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考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

書き込み式問題集はバカを作る(大分推敲した)

2006年09月21日 | 教育
 教材屋さんがご用聞きに来た。(そんなものである。)今のところ、特に買うべきものはない。というか、余り買わせる気がない。最低限だがそれなりの教材を選んでいるから、基礎の時期は「やり切る」ことが大切だと考える。文法のテキストの英文をすべて作文できるようにしろ、というわけである。

 しかし、たぶん、「そこまでやる必要はない」と考える人が多いだろう。「入試」を念頭に置けば、もっと違う勉強法があるだろうが、文法の初歩のテキストにある英文の作文がある程度でもできるようになれば、英文の構造やそれなりの規則性が自ずから理解できるようになる。だったら、基礎はそれで良いじゃないか。基礎をしっかりすれば、やがて読解問題が文法や作文の練習になっていく。入試に関して細かいことを言えば、読解の語彙と作文の語彙は違うなどあろう。だからと言って、読解の語彙は書ける必要がない、ということにならない。それなのに生徒がその線引きを要求するのは、「ムダ」なことをしたくないからで、彼らの多くの目標は、実は「英語ができるようになること」ではなくて「入試の点数を取ること」なのである。

 ↑を書くつもりはなかった。(笑)

 書き込み式問題集である。大分前にも一度書いたが、やっぱりハラが立つ。(笑)子どもを「バカ」に作り替えている。
 その教材屋さんに「書き込み式でないのはないの?」と聞いたら、あるのはあるらしいが、理由は色々あるが、今では昔から採用してくれている私立学校くらいでしか需要がないらしい。書き込み式が増えたのは、先生方からの要望だとも言っていた。そりゃ、そうだよね、と思う。

 たぶん、多くの生徒がノートを取れなくなってきたのだ。それに、「プリント」学習である。20年ほど前から、印刷機とコピー機の進歩で、プリント作りが容易になった。で、プリント学習で、子どもは学力を付け始めた。そんなところから、徐々に書き込み式が増えてきた。
 それで、この傾向が露骨になってきたのがここ数年である。努力点としての「平常点」を導入しろと言う「指導」のせいがある。なぜか。---「ノート点」である。しかし、ノートだとやりにくいと感じて提出できない生徒がいる、となると、「点」をやることができない。それでは何のための「平常点」なのかわからない。(もちろん、このウラには、「平常点導入によって、実力を伴わない生徒でも単位が取れる『配慮』をする」策略がある。)また、生徒各人のノートには様々なタイプがある。集める側としては、型が同じである方が処理しやすいというメリットがある。また、土日休みが増えてきたせいもある。いわゆる「週末学習」とか「週末課題」と言うものである。問題をさせて提出をさせ、点検をする。となると、書き込み式問題集が便利なのである。生徒もやることがはっきりする、教員も生徒がやったかやらないかを容易に判断できる。事務処理の手間が省ける。この点だけでは、悪かろうはずがない。
 
 しかし、根底にあるのは、「何かさせることは、何もしないより良い」という下を見た考え方と、実は「生徒の点数化処理」効率優先という先生の方の価値観である。生徒の学力や学習態度を根本から育成し築き上げようと言う策ではない。(理由は後ほど。)しかし、というか何というか、多くの先生は、週末学習で問題演習をすれば力が付くことだけを考える。この点に私は疑問を感じる。
 書き込み式問題集を使うことで、それも、どの教科でも書き込み式を使うことで、生徒が一体何を学ぶことになるかという疑問である。先生たちは、そういう価値観を持たないから、こういった視点の検討が一切ない。私が一人で怒っているだけだ。(笑)

 では、私は、何故、書き込み式問題集をいけないとするか。

 1度やれば終わり。埋めれば終わり。枠に書き込んで終わり。○を付けて終わり。赤で訂正して終わり。

 英語なら、文法問題であろうと、読解なら尚更、「知らない単語」が多くあるものである。しかし、書き込み式だと、わざわざ辞書を引いて自分で単語帳を作ろうという気は起こらない。だって、要求された問題の答えには答えを書くべき欄があるのに、単語欄はない。裏を返せば、「単語の意味調べは要求されていない」という生徒の解釈になる。で、親切?なものには、単語の意味調べ欄がちゃんと付いている。しかし、だからといってそれで良いのではない。なぜなら、生徒は、それ以外の単語は学習しなくていいのだと思いこむからである。(なぜなら、要求されていないのだし、なるべく勉強はしたくないからだ。)
 ここにおいて非常に重要なのは、この問題集で勉強をした生徒が習得するのは、そこにある英語の問題や単語だけではないということである。「勉強すべき内容は、要求された必要最小限で良いのだ」という学習態度を同時に習得してしまうことなのだ。また、生徒によって、未知の語は異なる。それなのに、意味調べをすべき語が指定されることで、自分の知っている単語と知らない単語の「区別」が付きにくくなる危険性が出てくる。たとえ本文中にある単語であっても、指示がなければ「知らないままでよい」と彼らは判断してしまうのである。(相当に高いレベルの生徒でなければこうなる。)

 つまり、書き込み式の最大の問題点は、要求されたことだけすればいいという態度、自分が学ぶべきことを自分で判断できない態度を自ずから育成してしまうことなのだ。

 学習態度として、これほど危険なものはなかろう。今どきの生徒は、ほとんど全ての教科で、「この訓練」をされている。「知識」だけに着目すれば、何であれ、知識を得るのは勉強だからそれで良いことになる。しかし、「学習」は、学校で終了すべきものではない。生徒が学校で学ぶべき最も大切なもののなかには、細かな知識も確かにあろう。しかし、高等教育になればなるほど、自分で学習を進めることができる態度とその具体的な方法ではないのか。書き込み式は、この点をほとんど考慮せず、結果としての中途半端な「知識」だけを習得させるのである。

 英語の要約問題でも、所定字数の升目の解答欄が付いている。さらさら要約できる生徒は少ない。慣れないウチは、下書きを何度もして、やっと出来上がるものだろう。それで、自分の下書きのどこをどのように変えていったら良かったかは、ノートに十分に書いていかなければできないことである。しかし、スペースがなければ、彼らは答えを写すだけになる。他で何度も下書きをする、という発想が起こらないのだ。とにかく危険なのは、「書くべきことは結果だけ」という錯覚を植え付けてしまうことである。(電卓で計算結果を出させるのも似たようなものかな?)
 記述式の数学の問題集でも、(ウチでさせているのは)書き込みのスペースが設けられている。一見親切である。しかし、これは「そのスペースだけを使って解け」という指示になる。一通り解けば、紙面は埋まる。別解を考えようと言う気にはならないだろうし、書ききれない分があれば書かないだろう。数学学習の基本は、一つ一つの式を順番に丁寧に書くことではないか。そうでないと、間違えた場合、どこで間違えたかの確認ができない。(計算を計算用紙にするというのは、かなり高等な技ではないかと思うが。)

 繰り返し言う。確かに何もしないよりマシであろうが、勉強がそんなものでよいのか。一度やって出来るようになる生徒はほとんど誰もいないはずである。今の生徒は賢くなったのでも言うのか。そんなわけがない。

 勉強ができるようになるというのは、同じ問題でも、何度も解く。繰り返しやる。それで、もうわかったと思っていたことがそうでもないことに、新しい発見があったことに気が付く。かつての受験生は、皆そのようにして勉強をしてきたのではないか。それで、試験中、「この問題は、問題集のあの問題そっくりだ」等気が付くようになるのだ。でなければ、ふつーの能力の持ち主は、勉強なんてできるようになるわけがない。

 昔は、こういった受験勉強そのものについてでさえ、型にはまった考え方を身に付けるだけであるだの、暗記に終始しているなど、批判を受けたはずである。しかし、現在では、書き方までも「型にはめる」書き込み式がこれに輪を掛けている。

 まだ、学習に必要なのは、一種の「しぶとさ」であろう。「わからない、わからない」と思い続けてやっと理解して初めて身に付くようなものである。スイスイ頭に入るようなことは、「そういうのもあったかな」で終わってしまう。そのような学習では、人間的な側面にも大した影響を及ぼさないだろう。これは、勉強が目に見える結果を求めるただの作業になってしまっていることを意味する。

 昔から、勉強を通して人が多く学んだのは、「忍耐力」でもあったことだろう。学問が喚起する喜びが知的興味だけでは決してなかった。しぶとく挑んでいって、初めて面白くもなる喜びである。面倒くさがる態度や忍耐力のなさから、書き込み式になったわけでもあるが、それで、だから書き込み式にしていたのでは、ただ迎合しているだけで、生徒を自立させることができるほどに能力を伸ばすことにならない。

 確かに、書き込み式でないと勉強ができない生徒の「層」はあるだろう。しかし、ちょっと助言さえ与えれば自分ひとりでもできるようになる生徒が今ではそのような生徒と同じ扱いをされているのが現状と言えるのだ。その中には、かなりできる子やそれなりにできる子が何万人もの単位でいる。訓練すれば、自分でノートを取って、自分で考えてノートを作れる(つまり多大な創造性を発揮できる)生徒までもが、その才能を開花させることなく、人から与えられるだけの子供じみたやり方を余儀なくされる。それで、大学に行く。これでは高等教育を受ける能力が身に付いているはずがない。(今どきの大学の先生方のご苦労が忍ばれる。)

 しょうがないから、私は少なくとも、授業で使っている問題集に関しては、「ノートを作れ」と言っている。問題集の解答欄には書き込むな、と命じている。紙面がもったいないと思う。資源のムダである。これだけ環境問題、ゴミ問題と言いながら、言わば、紙資源を余計に使って、日本は優秀であったかもしれない人材を「バカ」として量産し始めている。

 どうして誰も言わないのだろう??? 書き込み式に問題を感じる人がいないというか、少ないという事実にも、私は嫌気がさしている。

 

3 コメント

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Unknown (dogsanddemons)
2006-09-22 11:36:48
大学でも事情は全く同じです(いつもこのフレーズではじまるのが情けないですが)。



私は、ノートをつくる、が高じて、本を書いていました。もちろん、誰かに読ませるわけではなく、未来の自分がよむためにです。この程度のことをすれば、一通りのことは完全に身につきますし、忘れません。



今の学生も、やる気になったらできると思うのですが…、どうなんでしょうね。
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本! (ほり(管理人))
2006-09-22 21:07:43
dogsanddemonsさん、コメントをありがとうございます。



「未来の自分が読むため」って、いいですね。。。それにまた、「完全に身に付く」という「機能」があるんですね。なるほど。



>>今の学生も、やる気になったらできると思うのですが…、どうなんでしょうね。



私、意外にできるんじゃないかと思うんですよ。生徒って若いから、こっちの方向付け次第で、1,2回叱るだけでも、けっこう変わることがあるんですよ。

良くないのは、まあ、日本人だからかなんだかはわかりませんが「全体的な雰囲気」に左右されるので、複数の指導者が同じことを指示する必要があります。これは絶対です。一人だけだと、「アイツが勝手に言っているだけだ」で終わります。(大体いつもの私です。笑)

でも、彼らは若いから、「こーゆーものだ」ということを教えてやりさえすれば、方向転換もそんなに大変ではないようです。ただ、指導する側が、生徒の変化を案外に信じない。これが最大の問題です。

だから、真っ当な指導を複数名でできない、よって、生徒が、、、という悪循環。

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Unknown (Unknown)
2020-04-10 06:29:47
まったく同意できません。
嫌気がします。
これこそ勉強の理解が中途半端な層の考え方です。
あなたの考えを押しつけられるトップ層の生徒が可哀想。
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