考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

表現者とその受け手

2009年08月31日 | 教育
 自ら何かを表現しようとする者は、天才でもない限り、自分が引き裂かれるものだと思う。
 美術であれ音楽であれ、文学であれ何であれ、己の何かを表現しようとする者が、自分の意を「受け手」に対して自分の意図するように伝えたいと思う場合、表現する者は、表現者であると同時にその受け手でなければならないようだ。
 自身の意図が意図道理に伝わるべく表現するためには、表現しつつも同時に受け手としての存在を冷徹に意識しなければ、表現は失敗すると思う。天才や「憑かれた」場合は、これが無意識的にすでに出来てしまっているのだろう。しかし、そうでない場合は、常にどこかしらに受け手としての自分を見ていなければ、表現は自分だけが自己満足的に認める「私らしさ」になる。
 自分に対して正直になりたければなるほど、逆に、他人の目を意識した自分を見つけ出さないことに「正直な自分」は存在しない。
 こうして考えると、「自己表現」と言えども、あくまでも自己とは他者の目に映る自己でしか自己表現はなし得ないということになりそうだ。表現とは、ありのままにあることではなく、他者を介在させなければなし得ないあり方のようだ。

 と、生徒の作文を指導して思った。作文は「言語」だからこういったことがさらに一層影響したのかもしれないけど、結局、自己とは、他者の存在なしに存在し得ないということなのだろう。これはそのまま人が社会的存在だと言うことを意味しそうだ。

学力テストだってさ

2009年08月27日 | 教育
 平均点という尺度で測れば、必ずどこかが1番になり、どこかがビリになる。必ず平均点を下回るものが出てくる。
 全国でこんな競争というか序列化を行ったところで、いったいどんな意味があるのだろう? 孟母は平均点の高い県に引っ越すのだろうか? 引っ越しを進めるための策略なのだろうか。
 応用的な問題ができないらしいが、当たり前だ。基礎問題ができても応用問題ができないのは当然である。
 上位に位置する県では、家庭学習時間が多い、生活習慣が整っている、というが、これも当たり前だ。
 学力を前面に出す弊害は、家庭学習時間や生活習慣でも、とにかく、学校の力以外のものがいかに整っているかの方が大事なのである。学校が、これができたら、いいだろうけど、まあ、土地の人をいかに啓蒙するかである。(あ、これも啓蒙なんだな。)学ぶ力を持たせるのが目的なのだ。
 学力、学力といっても学力は上がらない。

ゴミ・ブログ書いてて良かった

2009年08月26日 | 教育
 生徒の作文指導をしている。タマタマ私がすることになっただけである。教えたことがない生徒である。うん、全然知らない子。
 結論。
 あ~、ブログ書いてて良かった♪ 自分で文章を書いてるから、いろいろ思いつける。
 新しい発見は、並列的に事例を連ねた場合、語彙のレベルであっても、具体・抽象のレベルをそろえることだ。
 とこう書くと、当たり前の気がするが、推敲をしていて、違和感を感じたところがあったが、理由がわからなかった。その子自身も変だと感じてないわけでない。しかし、自分の思いで書いているから、私が「変だ」と言っても、そう簡単には聞き入れない。で、気がついたのが、語彙の抽象度のレベルが異なったから違和感を感じたということだった。それが説得材料になった。
 
 私は、語彙そのものの語感だとか味わいと言ったことはわからない。でも、文章の構成そのものについては、それなりにわかる。(だから、英語の先生ができているのだけど。)ある場所に接続詞を入れるかどうかも議論した。お互いに理屈っぽいから良かったかもしれない。その生徒も、だんだん真剣になってきた。もともとやる気がない子でもなかったけど、良い文章を書こうという欲が出てきたみたいで良かったと思った。
 もちろん、書くのは彼女で、私ではない。良いのが書けたら嬉しい。

 でもさ、私、自分がこんなに丁寧な作文指導をうけたこと、ないぞ。

まあ、そんな「学力、学力」と言いなさんな

2009年08月25日 | 教育
 学校の先生が「学力なんてどうでもいい」と言ったら、さぞかし顰蹙ものだろう。でも、私が「学力なんて二の次だ」というのは、試験で計測される学力を指しているし、学校が勉強をするところであるという前提は全く外していない。
 今の世の中で言う「学力」が、「試験で何点か」しか問うてないからだ。とまあ、こんな言い方をすると、「学力が点数以外で判断された時代があるというのか」と反論されるだろう。
 まあまあ、そんな短絡的な思考はやめましょうね。

 学校は勉強をするところである(それで、社会勉強は、社会ですればいい。)という前提を私が変えていることはない。
 「はい、学校では、さあ、勉強をしましょう。それで、学力をつけましょう。」と思っている。
 「なんだ、こいつ、矛盾することをい言ういい加減な奴だ」と思われるだろう。
 まあまあ、そんな短絡的な反応をしなさんな。

 生徒の学力がどのように付くか、それで、伸びるかは、そもそも生徒に学ぶ力が備わってのことだ。
 私が言いたいのは、生徒は学ぶ力、生徒は生徒力をつけなさい、ということなのだ。

 先生の仕事は、生徒に学ぶ力、生徒力をつけさせることが第一なのである。ところが、今の子供は、この力をつけていない。全くない生徒もいそうである。
 この勘違いが世にはびこり、全く効果がないどころか、マイナスの影響さえ生じせしめている。それが今の諸問題を生んでいる。

 原点に立ち戻ればいいのである。勉強だって、そうだ。わからないときには、原点に、基本に戻る。それしか解決の方法はない。試験問題を解くのも全く同じである。出来ない生徒は基本が何なのかを知らない。基本に立ち返ることをしない。だから、一生懸命に勉強をしても力が付かない。今の教育関係者のほとんどが、この「出来ない生徒状態」になっている。
 
 子供が学ぶ力を得れば、「学力」はひとりでに付いてくる。そんなものだ。

 学ぶ力もないときに「目標○○点、目標偏差値○○」と連呼されたとて、そんな陳腐な誘いに誰が乗るか。
 私だったら、乗らない。
 そりゃ、私だって「目標○○点、目標偏差値○○」を目的に勉強をしたが、そうでない、もっと大きなとてもじゃないが言語化できない思いがあったから、勉強をしただけである。「言語化できない思い」だから、「○○大学合格」でもないよ、言っておくけど。

 「勉強を教える」というのは、結局、その人自身が勉強をしてきた経緯というか生き方そのものを問い直すことになる。「自信」だとか「善悪の価値観」とかいう、私のここでの意図としては表面的なものなんてどうでもいいことで、ただ生徒の面前に「在る」ことでしか示すことができないものだろう。それがもっとも自然でないかと思う。

 「あなたは、どうして勉強をしたのですか?」


私が塾の先生を嫌いなワケ

2009年08月23日 | 教育
 塾の先生は、塾の先生で大変だと思う。塾の先生から見ると、学校の先生は気楽でいい加減なものだと思うだろう。さして「企業努力」をしなくても、生徒は自動的に集まってくる。目に見える成果を出さずとも、数値目標の設定も、たとえあったとしても達成せずとも、仕事が出来る。それに比べて、塾は、競争が激しく、生徒であろうと保護者であろうと、「顧客」を満足させないと生き抜いていけない。「これこれしてくれ」と言われても無下に断るわけにいかない。とにかく大事なのは、「客を満足させる」ことだが、なかなか一筋縄にはいかない。なんとか合格できる力をつけてくれ、といわれたら、応えなければならない。時には勝負である。しかし、勝負に勝てば、評判も上がり、「受注」が増える。だからといって、次も同じことだから、息抜きは出来ない。
 
↑ただの想像。

 私が塾の先生が嫌いなのは、上記の努力やご苦労のすべてが、「集客」に関わるからだ。根っこが「教育」になく、「市場経済の客商売」」にあるからだ。

 こういうと、たぶん、「何を言うか。我々が日々行っているのは教育活動である」とおっしゃるだろう。しかし、私が思うのは、彼らが行っている教育活動は「絶対に生徒に嫌われてはいけない」ものだからである。もちろん、例外は常につきものであるから「私はそうでない」とおっしゃる方がいてもおかしくなかろうが、総体的に言えば、「生徒に嫌われる塾の先生」は存在しない。生徒は、嫌いな先生の塾には行かない。塾をやめる。他の塾へ行く。生徒がいない塾の先生は存在しない。

 この点、公立学校の先生の中には、「あの先生、大嫌い」と生徒から思われている先生が存在しうる。とにかく、自分たちのすることなすことに「ケチ」をつける。
 勉強以外のことでも、ちょっとくらい良いじゃないの、それくらい良いじゃないの、というようなことでも「駄目」という。小うるさくって、しょうがない。そりゃ、「決まりを守れ」とか、先生の言っていることが正しいことはわかる。でも、そればっかりではないでしょ。人間なんだからさ、ちょっとくらい、大目に見ろよ。世の中を見ろよ、大人だって、ずいぶんといい加減じゃないか。なんで俺たちにばっかり要求をするんだ。まず、世の中の大人がちゃんとやれよ。それに、古くさい考え方だし、世の中、進んでいるんだよ。学校は、遅れている。こんな先生じゃあ、勉強まで嫌いになるよ。・・・ 

 それでも、公立学校の先生は存在しうる。なぜなら、彼らは、生徒個人のためだけに「先生」という仕事をやっているわけでないからだ。自分がどれだけ嫌われようと、卒業後に彼らがそれなりに社会の一員として、まっとうな人間として存在してくれればそれでいいからだ。だから、公教育には税金が投入される。塾は、その生徒の成績の上昇や合格といった、いかにも各個人の利のために存在する。だから、個人の月謝でのみ運営される。そもそもの理念が違う。

 というわけで、塾の先生と公立学校の先生の働きは、大いに異なる。
 と、こういう書き方をすると、共存共栄しよう、というような返事がくるだろう。
 しかし、そう言う人は、わかってないのである。並列的に存在しうるものでないからだ。
 塾の先生が存在できるのは、学校があってなればこそである。
 だけど、そこを認識する塾の先生を私は知らない。生徒の反応を見れば、一般の塾の先生が学校に関してどのような言動をしているか、だいたいわかる。
 この点において、私は塾や他に非常な不快感を感じるのである。
 
 だから、嫌いなのである。単なる感情的なものではない。

 まあ、上記の「学校の先生」の仕事は、諏訪先生のコトバで言うと、「啓蒙」ということになる。

「間違いだらけの教育論」

2009年08月21日 | 教育
 だいたい読み終えたが、諏訪さんが最も言いたいのは、前書き部分のサリバン先生である。
 サリバン先生は、野生児のようなヘレン・ケラーを暴力的に啓蒙し、世界の中心に自分がいないことをヘレンに教えたことだ。ところが、今の教育に最も無自覚的になって、無視されているのが、「啓蒙」ということなのだ。
 啓蒙は、力尽くで押しつけでしか行えない。ここで、「力」とか「押しつけ」「強制」、また、上記のサリバン先生が行った「暴力的」という語句そのものに反応する人がいたとしたら、余りにも幼稚で人間を知らなさすぎるだろう。
 通常考えうる教育のすべては、ここで言う「啓蒙」なくして行えない。現場で真面目に教員をしようとしている人なら、誰でも気がつくことだろうが、「今の時代は・・」とか「やっぱり生徒を納得させないと・・」などのコトバが何より先に付いて出てくる今風の方は理解しない、否、理解したくない真理だろう。
 私が、公立学校の教員は透明であるべきだと考えるが、推し進めれば、諏訪さんの言う「啓蒙」に至ると思う。啓蒙は、すべての教員が生徒になすべきことで、啓蒙された生徒は、私の言う「生徒力」をつける。であれば、あとはほぼ自動的に知識や技能の習得につながる。(←言い切る。)諏訪さんは、啓蒙を近代的な自我を持つ個人と書いていたが、いかなる社会や時代であろうと、社会を形成しない人間はないからには、啓蒙は普遍として受け入れられるべきものだろう。
 どこか忘れたが、啓蒙に関する叙述で、思わず涙ぐみそうになった(ここまで言うと、言い過ぎかもしれないが・笑)ところがあった。私も、名もなき教師の一人だと思った。でもね、私、何回も教員研修を受けているが、これに関することを言われたのは、校内の新任研で教務主任の言「生徒を叱れ」くらいだ。それ以外は、一つもない。変な話である。

 この本は、読み方によっては、難も見つかるだろう。それでも、筆者の最も言わんとすることを読み取るのが読者のなすべきことだろう。

スキルアップは、教育の目的でない

2009年08月20日 | 教育
 この頃の社会人の気を引くのは、いかにしてスキルアップをするかの方策のようだ。これを公共媒体が放映するのはいかがなものかと思う。
 だって、公共性がないもの。
 個人のスキルアップの成果は個人に還元されるものであって、社会全体に反映されるとは限らない。(全然ないとは言わないけれど。)
 特定個人の収入や地位がいくら上がろうと、社会全体が潤うわけでないだろう。それで、しばしば、「個人」として動こうとするとき、人は、人を押しのけるということをすることがある。特に固定化された「組織」の中では、ポジションの数は限られるものね。いわゆる出世競争みたいなものか。
 転職という手段もあるようだ。しかし、自分が抜けた後の組織がどうなるかを考えた上でのスキルアップなのかなぁ。それこそ、某知事とか元校長、そのほかいろいろ、スキルアップを願って目指して上手くいったのか、失敗したのかしかかっているのか、そこまでいってないのかどうかわからないが。(まあ、この点、内田先生が神戸女学院を出てないのは偉いなと思ったりする。)
 私は教員だから、スキルアップのために転職だのなんだのと聞くと、何だか嫌な気分になる。


数学の先生と理科の先生

2009年08月19日 | 教育
 私は、文系の教科の教員だが、国語や社会の先生より、理系教科の先生の方がけっこう話があったりする。文系の中では理系よりにいるせいだろう。私は決して文学的ではない。韻文の鑑賞が苦手である。(でも、「芸術家」だとは思っている・笑)
 それで、同じ理系と言っても、理科と数学では、理科の先生の方が話しやすいし話も合いやすい人が多い。

 数学は、公理、定理に即して物事を考えて行くから、前提が違っていると、もう、どうしようもない。数学の先生にとっての「前提」は、たぶん「決して変えてはならないもの」ではないかと思う。だから、話をしていて、漠然とだが、アタマが固いなと思わないでないことはない。いったん「平行線は交わらない」という前提に立つと、「決して平行線が交わる場合」を想定しない。こういった点を私は固いと感じるのだろうと思う。
 この点、理科の先生は、思考が柔軟な気がする。もっとも、同じ理科と言っても、物理と生物では「全然違う」らしい。もちろん、化学、地学などでも違うらしい。それでも、私が思うに、理科とは、学問の対象の全てを森羅万象、自然現象にとっているので、理科の先生たちは、人知の及ぶところでないものが存在することを知っているように感じるのだ。だから、「あれもあり、これもあり」とか、ぱっぱぱっぱとと前提を変えて思考するのに抵抗がないのではないかと思う。こういった点を私は、「柔軟」と捉えるのだと思う。数学は、全てが自分のアタマの中にある抽象を対象とする。よって、固定化しやすいのではないかと思う。

面白そうな本

2009年08月19日 | 教育
「間違いだらけの教育論」諏訪哲二著 光文社新書

まだ、余り読んでないけど、おもしろそうです。

内田先生も評していて興味深いと言えば興味深い。
「オレ様化する子どもたち」は、内田先生が高く評価して宣伝していたから、なんだろ? 師と先生は違うということについてだけケチつけたって感じ。

全部読んでないけど、諏訪さんは、「先生」だから、ちょっと話が諄い気もする。(人のこと、言えない。もちろん、レベルも違うけど・笑)




みんな、どこから来てどこに行ったのか

2009年08月12日 | 教育
 先日、アクセス数がやったら多かったとき2700ほどあったが、騒ぎはあっと言う間に過ぎ、今は落ち着いている。
 で、思うんだけど、私の記事を読んだ人たちは、今、どこにいるのだろうか。それで、私のところに来る前は、何を読んでいたのだろうか、ということだ。

 有名なサイトに出入りして、その時々に面白そうな記事を拾い上げ、あちこちを漫遊するのだろうか。それで、気に入ったところが見つかれば、多少定着するのか。しかし、IPとPVの数の割合を見ると、一つ読んでおしまい、という感じである。これは、有名紹介サイトの選択眼をものすごく信頼しての行動様式なのだろうと思う。
 紹介サイトの選択がどのように行われるのか知らないが、統計的にアクセス数が急に増えてくるものをピックアップできるようになっているとしてさえ、そういう方たちが信頼しているのが「それ」であるということになる。「それ」が特定個人であろうと、見えない大衆であろうと関係ない。彼らは、「面白いものを教えてくれる存在を信じている」のである。

 そもそもネットは、(養老先生は当然、内田先生も言ってるけど)赤の他人にの脳味噌が取捨選択した内容である。その意味で、私のブログだって、読む人にとっては赤の他人の取捨選択に過ぎない。
 もちろん、私も人様のブログやサイトを読んだりするが、正直言うと、人様のを拝読させていただくより、自分で書く方がずっと面白い。これは、私の場合、(内田先生がこの間書いていた言葉を用いると、)「情報」の収集より「情報化」の作業の方が断然面白いと思っているということである。

 「情報化」したくなる「タネ」がネット内に転がっていることも多いが、(今書いている内容はまさにそう。)だいたいは、日常のリアルの生活である。学校へは、ブログネタを探しに行っているようなものだとは、さすがにそこまでは言わないけどね。(笑)
 日常をどのように切り取るか。情報化とは、「捨てて拾う」過程だから、何を切り取って拾い、何を捨てるかの選択が面白い。もちろん、他人様の取捨選択の方法に興味を持たないわけではないが、私には私のやり方の方がずっと面白い。(だから、自分の文章を読み直すのって、けっこう好き♪ だって、面白いもん・笑)

 これは、内田先生が言っていたが、「自分の専門家」になるということだ。言い換えれば、「自分を知る」ことだ。これに勝るおもしろさはあるまい。
 まあ、そもそも、「学問」というのは、「人間の専門家になる」ことだから、究極のところ、学問とは、広い意味で人間を知ることだからだ。
 と、こんなことを書くつもりはなかった。

 前に書いたように、有名サイトから、あちこちネット上を逍遙する人たちは、流行に乗っている人たちと似ていると思ったことだ。

 流行のものをいろいろ試す。ときに、あーだ、こーだと思って一言二言を口にする。私は、流行とは人生のコンビニだと思っている(ブログを始めた頃じゃないかな?の記事がある。)が、こういった形態でのネットサーフィンも、けっこう似たもののような気がする。出入りは手軽で、なおかつ、それなりに面白く時を過ごすことができる。ネットだと、あーだ、こーだ、言う場もたくさんある。面倒な長い文章を書いて表現する必要もなく、手軽な自己表現の場がある。そうやって、おもしろおかしく、やがて、人生も過ぎていくのだろうということだ。流行に乗って、時代を生きたと思うことができる、ということである。

 だから?
 特にどうと言うことはない。
 私は、一つのことをぐじぐじ考えて、あまり逍遙しないから、その点で、過日ウチを訪ねてくださった2千数百の人たちと、ちょっと違う考え方をするのかな。人の文章を読むヒマより(情報の収集より)、自分で書く方(情報化)が、面白い。

 今の生徒の勉強方法が、少なくとも、彼らが思っている勉強が「情報収集」だけに近いのは、ネットの世界に酷似しているということか。