考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

人は誰でも芸術家(かなり変更)

2006年10月25日 | 教育
 陳腐なタイトルだなぁ。。(笑)

 養老先生が、何かに、摂取カロリーか何かから言って、人が生き延びてきたのは、食べ物だけでないと書いていた。もっと違う何か精神性のようなモノがあったからではないかということを書いておられた。(いつものごとく、正確な言葉を覚えていない。)

 下級社会において、女は歌って踊ると、何かに書いてあった。(これは養老先生ではない。)

 さもありなん。

 今の子どもは、歌って踊るのが大好きである。ひと頃ほど、ピアノ熱はないのに(ピアノを弾ける生徒の割合は減っている。)、音楽熱が冷めないのは、ある程度の衣食が足りて、人間が生き延びる原動力だったであろうと(私が予測する)祭祀熱?、つまりは「歌って踊る」才能にこうこうと火が点り始めたのではないのかな。食べ物が乏しくても生き延びたのは、宗教性や「遊び」に関連する「歌って踊る」エネルギーがあったからではないのかな。余裕があるから「歌って踊る」のではなく、(養老先生がおっしゃることのように)そもそも人間が生きる原動力が「歌って踊る」欲望だったわけで、だから、ヒマができてたら益々やりたくなってきたのが、「歌って踊る」ことなのだ。

 社会が豊かになってくると、「見て楽しむ」芸術的要素も高まる。(要は、人間はそもそもが遊び人だということである。)高校の教科書でさえ、ぴかぴかカラーである。紙質も良くなければできまい。カラーのインクもなければできまい。それで、これが一体誰のためのモノかというと、「作る大人の楽しみ(換言すれば、仕事)」で、使う子どものためのモノではないのである。紙を作る大人、インクを作る大人、デザインする大人の仕事という楽しみだったのである。

 で、こんなにつるりとした「きれいな」本で勉強をした生徒が、古い黴くさい資料に興味を示すのだろうか?という大いなる疑問を持つが、以下のような考え方もあるだろう。 
 見た目が悪い資料に興味を示すのは、ごく最近、ここ100年、200年の趣味の問題でしかない、きっと。歴史を紐解くには、歴史の積み重ねが必要で、書いたモノの伝統は、せいぜいでここ数百年でしかない。よって、汚くてカビが生え、虫食いだらけの古文書を有り難がるのも、ここ数百年の趣味なのである。長い長い人間の歴史から見れば、それこそ、歌って踊って神に祈りつつ生き延びてきた太古の祖先から見れば、「ついこの間」である。
 だから、古の物品を有り難がる趣味を持つ人間の歴史も、非常に浅いモノである。

 だから、ぴかぴかのカラー教科書の存在は、しようがないないのである。だって、人が「今」を生き延びるのを目的にするのが、大昔からの「芸術」の役割だったのだろうから。だから、今の大人がせっせと知恵を絞って、紙とインクと労力をふんだんに使って教科書を作るというその作業そのものが、一種の「芸術」で、多くの人が生きていくための生きがいと糧になるのである。人は、そんな風にでも芸術を使って、今も生きているのである、きっと。

 女の子が「おしゃれ」にうつつを抜かすのも、しようがないのである。
 なるほど。