考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

作文病

2009年11月28日 | 教育
 世の中には「作文病」があるのではないかと思う。私は患者である。
 毎日の生活であれこれ思う、あぶくのように消えてなくなるモノもあろうが、全く消えてなくなるわけではなさそうだ。どこかに澱のように沈殿する。貯まってくると大変に気分がよろしくない。
 活字病というのは有名?だが、私の場合は、「読みたい」衝動より「書きたい」衝動が強い。書いて脳味噌を整理するのだと思う。脳味噌内部で勝手に入出力しているものを、ときどきソトに出してやらなければならないようである。
 作文を書くとすっきりするのはだからだろう。思考が整理されるのだと思う。気分が良くなる。しかし、多少長くないとすっきりしない。ただの垂れ流しではいけないようだ。何らかの再構成や構築が必要なのだろう。思考を再構成すると、「隙間」ができるのだろう。それで、また次の思考の余裕が生まれる。止めどがない。だから病気である。ブログが続くはずである。
 

養老先生が好きなワケ

2009年11月28日 | 教育
 「考える人」10月初旬発売をやっと買った♪ 
 今季号には、養老先生がいっぱい出ている♪ 万物流転の連載、小林秀雄賞のコメント、活字とウェブの特集でインタビュー、福岡紳一さんとの対談。
 いつもそうだけど、ところどころ、難しくてわからないが、養老先生って、私と同じことを考えてるのね♪と思うところがあるから面白い。

 効率の良さを求めるなら、早く墓に入った方が良い、とか。養老先生の場合は、「やることをやって」とあった気がするが、「じゃあ、やることって何なんだ?」となる。堂々巡りになりそうだから、私は問わない。ここはちょっと違う。
 
 そもそも、養老先生が好きになったのは、養老先生が、「同じ」と「違う」を問題にしているからである。前者は脳化、後者は身体性である。
 「同じ」と「違う」を考えることにかけて私は筋金入りである。中学生の時から、ずっと「これとこれはどういった点で同じか、違うか」ばかり考えていた。勉強をしていたからである。暫定的に得ていた結論は「勉強とは分類である」だが、結局、今でも考えに変わりはない。
 分類は、常に、ある視点--一般的には「定義される事柄」だろうが、--に立ったときの物事の分け方である。しかるに「定義」にしても、「それ(定義されるもの)」を「それでないもの」から切り取って出してきたものという点で、一種の分類であると考える。
 学問とは、常に分類なのである。
 具体的には、数学の問題を解くのも、国語の読解も、英語の綴りを覚えるのも同じ「分類」に属される。非常に荒っぽい捉え方かも知れないが、分類の階層が異なるだけの話で、本質は分類である。それで、現実、「違う」より「同じ」を捉える方が難しい。なぜなら、そもそもモノはすべて違うモノだから、「違う」を捉える方が簡単なのである。(よって、批判は常に、「それは違う」という内容が圧倒的に多いはずだ。「違う」と批判する方が簡単だからである。そう言えば、内田先生が、文系の場合、批判すると「アタマの良し悪し」に帰結するようなことを書いていたのも宜なるかな。「同じ」は、抽象化であり、上位概念で捉えないことに決して掴むことが出来ないものなのだ。よって、「どこまでどのように抽象化できるか」が争点となる。抽象化は脳の機能だから、アタマの良し悪しに帰結させるのが手軽な説明になるのだろう。)
 ただし、補足すると、真の分類は、身体感覚に基盤に置かない限りムリである。身体感覚でさまざまなモノの「違い」をしっかりと捉えた上で、捨て去ることが出来る「違い」を捨て、ふぅっと立ち上ってくるような「同じ」を見いだす。これは、机に向かって概念だけ、コトバだけをあっちやったりこっちやったりしているだけでは出来ないことである。身体性を伴わない分類は身に付くものでない。常に、身体と脳の往来が重要なのである。人が生きて「そこ」にいて勉強をする意味はこれだと私は思っている。

 私は、中学校に入学して仮面浪人1年までの7年間、ずっとこればかりやっていた。もっとも上に書いたようなことまで詳細に考えていたわけではないが、分類を面白いと思った。私は当時、若い頭脳で一生懸命に勉強をした。脳味噌が、「同じ」と「違う」に汚染されていて当然であろうというものだ。
 そこで(と言って、学校を卒業してからたぶん20年程経っていようが。)出会ったのが養老先生である。養老先生は、私が「分類」と捉えていたことを「身体(感覚)」と「脳」という具体物で説明してくれた。目の前がぱぁ~っと明るく見渡せる。

 私が養老先生を好きなのはだからだ。
 

にこにこ顔と最悪の模試結果

2009年11月27日 | 教育
 ほりが授業に行っているクラスの模試の平均が悪い。
 げー。しょっく。
 ちなみに定期も悪い。まあ、今に始まったことではないが。。。
 点を上げようと授業をしない。というか、ほりは、即効性のある「点を取らせる授業」が出来ないのである。(本ブログの読者諸氏には容易に想像できよう。)なぜなら、ほり自体が、「いかにして点を取るか」という経験がないから、正直わからないのである。試験対策はしない。傾向分析などもしない。(そもそもが怠慢だからである。)

 ほりの授業で、英語がわかるようになったと言う生徒は確かにそれ相応にいる。(部活の顧問の担任から、「授業に来て欲しかった」と言われたこともある。生徒からの情報を得てである。)しかし、彼ら彼女らは、確かに英語はわかるようになって、それで、自分でちゃんと勉強をして、やっと点が上がるのである。「なるほど」だけでは上がらない。授業でトレーニングの方法は教えても授業でトレーニングそのものはしない。余り叱らない。(あ、これがいけないな。身だしなみ等は叱るけどな。(笑)そうだ、これから、もっと叱ろう。)ほりは、塾の先生は出来ない。

 最悪の結果だが、唯一嬉しかったのは、この頃伸びている生徒で、もの凄くにこにこと嬉しそうな表情でほりの話を何でも聞いてくれる生徒が、(ちょっと難しい?質問をしていろんな生徒を指名して、みんな答えられないようなときの方が笑みが強い気がするけど。)なんと、全国偏差値で80には到達しなかったものの近いところまで行っていたことだ。これは、嬉しい♪ まあ、でも、一人だけではねぇ。。(でも、あの子、塾でも行ってるのかしら?)

その前提の取り方が病んでいる

2009年11月27日 | 教育
 科学技術振興費か何かのことで、とうとうノーベル賞受賞者までが表に出てきた。マスコミで、何をやっているのかを世間に知らせる、という点で良いとか、良かっただの言っていたが、バカ言うんじゃない、と思った。
 これって、「教育は何のためにあるのか、学校は何のためにあるのか」という問いに答えることは有意義だ、という主張などと同じレベルに思われる。子供が「何のために勉強をしなければならないの。」と言うのに似ている。というか、そういった問いを許そうとする社会とまさに同一であることがよくわかる。

 当たり前に必要なことを、わざわざコトバに表して、それで、世間に広く知らしめないと伝わらない、という現実が、いかにこの社会が病んでいるかという事実を表しているかのようだ。大学進学率が、とてもじゃないが、50%を越えた社会と思われない。


同調圧力と競争と相対主義

2009年11月27日 | 教育
 同調圧力と競争と相対主義は、全部、繋がることに気がついた。
 同調圧力と競争は、一見、全く関係なく、正反対に見えるが、共に、「我が道を行く」でない点で一致している。共に、「きょろきょろ」と、他のメンバーの動向を知りたがるという点で同じなのである。それで、人より歩を進めるか、退くのかという点で、違うように見えながら、実は同じだということなのである。

横着な生徒は伸びない

2009年11月21日 | 教育
 ノートを作れ、と言うのに作らないで、テキストに書き込みをして終わり。勿論、本人は、ちゃんと授業を聞いてメモまでしているのだから勉強をしていないはずがないと思っている。試験に単語の意味は出ないから、和訳だけする。
 参考書などに書いてないこともときどき言う。これは私が思うことだけど、と前置きをする。「例外」に出会ったら、例外だと思えよ、と更に前置きすることもあるが、信用しないのか(笑)、ノートを取らない。覚えてもいない。わからないときにどうするか、どのように考えるか、を私は教えているのに、目先の答えだけを求める。出来ない子に限って、答えだけが重要だと思っている。考えることに関しての省エネだけ進んでいる。考え方を言っているときは、「関係ないわ」という顔をしてぼおっとしている。
 いい加減にしろーと思っても、通じない。

明日で丸5年

2009年11月19日 | 教育
 2004年11月20日にこのブログを開設して、明日でちょうど丸5年である。
 早いものというか、何というか。トシ取ったはずである。
 ブログを書いていて良かったのは、作文がちょっと上手になったことである。まあ、最近の文章は、ちゃんと推敲をしてないから良いものはないだろうけれど。以前は同じ記事にしばしば手を入れていたのと大違いである。
 書くべきこと?はほとんど書いたような気がする。何年か前にもそう思ったが、その割には続いているなぁ。いつまで続くのだろう? 

 読者さんの多くは、内田先生のところからお出でいただいていると思う。他のブログさんのところで書いたコメントを通して来てくださった方もお見えのはずである。タマタマ何か検索してヒットしてお出でくださった方も見えるだろうが、ごく少数であろう。
 きっかけは何であれ、おつきあいいただきましてありがとうございます。
 やっぱり、多少の数の読者さんがいると、書く甲斐がありますから。
 内田先生は、より多くの方に読んで貰いたいと思っているようだが、私はそうでない。知り合いには読んで貰いたいと思わないから、あまりIP数が多いとかえって心配になる。公の場であるものの「こっそりと」書いているつもりである。(笑)
 
 それでは、また今後ともよろしくおつきあいいただけましたら幸甚です。

多数決はキライ

2009年11月19日 | 教育
 アタマの良い政治家が可哀想だと思う時がある。先日(と言って、選挙の前。)、確実に落ち目の自民党さんが、何とか盛り返そうと、某知事さんにラブコールをした。失敗だった。世間の人の顰蹙を買った。
 これって、アタマの良い政治家さんの典型的な「誤解」があったのだと思う。

 (受け狙いのつもりはないが、)偏差値80の人は、偏差値55以下の人の思考法がわからないということである。だから、間違えた。
 偏差値平均が60遙かに超える学校の生徒の友人に偏差値40の学校の生徒は基本的にいない。偏差値55の生徒の学校だと、意外に偏差値40の学校の生徒と友達だったりする。それで、偏差値40の学校の生徒は、偏差値55の生徒の学校を自分たちと比較して「アタマの良い学校」と呼ぶが、偏差値60遙かオーバーの学校を「アタマの良い学校」と言うことはない。ソトの世界だから比較の対象に入ってこないのである。

 で、話は元に戻るが、選挙では、偏差値55以下の「大量のふつーの人たち」を取り込まなければならない。よって、票集めを目的に「まあ、こんなところだろう」と、偏差値80の何人かが、特に大衆をバカにするとかそういう気は全くなく、「大多数の人たちに気に入って貰いたい」とばかり、思いついたラブコールに至ったのだと思う。しかし、ベクトルの方向が全くずれていた。

 そう、アタマの良すぎる彼らは、ふつーの思考の人のものの見方や考え方が全くわからないのである。しかし、これに成功したのが、「ぶっこわす」だった。アタマの良さは、知らないが、実に人の気を引くのが巧みだった。

 人の気を引く策には、良いこともあるし、良くないこともあるよなぁ。(と、アホみたいな結論。)

 この「良いこと」「良くないこと」の判定基準になる「尺度」はいくつかあろうが、重要な尺度として「気分の高揚」があると思う。誰しもが大好きで大喜びする尺度である。この尺度を抜かしてしまうと、物事の良い悪いの判断は大きく変わるはずである。それで、「多数決」という評決手段は、大部分を「気分の高揚」に判断の基準を定めているだろうということだ。よって、一般的な大人数対象の多数決では、「気分の高揚」以外に、ホントのところは、何が良いのか悪いのかなんて、決してわからない。良ければ良いでそれでいいのだが、悪くてもみんな一緒にドツボにはまっても気がつかないのが「多数決」の美点(?)である。よって、多くの人が騙されることになったりする。しかし、非常に多くの場合、多数決による評決をマイナス視することはない。なぜなら、「気分の高揚」は「感動」であり、誰にとっても、それそのものが人生の究極の目的たり得るからである。

長文で文法語法を勉強する

2009年11月18日 | 教育
 イマドキの子は、長文読解は長文で、文法語法は文法語法の問題集で、リスニングはセンター対策問題で、英作文は作文用の問題集で勉強をすると思っている。
 全部、長文でやれるんだよ。
 でも、こう言うと、必ず、「しかし、効率よく勉強をするには、長文に出てきた表現を覚えても、負担が重くなるだけだから。」と言う人がいる。入試に照準を合わせると、長文の語彙、作文の語彙は異なるというのが理由である。
 だから、「英語」ができなくなるのである。
 彼らは、長文の中の「熟語」を探しだせない。動詞を見て、他動詞、自動詞を意識できない。別に、内容読解にいそしんでいるからしないのではない。出来ないのである。意識がそっちに及ばないのだ。こんな勉強では、たくさん読んでも力は付かないだろうと思う。所詮、「コトバ」なのだから、少しでも感性を身に付けて覚え込まないことにどうしようもない。
 今頃になって気がついた私がバカだった。
 「この文で勉強できることは何?」と聞いても何も答えられない。普段から、着眼点は教えている。
 困ったことである。