶髪のご時勢に、「茶髪にしたいな。でも、校則違反だし。」「まだ高校生だから、やっぱりまずいよな。卒業するまで我慢しようかな。」と思って我慢している生徒だってたくさんいる。(でなければ、卒業式が終わってすぐに茶髪にしないだろう。)茶髪にしていない生徒の全てが自分の好みで茶髪にしていないのではない。
 そんな中で、茶髪にするのは、いかがなものか。それで、再三の指導を受けて、やっと直して、どうして「えらい」という高い評価を与えるのか。

 家庭に恵まれなかったり、さまざまな環境要因で不遇を託つ人はきっと多くいる。しかし、その皆が自暴自棄になると限らないのは、自らを鑑み、日々「そうならないための努力」をするからであろう。それで、そもそもの初めから地道に努力を積み重ね、励んでいる同じ職の人と比べて、なぜ、這い上がってきた方が立派であるかのように讃えるのか。

 出発点を読み違えている。しない方が良いことは、しない方が良い。それだけの話だ。
 それでも、世間的な評価は、「一見マイナスからの出発」を高く見る。

 なぜなら、その方が「ドラマチック」だからだ。
 ふつーの人は、「ドラマ」と「スター」と「異形」を求める。人間とは、多くの場合、きっとそういうものなのだろう。(しかし、ドラマもスターも異形も、もっと他に求めれば良いのだ。)
 
 しかし、多くの人の弛まぬ地道な努力によって支えられる基盤がなかったら、今の我々の生活はあるだろうか。明日のおまんまの心配をしないで暮らせるのは一体だれのお陰なのか。たとえ人目がなかろうと、長年にわたって真面目にこつこつ働く人が多く存在しているからに他ならない。もし讃えられるべき人がいるとしてもそのような人であろうというものだ。しかるに、「それを讃えない」ことこそが社会の確固たる基盤たり得るのだ。安定した社会は、そのように成り立っているのであって、少数のドラマチックな人たちによって支えられているのではない。

 見た目の華やかさや目に見えない「異形」を求める志向性が、「マス」としての力を持ったとき、私は社会が恐ろしい方向に転がっていくような気がしてならない。